デンマーク・ヴァイキング時代と北欧神話


序章ヴァイキングの家と町ヴァイキングの社会交易、市場、町ヴァイキングのルーン文字や書かれた言葉武器と戦ヴァイキングの船ヴァイキング時代の展開イングランドヴァイキング時代の終焉

序章


多くの理由によりデンマークと北欧のヴァイキング時代は興味深い。歴史的にはそれは北欧の古代の終わりである。ヴァイキング時代の間と終わりに北欧人は姿を現し、歴史に登場する。それはヴァイキング世界の大いなる時代であり、それは他国の歴史に記されている。ヴァイキングは故郷外では悪名高い。それは理解し間違えや間違いで、多くの描写は野蛮人や角のある兜と斧を振り回す原始的な戦士とされている.。間違いやそうでないにしろ、ヴァイキングは北欧の「トレードマーク」になった。北欧内で多くの者がヴァイキングの描写やイメージを使用するが、しばしば勘違いしていたり間違っている。
兵士や戦士のようなヴァイキングの描写はある範囲では事実である。ヴァイキングは世界を荒らし怨恨を残したが、これは事実の半分にしかすぎない。忘れてならないのはヨーロッパのこの時代の歴史は、ヨーロッパの僧侶によって書かれており、彼らの宗教の信念は北欧の異教徒の事実をかすめ真実を歪め悪い姿を書き残した。正確に言うと、僧侶はヴァイキングの側面を残した。
多くのヴァイキングは行った場所と交易をした。また他の者は農場や家族を養い、平和に暮らす小作人や農夫であった。またある者は熟練した職人、芸術家、船大工などであった。これらから、私はヴァイキングの世界、現在ヴァイキング時代とよばれる約300年間の北欧での人々の生活の違った、異なった姿を 紹介したく思います。

ヴァイキングの故郷はデンマーク、ノルウェイ、スウェーデンといった北欧である。
デンマークを ヴァイキング時代のノルウェイ、スウェーデンと比較するとデンマークは小さな国である。北部のスカーイェンからエルベ川(現在ドイツ)の375kmである。デンマークはほとんどが平地で山がない。もっとも高い場所で海抜173mである。ヴァイキング時代、国土はほとんどが農地で耕作のために使用されていた。海は魚が豊富で、漁は非常に重要であった。この時代デンマークはユラン半島、いくつかの島々そしてスウェーデンの一部で構成されている。ノルウェイの一部もまたデンマーク王国の支配下であった。
西暦700年代のデンマークについてはほとんど判らなく、王は今日の我々が考えるような必要性はなかったため、デンマークは一人かもしくは諸王の集権的な力を持っていたという僅かな情報だけが手助けとなる。デンマークはいくつかの方法で組織化されていた。ダーネヴィアケのもっとも古い地域にデンマークの南部の国境に防塁が726〜737年あたりに築かれた。デンマークの最も古い町の一つのリーベは704年までさかのぼる。さらに、デンマークは大国フランク王国(フランス/ドイツ)とデンマークの国境で衝突が発生して以来、ドイツやフランスの歴史家に絶大な興味を抱かせていた。ゴズフレズ王は、幾度とカール大帝を脅かした。フランクの残された記録はヴァイキングについて多くの興味深いことを伝える。
まず10世紀半ば、ゴルム老王と彼に続いた息子のハラルド青歯王を見てみる。特に、ハラルドは興味深く、彼の両親と重要な事柄の記念に重要なルーン石碑という記念碑を立てている。ハラルドはデンマーク、スウェーデン、ノルウェイの統治者で王であった。そして彼はキリスト教にデーン人(デンマーク人)を改宗させた。ハラルドはスヴェン二叉髭王という息子がいた。スヴェン二叉髭王はハラルドの殺害、計画し実行させた。スヴェン二叉髭王は1013年に全イングランドを制服し、後に戻ってきた王である。
スヴェン二叉髭王に他のハラルドが続く。スヴェン二叉髭王の後、クヌート大王が「全てのイングランド、デンマーク、ノルウェイ、スウェーデンの一部の王」という言葉とともにやって来た。(注・デンマーク王のリストはこのレクチャーのこの部分に続く)
この歴史、特に古代の歴史は王と女王、英雄や勇敢な戦士、あらゆる社会の有力者の話であるのが一般的である。ヴァイキングは北欧から来た無慈悲な者、凶暴な野蛮人としての描写はすでに述べた通りである。もちろん事実の一部にすぎない。ヴァイキング時代の人々をどのように見て、生活していたかをより詳しく見てみませんか?
みてきたようにこの時代は「ヴァイキング時代」と呼ばれる。「ヴァイキング」の実際の意味は?いくつかの解釈がある。その一つが「Wik」でその語は町や村を意味するラテン語「victus」から由来し「村に行く」である。ドイツ人書記官ブレーメンのアダムは、すでに見てきたようにトネリコという木で作られた船を操る者を意味する「Ascomens」と名付けられたヴァイキングについて書いてある。その他で重要な解釈は「海の戦士」としてルーン石碑の一つに使われている。この単語のこの使用は北欧のわずかな集団にだけ事実が適応される。
デンマークでは男性の平均身長が172cmである。今日のデンマーク人よりわずかに低い。女性は158.2cmである。骨格構造学の研究は現代の人類として人類を見てみると、述べたように、わずかな身長の違い、歯の状態、衣類、髪型が違うだけである。考古学の研究では、ヴァイキングは、身だしなみをし、衛生の考えがあったという印象を与えてくれる。外国からの訪問者が悪い方向へ北欧人の身だしなみを述べる記録があることが興味深い。決して10世紀にデンマークを訪れた事はないスペイン系アラブ人が、男女共ある種の身だしなみを行っていたと述べており、他の記録者はヴァイキングは毎土曜日に入浴をし、髪に櫛を入れ、着飾り、単に女性の気を引こうとしていたと語る。もちろんこれは全ての者に当てはまるものではない。奴隷と貧しい者はおそらく身だしなみを気にするという状況ではなかったであろう。
さらに旅路のヴァイキングはほとんどが身だしなみをできなかったであろう。もちろんこれは1000年以上前のことであることを忘れてはならない。体を洗っていないヴァイキングを見てみても、ぼろを着た野蛮人というのは全くの真実ではない。
ヴァイキング時代からわずかな布と衣服が残っているが、断片だけが残っているのでヴァイキング時代の服装を明確にすることはできない。しかしながらたくさんの履き物が発見されている。多くの異なったデザインやサイズが発見されている。靴づくりは職人の仕事であった。一般的な履き物の多くのことが判っており、そしてほとんどが高価でなく魅力的ではない。それは衣類と反対であった。上流階級の衣類がたくさん知られており、一般的な人々や子どものものがほぼ判らない。
断片や破片をつなぎ合わせて次のような女性の衣服の描写を得ることができる。女性は羊毛か亜麻(リネン)の長い衣服を着ていた。それは袖無しや袖のあるもので、さらに衣服は丸か楕円形の留め金で前で共に留められており、帯は衣服の一部でもあった。個人的な装備、はさみ、ナイフや鎖にぶら下がった鍵などと一緒に。またショールや外套も使用された。
男性の衣類は基本的に細目だけでなく非常に幅広のものや端が大きなズボンもある。男性は細目や太めのチュニックやシャツを着ており、ベルトで留めたり留めていなかったりした。それらは羊毛や亜麻でできていた。外套はより強く重い素材で出来ていた。また上着や帽子も発見されている。
ヴァイキングは貴金属が好きである。芸術的な技術の高さが判るだけでなく、その資産状況を誇示するものである。多くの貴金属は自身の富を持ち運ぶ簡単な方法として用いられた。銀の環やその他の銀製品は簡単に細かく分けられ、代金として用いられた。一般的な貴金属の品物はトールの槌と後の十字架であった。また真珠やコインや銀の留め金は特に人気があった。



ヴァイキングの家と町

ヴァイキング時代にさまざまな形式の家があった。建材は木、粘土、石、草と多くあった。石造りは一般的ではなかった。非常に人気があり一般的であったのは「GRUBEHUSET」の形式であった。この類の家は地面を掘り下げ、屋根は粘土や草である。
そしてヴァイキングの村やその他の形式の家を見てみよう。ユラン半島では西暦800〜900年ごろの7つの小さな家と付近の小さな建物がある大きな農場から構成される村の完全な跡がある。全てのものは囲いによって取り巻かれていた。母屋は約30mで小さな部屋に仕切られており、一つは家畜小屋として使用され、その他の部屋はおそらく生活空間として使用されたであろう。その他の建物はおそらく作業場か奴隷か使用人の住居であった。そこには鍛冶場があり母屋から遠ざけられていた。これは火事の危険故である。より上流社会では大きな家に住んでおり、美しい彫り物や彩色が施されていただろう。家の内側は粘土の床の大きな部屋で、壁は木もしくは泥で固めた小枝で作られていた。これは居間として利用されていた。中央にいろりがあり、そこで粘土製か石製の壷で肉が料理されていた。火はまた暗い部屋を明るくしたが、獣脂の蝋燭やより高価な蜜蝋もまた使用された。さらに獣の革がかけられた足台やベンチ、絨毯が敷かれたり壁に掛けられたりした。鍋、ナイフ、壷などの台所用品もたくさんある。家内で重要な品物は役に立つ機織り道具一式である。特に食料や調理といった生活活動に信じがたい時間が費やされた。蓄えは多かった。肉や魚は古代の常食の大きな部分を占めていた。それらは長い冬に備えあらかじめ下拵えされ、煮たり、乾燥させたり、塩漬けで貯蔵された。牛の革は靴やベルトの製作で使われ、骨は針や笛やスケート靴のエッジの製作で使われた。ライ麦や大麦から作られたパンがいろりの火で鉄や石製の大きなフライパンで焼かれた。野菜は近くの野原で育ち、野イチゴや果物が森で集めれ、また木の実は採取され使われた。牛や羊や山羊からミルクがチーズ作りのために絞られた。羊はさらに衣類用の羊毛を北欧人に供給した。食用飼鳥類は肉や枕や寝具用の羽を供給した。



ヴァイキングの社会

ヴァイキング時代の人々がどのような考えを持ち、どのような境遇だったのかというと、ヴァイキングの世界の背景や構造を見てみよう。まずヴァイキングの社会を見てみよう。それは組織化された社会か?どのように社会内で集団は互いに影響しあったか?社会的もしくは人のルールや規範は?古代の人々は何が好きで嫌いかが判りますか?彼らにとって価値のあるものは?最初に、古代の社会についてほとんどが判っていない。どのように機能していたかが正確に判らない。墓を調べてみると、実際にいくつかの情報が得られる。これらの研究は大きな社会的、財政的な事柄を教えてくれる。例えば、1904年にノルウェイで発見された有名なウセベリの船の発見を取り上げることが出来る。おそらく女王と思われる非常に豊かな女性のための墓としてこの船は使用された。この墓の全ての豪華な品々の研究をあげることができる。反対に、社会の全く正反対の人々は「墓」で発見され、人生の墓石もない共同墓地である遺骸の地面の簡素な穴である。投げ捨てられ、忘れ去られた。
社会の描写を取ってみると、王や女王が頂点のピラミッドを想像してみることができる。王や女王の下に貴族、王直属の領主がいる。それから自由保有権のある農夫や土地を所有している人々がいる。それから貿易商人、猟師、小作人、職人のあるクラス(特に船大工や鉄鍛冶が重宝がられた)、そして最後に重要な職業軍人を見ることができる。王の元のその集団は「自由民」と呼ばれた。この社会のクラスは非常に重要な権利を持っていた。権利とその地の法廷やその地の議会、武器携帯の権利を持っていた。「その地の法廷」は少なくとも毎年1回行われた。ここで重要な問題が協議され、同意などが行われた。
ルーン石碑や詩を研究してみると、価値ある者の見解を得ることができる。あらゆる社会で非常に重要なものがある。アイスランド詩は「オーディンの箴言」とよび、それは「最も高き者の言葉」を意味する。この詩は重要な人の価値についての栄誉やよい評判を語る。友人や家族への忠義、荒々しい勇気、寛大、寛容、自制、知識は人の振る舞いのよい特徴であった。 栄誉とよい評判はまた王や偉大な身分の高い戦士になるための人の価値であり、その他のよりよいものは銀であった。ヴァイキング時代の主な権力は富とよい評判に頼っていた。王の義務は一般的に平和を約束し王国の人々の保護である。平和と安心は成長し豊かになる社会にとりよい状況である。あらゆる王の功績は人々、戦士、使用人を集め導く能力に頼る。コメント・権力!そしてもちろん彼個人の富は非常に重要である。王は彼の力を表す人々を王国中に置き、平和を守り、税を集める。
ヴァイキングの世界の非常に価値のあるものとして銀を挙げたが、北欧では莫大な数の銀貨が発見されているのは興味深い。中近東の85,000個の銀貨が発見されている。さらにその他の銀の貴金属が鋳造された。さらにそれから、991〜1014年にイングランドから150,000ポンドの銀貨が「デーン税」(ヴァイキングの襲撃や略奪のための平和の支払)として支払われたことは広く知られている。



交易、市場、町

地方的、国際的の両方において ヴァイキングはまた交易者である。これは多くの交易者が北欧へ世界中からやって来たことを意味する。これはさらに多くの異国風の商人が北欧にやって来たことを意味する。
多くの町が季節的に市場を催すことで、移住や生活の活気ある場所に成長した。町は一般的に交易の中心以上のものであった。それは宗教の中心であり、行政のための場所やそれ以上の場所であった。それはまさに現代の町のようである。
あるよい例は有名な町のヘデビィである。最初にヘデビィが聞かれたのは804年のことである。フランク王国の王の年代記でそれはあるスラブの市場を破壊し、交易者や職人をヘデビィに簡単に移動させたデンマークの王ゴズフレズについて語っている。ヘデビィはヴァイキング時代の人々の集まる場所や中心地となった。それは国際的なつながりや評判を作った。人々はこの町について知っていた。考古学者は340,000個の琥珀、真珠、あらゆる類の貴金属類、鉄やその他の金属製品、革、ガラス、土器などの多くのものを発見し、それらはヘデビィが交易の活動的な町であった時代にさかのぼる。高度な技術を持った職人はここで生活をしていた。美しい船がこの港を行き交った。それは豊かで活気ある町であった。またそこでは850年のドイツ人アンスガル宣教師がデンマーク最初のキリスト教教会を建立する許可を得た。

その他の歴史的に興味深いデンマークの場所はリーベである。リーベは市場の立場から文化的、活動的な町の立場へとなった。ヘデビィと対照的で、リーベは今日のデンマークのユラン半島の地方の現代の町である。ヘデビィは現在なにもない場所であり、空っぽの野原である。リーベは実際に北欧全体で最も古い町ではないにしろかなり古い町である。
元々はリーベは2、3の農場がある非常に小さな町であった。この村の立地は大道や海路と結びつき、市場にとって全てのよい状況であった。そしてそれから704年頃に市場として発展した。交易をする者や職人が定住し、創設し、小作人や農夫は家畜やその他の物を売った。古代のリーベからの発見物は、世界地図でよく知られる場所、交易の国際的な場所になったことを教えてくれる。再びそれはまたドイツ人宣教師アンスガルを引きつけ、彼はここに教会を建てた。これは860年のことである。
少し北欧の日用品や商品について語ると、それは外国の交易者を集める。ヴァイキングを引きつけた物は織物、絹、ガラス製品、石製の壷、ワイン、長剣などである。ヴァイキングはフランク王国から武器を購入しており、それは時折、非合法でヴァイキングに売られた。今日我々が理解していることである。
その他の一般的な日用品で珍しくないもの、人間を売買した。奴隷。いくつかの記録はヴァイキングは奴隷として所有や商売の目的で人身売買を伝えている。ブレーメンのアダムは1075年にこのことについて書いている。さらにドイツ人僧侶の年代記で、奴隷商人としてヴァイキングの記録を見つけることができる。反対に、ルーン石碑は奴隷の自由にされたことを語っている。
ここで今日のリーベの町について付け加えると、訪れるのに非常に興味深い町である。そこには興味深い博物館があり、リーベの郊外は「ヴァイキング・センター」と呼ばれている。その地のヴァイキング・グループが集う場所である。さらにそこは野外博物館の役割をしており、夏には多くの活動が行われる。実に非常に興味深い場所である。


ヴァイキングのルーン文字や書かれた言葉

さらに特徴的に示し、北欧人の姿を描くと、その時代に書かれたものやアルファベットを研究することが興味深く重要である。アルファベットについて語る時、一般的な文字や言葉として理解されているものではない。北欧人は「ルーン文字」と呼ばれるものを使用していた。ルーン文字は鉄器時代にまでさかのぼる。古いルーン文字は2世紀のものが知られている。初期のルーン・アルファベットは24文字から構成されるフサルクというもので、ほとんどが垂直線と斜めの線から構成され、古い時代には木、骨、石に「書く」もしくは彫った。というのはそれは木、骨、特に石(多くの知識が残されている記念碑「ルーン石碑」)の文字からである。既に述べたようにルーン文字は24文字から構成されているが、ヴァイキング時代にはルーン文字は16文字に数を減らした。その減少の理由は知られていない。さらに減少したフサルクのために1つのルーンが多くもしくはいくつかの発音を持ち、そのことが北欧中に広がる碑文であるルーン碑文を理解し難くさせる。ルーン文字に長けた者はほとんどが力ある重要な者であった。もし抽象的に考えると、ルーン文字に長けた者は我々が「魔法」として理解している事柄に密接に関連していたに違いない。この人物について想像してみると、ルーン文字の書き物や彫り物、石碑のこれらの奇妙な文字について考えてみるとある種の知恵や情報の形式を得ることができる。



武器と戦

要塞と防塁は衝突の時代に築かれた。デンマークの非常に重要な防塁はデンマークとフランク王国の間の国境を印すためにダーネヴィアケに築かれた。この大きな建物は2 〜3世紀間に築かれ拡張した。デンマーク・ヴァイキングの初期の時代は737年にさかのぼり、正確になぜこの防塁が築かれたかが判らないが、ヴァイキング時代初期のものであることが判っており、労働力を集め命令する王といった軍事的な指導者といったデンマークのある種の組織化された力があったことを示唆する。
自惚れの強いデンマークのゴズフレズ王は808 年に防塁の一部を作った。その理由はデンマークとフランク王国間の国境のにらみあいである。
後の968年のダーネヴィアケはさらに拡張した。もはやデンマークの支配力はハラルド青歯王であった。デンマークとカール大帝間の問題は防塁の発展の理由であると再び記録は語る。974年にダーネヴィアケの戦いが開戦し、ハラルドの軍隊はこの戦いに負け、デンマークはダーネヴィアケを失い、ドイツの軍隊に支配された。後の983年にそれは奪回された。
ハラルド青歯王の統治中、王は有名なデンマークの王の防塁の建設を要求した。実際知る限りでは、それらの防塁はデンマークに建てられただけである。それらの内4か所があり、デンマークの国中に広がった。シェラン島のトレレボー、ユラン半島のフュルカト、北ユラン半島のアゲースボー、フィン島のノンネバッケンである。
要塞は建設の同じ考えから建てられた。それらは980年頃に全てが建てられ、それらは非常に似ている。おそらく全ての要塞の背後にある同じ建設の存在意義をこのことは教えてくれる。それらは全て堀のある円形の土手がある。4方角にはおそらく見張台付き門があった。土手の内側は四分の一に分けられており、それぞれは4つのロングハウスがあった。この町の家、王侯の家もまた木製であった。全てが生活空間ではなく、いくつかは鉄や金属製作の作業場であった。その他の建物はおそらく小屋として使用された。
王の要塞の使用目的について膨大な討論があった。というのは要塞に注がれたその仕事と努力に対して、長い間使用されなかったためである。ハラルド青歯王の息子と孫はイングランドを攻撃し征服する以前に戦士の軍事的な訓練所として使用したが、それはもう少し後の時代であると信じられている。その問の最もよく、おそらく正しい答えは、要塞は王の権力の地域的な中心として使用するために建設したというものである。戦の時代、敵が近くにいた時にそれは防衛をたやすく機能した。それはまた安全を保つよい場所でもあった。

もちろん戦士の道具は武器である。たくさんの武器が知られており、その時代に武器は死者を日用品と共に埋めるという異教の埋葬の習慣の一部である。その他の状況では、武器は神々への捧げ物として使用され、それはたくさんの武器を湖や沼地に沈めることである。自由民は武器の所有と携帯の権利と義務を持っていた。ヴァイキングの武器は長剣、斧、槍であった。弓矢や石など。高価さ故に防具ほとんどが頭領や王といった金持ちや豊かな戦士により使用された。防御のために兜、楯、チェーンメイルが使用された。投げ石やおそらくある類の火戦機についてもさらに記録は語る。これらの情報はアングロサクソン年代記で見つかる。
全武器の中で最も素晴らしく高価なのは長剣であった。それは強い両刃の剣で、しばしば熟練した職人の鍛冶屋によって作られた70〜90cmの長さである。鉄の数層の鍛造されたその剣の刃は時折、金や銀で飾られていた。個人的意見であるが、デンマーク人の鍛冶屋によって同じ技術を使用してナイフが作られ、それは本当に素晴らしい作品であると思う。剣は木製や革製の鞘に入れて携帯され、長い革製のベルトに吊るされた。剣は武器としての役目以上に、所有者の社会的な地位の象徴であった。美しい剣は王侯への贈り物になり、よい剣は一族内で相続された。詩人は名剣や名剣を持つ偉大な戦士、戦場で生き残った幸運と腕について詩や歌を書いている。
戦場でのヴァイキングの描写がある。戦の前に指導者は戦士に心の準備をさせるために興奮する演説をした。そこでは敵に向かってわめき、大声を上げ、それから敵に対して矢、槍、石の雨を降らし、それから剣、斧、槍で白兵戦をする。それは非常に簡単で、ヴァイキング時代の戦がどのように進んだか想像できる。



ヴァイキングの船

古代北欧人にとって非常に重要なものは船である。しばしば船はヴァイキング時代や全文化の象徴として描かれる。そして確かに、船はヴァイキングの生活や発展において重要な役を演じた。これらの美しい船の一番よい状態はノルウェイのウセベリとゴクスタドである。これらの船は金持ちや豊かな者の墓として使用された。王、女王、頭領が船で埋葬された。ウセベリ船はおそらく800年まで時代をさかのぼる。ゴクスタド船は800年終わりか900年の始めである。これらはヴァイキング船だけでなくすでに述べたようにそれは興味深い古代に使用された品物についての情報を与えてくれる。さらにデンマークではロスキレの川で4隻の船が1962年に発見された。そこには異なった種類、戦、交易、旅行、人の輸送といった様々な目的に使用された船があった。たとえ船が様々にあっても、北欧の船は一般的にある特徴を持っていたと信じられている。それらはそれぞれが重なり合った厚板で作られ、厚板は鋲で一緒に止められ、動物の毛で固定されていた。最も知られ、非常に美しい船はおそらく細長い軍船である。デンマークで発見されたこれらの2つの船は軍船で、それらが非常に似通っていることが判る。その1つは長さ17m の幅4m で両側に櫂を入れる12穴があるものであった。もう一つのものは非常に状態が悪く、長さ28〜29mで幅は約4mである。櫂の穴は両側に25穴あり、この船は少なくとも40〜50人を運べたことが判る。その船は帆と櫂で進み、非常に役に立ち、どんな天候でも関係がなかった。事実、これらの船は喫水が深くなく、それは重要であり、また帆を寝かせることができ、それは川、橋の下などを行くのにたやすい。
ここで興味深い部分は航海術である。どれぐらいヴァイキングが素晴らしい船を操ったか?考古学者はヴァイキングの航海の方法について意見を異にしている。原始的なコンパスとして使用された道具が発見され、いくつかの「太陽石」と呼ばれるものが言及された話がある。太陽石は太陽の光や光線の方角に反応するある種の石と信じられている。全世界の船乗りは太陽、風の方角、陸上の目印、そしておそらく充分に経験を積んだ船乗りの技術と知識の手助けで航海した数千年の歴史を持っている。しかし、太陽石は興味深い。



ヴァイキング時代の展開

戦士や船乗りとしてのヴァイキングを語った時、海賊や外国での傭兵としてヴァイキングをみなす。それは奇妙に思えるが、ヴァイキングについての我々の知識のその理由のいくつかは、その歴史が書かれている国々を攻撃し征服したという簡単な理由による。ヴァイキング時代に多くのことが起こった。それまで決して北欧人はそのような衝撃を周囲に与えなかった。ヴァイキングの展開においてのそれ以上の見解は、ヨーロッパ内の他国との多くの戦や衝突で、ほとんどが北欧外の状況である。ドイツ、フランス、イングランドといったヨーロッパの各地で交易が発展した。リーベやヘデビィのように全本土の中心地は大きくなった。その理由は、より直接的で、決してそれ以前にそのような富がなかったこと、そのかわり盗む物が多かったことである。そこにはヴァイキングにとって攻撃をし戦を進める非常によい理由があった。そして知っているように、富と評判はヴァイキングの社会においてよいしるしであった。さらに多くの地の政治的不安、危機はヴァイキングの組織化された軍隊にとって完璧な状況であった。再び評判と幸運は重要になり、もし外国への冒険はこれを得る機会でなければどうであろうか?
重要なことは多くの北欧人はまたその時、伝統的、平和的、親しみあるつながりを諸外国に作った。さらに戦や盗みの遠征を選んだ者は危険と死を選んだ。



イングランド

ヴァイキングは本当にあちこちに旅をした。ヴァイキングはイングランド、スコットランド、アイルランド、フランス、アメリカ、グリーンランド、その他の場所へと行った。
イングランドはヴァイキングの展開のよい興味深い例である。実際、そこで修道院の襲撃があり、伝統的な歴史の書物はこれがヴァイキング時代の始まりと印している。
有名なアングロサクソン年代記で、この有名な悪名高い襲撃を伝える。年代記によれば798 年に「渦巻きと閃光が空を横切り、ドラゴンの息の火が空に見えた。それから飢えが人々を打ちのめし、最後に798 年の7 月に異教徒が北からイングランドのリンディスファーン島にやって来た」。ヴァイキングは海から来て、島の修道院を攻撃、破壊した。キリスト教の教会は衝撃を受け、「キリストの敵」であると信じ、これを天罰と信じたが、これは教会の間違えである。それはブリテン島での存在の長い時代の北欧人の始まりであった。

835年からイングランドのヴァイキングの動きを詳しくたどることが出来る。その時代のイングランドは多くの国に分裂しており、それはまたヴァイキングの集団や軍隊が攻撃を容易にしていた。最初は特に南イングランドが悩まされた。ヴァイキングはイングランド外部の基地から典型的に行動をし、しばしば彼らはヨーロッパ本土から来て、奇襲は海岸線を攻撃し、それから再び姿を消した。ここにヴァイキングの天才的な構造が簡単にこのような攻撃を行わせた。850年に戦略は変わったと思われ、冬の間にイングランドでヴァイキングの滞在について最初に聞かれたからである。その年はイングランド中心部で多くのヴァイキングの攻撃が続き、ケント州の人々は「安全のお金」の支払いを決め、これは平和に導くためにヴァイキングにお金を支払うことを意味する。しばしばこれらの平和の協定の同意が落ち着いたのと同じくヴァイキングは平和を破ったりもしたのではあるが、この後にヴァイキングとの平和に落ち着く一般的な方法になった。
866年に、ことは急速に起こった。年代記は「巨大な異教徒の軍隊」がイングランドに入港したと語っている。2〜3000人ぐらいか?それは判らない。しかし、この数は正しいと思われる。この軍隊は冬の間に東アングリア王国に滞在し、ヴァイキングによって征服された866 年11月初めの首都ヨークのあるノーサンブリアに移動した。それは867年のヨークで戦い初め、ヴァイキングは勝ち、ノーサンブリア王国はヴァイキングに平和に占拠された。ヴァイキングの軍隊は動いた。ヴァイキングはマーシア王国を平和に占拠した。彼らは東アングリアに戻ってきて、そこでエドモンド王はヴァイキングと戦ったが、負け、ヴァイキングはエドモンドを殺した。すぐに彼は聖エドモンドになった。最後に、ヴァイキングは残る唯一の場所のウェセックス王国に矛先を向け、彼らはもてなさなかった。「古期英国の年代記」はヴァイキングのイングランドのこの部分への攻撃を多く語る。年代記によれば5大戦が行われ、9人のデンマーク人の領主が殺され、一人のデンマーク人の王もまたこの戦いで命を落とした。871年にウェセックスはヴァイキングの軍隊と平和りに解決し、そしてその年にアルフレッド大王はウェセックスの王になった。872年と874年にヴァイキングは再びマーシア王国を攻撃し、876年ヴァイキングは最初の征服をし、長く定住し、生活をした。ここで始めて純粋な占領が行われた。この土地の占拠はまたマーシアでその年に続いて起こった。
アルフレッド大王は興味深く、彼は実際に団結した防衛を築くように処置し、占拠している北欧人に攻撃をした。878年にヴァイキングの軍隊はウェセックス全土を占拠しようとした。王は逃げ、亡命者として住み、彼は軍隊のために戦士を集めるように処置した。この軍隊はヴァイキングを征服し、ウェセックス王国から立ち去るように強いた。これは数年にわたるアルフレッド大王とウェセックス王国が近隣の王国に大きな興味を持ったので、ヴァイキングとの戦はウェセックスへの展開の戦の1つであったと言及している。
それにもかかわらずアルフレッド大王で転換期を迎えた。同じ年にヴァイキングはウェセックスの軍隊から反撃を受け敗北し条約が決定した。軍隊のいくつかの部分は武器を置き、ノーサンブリア王国や東アングリアのイングランドのある地方に移動し、そこに定住した。残りの軍隊はヨーロッパ本土に移動した。
もしこの時もう少し早く移動していたら、アルフレッド大王の子孫は力を強化し、ヴァイキングに対して行動をとったであろう。北欧人によって支配されたイングランドのある部分は900年代に攻撃され、イングランド王によって奪回された。954年に、それは終わった。イングランドは統合し、北欧人の支配権は征服された。イングランドは数年間、平穏無事であった。
900年代の終わりにスヴェン二叉髭王がデンマークを出発し、イングランドは再びヴァイキングの攻撃に悩まされた。1013年にスヴェン二叉髭王は全イングランドを征服し、王になったが、1014年に死亡したために数カ月だけであった。スヴェン二叉髭王と共にクヌートという若い息子を連れてき、彼は父の死後イングランドから逃げた。クヌートが帰国後に軍隊を動員し、クヌートはすばやく全イングランドを征服し、クヌートは大王となり、巨大な王国の支配者になった。クヌート大王はヴァイキングの王だけでなく、真のヨーロッパの君主であった。彼が呼ばれたように大王はイングランドを再編、組織化した王になり、この戦は地方を分裂させ、ほとんどの不断の戦と争いの数年の後に行われ虐待された。さらに彼はキリスト教教会を支援し、彼の時代に多くの栄光を得た。



ヴァイキング時代の終焉

伝統的にヴァイキング時代は1066年のイングランドのヘイスティングスの戦いで終わったと時代付けされている。クヌート大王が1035年に死亡した時、イングランドの権力の構造は壊れたと思われる。クヌート大王の息子のハルデクヌートは彼の王国のために多くのことはせず、1046年に死亡し、決して彼の父のように同じ栄光ある評判を得ることはなかった。1046年はハラデクヌートが死亡したことで多くの分岐点でもあり、それは最後の北欧人がイングランドの王になった年を際立たしている。証聖王エドワードはクヌート大王の妻の息子で、ノルマンディで追放の生活し、帰国後数年間国を支配した。彼はイングランド王国を継ぐ者を残さず彼は死んだ。多くの衝突と戦がこのヴァイキング時代の後に続いた。ノルウェイ王ハラルド苛烈王は戦でイングランドのハロルド王と出くわし、ハロルド王が勝った。スタンフォード橋で行われたこの戦はその残忍、大きさ、長さで有名になった。ヘイスティングスで同じ年にハロルド王の軍隊はノルマンディのウィリアムとの戦で負け、彼はイングランド王になった。ウィリアムと共に、北欧人はイングランドでの影響や衝撃が終結した。これより、英国の特徴はフランス・ノルマンディ文化の時代になった。有名なヘイスティングスの戦は完全にすばらしい「バイユーのタペストリー」で文書として残され、莫大な壁掛けのタペストリーはウィリアムの勝利の話を語ってくれる。
( 注・バイユー・タペストリーの断片を見てみよう)

1066年のヘイスティングスの戦いの後、ウィリアムはイングランドの王に即位した。1069年、1070年に脅迫を試み、後の1085年にデンマーク王スヴェン・エストリズセンは再びイングランドを攻撃するように巨大な軍隊を動員し、決して本当の衝撃にはならなかった。ことは変わっていた。ヴァイキングの世界と外側の世界は変わっていた。北欧人は固有の状態に戻っていた。それぞれの国々の王国は中央集権化し統合された。王達の権力は町の展開を示し、特に1000年代に、多くの町は発展した。またキリスト教は莫大な衝撃と影響を北欧地域に与え、新しい習慣と見地、人々と毎日の心へ信仰をもたらした。交易のつながりは変化し、発展の可能性は消え去り、ヴァイキングを外の世界へと目を向けさせる一般的な莫大な活力が消え去った。
 
締め括りとして、ヴァイキングの世界から離れましょう。このレクチャーのように、ヴァイキング時代の全ての特徴の徹底的な研究への可能性があり、これは北欧の理想を示し、1000年前の人々を伝えたと思いたい。今日デンマークではヴァイキングはまさに「生きている」。(日本と比較して)デーン人は過去の生活を残している同じ文化の伝統はないにしても、全デンマークでヴァイキング・グループがいたるところで見られ、ヴァイキング時代の多くの特徴で行動している。いくつかのグループはヴァイキング時代の細工を行い、その他のグループは「戦闘軍団」で会合のために武器を鍛え戦う。そして非常に多くのその他のグループも見掛けられる。
特に、夏に多くのヴァイキング祭があり、にぎわいを呼び、パフォーマンスがある。もしデンマークに来るのであればぜひお勧め致します。

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