遠征の碑文

イングランド遠征、イングランドでのデーンゲルド(税)の徴収の話などもルーン石碑に登場する。歴史学的にも非常に重要な石碑である。

ヴァイキングの遠征を語る石碑は約200個あり、その三分の一が英国遠征を語るものであると言われている。スウェーデンの石碑がヴァイキング時代後期のものが大多数であるため、スウェーデン・ヴァイキングの英国遠征を描写する石碑は1000〜1050年と後期に限られるのである。イギリスが直接的に彫られた石碑は25石以上の及ぶと言われている。

イギリスに向かった者達はÆnglandsfari「イギリス遠征者」、東方に向かった者達は、Grikkfari「ギリシャ遠征者」、Æistfari「エストニア遠征者」等の呼称で石碑で現れている。

イングランド言及の石碑

ウップランド

U344

ロシア言及の碑文

ロシアはサガやルーン碑文ではガルザリーキ(Garðaríki)という語で登場する。ガルズル(囲い地)のリーキ(支配領域、国)である。ガルザリーキとくればロシアと理解してまず差し障りがないのだが、逐語的な意味合いもある。古代北欧人はこの名は元々はフランク帝国の沿岸の街を示すのに用いていたと思われる。
 サガや石碑で地名が登場する場合、方向も同時に言及される場合が多々ある。多くの場合はガルザリーキはaustr「東」と結びつく。この場合は東方のガルザリーキ、つまりロシアである。vestr「西」のガルザリーキという表現もある。ユングリンガ・サガ5章にその語は登場する。

Fór hann fyrst vestr í Garðaríki ok þá suðr í Saxland.
彼(オージン)はまず西方のガルザリーキに、そしてそこで南方のサクソランドに旅をした。

西方のロシアでは話が通らない上に、南方にサクソランドが控えているため、これはフランク王国の沿岸部を示すのである。ガルザリーキという語の言及は10世紀後期まではフランク王国の沿岸部を指していると推測されるであろう。しかし10世紀後期〜11世紀にロシアの状況が大きく変わり、ヴェーリングとロシアの関係も大きく変わる。ヴァルデマール(ウラジミール。西暦970年〜1015年)とヤリスレイヴ(ヤロスラウ賢公。西暦1010年〜1054年)の登場である。キエフ・ロシアは大きな街の国、つまりガルザリーキになるのである。11世紀の北欧の見識者にはGarðrとGarðarの2つの語が知られており、そして大ノブゴロドは東ガルズと言われた。(Omeljan Pritsak 1981)

セーデルマンランド

Sö148


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