その10


 大気を震わす轟音に、シグニイの浅い眠りは中断させられた。屋敷の中、何事が起こったのか分からず、中途半端な沈黙が続いている。その中でただ一人、彼女だけが瞬時に状況を理解して起き上がった。
「シグニイ様!」
 怯えた声を出しながら、ようやく侍女がやって来る。シグニイはそんな彼女に向かってうなずくと、落ち着いた様子で指示を出した。
「着替えをします。手伝ってくれるかしら」
「は、はい」
「正装するので、髪結い係が必要だわ」
「では、人を呼んできます」
 轟音に后の正装と、緊迫したものを感じながらも、侍女はシグニイの冷静さに圧倒された。ただ素直に、慣れた仕事に着手する。

 目の細かい上等な生地で仕立てたスリップを着ると、その上に上着を重ねる。上着は前身ごろと後見ごろに分かれており、肩紐で繋いでいるだけなので、袖が無い。スリップの袖がそのまま表へ出る意匠だ。服の構造自体はいたって簡素なものであったが、それを補うように装飾品が飾られる。肩紐はただ結ぶのではなく、青銅製のブローチで左右共に留められていた。首には、金や銀のネックレス。腰帯にも鎖は取り付けられ、そこからは宝物庫や屋敷の鍵などが下がっている。そして首から下げられた幾つものネックレスに混じり、ひときわ目立つのが、お守り代わりの短刀。
 飾りつけも済むと、次は髪の毛だ。金色の細くてしなやかな髪は複雑に編み込まれ、手早く結い上げられる。この国の后である事を表す、そのいでたち。出来上がると、侍女たちは膝を曲げ、深々と彼女に向かって礼をした。
「シグニイ様、支度は全て整いました」
 その言葉に満足そうに微笑むと、シグニイはそれぞれの者に金の鎖や腕輪など、余った装飾品を分け与える。
 お礼を言う以外、誰も余計なことは話さない、静けさに満ちた部屋の中。だがその壁の向こう、屋敷の外では男たちの怒鳴り声が響いていた。
「シグニイ様」
 耐え切れず、年若の侍女が話しかける。シグニイはそれを目で制すると、口を開いた。
「皆はもうここから逃げなさい。正面玄関は戦場となっているでしょうが、裏手なら安全なはずです」
「シグニイ様は」
「私にはすべきことがあります。共はいりません。皆は全員外へ」
「お一人で何をされるつもりですか」
 侍女たちの中でも一番付き合いの長い女が、問いかける。その目には涙がたまっていた。シグニイはそんな彼女に感謝しながらも、いかにその情を振りほどこうかと考える。だが、遠くから聞こえる男たちの声で、その考えは中断された。
「屋敷に火がつけられたぞ!」
「ここはもう駄目だ! 早く逃げろ!」
 侍女たちの間に動揺が起きたのを良い機会に、シグニイはもう一度、命令を繰り返した。
「さあ、早く逃げるのよ」
 程なくして侍女たちは去り、シグニイは一人となった。
 ゆっくりと屋敷の中を歩き回り、一つ一つの部屋を見て廻る。一昨日のシグムンドとシンフィエトリの襲撃により、かなりの数の男たちが殺された。そして今行われている二回目の襲撃。もはやこの屋敷の中に残っている者はいない。無人の宝物庫を覗いてみると、すでに誰かに荒らされたようで、扉は壊され、中はあらゆるものが散乱していた。さらにその奥へ行こうとするが、どこかきな臭い匂いが漂ってきたので、諦める。彼女は広間へと足を進めた。

 広間には、誰もいなかった。
 自分以外にこの屋敷に留まるであろう人物の姿を思い描いていたのだが、その影も見えない。だがシグニイは特に焦るわけでもなく、ベンチへ腰を下ろした。
 かすかに伝わる振動。燻されて、うっすらと辺りに漂う白い煙。この屋敷の外、悲鳴と怒鳴り声が響いている。彼女はただ黙って、それらの喧騒を聞いていた。
 心は、凪いでいる。周りが騒げば騒ぐほど、そこから乖離するように落ち着いてゆくのは、すでに自分の辿りつく先を見つけてしまったからだろうか。だが、どうしようもない寂しさも一方で感じてもいる。
 しばらくそのまま座っていたが、やがて深くため息をつくと、彼女はベンチからゆっくりと立ち上がった。
「シグニイ! 出て来いっ。そこから逃げるんだ!」
「母上!」
 聞きなれた声が聞こえていたが、反応はできなかった。このまま無視しようかとも思うのだが、そこまで思い切れる自信も無い。
「シグニイ!」
 シグムンドの叫び声。さすがに堪えきれず、扉を開け放つ。その途端、性急な手が伸び、抱きしめられると、転がるように屋敷の外へと連れ出された。
「シグムンド……」
 口の中で、そっと彼の名前をつぶやく。彼の腕の中にいるというだけで、彼女の鼓動は高まっていた。
 もう、どうしようもないのだ。
 鼓動が高まれば高まるほど、己の進むべき道への覚悟が出来てゆく。
「シグムンド兄様、シンフィエトリ」
二人に呼びかけて、にこりと微笑む。
「私はそちらへは参りません。」
「何を馬鹿な事をっ」
「母上!」
 彼女の言葉を翻そうと、兄と息子が説得を始める。そんな二人の必死な姿を見て、シグニイの心は鈍く痛んだ。
 呼びかけに反応せず、静かに屋敷の中で死を待つほうが良かったのかもしれない。だが、彼女はその方法を取らなかった。取れなかった。最後にやはり一目会いたい。その気持があったからだ。どこまでも、欲は深いのだと、そう思う。そして、その欲ゆえに最後の別れを選んだのだから、二人には自分の罪を話さなければならないだろう。
 そう。自分の犯した罪。そして自分の中に今まで秘めていたこの気持ちを。
「聞いてくれますか? 私の懺悔を」
 こぼれ落ちた涙を拭いもせず、彼女は淡々と話し始めた。
「ヴォルスング一族の復讐を果たすため私が出来ることは、兄様に協力者を差し出すことでした。ですが、シッゲイルとの間に授かった子供たちに、その能力は無かった。私は愛情よりも復讐への忠誠を優先させ、四人もの子供たちを殺させた」
「手を下したのはお前ではない」
「決断したのは私ですわ、シグムンド兄様」
 尚も反論しようとするシグムンドを止めさせるように首を振ると、シグニイは続ける。
「復讐を果たすに必要な能力を持つ子供を作るため、私は一つの方法を選びました。それは、純粋なヴォルスング一族の血で子供を作ること」
 そこで言葉を区切ると、シグニイは自分の息子シンフィエトリに手を伸ばす。髪にこびりついた泥を落とし、頬の血を拭ってやる。不安そうな表情でされるがまま、ただ黙って自分を見つめる息子に、彼女はにこりと微笑んだ。ちょうど今のシンフィエトリと同じくらいの年頃に、シグニイは婚礼をし、そして悲劇は起きたのだ。思い出の中の、当時のシグムンドの姿とシンフィエトリはよく似ている。
「私は北の岬に住む魔女に、姿を変えてもらいました。魔女の姿をして、通いなれた森の奥深くへと進むと、そのまま洞窟へと向かったのです。兄様に、あなたに逢いに行きに」
「シグニイ」
 事実を察し、思わず口元に手をやる兄の姿を真っ直ぐに見つめ、シグニイは静かに言い切る。
「幸せでした。あなたに抱かれたことは、私の喜びでした。そして、シンフィエトリを授かったことも」
 そのまま二人、ただ黙って見詰め合う。予期せぬ告白に、シグムンドは動揺していた。だが、屋敷のどこかが崩れる音にはっとすると、表情を引き締める。気の建て直しは早かった。
「……シグニイ、俺と一緒に、フラクランドに帰ろう」
「帰れません。私は、禁忌を犯しました。このままガウトランドの后として」
「禁忌を犯したのはお前だけではない。シグニイ、俺と、俺たちと帰るんだ。お前も故郷に戻り、新たに人生をやり直そう」
 ぐっと、シグニイの手首を掴んで引き寄せる。だが、シグニイはとっさにそれを振り払うと、大きくかぶりを振った。
「帰って、どうするというのです。新しい夫を見つけ、また新たに嫁ぐのですか?」
「フラクランドへ、居ればよい。お前に何かを強制させる者は、誰もいない」
「違うっ。違う」
「何が違うんだ!」
 思わず声を荒げるシグムンドを見返し、堪えかねたようにシグニイは涙をこぼした。震える唇から、振り絞るように声を漏らす。
「でも兄様は、……あなたは妻を娶ります」
 その言葉にはっとして、シグムンドの動きが止まった。
「愛しているの。この気持は一時のものだと、焦る気持から生まれたものだと思いたかったのに、違っていた。兄妹としてじゃない。男として、女として、あなたを愛している。だから、あなたが別の女性を娶り、その人と一緒にいるのを見るのは耐えられない。妹だから、私はあなたと添い遂げられないから。それが、辛い」
「シグニイ……」
「お願い。私を屋敷へ戻らせて。ガウトランドの王シッゲイルの后として、この屋敷で果てさせて」
 うつむき加減の顔を上げると、シグニイは無理やり笑顔を作った。そしてそのまま横に視線をずらすと、黙って二人のやり取りを見ていたシンフィエトリを抱きしめる。
「シンフィエトリ、あなたは生きて。私が誇る、大切な息子。あなたを産むことが出来て、母は幸せでした」
「母上……!」
 まるで幼い子をあやすように、愛おしさを込めながらシンフィエトリの両頬に口付けをすると、ゆっくりと体を離す。シグニイはしばらく息子の姿を眺めていたが、やがてシグムンドへと向き直った。
「兄様、ごめんなさい」
 小さな声でそうつぶやく妹を、シグムンドは何も言わずに引き寄せる。先ほどまでとは違うその静かな動作に、シグニイは素直に身を任せた。
「シグニイ、俺も」
「それ以上は言わないで」
 耳元で囁くと、シグムンドの口をふさぐように、シグニイの唇が重なる。シグムンドは彼女をきつく抱きしめると、その口付けを深くした。
「ありがとう、シグムンド兄様」
 名残惜しそうにいつまでも抱きしめようとするシグムンドの腕をそっと外し、シグニイが一歩退いた。あらためて二人を見つめ、にっこりと微笑むと、燃え盛る屋敷へと走り去る。
「シグニイ!」
「母上、行くな!」
 堪らずに叫ぶ二人の声にも、もはや彼女が振り返ることは無かった。

「戻ったのか」
 広間の扉を勢い良く閉めると、思わずそのまま座り込む。だが、そんな彼女の耳に男の声が聞え、反射的にそちらを向いた。
「あなたも、戻ってきたのですね。シッゲイル」
 小さく息を吐くと今までの激情を押し隠し、シグニイがすっと立つ。そのままゆっくりと、夫のいる上座まで歩み寄った。最愛の者たちとの別れを終えた後、最後にしなければならないのは、この男と相対することだけだ。
「この屋敷も、国ももうお終いだ。この状況で逃げてどうなる。最後は王らしく死にたいものよ」
「その言葉に、安心いたしました」
「お前はどうなのだ、シグニイ? 奴等と共に故郷に帰ろうとしていたのではないのか」
 散々になじり、否定してきたその道を指し示しながら、シッゲイルがにやりと笑う。シグニイはそんな挑発に乗ることなく、彼の目の前に立ち、膝を折った。
「あなたの元で、ガウトランドの后として一生を終える。それが私の運命だと承知しております」
「死を目前にして、ようやく余に従う気になったか、シグニイ」
 妻の殊勝な態度に気を良くし、シッゲイルは鷹揚にうなずいた。シグニイはそれに対し何か言おうとするのだが、大きく火のはぜる音が聞えて中断させられる。火は天井に燃え移り、すでに煙や倒れてきた木材などで、広間の半分は見えなくなっていた。この場所が炎に飲み込まれるのも、時間の問題だろう。辺りを見回し、状況を確認すると、シグニイはさりげなくシッゲイルの横に回りこみ、彼の耳元で囁いた。
「私は、王に感謝をしております。あなたとの、この生活が無ければ、私は自分の運命や使命について深く考えることも無く、ただぼんやりと一生を終えたのでしょうから」
 言いながら、シッゲイルの肩に手を掛け、そのまま頬を寄せる。
「戦場に行ったことも無い、戦いを知らない世間知らずの娘でしたが、あなたのお陰で私は自分の血の始まりを意識した」
 触れた頬を通して、長年連れ添った夫の吐息を感じる。彼は無言のままであったが、多分訝しそうな表情で、妻を横目で見ているのだろう。それが容易に想像でき、シグニイは楽しそうに小さく笑った。前かがみになった胸元で、体が揺れるたびに鎖がこすれて金属音を立てる。
「私の一族、ヴォルスングは、オーディンを始祖とする一族です。その血は私にも流れている」
「何を、言いたい」
「王よ。オーディンの娘より、長年連れ添った証として贈り物をお受け取り下さいませ」
 そう言うなりシグニイは胸元の短刀を抜き出し、深々とシッゲイルの胸元に刺し込んだ。
「オーディンの娘。そうか、ワルキュリエ、か……」
「あいにく、ヴァルハルへとお送りすることは出来ませんが、私と共に黄泉の国へと旅立ちましょう」
 戦の女神であり、オーディンの娘達でもあるワルキュリエは、本来、戦死者の中から勇者を選び、オーディンの館ヴァルハルへと誘う役目を持っている。そこで勇者はラグナロク、つまり、神々の運命が定まる戦の時まで、鍛錬をしながら過ごすのだ。
 だがシグニイは、神の住む館へ夫を誘う気は毛頭無かった。
「これで復讐は遂げられました。私も心安らかに、この世から旅立つことが出来ます」
 すでに息絶えたシッゲイルに語りかけると、シグニイはその場に座り込み、王座にもたれかかる。
 屋敷に戻ってからずっと、煙を吸い込んでいるせいか、無意味に涙が流れ、体がふらつく。炎のはぜる音はすぐ側まで迫ってきて、喉だけでなく、頬にちりちりとした痛みがした。これ以上目を開けていることが出来ず、まぶたを閉じる。浮かぶのは、いとしい人たちの姿。
 シグムンド。シンフィエトリ。
 ふっと微笑んだところで、天井の梁が落ちてきた。鳴り響く轟音。屋敷全体が崩壊し、シグニイの命はそこで途絶えた。