オーディンの娘

第一章  邂逅


その一

「見えた?」
「まだ。」
 ひそやかなささやき声。崖の縁沿いに二人の少女が伏せている。
 曇った空。
 初夏だというのにどんよりとしていて、太陽は決して姿を現そうとしない。後ろにそびえるのは切り立った山々。岩肌にはまだ雪が残っており、そこから吹く風は冷たく乾いている。
 視線を地上に転じてみれば、そこだけは唯一夏らしく草が生い茂る平野が広がっていたが、なぜかおびただしい幾百人もの血が染み広がっていた。
 そしてその地の先端で腹這いになり、油断無く海を見つめる少女たち。
「来た!船団だわ。一、二、三……。ゆうに十隻以上ある。あんなに大きくて立派な船団、私今までみたことない。」
 興奮を抑えきれない口調の少女。もう一人はその説明を聞きながら、後方を素早く見渡している。
 この場所は血の臭いにあふれている。いつまでもここにいることは出来ないだろう。
「ヘルギは、彼の姿は見えた?」
 後方を見つめたままの少女が、短く聞いた。少しじれたような口調。そこから彼女の内心の焦りが伺える。
 船団を見つめる少女はさらによく目を凝らすと、ふいに指をまっすぐ先頭の船の舳先に向かって指し示した。
「ほら、あそこ。二人いるうちの右側。ね、シグルーン。見えたでしょ!」
 その言葉にシグルーンは振り向くと、しばらく無言で舳先を見つめてからつぶやいた。
「右って、ヒルド、あの人まだ……若いじゃない。」
 今まで保とうと努力していた緊張感が、ふっつりと途切れた顔。その表情はもう一人の少女よりもややもすると幼く見える。そしてこの言葉がヴォルスングのヘルギを初めて見た、シグルーンの感想だった。


 ここは、戦いの支配する北の世界。
 神々と人はまだ離れておらず、万物の神、神の中の神オーディンは戦いを司り、すべての人の父として君臨している。ヘルギの生まれたヴォルスング一族は、その神の直系の子孫として名をはせていた。
 さすがに半神の一族だけあって、この家の者には英雄として名を残す人物が数多く存在する。例えば現在一族の長として、フラクランドを治めているシグムンド王。彼などは一度奪われた自分の国を奪い返したことにより、まだ在位中だというのにすでに伝説の英雄扱いだ。
 そしてその名家の中でも一番の猛し者と謳われているのが、シグムンド王の息子であるヘルギだった。この平野がこうして血に染まっているのも、ヘルギ率いるヴォルスング族がフンディング族に戦いを挑んだからだ。
 
 それなのに、ヴォルスングの有名な王位後継者がまだ髭も生えていない、自分たちより少しばかり大人だというだけの男なのが、シグルーンには納得がいかない。

「だって仕方がないでしょう?神様の血を引いている一族は、年をとるのがゆっくりだという話だし。それに今回の戦では、あの姿が役に立ったのよ。」
 ヒルドのなだめるような話しぶりに、シグルーンはゆっくりと顔を向ける。
「役に?」
「そう。偵察の途中でフンディング王に追いつめられたヘルギは、下女に化けてその場を何とか逃れたの。ま、髭面じゃあ出来ない芸当よね。」
 口元に笑いを浮かべ、上目遣いに見つめるヒルド。その視線にさらされて、シグルーンもたまらずに微笑み返す。
「そしてヘルギは兵をとって引き返し、この地で戦い、フンディング王を倒しました。」
「そういうこと。」
 クスクスと少女らしい笑い声がわき起こったが、それもすぐにこの血に染まった平野に吸い込まれた。見てみると、彼女たちの手にも頬にも赤黒い戦の印がこびりついている。怪我などは無いようだったが、体には血の臭いが染みついていた。
 山からの突風に、木々のざわめく音が広がる。
「そろそろここも、危ないわね。」
 ふと我に返ったように、眉をひそめヒルドが言った。
「いくら死体は片づけたとはいえ、これだけ派手に汚れていては、ね。」
 ため息混じりに言葉を返す、シグルーン。
「ね、この後どうするの?後は屋敷に帰るだけ?」
「そのつもりだけど、でも、」
 迷うように振り返り、山際に鬱そうと生い茂る森を見つめる。これだけの血の臭いがしているのなら、狼も直にここにやってくるはず。いつまでもぐずぐずはしていられない。それは分かってはいるものの、このまま素直に帰る気にもなれない。
 だが、彼女の目に飛び込んだのは狼などではなく、木々に阻まれながらもこちらへやってこようとする、馬に乗った戦士の姿だった。男はシグルーンがこちらを振り返ったことにすぐ気が付き、大きく手を振る。
「狼がいるというのに、なんて無茶な。」
 つられて振り返ったヒルドが、あきれたようにつぶやく。
「歩いてきたわけではないから幾分かはましでしょう。それにしても私たちに会いに来るとは……。どうやらまだ、そんなに簡単には家に帰してくれないみたいね。」
 苦笑混じりのシグルーン。ヒルドも肩をすくめると、男に向かって歩き出す。

「このような場所で羽衣をまとい、立っているとは、お二方ともワルキュリエとお見受けしましたが。」
 近づいてきた男は、思ったよりも急いで駆けてきたらしい。肩で小さく息をしながら、それでも礼儀正しい態度は崩さず彼女たちに話しかけてきた。
「いかにも。私たちはオーディンのしもべ、ワルキュリエ。こちらはブランドエイ王の娘ヒルド。私はシグルーン。セヴァフィヨルの王、ヘグニの娘。で、貴公は?」
 臆することなくそう言うと、シグルーンはまっすぐに男を見据えた。
「私の名はヘミング。この地を統べる王の息子、ヘミングです。」
「ああ、あの。」
 例のヴォルスングのヘルギに倒されたフンディング王の息子、と、うっかり言いかけそうになって、シグルーンはあわてて言葉を切った。ヒルドもどうやら同じことを考えたらしく、おかしさをこらえるように肩がぴくりと跳ねる。
 ヘミングはそれに気が付かなかった様子で、かまわず後を続けた。
「ヒルド様がこちらにいたのは聞いていたのですが、シグルーン様までいらしているとはついぞ気が付きませんでした。」
「いえ、私は先ほど合流したばかりですから。」
 軽く受け流すようにそう言ったが、それを受けてさらにヒルドの肩が細かく揺れた。明らかに笑いをこらえている。
 確かに、シグルーンがここにいるのは不自然な話だった。そう。ただ一つの理由を除けば。
「どちらにしても、丁度良い。お二人とも、至急私の館に来てもらえないでしょうか。」
「館に。」
 笑いをごまかそうと、放りだしていた盾を拾い上げていたヒルドの手が一瞬止まる。戦いもすんだというのに戦の乙女ワルキュリエを館に呼ぶとは、尋常ではない話だ。
「父を、……王を看取ってください。戦死者の館ヴァルハルまで送って欲しいのです。」
 ヘミングの口元が、何かをこらえるように歪んだ。
「フンディング王が。」
「はい。ヘルギに一太刀浴びせられまして、それが命取りとなりました。」
 少しの間、沈黙が流れる。
「では、急ぎましょうか。」
 馬の手綱を取り、ヘミングが先頭を歩きだす。シグルーンとヒルドはお互いを見つめると、軽く頷いた。
「ワルキュリエの大事な役目、フンディング王のためにもきちんと果たさなければね。」
 シグルーンのその言葉を合図に、二人は空に向かって大きく飛び跳ねる。とたんに今まで羽織っていた羽衣が翼に変わり、空へと舞い上がった。空中で体制を整えることなく、二人はそのままヘミングの目指す方向へと翼を羽ばたかしてゆく。

 ワルキュリエとは、「戦死者を選び取る者」の意味。
 戦に傷つき命果てる者から勇者を選び、彼らをオーディンの住む天上の宮殿、ヴァルハルへと誘導する乙女のことを言う。また、オーディンの味方する軍に勝利をもたらすため、時には自ら剣を取り戦う役目を担っている。彼女達はそんなワルキュリエの一人であり、そして大抵のワルキュリエがそうであるように、一国の王女でもあった。


「疲れ、たぁ。」
 武具を壁に掛ける間もなくそこらに放り出したまま、シグルーンはベッドに飛び込んだ。
「はぁ。シーツの肌触り、久しぶりー。」
「シグルーン様!そんな汚れたお着物で寝転がるのはお止め下さい!あ、ほらほら、そこ。ああ、そんなに汚して……。」
 乳母の悲鳴でシグルーンはしぶしぶ起きあがる。
 数日間の戦場暮らしから解放され、ようやく久しぶりに自分の館に帰る頃には、シグルーンの着物はすっかり汚れていた。乳母が嫌がるのも仕方ない。
「そこにお着物を用意しましたから、とりあえず着替えて下さいな。」
「これ?ハール。」
 シグルーンが戦場でする仕事は、普通の少女ではこなせない。オーディンの味方する軍を助けるには、並の戦士では太刀打ちできないほどの武力と気迫を要求される。しかも戦の後に、残された仕事が待っている。両軍共の中から死に逝く勇士、既に遺体となった身分高き戦士を選び出し、戦場から運び出してゆくのだ。
 生と死の狭間に我が身をゆだねる彼女に血は染みつき、興奮の冷めぬその目には殺戮の色が浮かんでいる。いくら自分の館に戻り、また平和な生活にシグルーンが戻ろうとしても、戦いによる狂気はそう簡単に鎮まらない。戦に慣れたこの世界とはいえ、いや、慣れたこの世界だからこそ、そんな状態の彼女をあえて相手しようとする者は少なかった。
 そんな中、いつものこととして彼女の乳母であるハールだけが、ただ一人日常と変わらぬ態度で仕えている。
「着替えたら、休んでも良いんでしょ。」
 そういう彼女の顔は、すでに眠たげだ。だが、ハールはシグルーンの要求をぴしりとはねつける。
「いいえ、駄目です。湯浴みしてもらわなければいけませんし。」
「せっかく着替えるのに。」
「それはとりあえずのお着物ですよ。お湯さえ沸いていたらこんな面倒な事しなかったんですがねぇ。ついうっかりして。」
 自分の手落ちに自然に声が小さくなっていく、ハール。シグルーンはここぞとばかりに逃げ出す準備を始めようとする。
「お湯が沸くまでの間の着物って事?いいわよ。私このままで時間つぶしに散歩でもしているから。」
「駄目ですよっ。ここは戦場じゃあないんです。お姫様にそんな格好のままでうろつかれた日には、お父上様になんと申し上げてよいのやら。もう。」
 ハールの勢いに圧倒され、さすがのシグルーンも反論する余地がない。幼い頃に母を亡くしたシグルーンにとって、文字通り乳を与えてくれ母のように慈しんで育ててくれたのがこのハールだ。シグルーンの唯一かなわない相手として、ハールは館の中で有名だった。ゆえに父王ヘグニからの信頼も厚く、王妃亡き後館の切り盛りは実質このハールが取り仕切っている。
 シグルーンはつまらなさそうに肩をすくめると、しぶしぶ新しい着物に手を伸ばした。

 が、次の瞬間、自分の中にある種の感覚が沸き起こり、その姿勢のまま硬直した。
 ぞくりと、鳥肌の立つ感触。
 人の気配。視線。見られている。
 場所は、……部屋を仕切るカーテンの外だ。
「誰?」
 短く問いかけながら、シグルーンは足下に転がる武具の山から素早く剣を掴み上げた。と同時にカーテンが大きく揺れ、そこから人が飛び出してくる。

 シグルーンの目に映ったのは、自分よりも年若の少年だった。振りかざされる剣。だが彼女は慌てることなくそれを自分の剣で受け止めると、重心を低くして相手の足を蹴り飛ばす。
 足に来る攻撃を避けようとして、わずかに相手の上半身がぶれた。はなから蹴りが決まるとは、思っていない。シグルーンはとっさに片手で相手の手首を掴むと、そこめがけてもう一方の手で剣の柄を突き込んだ。
 ためらいもない彼女の動作にきれいにその突きは入ったらしく、相手はたまらず持っていた剣を落としてしまう。
「さてと、どうしようかしらね。」
 そう言って楽しそうに笑う彼女の瞳は、さっきまでとは違う戦場で見せた色に染まっていた。