オーディンの娘

第一章  邂逅


その二

 部屋の中では3人が、それぞれの格好で黙ってお互いを見つめている。
 着替えを胸に抱いたまま立ちつくしている、ハール。剣をぴたりと相手の鼻先に付けて、薄く笑っているシグルーン。彼女を睨み付けながら、打たれた手首を押さえている少年。

 そんな中の様子とはお構いなくその時外では風が吹き、それはそのまま部屋に入ってきて通り抜けていった。

「……まったく、もう。」

 最初に口を開いたのはハールだった。
「いい加減、挨拶くらい出来ないんでしょうかね、あなた達は。」
 その言葉に、たまらず二人が笑い出す。
「これが俺達の挨拶なんだよ、ハール。」
「そうそう。毎回恒例のね。」
 シグルーンの顔には笑みが広がり、先ほどまでの部屋でくつろいで居ようとも消えずに残っていた張りつめた雰囲気が、もののみごとにとけて消えている。
「普通ご姉弟が挨拶するときは、こんなやりとりではなく言葉でするものなんですよ。」
 やれやれと大げさにため息を付きながらも、ハールの口元は面白がるように歪んでいた。二人はもちろんそんなハールの真意を分かっている。クスクスと笑い続けながら、彼女の前でおどけたように軽い抱擁を交わしてみせた。
「久しぶりね。元気だった?最後にダグに会ったのって、どのくらい前だったかしら?」
 愛おしそうに弟を見つめる姉の表情。

 この時代、少しでも権力のある家では息子は他人に養育されるのがしきたりで、ヘグニ王の息子、シグルーンの弟ダグもそれに従い成人になるまで養子に出されている。
 しかし、だからといって実家の出入りを禁止されているというわけではない。ダグとしては割と実家に顔は見せているつもりだったが、この忙しい姉と出会える機会はそう多くはなかった。後もう一人いる年の離れた腹違いの兄よりも、この姉弟の結びつきは強い。シグルーンが寂しがるのも仕方がないだろう。

「それにしてもダグ、いつもなら帰ってすぐに“挨拶”してくれるのに、今回はずいぶんと遅かったじゃない。」
 からかうようにシグルーンが尋ねると、弟は唇を尖らせた。
「父上から頼まれ事があったんだよ。……それよりも、この間の力比べの結果を聞きたくない?俺の圧勝だったんだ。この前、屋敷の男達と一緒に魚採りに出かけたけど、一番多く採ったのも俺だった。」
「もう一人前の戦士になれるって訳ね。」
 満足そうに目を細めると、シグルーンはダグの髪の毛をかきあげる。
 姉によく似た、金色の髪。海の色をそのまま写し込んだような青い瞳。確かに体つきは大人と比べて遜色はなくなってはきているが、顔つきはまだまだ幼く姉を慕うその表情は甘さが抜けないやんちゃ坊主そのままだ。
 しかし彼女が初めて戦場に上がったのは十三になったばかりの夏で、それを考えればダグももうヴァイキング猟に行ってもおかしくない年頃だった。シグルーンは軽く頭を降ると、思い直したように肩をすくめる。
「……ああ、そうだ。ちょうど良いものがあった。」
 ふいに思い出して、先ほどハールが片づけた武具の山をひっくり返し始めた。
「あのね、ダグにお土産があるのよ。フンディング王から形見分けとして貰った剣なんだけど、私にはさすがに重くて扱えないから。とても立派な代物だから儀式の時にでも付ければ良いでしょう。……もう、どこに置いたかしら。柄の部分に軍神チュールの名前が彫ってあってね、剣の大きさは私が握って大体……、」
「姉上。」
 先ほどまでのにこやかな表情が曇りだし、眉をひそめた表情でダグは静かに姉の話を遮った。
「剣を貰うのは嬉しいけれど、でも、フンディング王って?」
 不審そうな弟の口調に、びくりとする。だが、瞬間的に腹を決め、あくまでも何気ない風を装うことにするシグルーン。
「行ってきたのよ。フンディングの方に。ダグには言っていなかったかしら。」
「でも、姉上が今回戦ってのってグラーンマルだよね。フンディングとヴォルスングだとは聞いていなかったな。」
「あー、グラーンマルの後にね、ちょっとだけ立ち寄ったの。久しぶりに友達に会いたかったしね。ついでにね、ついでに。」

 しばし続く、気まずい沈黙。
 だが折れたのは、弟のダグの方だった。

「これだから、もう。」
 ため息を付いて、軽く姉を睨む。
「目的は、ヴォルスングのヘルギだね、姉上。あの強者で有名な。」
「なっ、そ、そんな!」
 途端にぱっと赤くなるシグルーン。
「姫様?」
 今まで黙って後ろに控えていたハールの眉が、ぴくりと上がる。
「そんな、目的なんて、そんなんじゃないわよ。ヒルドがあっちに行ったって聞いたから久しぶりに会おうかなって思っただけなの。それに、そう、私はワルキュリエなんだもの。戦場に行くのは私にとって仕事なんですからね。」
 シグルーンがむきになって反論する。
 弟と乳母はそんな彼女を眺めつつそっとお互いに目配せしていたが、とうとう堪えきれずにどちらともなく笑い出してしまった。
「シグルーン様、いくら隠したところで全てお見通しですよ。」
「そうそう。姉上が前からヘルギに関心を持っていたのはみんな知っていることなんだしさ。」
「みんな知っているって、もう、何よそれ。」
 只でさえ真意を指摘されて上気しているのに、こんなことまで言われれば反撃するしか方法がない。
「だけどダグ、なんでここに来たの。さっき父上からの頼まれ事って言っていたわよね。それ、私のことなんでしょ?“挨拶”にかこつけて、それを言うためにこっちまで来たんじゃないの?」
 例えからかわれてうろたえていても、さすがにそんなことではシグルーンの洞察力は曇らない。本心から行くとあまりこの話に触れて欲しくなかったダグの足が、無意識のうちに一歩下がった。この目の前の姉上に、ダグは小さい頃から頭が上がらないのだ。こんな態度では次の言葉が切り出しにくい。
「ん、まあ、確かに頼まれたのは姉上に関することなんだけど……。そんなにきつい調子で言われると、話せなくなるよ。今のは謝るから、あまり怒らないで、姉上。」
 さっきまでの立場を軽く逆転させて、シグルーンはダグを見下ろしながらうなずいた。
「ま、仕方ないわね。許してあげる。それで用件って?」
 心持ち顎の上がった姉の尊大な態度を咎めるわけでもなく、それどころか彼女からさりげなく目をそらして、ダグが父からの伝言を復唱する。
「本日酒宴を開くので、姉上も正装の上出席すること。と父上から言い使ってきたんだ。」
「酒宴?」
 いぶかしそうに繰り返すと、シグルーンはベッドに腰掛けた。
「まさか私が帰ってきたからって訳じゃないんでしょう?誰かお客が来ているの?」
 ハールの口が文句を言いたそうに動いたが、あえて言葉に出さずにベッドの汚れを見つめていた。シグルーンはそんな彼女を見て、眉をひそめる。

 どんなときでもお小言が減らないハールが、なるべく自分を刺激しないように気遣っているのだ。これはあまり良い兆候ではない。

「……ハールは何も知らないの?」
「さぁ。ただ、大切なお客様がいらしたというお話は伺っておりますよ。三日以上他人の家に滞在するのは非礼とされていますからね。そのお客様も三日間しかこの館にお泊まりにならないでしょうし、その間盛大にもてなそうという意向だとか。」
「ふぅん。」
 考え込むように壁を見つめる。視野の端でシグルーンはそれを窺うようにして目で合図をする弟と乳母の姿を認識していた。
 しばらく途切れる会話。
 二人の視線が彼女に降り注ぐ。
「ともかく、散歩にでも行ってくるわ。」
「姉上。」
「姫様。」
 二人同時の叫び声に、立ち上がったシグルーンは一瞥する。
「グラーンマルの使者が来ているのでしょう。勝戦の知らせを持って。」
「姉上……、」
 弟のそのぎくりとした表情で、自分の推測が当たっていることを彼女は知った。
「大丈夫よ。ちゃんと酒宴には出席するから。ただ、どんなに正装していても私の感情は表に出やすいから、どんな顔しているかは分からないけれど。」
「姉上!」
 普段はいつも笑みを絶やさない明るいダグの、困ったようなうろたえた顔がおかしくて、シグルーンは意地悪く笑い出した。ダグは少しむっとした様子で、何とか姉を説き伏せようと歩み寄る。
 幼い頃から行動に移す前に必ず考える時間を持つようにしてきたダグにとって、この感情と直感だけで次の行動を決める姉の性格は危険だった。
「この近辺で我がセヴァフィヨルと釣り合いを保ち、なおかつ親睦を結んでいるのはグラーンマルだけなんだよ。ヘグニ王の唯一の娘がそんな態度をするのは両家にとって好ましくないことくらい、姉上だって分かっているだろうに。」
「ダグが言っているのは、国力についてだけだわ。戦場に出ればあなたも分かる。」
「何を。」
「人の力量というものを。」
 その言い方にはっとして、ダグは何も言い返さずに黙りこんだ。
 姉の澄んだ瞳には、何の感情も浮かんでいない。ただ事実を客観的に述べているだけだ。

 今の彼女はヘグニ王の娘やダグの姉としての意識はない。その心に神を宿したワルキュリエとして存在している。こういうときのシグルーンに反論しても、無駄なのだ。
「グラーンマル王は確かに王としての器をお持ちだわ。故に私も今回の戦で共に戦った。でも、その息子達には残念ながらその資質は見られない。ダグも知っているわよね、あの三兄弟を。確かに戦には強くて武勇を馳せているかも知れない。けれど、戦士として強いだけでは人は動かせないわ。特に長男のヘズブロッドときたら、戦場で会うたびにワルキュリエである私の力をあてにして、決して私を離そうとしない。何かあるごとに自分とうちの父が仲が良いことを笠に着て、私を押さえつけようとする。勇士となるなら、脅しではなく己の力量で人を引きつけなければ。」
 きっぱりと言い切るシグルーン。さすがにそんな態度の姉に困り果てたらしく、ダグが軽くため息を付く。
 部屋に満ちる苦い雰囲気。
「差し出がましいことを言うようですが、シグルーン様。」
 弟では姉を押さえきれないと思ったのか、ハールがシーツをベッドから剥がしながら、ゆっくりと口を開いた。
「どなたがお客であろうとも、今夜の祝宴には一国のお姫様に相応しい態度で出席していただきとうございます。周りの状況にも気を使えるはずですよ、あなた様なら。このままでは亡くなられたお母様に申し訳が立ちません。」
 さっきまでとは違う、落ち着いて、やんわりした声。決して声高に責めている訳ではないのだが、重みがある。
 さすがに母親代わりのハールに実の母親の話をされてしまっては、反論もできない。シグルーンは視線を下に落とし唇をかんだが、すぐに顔を上げて諦めたように肩をすくめた。
「分かりました。……悪かったわ、ダグ。困らせちゃったわね。」
 そんな姉の言葉を聞いて、今度はダグが余計に困ったような顔をして目を伏せる。
「姉上、グラーンマルの使者だけど、」
「なるべく丁寧にお相手するわ。」
「本人なんだ。」
「え?」
 思わずシグルーンが聞き返した。ハールも意味が分からなかった様子で、無言のまま身を乗り出す。
「姉上が今言っていたヘズブロッドなんだよ、グラーンマルの使者って。父上の伝言と共に、本当は俺、彼からの言付けも預かってきたんだ。黙っておこうと思っていたけど。」
 すまなそうに目を伏せ続けるダグ。そんな彼をしばらく見つめてから、シグルーンはやさしく弟に尋ねた。
「それで、言付けって?」
「……屋敷の裏で待っているから、来て欲しいって。」
「分かったわ。」
「シグルーン様。」
 たまりかねたようにハールが呼び掛ける。ダグの表情も、どうして良いか分からずに戸惑いを見せていた。
「ヘズブロッドには俺から断っておくよ、姉上。」
「いいのよ、ダグ。」
 そんな弟の顔を見つめ、ちょっと躊躇したように首を傾げると、淡々とした口調でシグルーンは呟いた。
「本当はね、私がグラーンマルの息子のところに行けば両家の仲は安泰なんだって、私だって分かっているの。」
「……。」
 ダグは何か言いたそうに口を開き、思い直したように頭を振り、そしてまた口を開く。
「でも、今夜の酒宴に出て欲しかったのは、ヘズブロッドが来たからと言う理由だけじゃないんだ。俺はただ、」
「分かっている。」
 弟の言葉を優しくさえぎると、シグルーンはそのまま彼の頬に口付けた。まるで怯える野生の小鳥を手なずけるような仕草で。
「それじゃ、行って来るわね。」
 同じように困惑した表情のハールに向かって微笑むと、シグルーンは屋敷の裏手に向かって歩き出した。