遠い記憶 番外編

夢の話 / 前編


 夜の暗がりの中、たった一人で歩いている。石造りの壁に囲まれた、細くて長い廊下。けれど無数の明かり取り用の窓が開き、月光が差し込んでいる。それに照らされるのは、天井から床まで覆い尽くしている節くれだった太い蔦。私は月明かりを頼りに、蔦に足を取られないようにゆっくりと、前方に向かって歩いていた。
 久しぶりだね。
 心の中、誰に向かってだか分からない言葉を呟いてみる。この場所に戻れたことを感謝していた。懐かしい場所。いつでも戻りたくて、戻れずにいた場所。そこにいる。
 優しい気持ちを抱えたまま、廊下の先にぽっかりと口を開けた空間を見据えた。この先に行かなくちゃ。
 この通路の終わりに、私を待つ何かがある。それが何であるかは今は分からないけれど、行けば分かるから。そのために、ここに来たのだから。
 だから私は夜の暗がりの中、石造りの廊下をただひたすら歩いていた。月光が、壁を覆う蔦をくっきりと浮かび上がらせていた。


「蔦ぁ?」
 思い切り不審そうな声を出して、ヒコが繰り返す。
「蔦、っていうのかな。節くれだっていて、やたらに太いの」
 ゆっくりとお茶を飲んでから、私は首をかしげて見せた。今は夕飯後のくつろぎの時間。
 けれど夏至の時期は日没が遅く、空はようやく茜色に染まったところだ。荷車の横、焚き火を囲んで話をしているのは、ヒコと美幸と私の三人。旅の仲間はあと他に二人いるのだけれど、彼らは馬と牛の世話をするために席を外していた。
「それって、キョエンのことなんだよね」
 不審というより胡散臭そうな表情で、美幸が私に問い返す。そのあからさまな反応に、ついつい苦笑してしまった。
「だから夢の中でのことなんだってば」
 何がきっかけだったのか、今までに見た夢の話になっていた。その流れで、自分の話を披露したんだ。あれはこちらに来てから幾度か見るようになった夢だった。
 そう、こちらの世界。私が生まれ育った世界とは別に存在する、前世の私、アクタ・ケレイトアが生きていた世界。
 早春のある夜、私はここに引き寄せられた。そしてすでに到着済みの仲間と出会い、前世にやり残した事を果たすため、現在は旅の途中。
 最初は突然の出来事に驚いたり混乱していたのだけれど、さすがに一月近くもいれば、環境にだって慣れてくる。ただ問題は、一向に思い出さない前世の記憶。他のみんなが明確に覚えているだけに、一人だけ分かっていないというのもちょっとやりにくかったりするんだよね。
「蔦の絡まっている外廊下。キョエンにそういうのは、無いの?」
 そう尋ねてからもう一度、二人の顔をのぞきこむ。何の気なしに話した割には、この夢が過去の記憶に繋がりそうな気がしていた。けれどヒコも美幸も心当たりは無いようで、返事の前に低く唸られてしまう。
「とりあえず、俺の記憶の中ではそんな廊下は無かったな」
「美幸も?」
「同じく、記憶無し」
 きっぱりと言い切る美幸を横目で見て、ヒコがにやりと微笑んだ。
「そもそもエシゲは、斎場の中ですら滅多に出歩かない人間だっただろ。ろくにキョエンにいなかったアクタよりも、内部の建物に疎いんじゃないのか」
「否定はしないわよ」
 前世の名前で呼ばれた美幸は、さらりと指摘に同意した。ごく自然な反応。
 私がこの仲間に加わる前、彼らはお互いを前世の名前で呼び合っていた。記憶が明確に残っている者同士、その方が自然だったらしい。それを現世での呼び方に変えてもらったのは、私。前世での記憶を一切持たない私にとって、外国っぽい名前はどうにも気恥ずかしいものだったから。以来彼らは話題に応じて、前世と現世の名前を使い分けるようになっている。
「拓也なら、分かるかもな。あいつ、斎場の寮内のことだったら、俺達の中で一番詳しかったし」
「そうなの?」
「俺がなんだって?」
 ちょうど良いタイミングで、噂の人物の声がした。慌てて後ろを振り返ると、作業を終えた拓也とジハンが戻って来たところだった。二人の足元で、ジハンの犬チャイグもこちらを見ている。
「お疲れ様。お茶淹れるよ」
「ありがと」
 そう言いながら、拓也が私の右隣に腰掛ける。
「ありがとうございます」
 気軽な拓也の態度とは対照的に、正面に座ったジハンはにこやかに微笑みながら、丁寧に言葉を返してくれた。
「で、俺が何?」
 お茶を渡され一口飲むと、拓也が促すように聞いてきた。一から説明しようと口を開いた私より先に、ヒコと美幸が話し始める。
「キョエンにさ、外廊下のある建物なんてあったっけって話していたんだよ。で、ジンなら覚えているかなって話になって」
「寮内の棟と棟を繋ぐ廊下なら、いくらでもあるだろ」
「条件が付いているの。上から下まで蔦が絡まっている廊下なんだって」
「蔦?」
 拓也が二人と同じような反応をして私を見た。
「何でそんな話になったんだ?」
「え?」
 真っ直ぐこちらを見つめる拓也に戸惑い、口ごもる。ただそんな場所があるのかどうかを知りたかっただけなのに、拓也はやけに真面目な表情で聞いていた。
「なんとなく。夢を見たから、キョエンのことかなと思って」
「ふうん」
 じっと見つめたままそう言うと、ぱっと視線を外される。
「南棟の奥に庭園があって、そこの東屋まで渡り廊下で繋がっていた。あそこの一部が蔦を這わせていたよ」
「ああ、一度だけ見たことがある。サムハクシンの蔦だよな。花が咲いていて、良い匂いだった」
 ヒコの言葉に自分の見た夢の情景を重ね合す。けれどもどうにも納得がいかずに聞き返した。
「花が咲くの?」
「初夏になると、小さい白い花が咲くんだよ。それを摘んで茶葉と蒸せば、サムハク茶になる」
 太くて節くれだったごつごつとした蔦に、小さい白い花。どうも上手く想像できない。けれどお茶の方は、なんだか美味しそうに感じられた。
「ジャスミンティーみたいだね」
「そうだな。あれよりもっと、甘い感じだけど。でも砂糖入れないで飲むから、後口はさっぱりしていて、美味いよ」
「今度市場に立ち寄ることがあったら、買ってみますか」
 珍しくジハンが乗り気になって、聞いてきた。
「いいの、ジハン?」
「高級品なのでそんなに沢山は買えませんが」
「次代の長とは思えないような、庶民的なコメントだよな」
 拓也の突っ込みに、思わずみんなで笑ってしまう。気が付けば、話題は夢から遠くずれていた。
 サムハクシンの蔦かぁ。一体、どんなふうに花が咲くんだろう。


 翌日の朝、夜明けの時間。自然と私の目が覚めて、ゆっくりと伸びをして起きだした。美幸を起こさないように、そっと宿舎代わりの荷台を抜け出す。以前までの自分は宵っ張りで朝寝坊だったのに、ここ最近すっかりこの時間の起床が習慣だ。
 外に出てぐるりと辺りを見回すと、先ずは風がどちらから吹いているのかを確認する。そして風上の方向が分かると同時に、ジハンを見つけた。彼から少し離れたところに、犬のチャイグも眠そうに伏せている。これがいつもの、朝の光景。
 チャイグは、それでもご主人様のする事が分かっているらしい。必ず風下の位置にいた。私も倣って風下、チャイグの隣に立つと、そのまま無言で彼を見続ける。

 ジハンが手に持つ香炉から、かすかに薫香が漂っている。真っ直ぐに立ち、目を伏せて、彼の口から低く歌うように祈りの言葉が発せられる。しばらく続く祈りの時間。その後、唱が途絶えると、ジハンの顔がゆっくりと上がった。宙に文字を書くように、香炉が振られる。いくつかの文字が描かれると、彼は大きく手を広げ、全身で風を受け止めた。
 毎朝の、祈りの時間。
 彼のこの習慣に気が付いたのは、ハダクの丘でケレイト族と別れて数日経った頃だった。風読みの儀式なんだと、私が見ているのに気が付いたジハンは、微笑みながら解説してくれた。風読みは、不思議な力が操れる術者にとって基本となる技。けれどこの朝の儀式は、ケレイト族を統べる長とその継承者だけが行う日課なんだそうだ。
 実は私、前世ではジハンの前にこのケレイトの長候補をやっていたんだって。
 けれど今の、転生後の自分は他の仲間と違って記憶も無いし、風を読むなんていう技も持ち合わせていない。ごく平凡な人間だ。だからなのかな、ジハンも今の私にこの儀式を強制しない。けれど私がこうして毎朝起き出して、共に過ごすことを許してくれる。お互いに言葉を交わさない、不思議な時間。
 ジハンのがっしりとした後姿を見つめながら、私はそっとチャイグの頭を撫でた。飼い犬だけれど、いわゆるペットとして扱われた事の無いチャイグは、あまり人と馴れ合おうとはしない。鬱陶しそうにこちらをちらりと眺めると、お愛想程度にしっぽを一振りして、寝たふりをしてしまう。これ以上は撫でないほうが良いみたい。
「ああ」
 ふいにジハンの声がして、私とチャイグ、同じタイミングでぴくりとした。
「これから行く方向に、集落がありますよ」
 今までにこの祈りの時間に話しかけられることなんて無かったから、内心ちょっと驚いてしまう。
「集落?」
「人は、いません。去年の大災でかな? 捨てられたようです」
 遠いところから探るような、不確かな口調でジハンが話す。
「そこまで、分かるの?」
「風が教えてくれます。距離は、そうですね。ここからなら、いつもと同じように出発して、昼過ぎにはたどり着くくらいですよ」
 そこでジハンは振り返ると、私を見てにこりと笑った。
「風読みが当たっているか、確かめに行ってもらえませんか? 午前の馬当番は、真子と拓也でしたよね」
 こうして私は拓也と二人、先発隊となって、ジハンの言う集落を探すことになった。