ヴェーリングの石碑

 【ヴァイキング時代後半のギリシアの史料で、北欧人の戦士に対して使われた「ヴェーリング」や「ヴァレーグ」の語は本来、商品取引の際に保証を付与する交易監督官を意味するものと説明されている(ヴァイキング・人文書院・P44から)】

 東方に向かったヴァイキングはヴェーリングと呼ばれ、活躍の後期には主にビザンツ帝国で傭兵として活躍する者達を指した。ヘイムスクリングラのハラルド苛烈王はヴェーリングの首領として遠くはエルサレムまで帝国の命で遠征し、多くのアイスランドサガでもこのヴェーリングの活躍が描かれているのである。
 彼らの活躍はルーン石碑上の碑文で見受けられ、コムネヌス王朝時代までのヴェーリングはスウェーデン人が大多数であったと言われるように、スウェーデンに残された碑文は少なくないのである。これらの碑文は東方遠征の碑文に分類されるのだが、それら全てがビザンツの傭兵としての活躍を記した碑文というわけではなく、なんらかの任務、通商目的、巡礼、旅といったその他の目的での遠征も記されている。しかしながらそれらの東方遠征の碑文の半数がビザンツの傭兵のものである。

 スウェーデンがヴェーリングの主要地であったという裏づけにもなろうかとも思える法典がある。スウェーデンの古い法典にはギリシャで暮らす者の相続についての項目がある。それらによれば、ギリシャで暮らす者には遺産相続権がないと記されており、またより新しい法典にはその関連の判決例がある。類似の例がノルウェイのグラーシング法にもあり、ギリシャに向かうとする者が次期相続人である場合、相続権が保持されるというものである。この法は1219から1925年のヴェストヨータランドの法律家であったビェルボーのヤールのビルゲルの兄弟のアスケルに一般的に結び付けられる。しかし恐らく多くの法令はそれ以前の古い慣習を映し出していると思われる。

 これらヴェーリングの石碑の多くはウップランドに存在する。これはロスラゲン(ルーシの多くはRóðrslögの出身と言われている)があったこと、キエフからビザンツ帝国に向かう東方遠征の道がここウップランドから始ることがその理由であろうとされている。イングヴァル石碑もこの東方遠征の碑文に分類されるのである。

東方遠征を伝える石碑も少なくない。ビザンツ帝国に傭兵として雇われ、活躍することは名誉であり、それを言及する石碑も非常に有名である。またこれらの石碑はウップランドで多く発見されている。

東方に向かった者達は、Grikkfari「ギリシャ遠征者」、Æistfari「エストニア遠征者」等の呼称で石碑で現れている。

おそらく現存する最古の東方遠征の石碑はヴェステルヨータランド石碑と思われ、800年代に割り当てられる。いくつかの文献(サガ、ユングリンガタル、ゲスタ・ダノーム、アンスガル伝、オロシウス、ロシア原初年代記等)にスカンジナビア人のバルト海を越えての遠征については古い時代に割り当てられ書かれている。しかしこれらはやはり史料として用いるに注意しなくてはならないのだが、おおよそこの石碑と時代が合致し、9世紀までには遠征が行われていたとみなされる。また、考古学的な見解からクーラランドの Impiltis の要塞は相当に強固なもので、恐らく対スカンジナビア人用に作られており、考古学的な時代付けは6〜8世紀に割り当てることができる。

Vg 8 Kälvesten - stenen. V. Stenby kyrka. Aska hd.

stikuR : karþi kubl þau (auは合字) aft auint sunu sin | sa fial austr miR aiuisli ・ uikukR faþi au krimulfR.
スッティッグはこの記念碑をエイヴィンド、彼の息子、の思い出に作った。彼は東方の道(バルト海)でエイヴィスルと共に倒れた。ヴァイキングが書いた、そしてグリームウールヴ。

またこの石碑はスチュート・ルーン(短枝ルーン文字)で書かれており、一般的にこの短枝ルーン文字は木片に速記術的に用いられ、石碑にはデンマークルーン文字が使われるというのであるが、実際にはこの石碑のように材料には縛られてはいない。そして kumbl, kuml 記念碑という単語であるが、これは本来はイェリングの墳墓のように墳墓等の記念碑と結びつき、いくつかのもので記念碑 kumbl (それらはセットとして単数扱い)が構成されていた可能性がある。しかしながら2次使用されて壁の中から出てきたもので、当時がどうであったかは知る由がない。

国名 総数 東方石碑の数 パーセンテージ
デンマーク 約620 5 0.8 %
ノルウェイ 602 2 0.3 %
スウェーデン 約2500 113 4.0 %
 イェステルリークランド 22 2 9.0 %
 ゴトランド 約200 8 4.5 %
 スモーランド 170 1 0.5 %
 ソェーデルマンランド 約390 39 10.0 %
 ウップランド 約1190 47 3.9 %
 ヴェステルイェートランド 約260 5 1.9 %
 ヴェストマンランド 33 4 12.1 %
 オェーランド 55 1 1.8 %
 オェステルイェートランド 192 6 3.1 %

СКАНДИНАВСКИЕ
РУНИЧЕСКИЕ
НАДПИСИ
P491

 しかしながらなんといってもヴェーリングの碑文の最も有名な一つといえば、ギリシャのピレウス港の入口に置かれていた大理石のライオンの像に彫られたらくがきルーン碑文であろう。これ以外にもヴェーリングのらくがきルーン碑文はコンスタンチノープル(現イスタンブール)のアヤソフィアの2階の回廊の欄干に引っかかれたものである。ここには多くの外国人が傭兵として使え、後のノルマン人(シチリア人)のラテン文字でのらくがき碑文もある。(全くもって余談だが、現在はアヤソフィアの欄干は様々な落書きだらけで惨憺たるものという話である・・・。)

ピレウス港のライオン像のルーン碑文

 この大理石のライオン像は1668年にフランチェスコ・モロジーニ(Francesco Morsini)がもう一つのライオン像と共にモレアを征服した戦利品としてアテネからヴェネチアに移設したのである。ヴェニスは有翼のライオンが象徴とされ、多くの像を目にすることができる。恐らくこの像は噴水に使われていたと思われる。これら獅子は「エゼキエルの書」の冒頭に出てくる4頭の有翼の動物の1匹で、福音史家マルコを表すものとされ、この守護聖人の庇護のもとにあるヴェネチアは獅子像を象徴として選んだのである。

 ライオン像はかつて造船所であった入口に移設されており、現在は風化のため、ほとんど判読できない状態であるが、19世紀の研究記録がいくつか存在する。後述するようにこの碑文はウップランドのウルネス様式の蛇の図柄の石碑に類似する様式で彫られていたようである。


ストックホルムの歴史博物館には複製が展示されている。
碑文は両側綺麗に描かれており、原物よりもずっと綺麗です。

 18世紀後期にスウェーデンの学者と公使 Johann David Åkerblad がヴェニスでこの碑文を発見し、発表をした。1875年には Dane Sophus Buggeと Oscar Montelius がこれはスウェーデン、特jにウップランドの碑文に類似すると結論付けた。また C.C. Rafn はこのライオン像から石膏型を取っり、碑文を以下のように独創的に読み取った。


ライオン右側

Hákon vann, þeir Úlfr ok Ásmundr ok Aurn hafa þessa; þeir menn lagðu á, ok Haraldr háfi, of fébóta uppreistar vegna Grikkjaþýþis. Varþ Dálkr nauðugr í fjarri löndum. Egill var í faru med Ragnari til Rúmaníu . . . ok Armeníu.

ハーコンは勝ち得た、彼らウールヴとアースムンドとオウルンがこれらを手にした。これらの男らが課した、そして「背高」ハラルドが、膨大な罰金を、ギリシャの民の反乱ゆえに。ダールケはしぶしぶ遠き国々へ行った。エギルはラグナルと共にルーマニア、・・・そしてアルメニアを旅していた。

ライオン左側

Ásmundr hjó rúnar þessar, þeir Ásgeir ok Þorleifr, Þórþr ok Ívar, at bón Haralds háfa, þó at Grikkir (of) hugsaþu (ok bannaþu).

アースムンドがこれらルーン文字を彫った、彼らアースゲイルとソルレイヴ、ソールズとイーヴァル、「背高」ハラルドの要望で、ギリシャ人らがそれを考慮し(そして許さなかった)のだが。


 Rafnは「背高」ハラルドはハラルド苛烈王を示すとし、これは彼とヴェーリングによる1040年のピレウスの反乱の制圧を言及するものであるとした。しかしながらビザンツの資料からはこれらの事実を読み取ることができないため、Rafn の独創的な推測に過ぎないとされているのである。

 また Bugge はこの碑文を港で復讐のため殺害されたハーコンという男の思い出のためのウールヴングルの同志らによって彫られたものであろうと推測した。また S.Söderberg というスウェーデンの考古学者は読み取るにはあまりにもルーン文字の損傷が激しいと結論付けている。それ以外の研究者である Erik Brateは Hansen のスケッチや Sanders の石膏型から碑文をロスラゲン出身のスウェーデン人を言及している碑文で、「ホルサ、よき農夫」と読み取った。Von Friesen は Bali(Balle)(1050〜1060年に活躍)という名で著名なルーン彫刻師によって彫られたか、もしくは彼の作品を真似た彫刻師による石碑であると考えた。しかしながら Brate はこのライオン像の碑文をコンスタンティヌスX世(1059〜67年)かロマノスIV(1067〜71年)の時代のものであろうと推察した。
 また ノルウェイのルーン文字学者の Magnus Olsen はこの碑文について、... i hafn þisi ... [... u ru]nar at ............ m biki i[? sem bjuggu i]と判読した。
 そしてデンマークのルーン文字学者の Erik Moltke は公ではなく、 S. Blöndal に宛てた 1944年9月7日付けの手紙の中で調査に行った時の事を記述していた。ルーン碑文はあまりにも損傷が激しいため、確かにルーン文字であるとは判るものの、碑文の内容自体は判読不能としながらも、左右のルーン碑文は異なる手、異なる時期に彫られたもので、飾りのない左側がより古い碑文であろうとしている。また飾りのない碑文は1000年頃のウップランドの石碑に類似するとしながらも、aとnのルーンの形状に疑問を投げかけている。右側のルーン碑文は約1075年以降のウップランドのルーン碑文の分類にし、Öpir の8の字型に類似するとしている。彼は碑文を、...ulf uk smi ( ) (r) ...... an i hafn ( ) þisi と一部読み取り、もう一方を、 .. nar at ha ... narþ .... þum( ) il nanfarin ....... と読み取った。

つまり早い話「判らない」というのが結論である。


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