遠い記憶

1.風の章


その一


 夜十一時ちょっと過ぎ。
 平日とはいえ春休みの気安さで、だらだらとリビングでテレビを見ていたら、玄関から扉を開ける音がした。ついでに色んなところに物がぶつかる音もする。そんな騒々しさに、私のこめかみがぴくりと動いた。
 我が家の家族構成は父と娘の二人のみ。チャイムも鳴らさずにいきなり入ってくる人間は限定されている。ここはあえて玄関まで迎えに行ったほうが良いのか、それとも動かずに待ち構えている方が良いのか、選択の分かれるところだ。
 でも面倒くささにやっぱり座って待っていようと決意した途端、ガタンと大きな音がして人の倒れる気配がした。
「パパっ!」
 たまらずに玄関まで行ってしまう。
「何時だと思っているの? ご近所様に迷惑でしょっ」
 廊下でひっくり返る酔っ払いにそう説教をすると、パパはへらっと笑いながらなぜか私に手を振った。
「真子ちゃーん。お水ちょうだい」
 がーっ。この父親はーっ。
 蹴り飛ばしたい衝動を抑え、水を汲んで手渡す。パパはそれを一気に飲み干すと、また嬉しそうにへらへらと笑った。
「呑みすぎだよ」
「でもチューハイ三杯くらいだよ」
「呑みすぎでしょ。パパ、お酒弱いんだから」
「祝い酒だから、いいの」
 酔っ払いの反論に付き合わされているのに気が付いて、黙り込む。確かに今日のパパは結婚式とその二次会で外出だった。祝い酒には違い無い。でも酔っ払いは酔っ払いだよ。
「ところでさ、真子ちゃん。うちに食べるもの、ある?」
「はい?」
「お腹空いちゃったんだよね。他の子達は呑んだ後のラーメンコースだったんだけど、僕もう中年でしょ。さすがにそれは自重したんだけど、小腹空いちゃってさぁ。何か無いの?」
 無邪気に聞いてくるこの目の前の中年を、また蹴り飛ばしたくなった。
「無いよ」
「じゃあ一緒にコンビニ行こう」
「はぁ?」
「真子ちゃんと一緒に散歩に行くぞー」
 おー。と片手を挙げて一人盛り上がるパパを、冷めた目つきで見下ろした。
 ……でも、コンビニには、ちょうど行きたいと思っていたところなんだ。毎朝飲む牛乳が切れているのに、さっき気が付いた。あとついでに、今日出た雑誌の中身もチェックして買うか止めるか悩みたいし。
 夜中とはいえ、まだパジャマに着替える前。トレーナーにジーンズというラフな格好ですでに顔も洗ってしまっていたけれど、斜め前のコンビニだったら許容範囲かな、とか思ったりして。 けど、こんな中年の酔っ払いとは一緒に行きたくない。
「一人で行く」
 冷たい口調を崩さないように気をつけながら、私は短く宣言した。
「えー、なんで? 一緒に行こうよー」
 お前はどこの女の子ですか? と突っ込みたいのを我慢した。本物の女子は私のほうだ。
「嫌。一人で行く」
 きっぱりと宣言をすると、コートを羽織る。今は三月中旬。早春のまだ冷え込みのきつい季節に、たとえ目の前のコンビニといえどもコート無しで出かける気にはならなかった。
「何食べたいの?」
「ベーグルにね、スモークサーモンとクリームチーズが入っているの」
 妙に具体的な指示に嫌な顔を見せながら、お財布を掴む。ラーメンとクリームチーズ。この場合、カロリーが高いのはどっちの方なんだろう。
「じゃ、行って来るから」
「うーん。……分かった。気をつけて」
 酔っ払いは廊下にあぐらをかいたまま、またへらへらと手を振った。このまま私が戻ってくるころには、同じ場所で寝ていそうな状態だ。風邪引いても知らないから。
 面倒くさいなぁ、とため息つきながら、家を出た。

 こんな頼りなさそうな父親だけれど、外ではそれなりにやっているらしい。美容院のオーナーさん。職業柄か若作りで、年齢不詳で愛想が良い。そんな酔っ払いをパパと呼びながら一緒にコンビニで買い物するなんて、現役女学生の私としては絶対避けたかった。いくらなんでも怪しすぎる組み合わせだよ。
 そういえば、パパと二人で出かけるなんて滅多にしなくなったなぁ、なんて思いながらコンビニに入る。とりあえずベーグルがあるか探してみるけれど、ここのチェーン店では取り扱っていないらしい。
 サンドイッチでいいか。と手を伸ばしたけれど、肝心の牛乳が小さいのしか置いてないことに気が付いた。
「1リットルって、無いですか?」
「ごめんなさい。ちょうど今切れちゃって」
 ジュースと違い、牛乳だとこういうことが良くあった。みんな牛乳飲まないの?
 ベーグルの代わりにサンドイッチ。
 1リットルの代わりに500ミリリットル。
 どちらか一つでも目当てのものを手に入れられていたら我慢できたのだけれど、二つとも代用品になるのがなんとなく、嫌。
「あー、もう」
 こうなったのも全部パパのせいだ!
 家に帰ったらなんて文句を言ってやろうと考えながら店を出る。私は覚悟して住宅街の中、入り組んだ道の先にある別のコンビニに向かっていた。

 そしてそれから三十分後。
 目当ての商品以外にも色々と買い込み、店を出ようとしている私がいた。買おうとしていた雑誌は立ち読みで済ませてしまい、結局別のを買ってしまった。後は、オレンジジュースとポテトチップス。ちなみにポテチはコンビニ限定のもの。こういうのって買うだけで満足して食べないことが多いんだけど、戸棚に入れておけばそのうちパパも食べるし。
 気が付けば機嫌も良く、私は勢いよく外へと一歩を踏み出した。
「痛って」
「あ」
 がさっと音がして、レジ袋が大きく揺れた。
「ごめんなさいっ」
 自動ドアの前、膝にペットボトルの直撃を受けて立ち止まる人物に慌てて謝る。反応を確かめるように顔をあげると、ヘッドフォンをした男の子が私の事を見下ろしていた。
 うわ、この顔見覚えある。うちの学校の生徒だ。
「飯島お」
「お?」
 小首をかしげ、聞き返された。ヘッドフォンしているのに、聞こえたんだ。
「あ、ううん。飯島君」
「知っているの? 俺のこと」
 ヘッドフォンを外すと、じっと人の目を見つめ聞いてくる。その迫力に押され、思わず一歩下がってしまった。
「同じ高校だったから……」
「ふぅん」
 まだ何か納得いかないような表情で、視線を反らさず見つめられる。私の心拍数はどんどんと上がり、頬がしだいに赤くなってきた。
 飯島王子。それが彼の密かな通り名。
 飯島君はヨーロッパ育ちとかで、うちの学校の帰国子女枠で入学した。それだけでなんとなく特別な感じがするのに、さらにそれを際立たせるかのように格好良かった。卵形の顔に切れ長の目。多分メガネかけても似合うんだろうな、とか思わせる端正な顔立ち。でも顔だけじゃなくて立ち姿とか何気ない仕草とか、なんか一本ぴんとしたものがある。どこかの国の王子様みたいだよねーって、誰かが言い出して、気が付けば女子の間では「王子」で通ってしまっていた。
 私自身はそんな王子に特別思うところも無く、ただ学校で遠くから見かけて、ああいるなって認識する程度だったんだけど。
「すみません、ちょっとどいてもらえませんか」
 無愛想な店員の呼びかけにはっと気が付き、慌てて横にどく。来店を知らせるチャイムが何度も鳴り響き、店内には外の寒気が入り込んでいた。私達は明らかに迷惑な客だった。
 でもどいたはいいものの、これ以上この二人でいる理由もない。
「えっと、ごめんね。大丈夫だった?」
「全然」
「良かった。……あの、それじゃ。おやすみなさい」
 なぜだか妙に緊張し、がちがちのまま無理に笑顔を作って店内から出ようとする。テレビに出ている芸能人とばったり会ってしまった、そんなノリだ。
 帰り道で早速友達にメールしなくちゃ。なんて思いながら歩き出したら、急に腕を掴まれてびくっとした。
「待って。送るよ」
「え?」
 何を言われたのか分からなくて、まじまじと彼の顔を見つめてしまう。
「こんな夜中に、一人で帰るつもり? 送っていくよ」
「何で?」
「だって俺のこと知っているんでしょ?」
 知っているけど。でも王子は私のこと知らないじゃん。
 それをどう当たり障りなく言えるかに悩み、口をつぐむ。飯島君はそんな私に片目をつむって見せると、誘いかけるようににやっと笑った。
「女の子を一人で帰らせたくないんだ」
 うっわ。さすが帰国子女。そして王子。
 気恥ずかしさに目を伏せて、観念した。
「……じゃあ、大通りまで」
「O.K」
 私だって使う単語なのに、そのイントネーションにドキドキする。なんだか突然外国人にナンパされた気分だ。英語コンプレックスって、こういう時に出ちゃうんだよね。
「で、どっち?」
「右に」
 言葉少なく指示を出し、黙々と歩いてゆく。いざ二人で店を出たものの、この隣に立つ王子をどう扱って良いか分からずもてあましていた。飯島君はそんな私を気にする風でもなく、横からレジ袋を持ち上げる。
「持つよ」
「え? いいよ」
 ぶんぶんと首を振って辞退するのだけれど、取り合ってくれない。ごく自然に袋は私の手から離れ、彼の手へと渡された。こういうのも、外国生活で身に付いたものなのかな。気が付くと、彼のペースに巻き込まれている。
「ところでさ、悪いんだけれど名前教えてくれない?」
「え?」
「俺、君の名前知らないんだ。教えてよ」
 ね? ってにっこり微笑まれて、また一気に体温が上がってしまった。
「成田真子」
「ナリタ、マコね。よろしく。俺は」
「飯島拓也」
「そうか。知っているんだっけ。よろしく」
「……よろしく」
 じっと見つめられる居心地の悪さに耐えられず、前方を見据えた。飯島君にとってはごく自然なことなのかもしれないけれど、私はこの状況、ちょっと辛い。
 でも無視しても、やっぱり沈黙の圧力っていうのに耐えられなくなってしまうんだ。
「飯島君、あのお店に入るところだったんでしょ。何も買わずに出ちゃって、良かったの?」
 とりあえず、気になる点を聞いてみる。店内に入ってきたところで、飯島君は私とぶつかった。彼にしてみれば、入り口で回れ右して出てきちゃったのと同じだと思うんだけれど。
「別に買い物目的じゃなかったから」
 あっさりと言い切られ、またちょっと混乱する。雑誌のチェックとか、そんなのだったのかな。
 ちらりと横目で様子をうかがうと、目があった。飯島君は相変わらず私を真っ直ぐに見つめている。
「人を探していたんだ」
「人を?」
 その言葉に余計に慌てた。こんな、私を送っている場合じゃないでしょう。
「戻らなくて、いいの?」
「うん。いい」
 あまりにもきっぱりと言われてしまったので、それ以上聞く事が出来なくなってしまう。そして私の心に後悔が沸き起こった。
 学校で見かけるとはいえ、話した事のない男の子。なんでこんな間合いの掴めない会話して、送ってもらっているんだろう。これなら無理にも辞退して、一人で帰ったほうが気が楽だったのに。
 緊張のせいか、なんだか妙に周りの音に過敏になっていた。車の通る音もだけれど、それよりも街路樹を渡る風の音がやたらに耳につく。騒がしい。
 ざぁっと、葉擦れの音が響いて思わず空を仰いだ。
 街灯の反射で、街の夜はいつでもぼうっと光っている。つい自分の置かれた状況を忘れ、空に雲が薄くたなびいているのをぼんやりと見てしまった。
 そういえば、気圧とか気候の変化で体調が変わることがあるって、むかし天気予報の豆知識で解説されていた。気象病っていうんだって。それとは違うのかな。時々、空を見ていると変な気分になる。心がざわつく。風の音が聞こえると、何かしだいに焦ってくる。ここではない、どこか別のところへ心が持っていかれそうになる。焦がれてゆく。
 でも、どこへ?
「風に、さらわれるよ」
「え?」
 すとんと言葉が私の心に入ってきて、ふいに現実に立ち戻った。とっさに飯島君を見つめ返すけど、さっきと変わらずただにっこりと微笑むばかりだ。
「成田さん、真っ直ぐできれいな髪しているね」
 そんな軽い言葉に、私も曖昧に笑ってみせる。
「ストレートパーマかけているから。ウェーブかけると、先生がうるさいでしょ。でも真っ直ぐだと何も言われないの。だから」
 さすがに親が美容師なんてものをしているせいか、ただ伸ばしっ放しという訳でもない。あまり重く見えないようにカットしたり、それなりの手入れはしているつもり。って、私自身は何もしていないんだけれど。
「長さ、背中隠れるくらい?」
「そのくらいかな」
「なんで?」
「え?」
 意味が分からず聞き返す。
「なんでその長さまで伸ばしているの?」
 にこやかに微笑んでいるのに、その目は真っ直ぐ私を見つめていた。
「……さあ。なんとなく」
 言いながら、さりげなく目線を外す。なんだろう。学校のアイドルに偶然出会ってしまった。それだけではない、緊張感が生まれていた。
 この人の考えていることが、読めない。
 初めて話すのだから当たり前なんだけれど、それでも何か、得体の知れない不安感が広がってゆく。
「あの」
「うん?」
 中途半端に口を開いて、何も話題が無いのに気が付いた。困って視線をさまよわせると、彼の首に掛けられたままのヘッドフォンに目が行く。
「飯島君の聴いていたの、それ何?」
 とりあえず、当たり障りのない話を振ることにした。あんまり音楽って興味ないんだけれど、この場が和めばそれで良いし。
 飯島君はそんな私の考えを知らず、嬉しそうに語ってくれる。
「古い曲なんだけれど、俺の一番好きな曲。すげー良いよ。聴いてみる?」
 さっきまでの緊張感が、一気にゆるんだ感じだ。ほっとした気持ちでいたら、飯島君は返事も待たずにヘッドフォンを私の頭にセットした。耳の位置を調整して、「かけるよ」と小さく宣言されて曲が流れる。
「うわっ」
 何の予備知識も無く、ただ「古い曲」と言われただけだったので油断していた。
 これ、洋楽だ。しかもヒップホップとかそっち系の。
 ドラムとかベースの、どかどかいう音に圧倒されて顔を引きつらせる。救いを求めるように飯島君をちらりと見るけれど、にこにこと笑ったまま。自分の趣味を他人にごり押しする時特有の、ちょっと世界に入り込んでしまったような表情をしていた。
 うう。仕方ない。
 ヘッドフォンを外すことも出来ずに、諦めて耳を澄ます。だって典型的な、押しが弱くて嫌とは言えない日本人なんだもん。
 自分に言い訳をしながら聴いていたけれど、なんだかだんだん音が耳に馴染んできた。
 あー、意外と、
「これ、いいかも……」
「だろ?」
 無意識のうちにつぶやいてしまった私の言葉を拾い上げ、飯島君がうんとうなずく。
 重低音のリズムに、澄んで艶のある男声がメロディーを重ねてゆく。ヒップホップなんて何聞いても同じにしか思えなかったのに、この曲のメロディーは情緒的で、聴いているうちに胸を締め付けるような切なさがこみ上げてきた。
 心がまたざわついてくる。さっきまでの焦れた感覚がよみがえってきた。
 曲はサビの部分に差し掛かり、いつの間にか私の足が止まっていた。
「別の場所に連れて行って。って、歌っているんだ」
 飯島君の声が良いタイミングで私の中に入ってきた。
「他の場所、他の国、ここではない別のどこか。自分が本来いなければならなかった、本当の世界へ」
 一緒になって立ち止まり、正面から私を見据えて飯島君がそう言う。風が背後から私達をすり抜けて行った。寒気ではない、何か別の震えが来て、手をぐっと握り締める。
 まるで私の心の動きを読んでいるような、そんな彼の瞳に引き込まれそうになっていた。
「今のは、歌詞?」
「さあ、どうだろう。聴き取ってみなよ」
 はぐらかすように飯島君が微笑む。
「出来ないよ。英語の曲なんて」
 邦楽だって初聴きだと何歌っているのか分からないのが多いのに、ましてや洋楽でそれを求めるなんて意地が悪い。少しむっとして言い返していると、正面から車がやってきた。ライトで私達を照らしながら走り去っていく。そのときになって、初めて基本的なことに気が付いた。
 車のエンジン音が聞こえない。私の耳に流れてくるのは音楽と、飯島君の言葉だけ。
 でも、ヘッドフォンをしているのに、なんで彼の声は私に届くの?
「他の場所、他の国、ここではない別のどこか。そこへ連れて行って。そう願ったら、風は俺達を導いた」
 歌とは違うけれど、でも流れるような調子でそうつぶやき、飯島君はレジ袋を私に返した。
「あ、ごめん」
 反射的に受け取って、そう謝る。そしてそのすぐ後に、またしても彼のペースに引き込まれている事に気が付いた。
「ねえ、これ、何?」
 慌ててヘッドフォンをつき返し、聞いてみる。
「なんで飯島君の声が聞こえるの? 最新式? 外部の声もクリアに聞こえるって、凄いよね。私、あんまりこういうのに詳しくないから、驚いちゃった。最近のヘッドフォンって多機能だよね」
「そんな商品、無いよ」
 くすりと笑って、彼が答える。
「え?」
 心臓がどくんとした。
「俺の声が聞こえたのは、成田さんが俺の言葉を欲しがったから。別の場所を探す仲間だから」
「な、に?」
「ようやく見つけた」
「何を言って」
 その瞬間、風が吹いて私の言葉は途切れたまま終わってしまった。
 風が体を通り抜ける。
 ざわつく。焦れる。叫びたくなる。
 何? これ。体から、何か力があふれてくる。
「ここではない、別の場所へ。戻ろう、俺達の世界へ。アクタ」
 耳元で、風がうなりをあげている。飯島君は私の手を取ると、誘い込むように一歩後ろに下がった。
「やっ、何? どういうことっ?」
 なぜか足元がぐらついて、バランスが取れずに上体が揺れる。
「ねぇ! やだっ! これ何? 飯島君っ!」
「戻るんだ。あの頃へ。……で、待っているから」
 にっこりと微笑む飯島君の顔が霞んでゆき、貧血になったように気が遠くなる。

 風に、さらわれる。

「や、だ……」 
 さっきの飯島君の言葉を思い出し、そこで私の意識は途切れていった。