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= 死と弔い =
イングリンガ・サガとイングリンガ・タル


ユングリンガ・サガ(イングリンガ・サガ)とユングリンガ・タル(イングリンガ・タル)中に登場するシーンで現実に存在する場所や物と一致する場所があります。文献に登場する部分を闇雲に実際の地名と結びつけようとか、文献に何かキーワードが隠されているのではないのかとかというダ・ビンチなコードな謎解きは私自身が好むところではないので、文献の文章はそのまま文面どおりに解釈しております。実際コードが隠されているのかもしれませんが、それを言い出すと収集がつかなくなってしまいますし・・・。

サガやスカールド詩は創作であるので現実と重ねるのは意味がないと思われる方もおられるかもしれませんが、これらに歴史的史料があると立証することができないように、全く事実が残されていないと立証するのも不可能です。おおよそユングリンガ・サガやユングリンガ・タルは移住時代、ヴェンデル時代頃の設定です。

10000 - 4200 Mesolithic
4200 - 1800 Neolithic
1800 - 500 Bronze Age
500 - 0 Pre Roman Iron Age
0 - AD - 375 Roman Iron Age
375 - 550 Migration Period
550 - 800 Vendel Period
800 - 1100 Viking Age
- 1500 Middle Age

ただ、こんな見方もありますよ、というお話です。

注・若干、不安げなところがありますので、随時修正と追記をしていくつもりです・・・。


イングリンガ・サガ中のショーゾールヴの詩(イングリンガ・タル)

スノッリのヘイムスクリングラの冒頭にはハラルド美髪王のスカールド詩人のフヴィンのショーゾールヴが、ハールヴダン黒王の義兄のオーラヴ・ゲイルスタジル・アールヴの息子の高名なるラグンヴァルド王について作った詩をユングリンガ・タルと称すると既述されている。ユングリンガ・サガはこの詩や他の先人の詩を挿入して散文形式で広げられる壮大な神代の物語である。
そしてユングリンガ・タルは彼の祖先の30名の故人とそれぞれの埋葬地について述べられているとしている。スノッリは最初の時代は火葬の時代とし、故人を火で弔い、その記憶に記念碑を築くとしている。しかしこの時代の後、フレイはウプサラの塚で土葬で埋葬され、多くの首領らは親族のために記念碑を建立し、塚を作ったとしている。やがてデンマーク王ダンは自らの手で塚を作り、あの世のための武具や馬や馬具やその他の物品を副葬品とさせ、彼の一族の多くは同じようにし、これがデンマークの塚の時代の始まりとなる。しかし火葬の時代はスウェーデン人とノルウェイ人の間で長く続いたのであるとスノッリは述べている。

※なお写真は博物館内のものについては博物館のスタッフに声をかけて撮影可であることを確認後、指示に従って撮影したものです。撮影不可の場所での撮影は含まれておりません。


= Fornsigtuna =
古シグチュナ

ユングリンガサガの5章でオージンは古シグチュナであるメーラレン湖畔に住まいを置いたと書かれている。メーラレン湖を挟んで現在のシグチュナの対岸にある。オージンはあたり一帯を征服し、そのため自らの住まいをシグチューナ、勝利の囲い地、勝利の町、と名付けたと記されている。

 
フォルンシグチュナの入口にあるプレート

別段、牛を放つでもなく、羊を放つでもなく、ただ囲われた保存地であったため、草が自由に生い茂り、歩きにくいわ、どこが史跡なんだか、どこが遺跡なんだかわからない状態でした。現状、ここは専門家、歴史の先生などと一緒に行って解説をしてもらわないとなんのこっちゃかわからない史跡です・・・。イメージ一杯膨らまして行っただけに驚きました。草の丈も長く歩くのにもツライ史跡です。

= Nordians hög =
ニョルドの塚

ユングリンガ・サガの9章ではニョルズの死と埋葬について描写されている。ノーアーチュンのニョルドはスウェーデンを支配し、供犠を行っていた。彼の時代は実り多く、ニョルドは寝床で息を引き取った。スヴェアの民はニョルドを荼毘に付して埋葬したのである。

シグチュナ・コミューン(シグチュナ市)のアーランダ空港から4キロほどの場所にある埋葬塚。考古学上は5,6世紀頃のものである。約50mの直径と12mの高さのある塚。ニョルズの埋葬塚と伝説的に伝わっている。

= Fyris =
フィーリス川

ストックホルムの国立美術館にはドーマルディ王の死をモチーフにした1896年のCarl Larsson の冬至の供儀という巨大な壁画が展示されている。これはユングリンガ・サガの15章で描写されており、ウプサラに飢饉が起こり、王を生贄に豊穣を祈願する供儀が行われた。その王の後を継いだ息子のドーマルの時代には豊かな季節が続き、この王は長く統治した。そして彼は寝床で息を引き取った後、フィリス川の土手(川床と理解される場合もあるようですが、川床でどうやって荼毘に伏すのだろうか・・・)で荼毘に付された。その場所がどこかは判りませんが、上記はウップサラの市内に流れ込んでいるフィリス川の様子です。そしてこのフィリス川の周辺に埋葬されたと描写されている。

直接、ユングリンガ・サガやユングリンガ・タルで言及されてはいないが、ガムラ・ウップサーラから北に直線距離で2キロの場所にヴァルスヤルデという墳墓がある。6,7世紀頃の王クラスの墳墓で、フィリス川のそばにある。ヴェンデル時代と思われる。

= Alrekr ok Eiríkr =
2人の兄弟は馬の道具で死にました

ユングリンガ・サガの20章、ユングリンガ・タルの10章で、アルレクとエイリークの2人の兄弟の死について書かれている。遠乗りに2人で出かけ互いに血まみれになって死んだのだが、彼らは武器は持っておらず、武器になるようなものは馬具のみであった。この当時はなかったわけではないが、ヨーロッパではまだ鐙が定着していない。スノッリのユングリンガ・サガでは明確に本文中に bitlana (bitill) とあり、馬具のハミ (horse bit) を示している。ユングリンガ・タルの方では頭絡の項革(head-piece)(haufuðfetlum : höfuð leður(Íslenzk Fornrit XXVI))とされている。私見であまりにも裏づけがないので聞き流すがベストなのですが、一般の馬の頭絡 (bridle : ハミを含み、馬の顔に固定する項革、頬革、鼻革で構成されるもの)では殺害に用いることができそうな金属部分は確かにハミだけであるが、王侯のそれは多くの金属製の飾りがある。ヴェンデル等の王クラスの墳墓からはこのような高価な馬の頭絡が発見されている。項革は耳の後ろにくる革です。以下はヴェンデルの墳墓から発見された王侯の頭絡です。

 
ヴェンデル時代の頭絡。鍍金がほどこされた銅製。Vendel kyrka 内の展示室のパネルから。

ちなみにハミ、いわゆる日本で言うところの水勒ハミは以下である。


ストックホルムの歴史博物館のヴァイキングのコーナーに展示されている。
ヴァイキング時代のコーナーといいつつもヴェンデル時代も展示されている。

ハミは馬を扱うための道具としては最も古く、3500年ほど前に金属製のハミが発案されて以後、機能は変わらず、形状もほとんど変わっていない。馬を制するのに最も必要なものである。

このハミで王家の兄弟が殺害しあうのはどうも絵面的に地味である。個人的に豪華な馬の頭飾りでの殺害の方が絵図的にいけているような気がしますがいかがでしょうか・・・。最も、しっかりとした金属部というのはハミになり、革を振り回しての殺害であれば、ハミの可能性が最も高いと思いますが。

ちなみにガンムラ・ウップサーラにある博物館は写真撮影が不可であったので、全くここでは紹介できませんが、クングスホガルやヴァルスヤルデ等の遺物の紹介があります。視覚に訴える博物館でイメージが湧きやすくお勧めです。ここでは復元された豪華な馬の頭飾りが展示されており、ユングリンガ・タルで描写されている数々の王の死について解説がありました。そしてここではこの2兄弟の殺害の道具を bridle つまり頭絡と訳しております。ひじょーに懸命な見解です。事実がハミであろうと上記の馬の頭飾りであろうとそれら全てを含むものが頭絡である。

また、この描写は他のサガにも書かれている。ガウトレク(王)のサガ(Gautreks saga)の7章に登場する。

Alrekr konungr varð skammlifr, en þat varð með þeim atburði, at Eirekr konungr, bróðir hans, sló hann í hel með beisli, er þeir höfðu riðit at temja hesta sína. Eftir þat réð Eirekr konungr einn Svíþjóðu lengi síðan, sem enn mun síðar sagt í þessi sögu af samskiptum þeira Hrólfs Gautrekssonar.

ここでは頭絡(beisl)で殺害とかかれており、内容はユングリンガタルと異なり、アルレクが殺害され、エイリークが単独王となり長らく統治したとある。この後の話は盾乙女のソルンビョルグの父であるロルフ王の伝説的サガのロルフ・ガウトレクスソンのサガに続くのである。(盾乙女:ヴァルキューレ、ワルキューレの名で有名な戦死者を選別してヴァルホッルに連れて行く乙女のこと。伝説的なサガやデンマーク人の事績でよく登場する。他、ゲルマン系での伝説(ゴート、マルコマンニ、キンブリ)にも登場する。)

= Kungshögar =
ガンムラ・ウップサーラの王たちの塚

有名なガンムラ・ウップサーラの墳墓。ストックホルムからSLで40分ほどの場所にあるウップサーラの町から北へ4キロの場所にある。

ユングリンガ・サガでは豊かなウプサラが描かれており、ここで多くの供犠の儀式が行われた事が描写され、この地にあるガンムラ・ウップサーラ教会は古代の異教時代の神殿の跡に建っているとされている。

3度も足を運んでなぜこんな中途半端な写真しかないのかと情けなく・・・。実は手前のフットパスをずっと数百メートル歩いて行くとこの3つの墳墓はもちろん小さな墳墓まで綺麗に入り、背後にある教会の上部が入るといういいアングルが撮れる。しかしながらへたれの私は3度ともそこまで歩いて行かず手前の悪いアングルです・・・。ちなみに今回の2005年では3つめの墳墓の頂上に記念碑(?)の当時のコスプレをした人形が10体ほど空を仰いでいました。何のイベントかわかりませんし、いつまで乗っているのか判りませんが・・・軽く驚きました・・・。

初世紀頃からすでに埋葬地として利用され、その数は2、3千もあるといわれているが、現在は約250個が残されるのみである。5〜6世紀頃が最盛期となり、ここにウプサラの王たちの遺物が残されている。3つの大きな墳墓の遺物から(中央の墳墓は未調査)6世紀頃の王クラスの墓であると理解されている。これらの墳墓は西暦475年〜580年頃に時代づけされる。そしてユングリンガ・サガやユングリンガ・タルでおおよそこの時代で活躍したであろう王、アウン王、その息子のアジルス王、アジルス王の孫のエギル王がその主であろうとされている。アウン王はウプサラあたりに埋葬され、エギル王もウプサラあたりの塚に埋葬され、アジルス王はウプサラで死に、そこに塚があるとユングリンガ・サガで描かれている。もちろんこれはユングリンガ・サガやユングリンガ・タルが事実であるかどうかの検証、その墳墓が本当にそれらの王のものであるかの検証と2重の検証が必要である。

= Ottarshögen =
オッタルの塚

上記の文章で、アジルス王からその孫のエギル王にとび、間の王の墳墓がないと気付かれたかもしれません。その間の王、オッタルはウップサーラから24キロ北に埋葬されている。オッタルの塚と聞いてもぴんとこないかもしれませんが、別の言い方をすれば知っている方は多いと思います。別の表現はこの墳墓のある地名、ヴェンデルの墳墓である。この墳墓からヴェンデル時代の名前が由来する。

この墳墓の回りも他の王の墳墓と同様に小さな埋葬塚がたくさん存在する。移住時代から700年間、埋葬地として利用されたと思われる。ここからは6世紀初期に埋葬された男女の骨が発見された。

ユングリンガ・サガではオッタル王はデンマークのフロージ王と不仲であった。オッタル王はフロージ王がデンマーク不在の時、デンマークのリムフョルドのヴェンデルを襲撃し、フロージのヤールと戦って戦死した。そしてデーン人はオッタル王の亡骸を海岸に運んで野ざらしにしたので、獣や鳥に食われてばらばらになったと描写されている。しかしながら実際のオッタル塚の遺物の様子ではばらばらになった様子もなさそうである。もちろんこれもオッタル王が存在したか、実際にオッタル王の墳墓かという2重の検証が必要になるのであるが。

オッタルはユングリンガ・タルに登場するだけでなく、他の文献でも登場する。古英語詩のベーオウルフに登場する。Ohþere オーホセレである。オーホセレはシュルヴィング(スウェーデン)王でオネラ(北欧:アーリ)という兄弟がおり、彼がオーホセレの後を継ぐ。オーホセレの息子はエーアンムンド(北欧:エイムンド)とエーアドイルス(北欧:アジルス)である。この兄弟がおじのオネラ王に反旗を翻し、庇護を求めてイェーアトのヘアルドレード王のもとにくる。ヘアルドレード王は内紛に巻き込まれて、討死し、オネラ王が引き上げた後、ベーオウルフが王位を継ぐことになる。後にベーオウルフはエーアドイルスの反撃を支援し、オネラ王を倒すのである。恐らく6世紀頃に起こったことであろうと推測される。

ユングリンガ・サガの29章でもこれらの描写がある。ノルウェイのウプランド人のアーリ王とアジルス王は長らく衝突していた。彼らはヴェネル湖で戦い、アーリが戦死し、アジルスが勝利を収めた。またこれらの戦いはスキョルドゥンガ・サガに描写されているとしている。

= Anundshögen =
アヌンドの塚

ヴェステロース郊外にあるアヌンドの塚。有名なルーン石碑も立ち、周辺には遺跡が多くある。スウェーデン最大の墳墓で、14メートルの高さで60メートルの直径がある。ユングリンガ・サガの33章で登場する。彼は森を切り開き、公道を作ったとされている。そして「道の」アヌンド王と呼ばれ、この塚はアヌンドの塚と伝説的に言われている。前にある11世紀のルーン石碑は全く関係のないものでヴァイキング時代後期のものである。考古学的にはアヌンド王と10世紀のこの墳墓は時代が異なり、関連性はない。

= Uppsa kulle=
悪名高きインギャルド王の墓

ユングリンガ・サガによるとアヌンド王の息子にインギャルドという者がいた。彼は幼い頃、強くなるために狼の心臓を食べさせられ、それ以後、強くなり、激しい感情の持ち主となった。彼は父王アヌンドの葬儀に7名の王とヤールらや有力者を招待し、その葬儀に参加しなかったセーデルマンランドのグランマル王以外の6名の王を新しい館で焼き殺し、それらの王の王国を取り込んだ。彼の娘のアーサも気性が激しく、スコーネのグズレズ王に嫁いでいたのだが、夫の兄弟のハールヴダン王はもちろん、夫も殺害した。彼女はハールヴダン王の息子のイーヴォルと敵対し、イーヴォルが軍団を率いて進軍していることを聞き、それに対等する兵力はないと判断した。父王インギャルドとアーサは自らの臣民を泥酔させ、館に火を放ち、臣民共々インギャルド王とアーサは灰となった。

そしてこれが悪人のインギャルド王(OI : Ingjald illráða)の墓と伝えられている塚である。セーデルマンランド最大の墳墓のウップサクッレの周辺も古くは後期鉄器時代からの埋葬地で、11世紀ごろまでその歴史が続いている。

灰となった王の墓である・・・。まぁ、かつてはそう伝えられているということで・・・。