painted blood


「あ」
 ぽたぽたと垂れる絵の具を、とっさに袖口で受け止める。そんな自分の行為に、気の抜けた呟きをもらしてしまった。見る間に鮮やかな色が白いワイシャツを染めてゆく。
「どうした隆志、って、うわ」
 美術部の部長、加藤が僕の惨状を見て眉をひそめる。
「馬鹿だなー。なんでそんなに垂れるほど、絵筆に水分含ませているんだよ。早くそれ、洗わないと」
 加藤のお説教のような忠告は、背後からのガツンという音に途切れてしまった。その机と人のぶつかる痛そうな音に、慌てて二人振り向く。けれど机にぶつかった本人はそれよりも重大な出来事にぶち当たったような表情で、僕の袖口を指差していた。
「どうしたのそれ、大丈夫?」
 見知らぬ女の子。けれどあまりにも真剣な表情に気押されて、言葉も無くこくりとうなずく。
「そんなに血が出ている。保健室に行った方が」
「……これ、絵の具をこぼしただけだから」
 なんとかそう説明すると、安心させるように袖口をひらひらと振ってみた。
「なんだ。良かった」
 そう言って、彼女が笑顔を見せる。純粋に、初めて出会う人間を心配し、大事が無かったことを喜ぶ表情。一瞬そんな彼女に見とれ、それから僕はぎくしゃくと歩き出した。
「シャツ、洗ってくる」
「水彩で良かったな。きっちり流水で洗っておけよ。すぐ染みになるから」
 加藤の妙に具体的なアドバイスを背中で聞きながら、美術室の端にある流しで袖口をすすいでいく。目の前の窓から見えるのは、グラウンド。学校の敷地を囲うフェンス。フェンス越しの街路樹は、秋だというのにまだ緑の葉を茂らせている。そしてその向こうには民家。遠くで山の稜線がぼんやりと存在を示し、空には夕日が落ちていた。
 無意識のうちに、手のひらを夕日に透かしてみる。赤く流れるのは、僕の血潮。けれどそのまま視線をずらし袖口を見てみれば、そこに飛び散るのは鮮やかな青い、青い空の色。
「どこが、血?」
 小さく自問すると、そっと後ろを振り向く。けれど彼女の姿はすでになく、加藤が本日の自主的課題、円柱とリンゴの続きをスケッチブックに写しているだけだった。
「加藤ー」
「ああ?」
 面倒くさそうに加藤が返事をする。
「今の、誰?」
 その問いに顔を上げると、加藤は目をしばたかせる。
「お前、知らないで話していたの?」
 そして愉しみをこらえるように、にやりと笑った。


 僕、古川隆志が美術部に出入りするようになったのは一ヶ月前、一枚の絵に出合ってからだ。
 文化祭で展示された美術部員の絵。それに、一目で惹き込まれた。
 校舎の窓から校庭を眺めた油彩の風景画。毎日見るありきたりの景色なのに、夕日という色をまとったそれは、なぜか胸が苦しくなるような切なさを湛えていた。真っ赤に染まる世界。放課後の静寂。ふと足を止め、ため息をつく瞬間。誰にでも覚えのある、そんなひと時を呼び起こす絵。
 同じクラスの加藤が美術部の部長をやっていると知って、もう一度絵が見たいと言ってみた。以来なぜか毎週水曜日、加藤の自主錬に付き合う形で美術室に顔を出している。
 教室にいるのは加藤と僕だけ。部活として決められた曜日ではなく、また文化祭というイベントも終わったせいか、他に誰もいない。加藤は好きに絵を描いて、僕も夕日の絵を見ると適当に暇を潰して、飽きると帰る。そんな中で、初めて加藤以外の生徒とこの教室で出会ったのだけれど。
「あれ、お前の目当ての絵を描いた子だよ。二年F組の木谷紗代」
「きや、さよ?」
 初めて聞く名前を間違えないように、聞き返した。A組の自分からは、F組の生徒はひどく遠い。初めて知るのも仕方なかった。
「あの子が、描いているのか」
 先ほどの慌てた表情を思い出す。自然と目線は袖口へと降りていって、そして疑問を発していた。
「なんで、血と間違えたんだろう」
 暇つぶしの一環として、気まぐれに絵筆を握った。高校に入ってからの選択授業は音楽。この一年半ですっかり絵に対する知識や常識は忘れ去り、だから加藤から与えられた画用紙にいきなり絵筆をのせてみた。その色が青だったにもかかわらず、あの反応。
「木谷のほかの作品、見てみるか?」
 自分のスケッチブックをぱたんと閉じて、加藤が立ち上がる。円柱とリンゴを準備室に戻す傍ら、加藤は何枚かのキャンバスを持ってきた。準備室を往復しつつ無造作に並べられる作品たち。水彩油彩を合わせて十枚ほどの絵画は、皆一様に繊細な色をまとっていた。赤、青、黄色、緑、紫、オレンジ。多種多様な色を使い分け混ぜ合わせ、世界を表現してゆく。
「凄いな」
 それしか言えず、あとはただ作品に見入るだけだ。
「木谷にとって色彩は、多分血液と同じなんだよ」
 そうつぶやくように言う加藤の声に引っかかりを感じ、思わず顔を上げて見つめた。けれど加藤は物思いにふけるように黙り込み、それ以上は何も言わない。
「加藤?」
 呼びかけるとふうっと息を吐き出し、加藤はこちらを見返した。いつもの面倒くさそうな表情だ。
「帰るか」
「あ、うん」
 なぜだかそれ以上は聞き返せず、うなずいた。

 そして一日置いた金曜日、木谷の姿を校舎で見かけた。
 同じクラスの女子と一緒に、話しをしながら渡り廊下を歩いている。隣の友達の語る言葉に聞き入り、はじけたように笑い出し、一緒に声をそろえて何かを叫び。くるくると表情を変える彼女を、遠くからただ見つめる。
 一度認識したせいだろうか、月曜日にも彼女を見かけた。そして火曜日。彼女の姿を見かけることが出来ず、なぜかぽっかりと穴が空いたような気分になった。彼女のことが、気になって仕方ない。初めて会った僕の事を、怪我をしたのではないかと本気で心配していた彼女。今は僕の方が心配している。また机にぶつかっていないだろうか。転んでいないだろうか。そして、血を流していないだろうか。

「あれ? 加藤君は」
 水曜日。美術室の引き戸が開く音ともに、女の子の声が背後から聞こえた。慌てて振り返ると、そこに木谷が立っていた。
「呼ばれて生徒会室へ。何か用?」
 なぜかどきどきしながら、それでも平静を装って聞いてみる。木谷は首を横に振ると、僕を見てにっこりと微笑んだ。
「ちょっとね、頼まれていることあったから。それよりも、先週の絵の具つけちゃった人だよね。あの後大丈夫だった?」
 覚えてくれていたんだ。
 単純に、そんなことで嬉しくなる。
 僕は先週と同じように袖口を振ると、うなずいた。
「すぐに流したから、染みにならなかったよ」
「良かった」
 もう一度彼女は微笑むと、僕を通り過ぎ窓に向かって歩いていく。そのまま窓を開けると、涼しい風が入ってきた。中途半端に横にのけられていたカーテンが、風に舞う。
「私ね、ここから見る夕日が好きだったんだ」
 窓際の棚の上に腰掛けて、木谷が言う。夕日に照らされ、映える横顔。けれどその陰影からは、何か暗いものが滲んでいた。僕は何か話さなければいけない気がして、言葉を探す。
「君の夕日の絵、見たよ。毎日眺めている風景のはずなのに、こんな景色だったんだって思えて、なんか面白かった」
 たどたどしい話し方に、恥ずかしくなってくる。人の造ったものにこんな風に感想を述べるなんて、しかもその当事者に面と向かって言うなんて、初めての経験だ。
 木谷は返事をすることなく、ただじっと僕を見つめていた。続きを促されているようで、少しずつ焦ってくる。
「あれから加藤にお願いして、毎週あの絵を見させてもらっているんだ」
「そう、なんだ」
「あ、今まで黙っていて、ごめん! 作品があるってことは、描いた人がいるってことなんだよな。今までそういうこと思い至らなくて」
 喋れば喋るほど、焦りが増してゆく。もはや自分が何を話しているかも分からなくなってきた。木谷はそんな僕を安心させるように、くすりと笑う。けれどその表情からは、先ほど感じた影が消えることはなかった。
「他の作品も、先週のあの後、初めて見たんだ。凄いね。次の絵も楽しみにしている。次はどんな」
「次は、無いの」
 硬質な声に断ち切られ、僕の言葉はそこで終わってしまった。
「あの絵、気に入ったのなら、あげる」
「え? でも」
「私には、もう不要なものだから」
 木谷は僕の顔を見ることなく、素早く立ち上がると小走りに去っていった。僕は戸惑ったまま彼女の出て行った引き戸を見つめるだけだ。廊下から加藤の声が聞こえる。多分すれ違ったのだろう、木谷のことを呼んでいた。
「隆志、あいつどうしたんだ?」
 眉をひそめた表情で、加藤が教室に入ってくる。
「良く、分からない。次の絵も楽しみにしているって言ったら、次は無いって言って」
「そうか」
 加藤は僕の近くの椅子に座ると、思い切り息を吐いた。しばらく黙り込むと、ふいにこちらを向いて話し出す。
「あいつ今、休部中なんだよ。急に描けなくなったって言い出して」
「描けない?」
「あいつの絵、凄いだろ? コンクールにも出展して、何度か賞も取っているんだ。だからまわりも次第に期待するようになってさ。描くのが当たり前、凄い作品出してくるのが当たり前って、いつの間にかなってしまったんだよな。けれど夏休み、先輩があいつの作品を徹底的に酷評して。それから、描けなくなってしまった」
「妬みじゃないのか、それ」
 あまりにも分かりやすすぎる話の展開に呆れて、聞いてみる。加藤はあっさりとうなずくと、肩をすくめた。
「周りがたとえ、あれはただの嫉妬だといったところでさ、一度傷付いてしまったものは無かったことに出来ないんだよ。逆に描けなくなったことで、周りが自分に対してどれだけ期待しているのか、木谷は気付いてしまった。で結局、本人からの申し出があって、二学期からずっと休部中。あの夕日の絵を描き上げてから、木谷の手は止まっている」
「ここへ来たのは?」
「俺が美術部の部長で、木谷が副部長。それとお互い美化委員っていうのを合わせて、用件押し付けてここまで呼びつけてた。絵を描かなくても、美術室に来るまで否定されたくないってのがあったし」
 そこまでを語ると加藤は大きく伸びをして、「どうしたもんかなー」と呟いた。僕はさっきまで彼女が見ていた窓の外、夕日に映えるグラウンドをじっと見つめる。僕のこぼした空の色を、血と間違えた彼女。心配そうな表情。安心したように微笑む顔。目の前の夕日。絵の中の夕日。
 ぎゅっと手を握り締めると、決意をして加藤に向かった。
「お願いがある。絵を教えて欲しいんだ」
 加藤は一瞬何を言われたか分からない様子で僕を見返し、それから面白そうににやりと笑った。


 一ヶ月が経った。
 木谷はあれ以来美術室を訪れることも無く、日々は過ぎていった。季節はもうすっかり冬めいて、僕はぼんやりと外の夕闇を眺める。放課後の美術室、窓際の棚の上。一月前と同じ場所同じ時間帯から眺めているのに、外はすっかり暗くなっている。
 ガタン。と音がして、人が入ってくる気配がした。
「加藤君は?」
 遠慮がちな声に、僕が振り向く。
「加藤はいないよ。呼び出したのは、僕」
「えっと、隆志君が?」
 苗字ではなくいきなり名前を呼ぶあたり、加藤に教えられたのだろう。それにうなずくと、僕は木谷を見つめた。緊張して、心臓がばくばくといっている。手には汗。それでも何てこと無いような顔をして、話し始める。
「木谷さ、一月前の初めてあった時、青い絵の具を見て血と間違えただろう? あれがずっと不思議で理由を教えて欲しくて、だから今日、ここに来てもらったんだ」
 その途端、木谷が動揺したようにびくりとする。あっという間に赤く染まる頬。木谷は僕と目を合わせないように目線を落とし、まるで言い訳をするようにぼそぼそと呟いた。
「あれはとっさにそう思い込んだだけで……。自分でも変なこと言っちゃったなって思ったけど、二人とも突っ込まないで流してくれたからこっちから言い訳するのもおかしな感じだったし」
 そこで言葉を切ると、ちらりとこちらを見つめる。僕は何も返さず、彼女の次の言葉を待っている。不思議な言動を茶化すつもりは無く、ただ本当に理由を知りたいだけ。木谷は僕のそんな態度に気が付くとしばらく迷ったように視線を彷徨わせ、それから真っ直ぐこちらを見据えた。
「イメージが、浮かぶの。いつもはもっと捕らえどころが無くて、描くうちに定まってくるんだけれど、あの時は違っていた。私の中では、あれは例えどんな色をしていようとも血だったの」
 まるで挑むかのような言い方。でもそれは、僕の問いにはぐらかすことなく答えてくれた証拠なんだ。
「教えてくれて、ありがとう」
 僕はそう言うと棚から降りた。そして足元に立てかけておいたキャンバスを持ち上げる。けれどまだそれを差し出す勇気がもてなくて、戸惑う木谷に向かい、言葉を続けた。
「何で正反対の色なのに、血と間違えたんだろうって、加藤に聞いたんだ。そうしたら、木谷にとって色彩は多分血液と同じなんだよって、あいつ言って。最初、その言葉の意味が良く分からなかった。けれど木谷の絵を見ているうちに、だんだんと腑に落ちてきたんだ。血って自分の中を流れる、無くなると死に至る大切なものだよな。木谷にとって色彩は、そして絵は、それくらい大事なものなんじゃないのかなって」
 自分の想像が合っているのかうかがう様に彼女を見るけれど、無言のままだ。こちらをただじっと見詰めている。そんな視線の強さに覚悟を決めると、僕はようやくキャンバスを彼女に差し出した。
「木谷が血と間違えた空の色を使って、僕も何か描いてみたくなったんだ。……見てくれる?」
 尋ねているのに言い終わる頃には木谷の顔を見ることができなくなっている。視線を反らしたまま、片手で差し出したキャンバス。彼女がそれを両手で受け取り、じっと見つめるのを横目で捕らえた。
 しばらく続く沈黙。そろそろ恥ずかしさからわめきたくなってきたところで、息を吐き出す気配を感じた。
「これ」
「海。夕空に対抗して青空っていうのもちょっとなって思って、海にした」
 キャンバス一面に僕が描いたのは、海原。水平線や灯台も無い、ただ水面に波形の広がる海原。右上にぽつりと黄色く浮かぶのは、吹き飛ばされる風船の姿。
「デッサンとかちょっとやってみたんだけど、上手く描けない分嫌になってさ。とにかく色を使ってみたかったから、下書きをなるべくしないで描ける絵になったんだ。あの、風船、海に落ちているんじゃなくてちゃんと宙に浮いているんだけど、分かる?」
「うん、分かる」
 その言葉にほっとして、ようやく彼女と向き合う。木谷はとても真剣な表情で、僕の絵を眺めていた。
「描いているとき、ずっと夕日の絵を思い描いていた。あんな風に描きたいと思って。でも、僕にはこれが精一杯だった。そして木谷の絵をもっと見たいと思ったよ。木谷にしか描けない、木谷の絵がもっと見たい」
 どれだけの気持ちが伝わるのだろう。分からなかったけれど、それでも今のありったけの思いを込めて言ってみた。木谷はまだ絵を見つめたまま、何も言わない。
 もしかして、自分の行動で彼女を追い詰めてしまっただろうか。
 そこに思い至ると不安になる。慌てて絵を取り戻そうと手を掛けた。
「迷惑だったよな。ごめん」
 けれど木谷は勢い良く首を振ると、キャンバスを握り締める。
「この絵、もっと見ていたい」
 予想外の言葉に、一気に焦った。
「いやだって、下手だよ、それ」
「でもこれ、隆志君の血が描かれている。血、なんだよね。何でそれに気が付かなかったんだろう。馬鹿だな、私」
 内面の呟きのような言葉。けれどその言葉から、彼女の心が一歩動いたのを感じた。
「……そんなので良ければ、やるけれど」
 思い入れたっぷりに描いたのはいいけれど、かといって別に飾る予定も無い。それならばと試しに言った程度なのに、木谷はぱっと顔を輝かせ、僕に向かって深々とおじぎをした。
「ありがとう。大切にするね。私の絵は、……もうちょっと待っていて。でも必ず描くから」
 そして彼女は準備室から手提げの紙袋を探し出すと、僕の絵を大切そうにしまいこんだ。そしてもう一度「ありがとう」と言って、去ってゆく。
 僕は彼女が出て行った引き戸を見つめながらイスに腰掛け、無駄に力の入っていた体をほぐすように伸びをした。

「どうだった?」
 しばらくして、加藤が教室に入ってきた。
「絵、描くって」
「そうか」
 それだけ言うと、加藤は僕の目の前に座る。
「ありがとうな」
 短い言葉。けれど照れ臭い、感謝の言葉。今日はやたらに聞いたり言ったりしている気がする。けど、
「美術部のためにやったわけでも、お前に頼まれたからやったわけでもないぞ」
 僕はただ、木谷の絵を見たかった。木谷の絵を見て、彼女の発想に触発されて絵を描いた。それは本当に、ただそうしたかっただけの話。
「分かっているよ」
 そこで加藤は話題を変えるようにああと呟くと、急に口調を軽くして聞いてきた。
「それで、告白はどうなった?」
「はぁ?」
 何を言われているのか分からず、反射的に聞き返してしまう。告白って、誰が誰に?
「絵心の無い人間が急に決意をして、一ヶ月間地道に絵を描いていたんだ。そこに何かしらの目標があったんだろ? で、木谷とはどうなった」
「知るか!」
 鼓動が一気に早くなり、顔が赤くなる。この自分の反応、つい今さっき誰か他人で見た気がする。流して欲しかったところをわざわざ指摘されてうろたえていた、そうだ木谷だ。
 彼女の顔を思い出し、いっそう顔が火照るのを自覚した。
「で?」
 迷惑だと僕が態度で示しているのを気にもせず、にやりと楽しそうに微笑む加藤。何がどうであっても、本心を聞き出したいらしい。
 僕は諦めてため息をつくと、短く宣言をした。
「……とりあえず、トモダチからはじめるよ」
 一瞬の間。そして、
「ヘタレが」
 加藤が思い切り呆れた表情で呟いた。