注:かなり昔に作ったもので、かなりいい加減に作っているので、固有名詞などかなりいい加減なカタカナ表記になっているのでご注意ください・・・。固有名詞は一応は古アイスランド語のテキストから拾い出しはしていますが、カタカナ表記は・・・。信じないように・・・。

マグヌス裸足王のサガ
MAGUNÚSS SAGA BERFŒTTS
(1093年〜1103年)

オーラブ王の息子のマグヌース(Magnús)はオーラブ王の死後、すぐにヴィークでノルウェイ全土の王として選ばれた。しかしオプランド人達(Upplendingar)がオーラヴ王の死を知るとマグヌースの従兄弟のソーリル(Þórir)の養い子のハーコン(Hákon)を王として選んだ。それからハーコンとソーリルはトロンヘイム(Þrándheims)に向かった。そして彼らはニダロス(Niðaróss)に着いた時、ハーコンは王の地位を要求するためにエイラシング(Eyraþing)を招集した。農夫達は彼の父のマグヌース王が所有していた国の半分を統治する王として認めた。ハーコンはトロンド人(Þrœndir)から上陸税(landauragjald)を免税し、彼らにその他のたくさんの権利を与えた。彼はユール(jólagjafir)の贈り物も免除したのであった。それから全てのトロンド人はハーコン王に好意的になったのであった。ハーコンは親衛隊(hirð)を取り、オプランドに戻り、彼はトロンド人同様にオプランド人にも同じ権利を与えた。彼らも友情を示したのであった。
 秋にマグヌース王はカウパング(Kaupangs)に行き、王の住居(konungsgarð)に住むために向かった。冬の始まりをそこで過ごした。彼は王の住居の前のニズ川(Nið)に7隻のロングシップ(sjau langskipum)を停泊させていた。そしてハーコン王がマグヌース王がトロンヘイムに来た事を知ったので、彼は聖クレメント教会(Clemenskirkju)の下のスクーラガルズ(Skúlagarði)に住むためにトロンヘイム、カウパングにドヴレ山(Dofrafjall)を越えて行った。そこは前の王の住居であった。マグヌース王はハーコン王が農夫達(bóndum)に贈り物をして友情を受けたことに気分を害していた。マグヌース王はうっかりと財産を失ったと思い、これに悩んでいた。彼は血族に邪魔をされ、父や先祖より収入が随分と減ったと思っていた。彼はソーリルを非難した。ハーコン王とソーリルはこれに気付き、マグヌースのことを留意した。彼らはマグヌースが天幕を張り、装備をしたロングシップを停泊させていることを不信に思った。春のキャンドルマス(kyndilmessu)あたりにマグヌース王はある晩に天幕の中で光が灯されている状態でヘヴリング(トロンヘイムの西のイルスヴィーケン)に向かった。彼らはその晩そこで留まり、上陸して大きな火をつけた。ハーコン王と町にいた戦士達はその真意を考えた。それから王は軍隊を招集し、全カウパング人達がその夜に集まった。明るくなり始めた朝、マグヌース王がオーレで軍隊を目にした時、王はフィヨルドを出て、グラシング(Gulaþingslg)に行くために南下した。ハーコン王は旅の仕度をし、東のヴィーク(Vík)に行こうとした。前もって彼はその町で寄合(mót)を行い、そこで友情を求めて、彼らと約束していた。彼はマグヌースがなにをしようとしているのか判らないと言った。ハーコン王は旅のために馬に跨っていた。皆は友情を約束し、全群衆はステインビョルグ(Steinbjrg)(西方のニザロスに向かう道にある現在のステインビェルイェト)にまで彼について行った。ハーコン王はドヴレ山(Dofrafjalls)に上り、山を越えているある日のこと彼のところから飛び去った雷鳥(rjúp)の後を馬で進んでいた。それから彼は死に至る病気になった。彼は山で亡くなった。亡骸は北に運ばれて、彼が出発してから2週間後にカウパングに戻ってきたのであった。全ての町の人達は王の亡骸のところに来て、ほとんどの者達が噎び泣いていた。ハーコン王の亡骸はキリスト教会(Kristskirkju)に安置された。ハーコン王は25歳ぐらいであった。彼は民衆から最も愛された首領の1人であった。彼は戦をして勝利した北の白海のビャルミアランド(Bjarmalands)にいた。
 マグヌース王はその冬に東のヴィークに向けて出帆し、春になると南のハッランド(Hallands)に行き至る所を襲撃した。彼はヴィスカルダル(Viskardal)やそれ以外の領地に放火した。たうさんの戦利品を手に入れ、それから王国に戻った。マグヌース王はハッランドの広範囲を荒廃させたという話である。
 デンマーク生まれのハラルド・フレッティ(Haralds flettis)の息子のスヴェイン(Sveinn)という男がいた。彼は大ヴァイキング(mesti víkingr)で、大戦士(mikill bardagamaðr)で、腕も良く、国では家柄がよかった。彼は時折、ハーコン王のそばにおり、彼を慕っていた。ハーコンの死後、ステイガル・ソーリル(Steigar-Þórir)は、マグヌース王に謀反を起こしていたので、マグヌース王が全土を手中に収めれば和解することはできるとは思えなかった。その後、ソーリルとスヴェインは、もしそうなった場合には軍隊を起こそうと決めたのであった。ソーリルは年老いていたので、スヴェインが軍勢を指揮し、首領の名を取ることになった。その会議にはたくさんの首領達がいた。その主要人物はフォルランド(北メーレのアヴェレイの重要な農地の現フォッランド)のアスラクの息子(sonr Ásláks af Forlandi)のエギル(Egill)であった。エギルは土地持ちの者(landr maðr)であった。彼はギズカ(Gizka)のスコフティのきょうだいで、アグムンド・ソルベルグソン(gmundar Þorbergssonar)の娘であるインギビョルグ(Ingibjrgu)と結婚した。ヤダルのスキャルグ・エルリングソン(有名なエルリング・スキャルグソンの子孫)という豊かで権力ある者もその軍勢に入った。ソーリルとスヴェインはオプランドで軍勢を立ち上げ、ラウムスダレ(Raumsdal)、南メーレ(Sunn-Mœri)と下り、船を取った。それから北のトロンヘイムに向かった。
 ヴィッギのロジンの息子(sonr Loðins Viggjarskalla)の羊毛糸のシグルズ(Sigurðr ullstrengr)という土地持ちがいた。シグルズはソーリルの軍勢のことを知るとすぐに戦の矢(rvarskurð)を切って軍隊を集めた。そして皆が集まるとヴィッグ(Viggju)に行った。スヴェインとソーリルは軍隊を引き連れてそこへ行き、シグルズの軍勢と戦い、勝利を収めた。シグルズは敗走し、マグヌース王のもとへ行った。ソーリルとその軍隊はカウパングに行き、人が集うフィヨルドで留まった。マグヌース王はこれを知り、すぐに軍隊を招集した。彼はその後に北のトロンヘイムに向けて出帆した。そしてフィヨルドに入ると、ヘヴリング(Hefring)から離れて停泊し、フィヨルドを出ようとしていたソーリルの者達がこれを知り、残りの船が停泊するヴァングヴィーカストロンド(Vangvíkastrnd)に向けて漕ぎだし、セルジュフヴェルヴィ(Sejuhverfi)に至るテクスダレ(Þexdali)に北進し、ソーリルは藁の中に入って山を越えていた。彼らは船を取り、北のハロガランド(Hálogaland)に向かった。そしてマグヌース王がトロンヘイムで準備を整えると、彼らの後を追った。ソーリルと彼のその一行はビャルケイ(Bjarkey)に行き、ヨーン(Jón)とその息子のヴィズクン(Víðkunnr)は逃げ去った。ソーリルはそこで全ての価値ある物品を盗み、ガルズに火をつけ、ヴィズクンが所有するいいロングシップ(langskip)を手に入れた。その爽快船(snekkja)に火をつけた。
 ヨーンとヴィズクンは急いでマグヌース王を訊ねた。スヴェインとソーリルも軍隊を引き連れて南に船で向かい、ハロガランドの至る所を襲撃した。そして彼らはハルムというフィヨルドに停泊させていた時、彼らはマグヌース王の曳航を目にしたので、ソーリルとその軍団は戦力なしと考え、漕ぎ去って逃げた。ソーリルとエギル(Egill)はヘスユチューン(Hesjutuna)まで漕いで行ったが、スヴェインは海に漕いで出た。軍勢のいくらかはフィヨルドに漕いで入った。マグヌース王はソーリルとエギルの後を追った。そして船が上陸地で互いに向かってきた時、ソーリルは船の前部船倉部にいた。それから羊毛糸のシグルズが彼に叫んだ。
「どうだい、ソーリル。」
「手は動くが足腰はおぼつかんよ。」とソーリルが答えた。
それからソーリルの軍勢は上陸して逃げ去ったが、ソーリルは捕らえられた。エギルも妻のそばを離れなかったので捕らえられたのであった。マグヌース王は両者をヴァムバルホールム(Vambarhólm)に連れていった。そしてソーリルが連れてこられた時、彼はよろよろと自分の足で歩いていた。絞首刑台(gálgi)に連れられ、吊された。するとソーリルが太りすぎていたので首が引きちぎれて、体は地面に落ちた。ソーリルは巨漢であった。エギルも絞首刑台に引き出された。
「お前は私を吊せぬ。なぜならお前らそれぞれは実に吊されるに相応しいからだ。」と彼は言った。
マグヌース王はその時、そばに座っており、憤怒していたので誰も折り合いをつけようとしなかった。エギルが絞首刑台に吊されていた時に王は血族が助けを乞わないのかと言った。そして彼らは王が彼らがエギルの命乞いするのを望んでいるのだと判った。
 それからマグヌース王は南のトロンヘイムに行き、彼に敵対した者達を罰した。彼はいくらか殺害し、他の者達の所有物を焼いた。ハラルド・フレッティの息子のスヴェインはまず海に逃げて、それからエイステイン・マグヌースソン王と折り合いをつけるまで留まることになる南のデンマークに向かった。彼は好意的に彼を迎え、給仕にして、友情を栄誉を与えた。マグヌース王は今や単独王となった。彼は平和に国を保ち、全てのヴァイキングと追い剥ぎを成敗した。彼は活発で、戦い好きで、父より祖父のハラルド苛烈王に似ていた。
 マグヌース王は国から旅に出た。彼は選り抜きの大軍団とよい船団を抱えていた。この軍で彼は海を越えて西方に行き、まずオークニー諸島(Orkneyja)に到着した。彼はヤールのパール(Pál)とヤールのエルレンド(Erlend)を捕虜にし、彼らをノルウェイに移送した。彼は息子のシグルズ(Sigurð)をこの島の領主として配し、息子によき相談役を数名つけた。それからマグヌース王は南のヘブリデース諸島(Suðreyja。総称。南の島々の意。)に軍団を引き連れて行き、すぐにそこを襲撃し、住居に火を着けた。彼は行ったところはどこででも男達を殺害をした。その地の民衆はあちこちに逃げ、ある者はスコットランドのフィヨルドへ(Skotlandsfjrðu)、またある者は南のカンティレ(Saltíri)やアイルランド(Írlands)にと逃げた。またある者達は命乞いをして王に服従した。
 マグヌース王は自軍を聖なる島(アイーナ島など)(Eyna helgu)に連れてきて、全ての者達と彼らの所有物を助命し、平和を与えた。王は「小」コロンバ教会(Kolumkillakirkju ina litlu)を開けることを望んだが、王は墓に入らず、すぐに施錠した。その後、誰もその教会に入るほど大胆にはなれなかったということである。マグヌース王はそれから軍隊を連れて南のイル(Ílar)(現イスラ)に向かい、そこを襲撃し、放火した。そして彼がその地を勝ち取った時、彼はさらにカンティレ(Saltíri)を越えて南方にと遠く進み、アイルランドとスコットランドの両側を襲撃した。彼はマン島(Manar)にまで南に戦の盾を掲げて進軍し、彼はそこを襲撃した。
 ラグマン(Lgmaðr)はヘブリデース諸島の王のグズレズ(Guðrøðar Suðreyjakonungs)の息子の名前である。ラグマンは北部の島々の陸の守護者(landvarnar)としていた。しかしマグヌース王が軍隊を連れてヘブリデース諸島に来た時、ラグマンは逃げた。しかし少なくとも彼がアイルランドに逃れたいと思った時、マグヌース王の家来達は彼を乗組員共々捕らえた。王は彼に鎖で縛り、監視下に置いた。
 その後にマグヌース王は軍隊を連れてウェールズ(Bretlands)に向けて出帆し、メナイ・ストレイツ(ngulseyjarsund)に着いた時、ウェールズから軍隊が向かってきた。誇りのヒュー(Hugi prúði)(シュルーズベリ伯モンゴメリのヒュー)とずんぐりのヒュー(Hugi digri)(チェスターの伯のヒューなど)の2名のヤールがその指揮官で、彼らはすぐに戦いに突入した。激戦であった。マグヌース王は弓を射ったが、誇りのヒューはブリニャ鎧を着ていたのでので傷がつかなかった。マグヌース王とそばにいたハロガランド出身の1人の男がヒューに向けて同時に射った。1本の矢が兜の鼻の覆いに当たり、ぽろっと落ちた。しかしもう1本の矢がヤールの目に当たり、頭を貫通した。これは王の矢であった。ヤールのヒューはそこで倒れ、それからウェールズ人達は逃げ出した。彼らは大きな兵の損失があった。
 マグヌース王は戦いに勝利し、ノルウェイ王達のうちで最も南にまで支配を伸ばしたことになるアングルセイ(ngulsey)を所有したのである。アングルセイはウェールズの第三の場所である。この戦いの後にマグヌース王は軍隊を戻し、まずスコットランドに向かった。それから彼とスコットランド王マルコム(Melkólms Skotakonungs)の間で使者が行き来し、折り合いがついた。マグヌース王は、舵が船に据えられて越えられる島々と本土の間全てのスコットランドの西の全島々を支配した。そしてマグヌース王が北のカンティレ(Saltíris)に到着した時、彼はカンティレの岬の上を1艘の爽快船を引っ張っており、舵は据えられていた。王自身は後甲板に座り、舵柄を握っていた。こんな方法で彼は左舷に広がる領土を自らのものとしたのであった。カンティレはヘブリデース諸島の最高の島以上に大きくてよい土地であった。しかしマン島以上ではなかった。カンティレとスコットランド本土の間の地峡は狭く、この地峡はしばしば船は引っ張らなくてはいけなかった。

マン島の年代記(Cronica Regum Mannie et Insularum)を見る

 マグヌース王はヘブリデース諸島(Suðreyjum)でその冬を過ごし、それから彼の家来達はスコットランドの全てのフィヨルドを通って全島々の内部に行き、ノルウェイ王のために全島々の財産を守っていた。マグヌースはカノートを統治するアイルランド王のミリアルタク・ティアルフィ(1014年にノルウェイ人を破ったClontarfで死亡したブライアンの息子のTirdelvaghの息子のマンスターの王、Muirkertachなど)の娘の(dóttur Mýrjarkak[s]) konungs Þjálbasonar, Irakonungs)ビョドミニャ(Bjaðmynju)という妻との間に1人の息子をもうけた。翌夏、マグヌース王は軍隊を連れて東のノルウェイに向かった。ヤールのエルレンドはニダロスで病気で亡くなり、そこに埋葬されたが、パールはベルゲン(Bjrgyn)で死亡した。アグムンド・トルベルグソンの息子のスコフティ(Skopti gmundarson Þorbergssonar)は有名な土地保有者であった。彼は南メーレのギズカに住み、スルズル・フォラソン(Þórðar Fólasonar)の娘のグズルーン(Guðrúnu)と結婚した。彼らの子供達は、アグムンド(gmundr)、フィン(Finnr)、スルズル(Þrðr)、アソルヴ・スクラソン(Ásólfr Skúlason)と結婚したソーラ(Þóra)である。スコフティの息子達は子供の頃から有望であった。
 スウェーデン王ステインケル(Steinkell)は2人のハラルドが死去した頃に死んだ。ステインケルを継いだスウェーデン王はハーコン(Hákon)である。彼の後にはステインケルの息子のインゲ(Ingi)が王で、彼は良き権力のある王で、大きくて強者であった。彼はマグヌースがノルウェイにいた頃のスウェーデン王であった。マグヌース王は昔からの陸地の国境は、ヨータ川とヴェルムランド(Vermalands)ほど遠いヴェネル湖(Væni)がスウェーデンとノルウェイの王の領土を分けていたと言っていた。マグヌースはヴェネルの西、いわゆるスンダール(Sunndalr)とノルズダーレ(Norðdalr)、ヴェアル(Véar)とヴァルディンヤール(Varðynjar)、その上にそれに属する全てのマルク(Markir)の州の全ての住人のいる場所を所有すると口にしていた。しかし長い間、スウェーデン王の支配下にあり、納税のためにガウトランド(Gautland)に属していた。しかしマークの者達は以前のようにスウェーデン王の支配下にありたいと思っていた。マグヌース王は大軍隊を連れてヴィークからガウトランドに馬で向かった。そして彼はマークの州(markbyggðina)に到着すると襲撃し、火を放ち、こうして全ての住居を通り抜けていった。民衆は彼に服従し、彼らの土地は王の支配であると宣言した。そして彼はヴェネル湖に着いた頃は、秋も終わりつつあった。それから彼らはクヴァルジンセイ(Kvalðinsey)(ヴェネル湖の南の現カッランドセー)に行き、芝と木材で砦を築き、その周りに堀をめぐらした。そして砦が出来ると、食糧や必要な物を移送した。王は300(360)名の兵をそこに配し、その指揮官はフィン・スコフタソン(Finnr Skoptason)と羊毛糸のシグルズ(Sigurðr ullstrengr)である。彼らは兵を選抜した。それから王はヴィークに戻った。
 そしてスウェーデン王がこれを知った時、彼は兵を集め、王は戦うと宣言した。しかし多少遅れたのである。こんなことだからノルウェイ人達からとろいと揶揄する詩を作られた。
 そしてヴェネル湖に氷が張った頃、インゲ王は約3000(3600)の兵と共に進軍した。彼は砦(borginni)にいるノルウェイ人達に伝言を送り、彼らの所有した戦利品をもってノルウェイに戻れと言った。それから使者達は王の言葉を明らかにした時、羊毛糸のシグルズは答え、インゲ王が戦場に出る英雄のような姿を彼らに見せるより他の計画を考え、まず筆頭に立てと言った。使者達はこれを王に伝えた。後にインゲ王は全軍を連れてその島に向かった。そしてそれから彼はノルウェイ人らに2度目の使者を送り、出て行き、盗んだ物は残し彼らの武器、衣類、馬を連れて行けと言った。彼らはこれを拒絶し、この後に互いに撃ち合った。王は石と木を持ってこさせ、それで堀を埋めさせた。それから彼は家来達に碇を取ってきて、長いさおに結びつけ、木材の壁にまで持ち上げるように命じた。それから多くの家来達が押し寄せ、壁を引いて倒した。それから大きな火を起こし、彼らは降伏するようにとノルウェイ人達に燃えた木を撃った。王は彼らに武器と上着なしに出て行くように命じ、彼らが出た時に彼らそれぞれは棒で一打ちされた。こんな扱いの後、彼らはノルウェイに戻った。森の全ての民衆は再びインゲ王に向いた。シグルズとフィンと彼らの家来達はマグヌース王を探し、彼に悪運について伝えたのであった。
 氷が解けた春にマグヌース王は大軍隊を連れて東のエルヴ(Elfar)に進軍した。彼は南東の入江に船で到着するとスウェーデン王の領土の至る所を襲撃した。そして彼はフォクエルニ(Foxerni)に着くと下船して上陸し、小さな川を越えた後にガウト人の軍団がやってきて戦いになった。ノルウェイ人達は兵力が劣り、逃げだし、多くの者達が滝の近くで殺害された。マグヌース王は敗走したが、ガウト人らは後を追い、多くの者達が殺害された。マグヌース王は最も大きな体格であったのですぐに認識できた。彼はブリニャ鎧の上に赤の上着を羽織り、肩を覆うみごとな絹のような髪であった。アグムンド・スコフタソン(gmundr Skoptason)は王の横を馬で進んでいた。彼もまた巨躯で、見栄えがよかった。
「陛下、陛下の上着を私に。」と彼が言った。
「私の上着をどうする気だ。」と王が答えた。
「私が着ます。陛下は私にこれ以上の贈り物をくれましたな。」と彼は言った。
その地は平らで、ガウト人とノルウェイ人達は互いの姿を認識できた。しかしすぐに彼らは小高い斜面と森を抜けて、それから視界から消えた。王はアグムンドに上着を渡して、アグムンドはそれを着た。それから彼らは野原を抜けて進み、アグムンドと彼の家来達は十字路でくるっと回った。そしてガウト人達がこれを目にした時、彼らはアグムンドを王と思い、彼の後を追った。王は船に向かい、アグムンドはかろうじて逃げ出せた。彼は怪我を受けず船に戻った。それからマグヌース王は南のエルヴに向けて出帆し、その後に北のヴィークに向かった。
 翌夏、会合がエルヴのコヌンガヘッラ(Konungahellu í Elfi)で行われ、そこにノルウェイ王マグヌースとスウェーデン王インゲ、デンマーク王エリク・スヴェインソン(Eiríkr Sveinsson)が参加し、休戦協定が結ばれた。シングが行われた時、王達は野に出て、しばらく演説した。彼らは軍に戻り、父王や以前に所有した王国をそれぞれが所有することを同意し、それぞれの王が泥棒や損害を起こした者を罰することに同意がなされた。マグヌース王はインゲ王の娘のマーグレータルを迎え入れることになった。彼女は後に平和の女性と呼ばれるようになった。かつてこんなに立派な首領がいただろうかと人々は口にした。インゲ王は最も大きくて最も熟練しており、彼は最も尊敬されていた。マグヌースは最も勇敢で、最も行動的であった。しかしエリク王は彼らの内で最も男前であった。しかし彼らは皆、男前で体格もよく、高貴な容姿で、会話も上手かった。そして彼らは終結すると別れたのであった。
 マグヌース王はマーグレータル(Margrétar)を王妃として迎えた。彼女はスウェーデンからノルウェイに送り出され、彼女には高貴な従者が従った。しかしマグヌース王はその前に、身分の低い母を持つ長男エイステイン(Eysteinn)、身分の高いソーラを母に持つ1つ下の次男のシグルズ(Sigurðr)、トロンヘイムの身分の高いヴィークのサクシ(Saxa í Vík)の娘であるシグリッド(Sigríðr)を母にもつ三男の幼いオーラヴといった数名の子供がいた。シグリッドは王の第二婦人であった。マグヌース王が西方のヴァイキング行き(vestrvíkingu)から戻ってきた時、多くの彼の家来は西方の国々の一般的な習慣とファッションをしていた。彼らは裸足の脚(berleggjaðir)に短いキルト(kyrtla)を着て、上にケープを羽織っていた。それで人々はマグヌースの事を「裸足(berfœtt)」もしくは「むき出しの脚(berbein)」(脚がむき出しというよりは足がむき出しという意味)と呼んだ。またある者達は「高い」や「好戦的な」マグヌース(Styrjaldar-Magnús)と呼んだのであった。彼は非常に背が高かった。カウパング(トロンヘイム)のハラルド苛烈王が建造した聖メアリー教会(Máríukirkju)にその高さを示すしるしがある。教会の北の扉のちかくに石の壁に刻まれた3つの十字架がある。一つはハラルド苛烈王の高さで、2つめはオーラヴ平和王のもので、3つめはマグヌースの背の高さである。そして最後のものが口づけするに最も容易な高さである。ハラルド苛烈王の十字架が最も高く、マグヌース王のものが一番低く、オーラブ平和王のものがそのちょうど中間にあるのである。
 スコフティ・アグムンドソンはマグヌース王に同意せず、遺産について口論していた。スコフティはそれを固持していたが、王はほとんど武力に訴えるほどに要求していた。たくさんの会合が行われた。スコフティは自らと自らの息子らが決して王に全権を委ねないと心を決め、彼はそれが一番いいと思っていた。スコフティは王といた時、彼は自らと王に近しい血族関係があり、同様にいつも王と父王の親友で、この友情は壊れていないと言った。そして先祖伝来であると言った。王は心穏やかではないと言った。スコフティは帰路に着いたのであった。
 この後、フィンは王のところへ行って話をした。彼は王に王と彼とその父がこの問題をまかせてくれと言った。王は短く怒って言った。彼は自らの話を持ち出して説得しようとした。しかし王はこの話で心を変えず、それからフィンは帰宅した。
 アグムンド・スコフタソンは王を訪ねた。そして彼は王の前に行くと、王に正しい判断を仰いだ。王は自らが正しいと答えた。それからアグムンドは不公平であると反論した。そしてもう2度と王への奉仕はしないと言った。それからアグムンドは帰路について、2度と彼らはその後、会わなかった。
 春にスコフティ・アグムンドソンは国から出る準備をした。彼は5隻の十分に整備されたロングシップを持っていた。彼の息子のアグムンド、フィン、スルズルはこの旅に同行した。彼らは多少出発が遅れた。しかし秋に彼らはフランダース(Flæmingjalands)に向けて出帆し、そこで冬を過ごした。早春に彼らは西のヴァッランド(Vallands)に行き、夏に彼らはジブラルタル海峡のストレイツを抜けて航行し(Nrvasund)、秋にローマ(Rúmaborgar)に到着した。スコフティはそこで亡くなった。全ての彼の息子達もこの旅で亡くなった。スルズルは彼らの内で最も長生きし、シシリー島(Sikiley)で亡くなった。スコフティはジブラルタル海峡(Nrvasund)のストレイツを抜けて航行した最初の北欧人であると言われている。この旅は非常に有名になったのであった。
 ここでいつも突然に入る、聖オーラヴ王の奇跡話。カウパングで、町の一件の家から火事が起こり、延焼が広がったのを聖オーラヴ王が止めた。オーラヴ王の社は教会から持ち出され、火事の方に置かれた。それから向こう見ずな男が走りより、社を打ちつけ、聖人を脅した。彼は祈りが届いて救済がないと教会とその他の家屋敷といった全ての物が焼け落ちると言った。万能の神は教会の延焼をくい止め、そして翌日、彼は向こう見ずな男に目の痛みを起こした。聖オーラヴ王は彼のために万能の神に祈るまで彼はそこに横たわり、彼は同じ教会で癒されたのであった。
 マグヌース王はこの国から出発する準備をし、大軍隊を抱えていた。その時、彼は9年間のノルウェイの王であった。彼は海を越えて西方に行き、ノルウェイの選り抜きの戦士を抱えていた。彼はシグルズ・フラナソン(Sigurðr Hanaason)、ヴィズクンル・ヨーアンソン(Víðkunnr Jóansson)、ダグ・エイリーヴソン(Dagr Eilífsson)、ソグンのセルク(Serkr ór Sogni)、王の元帥の肱のエイヴィンド(Eyvindr lbogi)、ウールヴ・フラナソン(Úlfr Hranason)、シグルズの兄弟(bróðir Sigurðar)、そしてその他の者達といったノルウェイの全ての優秀な者達が伴っていた。この軍と共に王は西方のオークニー諸島(Orkneyja)に向かい、そこからヤールのエルレンド(Erlends jarls)の息子のマグヌース(Magnús)とエルリング(Erling)を連れて出た。すぐに彼はある晩ヘブリデース諸島(Suðreyja)に向かい、スコットランドに停泊した時にマグヌース・エルレンドソン(オークニーのヤール。オークニー諸島のキルクウォール大聖堂に捧げられた後の聖マグヌス)が王の船から飛び込んで陸に泳いで行き、それから森に入り、スコットランド王の親衛隊(hirð Skotakonungs)のところに行った。マグヌース王は軍隊をアイルランドに向け、そこを襲撃した。ミリアルタク王(Mýrjartak)は彼の軍と共に合流し、彼らはダブリン(Dyflinn)とダブリン州(Dyflinnarskíri)を勝ち取った。冬にマグヌース王はミリアルタク王と共にカノート(Kunnktum)に行き、勝ち取ったこの地に彼の配下を配した。そして春になると、王達は西方のアルスター(Úlaztír)に軍を向けた。アルスターでたくさん戦い、その地を勝ち取った。アルスターの大部分を勝ち取った後にミリアルタクはカノートに戻った。
 マグヌース王は船の準備をして東のノルウェイに戻ろうとした。彼はダブリンに統治するために配下を配した。彼は全軍と共にアルスターを停泊し、出帆の準備が整った。彼らは岸の屠り(strandhggva)が必要と思い、マグヌース王はミリアルタク王に岸の屠り(strandhgg)を送ってほしいと使者達に伝えさせた。聖バルトロマイ(Barthólómeúsmessu)の祭日の前に言ったのであった。しかしこの祭日の前日に家畜は来なかった。祭の日の太陽が昇った時、マグヌース王は軍隊の大部分を連れて上陸し、彼は使者達と岸の屠りを探そうとした。天候は穏やかで、太陽は輝いていた。道は湿地と苔の上で、板の橋が敷かれ、その両側は雑木林であった。進むと彼らは非常に高い丘に到着し、そこからあちこちを見渡し、地面に大きな砂埃が上がっているのを見た。彼らはアイルランド軍かどうかと話し合った。しかしある者は自軍の岸の屠りを持ってきた者だと言った。彼らはそこで止まった。それから肱のエイヴィンドが、アイルランド人(Írar)が裏切りだと言った。布陣し、王とエイヴィンドは先頭に立った。マグヌース王は兜を被り、黄金で象眼されたライオン印の盾(rauðan skjld ok lagt á með gulli léó)を持った。彼は最良の武器の「脚かみつき(Leggbítr)」という剣を握っていた。そのセイウチの牙製の柄と握りは黄金で覆われていた。彼は手に槍を持ち、彼のシャツの上に前後に黄金の絹で縫われたライオン印のある赤い絹の上着を着ていた。誰もこんな立派な者を見たことがないと言っていたほどであった。エイヴィンドも王のような赤い絹の上着を着ていた。彼も大きくて、男前で好戦的な容貌であった。
 土埃が近づいた時、彼らはアイルランド王(Írakonungr)が送った岸の屠りを持った自軍の者達を認識した。アイルランド王はマグヌース王との約束全てを守った。それから彼らは船に戻った。時刻は真昼に向かっていた。そして彼らが湿地を進んだ時、苔をゆっくりと越えていた。その時、アイルランド軍が森の全方面から襲いかかり、すぐに戦闘になった。しかしノルウェイ人達はばらばらに進軍していたので、多くの者がすぐに倒された。それからエイヴィンドが王に名案を出すようにと言った。王は戦の笛で軍旗の周りに全軍を円陣に集結させ、盾の壁(skjaldborg)を作って、その後に湿地を抜けると言った。そして陸に上がれば大丈夫だと言った。アイルランド人は大胆に射り、矢は雨霰と降ったのであった。しかしすでにどんどんと人が押し寄せていた。そして王が次ぎの堤防にきた時、道は険しくて越えるにはわずかな場所しかなかった。多くのノルウェイ人が倒れた。それから王は彼の土地保有者のウプランド人の革の頭巾のソルグリーム(Þorgrím skinnhúfu)に向かって叫んだ。そして彼に彼の軍勢と共に堤防を越えるように言った。
「しばらく死守するからお前立ちに危害は及ばぬはずだ。それから中州に行って、我らが堤防を越える間、アイルランド軍に射るのだ。お前の家来はいい射手だ。」と王が言った。
 またカウパングで、1人の婦人が聖オーラヴ王が眠る教会に連れてこられた。彼女は体が不自由で不幸のどん底であった。両足は太股に向かって曲がっていた。そして彼女がいつも祈る時に横になって、聖オーラヴを呼び、聖オーラヴは治したので彼女の脚と手は真っ直ぐになり、間接が治ったのであった。こうして彼女は治って幸福に家に戻ったのであった。
しかしソルグリームと彼の家来達が堤防を越えた時、彼らは盾を背後に投げ捨てて、船へと走り下った。そして王がそれを見た時、王は言った。
「王を見捨てるとは何事だ。お前を土地持ちにして犬のシグルズを追放したのは間違いだった。やつは決してこんなことはしない。」
王は負傷し、膝の上の太股の両方を槍が貫いていた。彼は両足の間で槍を握り、粉砕して言った。
「我が若者達よ、こうやって槍の柄を潰すのだ。」
この後にマグヌース王は斧で首に攻撃を受け、絶命した。残された者達は敗走した。ヴィズクン・ヨーンソンは「脚かみつき」の剣と王の軍旗(merki konungs)を船に持っていった。彼とシグルズ・フラナソン(Sigurðr Hranason)とダグ・エイヴィンドソン(Dagr Eilífsson)は最後に逃げた。マグヌース王と共に肱のエイヴィンド、ウールヴ・フラナソン、その他のたくさんの優れた者達が戦死した。多くのノルウェイ人達が戦死したが、アイルランド兵の損失はそれ以上であった。逃げたノルウェイ人達はその秋にすぐに出帆した。ヤールのエルレンドの息子のエルリングはマグヌース王と共にアイルランドで戦死した。そしてアイルランドから逃げ出した者達がオークニー諸島に到着すると、シグルズは父のマグヌース王の死を知り、彼らに加わり、秋にノルウェイに戻ったのであった。
 マグヌース王は10冬年ノルウェイの王で、彼の治世にこの国は平和であったが、民衆は徴兵Ileiðngrum)で苦労と出費を伴った。マグヌース王は彼の家来達から愛されたが、農夫達は王は厳しいと思っていた。マグヌース王は国の栄光を守ろうとしたが、長い人生ではなかった。マグヌース王は戦死した時は30歳になったばかりであった。この戦で、ヴィズクン(Víðkunnr)はマグヌース王を殺害した者を殺害した。ヴィズクンは3つの傷を負いながら逃げた。これによりマグヌース王の息子達は彼に大変好意的であった。
(03/10/12)