聖クヌート王の時代

 ハラルド王の死後、デーン人らはいつも王を選ぶために使っていた地であるヴィーボルグでシング(Vébjargaþing)を開き、クヌート(後の聖王)を王とした。彼はすぐに力を発揮し、民のデーン人らにあるシングで兄弟のハラルド先王が臣民に親切にしたのにもかかわらず、それに対して「砥石」とあざけた事に対して厳しく非難した。クヌート王は全地域を巡行した。彼はハッランド(Halland)でシングを開き、農夫達に王が船で来た時、馬で各地を先導するように言った。その農夫らの最も頭の切れる代表が古の法以上の事は要求しないようにと述べた。農夫らはこの言明に拍手喝采を送ったのだが、王は自分には王としての義務以外に個人的な特権があると述べ、私有地である森での放牧を禁じると言い返した。すると農夫らはその森で豚を始め多くの家畜を放牧していたので言葉を失い、王に同意することとなったのである。この後、王はハッランドの残りの地域を行き、スコーネ(Skáni)(現在はスウェーデン)に到着した。そこでシングを開き、たくさんの人がやって来た。ここでもまた民は王の要求に拒否を示し、法を逸脱していることに対して決して税を王に支払わないといった。王は王の権利と農夫らの権利を述べ、農夫らはそれに対して異議はないと言った。すると王はオーレスンド(Eyrarsund)の権利を主張し、ここでの漁を禁じると言った。農夫らはここでニシンを獲っており、王に従わざるを得ない状況になり、このシングは閉幕したのであった。
 クヌート王は厳格で、権力ある王であった。ハラルド前王の治世ではデーン人らによる違法行為に対してゆるく、デーン人ら自国民による、もしくはクーラランド人(Kúrir)、バルト海沿岸の民(Austrvegsmenn)によるヴァイキング行為が行われていた。クヌートはこれらを防衛し、陸海とあらゆる地域から異教徒らを追い出したのである。こうして誰もクヌートの国防に対してヴァイキング行為を行う者はいなくなったのである。盗人、殺人、強盗には死をもって償わせた。もし他人の手足を切り落としたのであれば、行為者に対して同じ処罰が行われ、厳しく執行されたのであった。人々はクヌート王の力に恐れをなして誰も王国で盗みを働く者はなかった。留守にする時、無用心で盗まれた時、被害者は補償を要求することができ、盗人は処罰されたのであった。彼は貧富の差に関係なく万人に適応した。
 クヌート王は兄弟のエイリーク(Eirík)をシェラン島のヤールに任命した。際立って男前の三拍子そろった兄弟のベネディクト(Benedikt)は王の宮廷で過ごしていた。オーラヴ・スヴェインソン(ÓláfrSveinsson)は兄弟のクヌート王と同じ年で、見た目も悪く、背も低く、戦士としてもよくなく、口もたたなかった。クヌート王はフランダースのバルゾヴィン公(hertogaýrFlæmingjalandi)の娘のエズラ(Eðlu)を妃に向かえ、彼らの子供はカール(Karl)と言った。ソールギスル・スヴェインソン(ÞorgíslSveinsson)はロシアの王に即位しており、彼はデンマークの王位を要求することはしなかった。
 ある日、宴に接待されるために王は家臣を連れてデンマーク中を巡行し、絢爛豪華な宴の席についた。その宴の最初の夕べ、王は今まで見たこともないような一人の美女と出会った。彼女は重要な聖職者の妻であった。王は臣下に彼女を寝室に連れてくるように命じ、誰もそれに異を唱えられなかったので、命じられたようにした。王が寝室に行くと、その女性がいた。王は脱衣し、床につき、すぐに召使は仕事をこなして退室した。王は仰向けに寝ていたのだが、彼女の方に目をやった。
「陛下に神のご加護を、今もこの先も。陛下はきっと力で私を扱おうとするでしょうが、それは私にも陛下自身にも問題はないでしょう。考えてください。この国の民を導くことで手腕を発揮することの方がどれぐらい価値があり、皆に公正で、国の頂点に立つことの方がいいかを。主の前で祈りを捧げた時、陛下の祈りを私の祈りと同じようになることを祈ります。」と彼女は言った。
「その心に免じてお前の願いを聞き入れよう。それを努力することがどれほど骨が折れようとも主イエス・キリストの苦しみに比べればわずかなものだ。」と王が言った。
 王は起き上がり、別の部屋に行って眠りについたのである。翌朝、王は彼女の夫の聖職者を呼び出して、彼女を褒め、指からはずした大きな価値ある黄金の指輪と共に友情を与えた。聖職者は受け入れ、感謝したともしなかったとも言われている。クヌート王はしばらくその宴で過ごし、他所へと移っていったのであった。

 デンマークは大きな王国であった。その最も大きな領土はユトランドで海で仕切られている。デンマークの最南端の司教座(biskupsstóll)はヘデビィ(Heiðabœ)にあり、そこには350の教会があり、130の船が王軍下にあった。他のユトランドの司教座はリーベ(Rípum)にあり、そこの司教区には324の教会があり、120の船が王軍下にあった。ユトランドの第三の司教座はオーフス(Árósi)にあり、そこには210の教会があり、90の船が王軍下にあった。ユトランド第四の司教座はヴィーボルグ(Vébjrgum)で、そこには250の座のある教会があり、100の船が王軍下にあった。ユトランドのフィヨルドには大きくて有名なリムフィヨルド(Limafirði)があり、北から南に広がり、西に広がる海から北側にある狭い地峡により分断されている。ここはハラルド・シグルソン(ハラルド苛烈王)がスヴェイン・ウールヴソン王の攻撃から逃げる時に船を引っ張り上げたため、ハラルドの地峡(Haraldseið)と呼ばれている。リムフィヨルドの西に向かって、北に延びている地域はスカッゲン(sgu)と呼ばれており、そこにはデンマークの5つめの司教座があり、ヒョルリング(Jrungi)にある。その座には150の教会があり、50の船が王軍下にある。ユトランド側とはスカッゲンから南はリーベまでの沿岸の西部全体の名前である。ユトランド半島とフューン島の間には小さな帯が延びており、フューン島(Fjón)にはデンマークの6つ目の司教座があり、それはオーデンセ(Óðinsey)である。そこには300の教会があり、100の船が王軍下にある。フューン島とシェラン島(Sjóland)の間には大きな帯があり、シェラン島にはデンマーク7つ目の司教座があり、それはロスキレ(Róiskeldu)である。シェラン島の座は511の教会があり、120の船が王軍下にあった。シェラン島の北部にはオーレスンド(Eyrarsund)があり、その北に向かってスコーネとハッランドがある。大司教はスコーネのルンドに座を置き、そこはデンマークの8番目の司教座になるのである。その座には353の教会があり、150の船が王軍下にあった。ここはデンマークで最も裕福な司教座である。ユトランド半島とスコーネという2つの大地域の間にはたくさんの島嶼がある。サムソー(Sámsey)はオーフスの司教下に入り、レーソー(Hlésey)はヴィーボルグの司教下に入った。それらはフューンの西に向いている。アールス(Alsey)はヘデビィの下に入り、一方、四島、ロッラ(Láland)ンド、エーロー(Erri)、トーシンゲ(Þrslundr)、ランゲランド(Langaland)はシェラン島の司教下である。バルト海に浮かぶボーンホルムの大領地はルンドの大司教下に入った。ここには12の王の農場(konungsbú)があり、14の教会がある。これらがデンマーク王国の古い時代(サガの舞台となっている時代)の王国の様子である。
(05/03/07)