


炎
終章
あれから、幾つもの年月が過ぎた。
シンフィエトリを連れてフラクランドへと戻ったシグムンドは、すぐに国の立て直しを図り、戦いに明け暮れた。妻も娶り、息子も二人生まれた。ようやく得た幸せだったが、シンフィエトリはその妻に毒殺されることとなった。シグムンドは即刻妻を放逐したが、残った二人の息子達もまた、それぞれの理由でシグムンドよりも先に、戦死していった。
そして、今。
「王よ、シグムンド王!」
遠くなる意識を繋ぎとめるよう、誰かが肩をゆすって叫んでいる。シグムンドが最大の努力を払って目を開けると、そこには泣き叫ぶ女の姿があった。
「……ヒョルディース」
新しい妻の名を口にする。
「今、手当てをいたします。お気をしっかり持ってください」
泣きながらも、ヒョルディースは必死に救護を始める。だがシグムンドはゆっくりと手を振り、それを遮った。
「余の剣、グラムが折れた。相手の槍と、刃を交えただけなのに。帽子を目深に被った老兵士。……あれは、オーディンだ」
「王、何をおっしゃっているのですか?」
どこか焦点の合わない、独り言のようなその話し振り。戸惑いながら、ヒョルディースがシグムンドの顔をのぞきこむ。シグムンドは億劫そうにその視線を合わせると、彼女に真意を伝えた。
「わが祖先は、余をこれ以上永らえさせる気は無いということだ。ヒョルディース、手当ては要らぬ。お前は早く、ここから逃げるが良い」
「シグムンド王!」
彼の最後をようやく悟り、ヒョルディースが取りすがる。シグムンドはそんな彼女をいとおしそうに眺めると、ぎこちない動作で頬の涙を拭ってやった。
「そこに折れた剣があるだろう。それは大事に取っておけ。今、お前の腹の中にいる、余の息子に必要だ」
「王!」
「余などを越える、並びなき勇者へと成長するぞ。その時にはこれを、グラムをもう一度作り、必ず息子に渡してくれ」
「シグムンド王、嫌です! 私と一緒に生きて。そしてこの戦で先に仆れた、わが父の仇を討ってください」
妻の願いを聞きながら、シグムンドの焦点はまたぼやけてきた。息をするその些細な振動にも、体に激痛は走り、意識は徐々に遠のいてゆく。シグムンドは痛む体をおし、ゆっくりと彼女に向かって語りかけた。
「傷が余を消耗させる。もうお別れだ、ヒョルディース。くれぐれも、子を守ってくれ」
ヒョルディースはしばらく何かを叫んでいたようだが、じきに侍女に促され、去っていった。ここは戦場で、この戦の発端は、美しく聡明な新妻ヒョルディースを取り合っての、他国の王との紛争だ。ぼやぼやしていれば、敵方に拘束される。子を守るためには、彼女は夫を見捨ててでも逃げ延びなければならない。
人生の最後に得た二度目の妻と、これから生まれるであろう最後の息子。二人の将来に思いを馳せつつ、ゆっくりと目を瞑る。
「まだ、痛みますか?」
ふいに懐かしい声がして、シグムンドの意識は覚醒した。
「楽になれるはずなんですけれど。どこか痛い所があるようなら、おっしゃってくださいね」
「シグニイ」
目を開けると、そこにはこちらをじっと見つめる妹の顔があった。幾年月を経ても決して色あせない、思い出の中の人。その彼女が少女の姿のまま、目の前に存在している。
「お久しぶりです、シグムンド兄様」
花の咲くような笑顔が彼女の顔に広がり、自分に真っ直ぐに向けられる。シグムンドは気が付けば、彼女を抱きしめていた。
「迎えに、来たのか?」
情熱に衝き動かされながらも、冷静に彼女が現れた意味を分析した。シグニイに助けられながら立ち上がると、足元には老いて傷付いた自分自身が、地面に横たわっている。気が付けば、体の痛みは跡形も無く消え去り、それどころか全身に力がみなぎっていた。自分の姿を見ることは出来ないが、この感覚は若かりし頃のものと同じだ。
「オーディンより、ヴァルハルまで案内するようにと申し付けられました。すでにシンフィエトリを始め、他の息子たちも、あなたが来られるのを待っています」
「オーディンの、計らいか」
「ワルキュリエとしての働きの無い自分には、もったいない役目ではございますが、シグムンド兄様にお会いしたい一心で、お受けいたしました」
そこで言葉を切ると、ふいに不安そうな表情で兄を見る。
「迷惑、でしたか?」
彼女の問いにあえて答えず、じっと姿を見続ける。
少女のままのあどけない顔つきにも関わらず、人生の全てを乗り越えた経験と落ち着きが、彼女の何気ない仕草に深みを与えていた。あの炎の中、屋敷に向かって去ってゆく後姿がまざまざと蘇る。シグムンドは口を開くと、問いに問いを重ねて返した。
「ヴァルハルには、お前もいるのか?」
「……兄様が、望むのなら」
緊張を隠せないでいる、シグニイの顔。そんな彼女の気持の強さを、シグムンドは知っていた。だが、それを知った上でなお、確認しなければならないことが彼には有る。
「ヴァルハルはこの世の理を定める神、オーディンの住む屋敷だ。俺は戦士としてそこに呼ばれ、神々の運命が決まるその日まで、修練をして過ごすこととなる。神の元で、兄と妹である俺たち二人が添い遂げられることは、決して無いぞ。それでも、お前はヴァルハルに留まりたいと思うのか?」
真っ直ぐに見つめ返し、絡まってゆく視線。シグニイは兄から瞳を反らすことなく、きっぱりとした口調で言い切った。
「私の肉体はすでに炎に焼かれ、失ってから久しい年月が経っております。今はただ、この魂が兄様の傍にいられれば、それで良い」
その力強い言葉に、シグムンドの口元に柔らかな笑みが広がった。
「俺の望みも、お前と同じだ。待たせたな、シグニイ」
そう言って彼女へ向かって手を伸ばす。シグニイはその手を握り締めると、ようやく笑顔を取り戻した。
「それでは、参りましょうか」
軽く弾みをつけてシグニイが宙へ浮かぶと、シグムンドを引き上げる。死屍が累々と転がる戦場を、シグムンドはしばし無言で見渡した。この世界での、彼の活躍は終わりを告げた。あとはヒョルディースに託した子供が、伝説を作ってゆくのだろう。
そして二人は後を振り返ることなくヴァルハルへと目指し、去って行った。
- 終わり -


