遠い記憶

3.鳥の章


その6


 宿屋隣の食堂はエッガイがお勧めするだけあって、活気に満ちていた。食事だけではなくお酒も呑ませるところらしく、程よく酔っ払った客の一団が何かの話題で盛り上がっている。エッガイもその輪の中に入っていた。
「真子、拓也!」
 お店に入った途端、顔を赤くしたエッガイが待ち構えるように手を振って私達を呼び寄せる。十五、六人はいるのかな。いかにも地元の青年団のような集まりの中に拓也と二人、ぐいと押し込まれてしまった。
「ウスコパウジュー、ホ」
 仲間に紹介をするのに、術は使わない。けれどパウジュー、巡礼さんという単語が入っていたので、何と言われたのかは察しがつく。案の定、エッガイの紹介が終わると同時に拍手が沸き、乾杯が始まった。ノリがなんだか結婚式の二次会みたい。あっという間に私の手にもお酒の入った杯を持たされたけれど、それはすぐに拓也に取り上げられた。
「花嫁は酒に弱いんだ。悪いけれど、お茶にしてくれないか。あと、腹が減っている。酒の前に何か食べさせてもらいたい」
「そうだった。おい、こっちに何か食事を!」
 すっごくさらりと言ってくれてますけど、花嫁ですか。本当に二次会みたいなノリだったんだ。
 どうにも拓也の言葉や触れ合うほどに近い距離なんかが気になって、落ち着かなくなる。まあ確かに五人でいれば気にもならない男女混合チームも、たった二人だったらどんな関係かと思われてしまうわけだし、それだったら夫婦でいるのが一番説明がつくんだよね。逆にこの世界でいわゆる新婚旅行ですの一言でみんなが納得してしまうのは、非常にラッキーなわけで。えーっと、つまりは目指せ平常心ってことですよ。
 ぐだぐだとまとまりなくそんな事を考えながら、出された料理をひたすら食べた。お茶をもらおうと湯飲み茶碗を手に取ると、もうすでに半分ほどなくなっている。隣の拓也の杯を覗き込むと、そこにはお酒ではなくて私がもらったお茶が入っていた。エッガイの杯に自分のお酒をこっそり注いで、お茶に切り替えていたんだ。
「お酒、呑まないの?」
 確かにお互い日本の法律で行けばお酒なんて呑んだらまずい年齢なんだけれど、ここは異世界。ケレイト族の宴会での呑みっぷりも記憶にあるので、つい不思議に思って聞いてしまう。
「呑めるわけないだろ。俺だってさすがにそこまで自制できるか、自信無いし」
 視線を反対方向に反らし、妙につっけんどんに拓也が答える。なんだか機嫌悪そうだけど、疲れているのかな。
 でも今日一日ずっと歩き回っていたものね。ここでお酒なんか呑んだら、あっという間に前後不覚に眠ってしまいそう。納得をすると残ったお茶を飲み干して、エッガイにお代わりをお願いした。お腹も満足したことだし、後はせっかくの機会を生かして地元の人たちと交流をしよう。
「この集まりはみんなエッガイの友達なの?」
「友達違う。商工会議所の集まり。明日大きな取引あって、みんなで荷物運ぶんだ」
 へぇとつぶやきながら、同席している十五、六人の顔をざっと眺めた。みんなで運ぶって、どのくらいの規模のことを言っているんだろう。まさか手荷物一個ずつというわけではないだろうし、馬一頭とかさらに荷車一人一台ずつなんてことだったら、まさに大きな取引だよね。でも一つのお店だけに留まらず、色んなお店の人間が寄り集まって運送するというのが不思議な感じ。やっぱり大きな取引だからなのかな。
「いつもみんなで運ぶの?」
「いつもじゃない。これは宗主様の依頼だから特別。一つの店に偏るの、良くないしね」
「宗主? ってシャータ、様のこと?」
 思わず身を乗り出して聞いてしまう。交易で発展した街だから、この地を治める領主が大掛かりな取引をしたっておかしくはない。けれどその日にちが明日というのは非常に気になる。
「大切な取引。失敗は許されない」
 エッガイはにっこりと笑いながら、自分の意気込みを語ってくれた。彼も街の人と同様に、エシゲ家を崇拝しているらしい。
 それにしても、一体どんな荷物をどこにどれくらい持って行き、誰と取引をするのだろう。一気に疑問が膨れ上がってしまう。
 これはもう、聞くしかないでしょう。意気込むと同時に口を開いたら、急に拓也に手を握られた。え? と言葉が詰まった瞬間、テーブルの端にいた中年の男性が話しに割って入ってくる。
「エッガイ、商売の話し聞かせるの、良くない」
「ああ、失礼」
 にこにことしたままのエッガイに比べ男性の顔はいかめしく、警戒心もあらわに私をにらみつけていた。
「なぜ取引のこと、興味ある」
 完全な詰問口調。よっぽど明日の取引って、重要なんだ。なんて、冷静な分析はいいからこの状況をどうにかしなくちゃだ。
 中途半端に口を開いたまま返答に困っていると、拓也が敢えてのんびりした口調で私の代わりに答えてくれた。
「エッガイが明日忙しくて俺達と会えないのは、困ると思ったんだ。夕方まで馬を借りたかったんだけどな」
 話を振られ、エッガイが素直に反応してくれる。
「昼に出るから、それまでなら店にいるよ。遠出する?」
「うん」
「関所ある。勝手に行くの禁止。街の中、観光する」
 あくまでも頑なな態度で制止する男性に、エッガイは呆れたように肩をすくめた。
「会頭、巡礼さんに意地悪言っては駄目だよ。オボ山の入り口付近まで、馬で行けるようになっている。楽しんでくると良い」
 ってことは、止めようとしているのはこの会頭さんの独自の判断なのか。それにしてもさすが都市。街道正面の楼門だけでなく、他の場所の出入りにも通行チェックを設けているのね。
 私は単純に感心するだけだったけれど、拓也はすかさず質問を重ねていった。
「関所はどこにあるんだ? そこまで行ってもまずいだろう」
「オボ山の入り口、巡礼者と山を越えて西大陸に行く交易隊とで道が分かれる。そこに一つ、あともっと北側にも一つあるよ」
「北側?」
 言われて体がぴくりと動く。オボ山の北側はイーシィの気にしていた方面だし、明日私達が偵察しようとしているところだ。けれど繋がれた手に拓也の握力を感じて、慌てて無表情を装った。
「オボ山を越える道、一つじゃない。けれど北側使う交易隊、ホータンウイリク通らないでキョエンに向かう。だから緊急用ね。キョエンに今は人いないし。滅多に使わない」
 エッガイの解説に、かなり酔っ払った他の仲間が言葉を継ぎ足す。術が使われていないため聞き取れず拓也を見たけれど、さえぎるような会頭さんの怒鳴り声にそれ以上聞くことができなかった。とりあえず流れから、この話に強制的にけりがつけられてしまったのだけは理解する。
「それじゃあ明日、店に来て。馬用意しておくよ」
 仕切りなおすようにお酒が回ってきて、何度目か分からない乾杯が繰り返されたあと、エッガイが私達にこっそりと言った。
「ごめんね」
 なんとなく申し訳ない気持ちになってしまって謝りの言葉を口にする。商工会議所の会頭さんがどれだけ偉いのかって良く分からないけれど、これでエッガイの立場が悪くなるなんてことはないのかな。
 そんな私の不安が表情に表れたのか、エッガイはこちらを見つめ、安心させるようににっこりと微笑んだ。
「会頭ちょっと神経質になっている。宗主様の依頼、重要だから。気にしなくていいよ」
「うん。ありがとう」
 それからしばらくして、私達は宴会を先に切り上げさせてもらい、宿屋へ帰った。退席する際に酔った商工会議所の面々からからかいの言葉をいただいたけれど、それは無視。こういう時、何を言われているのか直接には分からないっていいよね。

 拓也と二人きりというシチュエーションに緊張するのかなと思っていたけれど、宿屋に戻った頃にはそんな事を気にする余裕もなく、睡魔に襲われていた。
 考えてみれば、今日一日色んなことがありすぎたし、歩き回って体力も使った。嬉しいことに宿屋には浴室もあったので何とか頑張って水浴びもしたけれど、ここまでが限界。当たり前のことなんだけどドライヤーがあるはずもなく、髪の毛は自然乾燥させるしかない。でも濡れて湿った髪の毛なんてどうでもいいくらいに眠りたかった。
「風邪引くよ」
「んー」
 呆れたような声が斜め後から聞こえるけれど、反応するのが面倒くさい。寝台に腰掛けたままうつらうつらしていると、ため息と共に頭から布がかぶせられた。そのままがしがしと髪の水分を拭ってくれる。ありがとうと言ったけれど、きちんとそれが発音できていたのかちょっと怪しい。
「髪の毛、長いよな」
 ふいにぽつりと、拓也がつぶやいた。
「……うん」
 眠りから覚めたような気持ちになって、短く答える。
 私の髪が長い理由。前世の私、アクタが死んだ原因。拓也のトラウマ。
 私の背中の痣は、今もここにあるのだろう。この世界に来て以来、鏡で確認することも無くなったけれど。そういえば、あれほど背中が隠れるようストレートにこだわっていた髪型も、こっちの世界に来てじきに三つ編みになった。こんな過酷な環境では、束ねないと邪魔になる。
「キョエンに玉が戻ったら、その後拓也はどうするの?」
 深く考えるよりも先に、するりと疑問を発していた。拓也のことを知るうちに、親しくなればなるほど膨らんでいった聞きたいこと。拓也の手が、一瞬止まる。
「一番最初に言っただろう? チャガンを据えたからって、そこで終わりじゃないんだ。やるべきことは一杯あるよ」
 止まった手がまた動き出す。布を私の肩に掛けると、風を送り込むようにほぐすように髪の毛を手で梳きはじめた。その心地よさにまた眠気が襲う。ああ、駄目だ。大切な話をしているのに。
「ね、拓也」
 すでに意識は半分ほど飛んでいた。ただ思った事を口にする。
「一緒に、帰ろうよ」
 しばらく続く沈黙。静かに、平坦な声で、拓也が聞き返す。
「どこへ?」
 私達は、私は、どこへ?
 拓也の手の優しさに堪えきれず、ここで私は眠りの世界に落ちてしまった。


 そこはモノクロームの世界だった。
 色もなく、音もない世界。けれどそこは、荒々しい暴力と混乱の世界でもあった。

 大きな広間の真ん中で、私達は戦っている。剣や槍、素手の人もいた。ただひたすらに、迫る敵と相対している。お互いの格好を見てみると、私達の着ている衣装は上等な単(ひとえ)を重ねて作られたもので、正装だ。対する相手は身軽な袷(あわせ)の着物に武具を身にまとい、臨戦態勢で挑んでいる。謀られたのだと、両者の姿を見比べるだけで、状況は見て取れた。
 それでも、必死になって戦っていた。両者入り乱れての白兵戦は、ここに一体どれだけの人間がいるのか分からなくさせる。けれど、一人ではなかった。四人でもなかった。私達を支える仲間はそれなりにいて、その全員がこの広間に集結していた。そして私達が広間に着いた頃にはその仲間達はあらかた殺されていて、残る人数で死闘を続けていたんだ。
 そうだ。ここはキョエンの斎宮。チャガンを台座に据える、大事な儀式が行われるはずだった日の出来事。

 少しずつ思い出すにつれ、これが夢の中であることをぼんやりと自覚する。哀しい夢。けれどこれはずっとずっと浮かび上がることが無かった、前世の、遠い記憶。

 槍で突いてくる兵士の攻撃を流れるような動作でかわし、隙を見てその槍をもぎ取り自分のものにする。発せられる気合い。私の体に武道の型は日々叩き込まれていて、戦闘力は兵士に劣ることは無かった。幾人もの相手をなぎ倒す。けれど切れ目なく現れる新たな敵に、次第に息が切れていった。圧倒的にこちらの数が足りない。
 自分の体力で倒せるのは、あと一人か二人か。それでも負けるわけには行かなくて、死ぬまで戦う気力だけは持ち合わせて、槍を持ち直す。刀の攻撃を真正面から受け止め敵を見据えたとき、視野の外から別の兵士が切り込んでくるのが視えた。兵士が狙うのは、私の右隣で戦うあの人。
 はっとした瞬間、彼の足がもつれ、上体が揺れるのが分かった。すでにもう、お互い限界だった。
 気が付けば、彼を突き飛ばし、自分の背中で兵士の刀を受けていた。槍の間合いよりも近すぎた。後は体で受け止めるしかない。重い衝撃が体全体に響き渡る。それからしばらくして起こる、焼け付くような痛み。
 なぜか咳き込んで血が吐き出されるのを見て、刃が肺にまで達した事を知った。息が苦しい。
 ここで私は、死ぬ。その事実に呆然とする。
 けれど、思い切り肩を揺すぶられ、耳元で怒鳴られて正気に戻る。必死な表情の彼。見る間に彼の目から涙があふれ、拭われること無く頬を伝う。今、耳に聞えるのはひゅうひゅうとした自分の呼吸音のみ。けれど、必死になって叫ぶ目の前の人の声は、心の中で響いている。
 そんなに泣かないで。そんなに自分を責めないで。あなたを最後に助けることが出来たのは、私の喜びなのだから。
「良かった……」
 振り絞る力でもって、彼に微笑みかける。せめて笑顔で見守りたい。それが今、私に出来る唯一のこと。

 モノクロームの世界がさらに色を失い、闇に包まれる。反対に私の意識は少しずつ覚醒してゆき、やがてそっと目を開けた。

「サイムジン……」
 つぶやきと共に涙が一粒こぼれる。
 上半身をゆっくりと起こし、辺りを見回す。まだ夜明け。薄闇に包まれている室内。斜め横から寝息が聞えるから、起き上がって近寄った。
 拓也の寝顔。そっと頬に触れてみる。その温もりに、また涙がこぼれてしまう。
 この人は、生きている。
 記憶は、夢という形でよみがえった。けれど思い出したのは最後の部分だけ。まだほんの入り口に立ったばかり。
 立ち上がると伸びをして着替える。朝の儀式がしたかった。

 拓也を起こさないよう、そっと扉を開けると、中庭に降り立つ。井戸の水で顔を洗い、深呼吸をする。私がアクタ・ケレイトアだった頃、毎日やっていただろう風読みの儀式。けれどそれを思い出すことが出来ず、祈りの言葉も口をつくことはなかった。仕方なく、毎朝見つめ続けたジハンの動きを真似してみる。
 宙に文字を書くように手を振って、全身で風を受け止める。ここでジハンなら、そして術を使えるみんななら、当たり前のように風から情報を読み取るんだ。けれど私には分からない。
 昨日までと何も変わらない自分。それなのに、夢で見たあの最後の瞬間だけが、まざまざと脳裏によみがえる。モノクロームの世界なのに、無音の世界なのに、感情だけが生々しい。
 サイムジン。
 私の一番、大切な人。
「うわぁ……」
 上げていた手をぱたりと落とし、唸りながら地面を見つめた。
 好き、だったんだよね。いや、好きとかじゃきかないくらい、とっさに自分の命差し出しちゃったくらい、愛していた。死ぬ直前の妙に充実した気持ちは、今思い返すだけで軽くトリップできるくらい。
 けれど、思い出せるのはこれだけ。あとはものの見事に闇の中。
 サイムジンと私の関係は、一体どうだったのかな。私の想いは良く分かった。けれど、もう一方のジンの気持ちは?
 あれほどまでに必死になって呼びかけてくれた、彼の真剣な表情を思い出す。そして再会して最初の頃の、不安定な気持ちでいた拓也の顔も。
「アクタを、殺した」
 以前拓也に言われた台詞を口に出して言ってみる。ただひたすら、自分を責め続けていた拓也。確かにあんな状況で自分かばって死ぬ女がいたら、しかもそれが仲間なら、トラウマにもなると思う。
 相手のことを好きとか嫌いとか言う前に。
「うわぁ……」
 なんだか一気に落ち込んで、座り込んでしまった。
 自分にとっては納得した死に方でも、残された側にしてみればあれだけ引きずるものなんだ。っていうか、あの直後にサイムジンだって殺されているんだし、冷静に考えると私のやったことってわざわざ彼にトラウマ残しただけなんじゃないのかな。それなのに、ジンとアクタの関係ってどうだったの? なんて、聞けない。絶対に聞けない。
 座り込むだけでは飽き足らず、頭を抱え込んでしまう。これからどんな顔して拓也に会えばいいんだろう。
 当分ここを動きたくなかったけれど、宿屋の厨房から物音が聞こえてはっとした。そろそろ人が起き出す時間だ。とっさに立ち上がり歩き出す。行く先は拓也のいる部屋、ではなくて宿屋の外。もうちょっとだけ、自分の心を落ち着かせる時間が欲しかった。

 宿屋を出てからとりあえず、大通りに向かって歩いてみる。朝とはいえ、まだたいして人気の無い時間帯。さらに細い路地を一人でふらつくのは、ちょっと危険だ。大通りを越えた一本奥の道には、エッガイのいるダド商会が店を構えている。せっかくなのでそこまでまわってから帰ろう。そう決めて前方に目をやると、馬に荷台を付けた車が大通りに向かっていくのを遠くに見つけた。
 普段使いの牛車に比べ、馬車の方がやっぱり速度が早いんだよね。
 そんな事をぼんやり考えながら尚も進むと、また前方に馬車を見つける。
 って、これ商工会議所の商隊?
 ふと思いついてしまったけれど、すぐさまそれは却下した。たまたま昨夜みんなと知り合ったからって、さすがにちょっと発想が短絡的だ。
 けれど否定はしてみたものの、嫌な予感が拭えない。試しに大通り手前の路地に身を隠し、次に来る馬車を観察することにした。食堂にいた誰かが乗っていたとしたら、カンが正しかったと言うことで。
「でも、当たっている方が洒落にならないよね」
 つぶやきながら待っていると、直に規則正しい蹄の音が聞えてきた。いくつも聞えることから、複数台の馬車がやってくる事を知る。そして数十秒後に目の前を通り抜けていったのは、いかにも二日酔いで眠そうな様子のまま馬車を御している、エッガイ。
「当たっちゃった……」
 そのうんざりとした彼の表情に、昨夜の会頭さんの苛ついた態度を思い出す。昼に出発って言っていたのに、私達が帰った後わざと早朝にずらしたんだ。
 あっという間に通り過ぎてゆく馬車の姿。それらに背を向けると、私は慌てて宿屋に向かって走っていった。何で部外者に知られないよう行動を起こすのか、そうまでして秘密にしたい商談がなぜ今日行われるのか、その訳を探りたい。

「拓也、起きて!」
 派手に音をたてて扉を開けると、文字通り拓也をたたき起こす。早く後をつけなくちゃ。これから馬も借りなければいけないんだ。ぐずぐずなんてしていられない。
「朝からなんだよ。盛り上がって」
「いいから早く! エッガイ達を見失っちゃうでしょ」
「エッガイ?」
 そこでようやく焦点の合った顔になって、拓也がゆっくり伸びをした。
「急遽予定変更か」
「はーやーくー! 追いかけなきゃ、なんで撒かれたのか分からないっ」
「大丈夫だよ。北の関所に行くって、昨日話していたから」
 北の関所! やっぱりそこに何かあるんだ。
「先にダド商会に行く。拓也は準備できたら、追いかけてきて」
 そのまま踵を返して部屋を出ようとしたら、手首を掴まれ引き戻された。突然のことにバランスを崩し、拓也の寝台に倒れこむ。
「落ち着けって」
 すぐ近くで声がして、なだめるように頭をぽんぽんと撫でられた。
「馬で追いかけたら、直ぐにばれるだろ。行き先が分かっているんだ。術を使えば追いつく。とりあえずは朝飯の方が、大事」
 決してそれ以上は触れることなく、拓也はすっと立ち上がり、部屋の隅の荷物を取りに行く。気配で着替えをしているのが分かるから、遠慮をしているように装って寝台の上でじっとした。
 胸が、どきどきする。頬が熱い。
 寝台に拓也の温もりが残ってる。そんなことも私を動揺させた。
 記憶が戻るって、こういう感情も起きてしまうんだ。これって、まずい。非常に困る。
「真子」
「え、はいっ!」
「俺顔洗ってくるから、先に食堂で席取っておいて」
 普段どおり、いつもと変わらない拓也の話し方。でもそれは当たり前か。昨日までと違ってしまったのは私の方だけだ。
「真子?」
「あ、うん。朝食は大事だよね」
 ぎこちなく返答をする。今の受け答えで大丈夫だったかなとちらりと拓也を眺めたら、満面の笑みを浮かべた拓也がこちらを見ていた。
「朝飯、大事」
 王子顔じゃない、素の笑顔。このタイミングでやられると、破壊力抜群だ。
「食堂行ってくる!」
 これ以上顔が赤くならないうちにと、慌てて部屋を飛び出した。

 朝食をとり、荷物をまとめると、清算をして宿屋を出る。人気の無い路地に入ると、いつもの調子で手を取られた。
「行くよ」
 静かな声に、黙ってうなずく。ふわっと体が浮く感触がして目をつむると、空気が変った。
 次に目を開けると、私達は森の中の街道にいた。こちらに来てはじめて見る、木々の続く景色。見上げると、山が近い。拓也は道に出来た轍を見つめ、それから顔を上げて遠くを見やった。
「もっと先だな。前方に関所を見張る高台がある。そこまで飛ぼう」
 そう宣言をすると、また私の手を取る。連続して二度目の飛行。疲れたりとかしないのかな。
 自分の気力が少しでも拓也の足しになれば良いのに。
 そんな気持ちでつい拓也の手を握り返したら、ふっと笑われる気配がした。
「大丈夫だよ」
 それだけを言われ、移動する。言葉に出さなくても、こっちの心配する気持ちが伝わったってことなんだろうか。嬉しいのだけれど、それ以上の気持ちが伝わってしまったらどうしようと、ひやりとする。ああもう。こんなことなら中途半端に前世のことなんか思い出すんじゃなかった。
 色々考えてぐらぐらしているうちに、景色が変わってゆく。次に私達が到着したのは、山の切り立った崖上だった。
 目線を下げれば、森を終らせるように河が流れ、それを渡る街道が見えた。河原では商工会議所のみんなが、馬に水をやったり一息ついている。けれど慌しい動きから、街道をさらに進む気なのは見て取れた。
「この先に、商談相手がいるんだよね」
 街道の北をずっと目で追ってゆくけれど、平原が広がるばかりで人影や民家など見えやしない。拓也の視線はさらに遠く、風の流れから情報を読取ろうとしていた。
「どう?」
「駄目だ。視えない」
 息を吐き出すと、拓也は首を振った。
「イーシィの言ったとおりだ。この先の景色を視ることは出来る。気の流れも安定している。けれど、何か違う気がする」
「意志の、力……?」
 イーシィが感じると言ったものを挙げてみる。拓也は難しい顔をしたまま、ゆっくりとうなずいた。
「エッガイ達が実際に出かけている以上、この先に何かはあるんだ。術を使って視ることが出来ないのならば、実際にそこに行けば良い。真子はここにいて。俺一人で行ってくる」
「何で!」
 反射的に言い返すと、拓也の服を握り締めた。
「一人で行くのは危険すぎるよ。私も一緒についてゆく」
「二人揃って行く方が危険だよ。何かあった時のためにも、真子はここに残っていて欲しい」
「嫌」
 速攻で拓也の要望を却下する。私の脳裏には、今朝見た夢が繰り返し浮かび上がっていた。
 サイムジンに襲い掛かる兵士。とっさにかばう自分の姿。結局私のした事はジンにトラウマを残すだけだったけれど、それでも、何かをせずにはいられなかった。彼のために死ねたのは、本望だった。
 あの時の気持ちを思い出した今、こんな手前の地点でぼんやりと拓也を待つことなんて、出来やしない。
「ここにいても意味は無いよ。拓也に何かあった時って、ここにいても見えないもの。分からない」
「時間を区切る。一時間以内に帰ってこなければ、イーシィの姿を思い描いて呼びかけるんだ」
「術が使えないから、私は足手まとい? それならせめて街道の先に何があるのか、それが分かるところまでは一緒にいさせて」
「真子」
 拓也が困ったように呼びかける。多分、今の私の態度は必死すぎるんだ。けれど止められなかった。どうすれば拓也のそばに居られるのか、それだけを考えていた。
「お願いだから私も一緒に」
 訴える途中で、言葉が止まる。拓也の肩越し、鳥の群れが北へ向かって行こうとするのが見えた。何か引っかかる。遠目では良く分からないけれど、あの鳥達の姿に見覚えがある。
 もっと近付かないのかなと思った途端、鳥の群れが大きく旋回してこちらにやって来た。
「あれ……」
 私の言葉に拓也も慌てて振り返り、空を見上げる。近付くにつれ少しずつはっきりとしてゆく鳥の姿。灰色の胴体に白い羽根。大きさは、鳩をもうちょっと小ぶりにしたくらい。そして群れの中の一羽と目が合った瞬間、叫んでしまった。
「イーシィ!」
 何で来ちゃったんだろう。美幸に止められていたはずなのに!
 呼びかけられた鳥はもう一度旋回すると、仲間を引き連れこの高台に降りてきた。そして私たちの前に立つと、首を傾げ、くちばしを開く。
「あなた方は、イーシィ様をご存知なのですか?」
 そう尋ねる声は、落ち着いた大人の女性のものだった。