二人の会話

二人の時間


くら澤にて

 当時八歳の良幸が初めて自分の弟を見たのは、残暑もまだ厳しい九月の終わりのことだった。病室で母が胸に抱く赤ん坊を、父と祖母と兄の三人と一緒に見ていた。
「名前は?」
 散々、目元はどちら似で口元はどちらと言い尽くした後、祖母が尋ねる。
「どうしようかしらね」
 疲れたような顔の母がゆっくりと答えると、父が言葉の後を次いだ。
「産まれたばかりだからな。もうちょっと考えるさ」
 なんだか表情が柔らかい。兄の和弘はひたすら嬉しそうに赤ん坊を見つめている。
 良幸は家族の顔をそれぞれ眺めると、もう一度、産まれたてほやほやの弟に目をやった。
 白いおくるみに包まれて、すやすやと寝ている赤ん坊。その顔は最近テレビで見た、宇宙人によく似ていた。あと、埴輪。つむった目がやたらにでっかい奴。
「あれさ」
 良幸が口を開いた瞬間、後ろからわぁとかだぁとかの声がした。
「倉沢さん、産まれたんですってね。おめでとうございます」
 後ろを振り返ると、近所に住む宮崎さんのおばさんがいた。
「そうなのよ、今朝ね。今ちょうど家族初顔合わせの最中よ。圭子さんは?」
「一ヶ月検診です。病棟の看護婦さんに会ったら、倉沢さんのお子さん産まれたわよって聞いて」
「もう検診? 早いわねー」
「本当。早いでしょ」
 宮崎のおばさんはそう言いながら、腕に抱える赤ん坊を良幸たちにも見せてくれる。黒目の大きい、つやつやとした赤ん坊。試しにほっぺを突いたら、一瞬びっくりしたような顔をした後、嬉しそうに笑った。
「女の子は可愛いわね」
「いま機嫌が良いだけよ。一度ぐずると大変」
 母親達の会話を聞き流しながら、良幸はもう一度弟を覗き込む。やっぱり宇宙人か埴輪にしか見えない。
「ねえ、お母さん」
 母のパジャマを引っ張ると、真剣な顔で訴えた。
「俺、こっちの方がいい」
 そうして宮崎家の赤ん坊を指差す。
 一瞬の沈黙の後、家族から猛烈な突込みが入った。
「ユキ!なに言ってるのっ」
「人様の赤ん坊を羨ましがるな!」
「良幸、それは無理ってものだからね」
「お前、馬鹿か?」
 そして最後に父に拳固を食らった。
「ってーっ」
 これが弟俊成と、その幼馴染あずさとの初めての出会いだった。

 しかし願いというものは、言ってみると案外あっさりと叶ってしまうもののようだ。

 歩いて一分も離れていない近所で、こどもを持つ家同士。今までもそれなりに付き合いはあったが、こども達の歳が離れすぎていた。倉沢家は小学生が二人で、宮崎家は二歳の乳幼児が一人。それが俊成とあずさの誕生で、一気に接点が増えていった。宮崎のおばさんは毎日のようにあずさを連れてやってきて、母や祖母とお茶をするのが習慣となった。
 翌年には俊成もあずさもそれぞれ別の保育園に入園したが、だからといって結びつきが無くなった訳ではない。良幸が放課後の遊びから戻ると、大抵当たり前のようにあずさは俊成と一緒にいた。最初はおばさんに連れられて、そしてよちよち歩きを始めた頃から一人で勝手に来るようになった。こうなるともはや、あずさは倉沢家にいるのが当たり前の妹と同等だ。

「あずー。お前、手に持ってんのそれ、なに?」
 二人が四歳になったある日、いつものように良幸が家に帰ると、居間のソファに座っておやつを食べている二人がいた。
「チョコ」
「どうしたんだよ?」
「おばあちゃんにもらったの」
「トシのは?」
「……クッキー」
 小さく俊成が答える。あずさは聞かれれば答えるしきちんと会話にもなるのだが、俊成はまだまだ口が遅い。母にたずねたことがあるが、「男の子はみんなそうよ」と言って終ってしまった。だが、自分がこのくらいの年の頃を覚えていない良幸にしてみると、この二人の差は不思議だ。成長の差もあるのかもしれないが性格の差もあるのかもしれないと、勝手に自分で結論付けている。
「ユキお兄ちゃんもいる?」
 はい、と言って一口大のチョコが入った袋をあずさが突き出す。おう、と良幸は何個か取り出すと、俊成に向き直った。
「トシは?クッキーくれよ」
「やだ」
 ぷいっと顔を背け、俊成が拒否をした。
「なんだ、こいつ?」
「あのね、トシちゃんはね、おばあちゃんに怒られたの」
 良幸を見つめ、あずさがたどたどしく説明をした。
「二人で分けなさいって、チョコとクッキーくれたのに、トシちゃんが独り占めにしちゃったの。おばあちゃんが怒ってもうあげないって言って、だからトシちゃんにクッキーあげたの」
 なんだか良く分からない説明だったが、それぞれの手に持つ菓子袋で流れが読めた。独り占めしようと我がままを言った俊成に祖母が怒り、菓子袋を取り上げあずさに渡したが、あずさが同情して二つのうちの一つ、クッキーの袋を俊成に渡したらしい。
 普段はおっとりとした性格の弟だったが、それでも虫の居所が悪いときもある。長男の和弘ならここでにっこり微笑んで、お菓子を均等に分けることもしただろう。だが二番目のお兄ちゃん、良幸はそこまで弟に対して優しくは無かった。
「ふぅーん。ばあちゃんに怒られて、拗ねているんだ」
 にやりと笑って弟を見下ろす。
「違うもん」
「じゃあなんでクッキーくれないんだよ」
「やだ。あげない」
 お菓子の袋をぎゅっと握り締め、俊成がうつむく。あずさはこのユキお兄ちゃんの意地悪にどうしてよいか分からず、困ったように二人の顔を見つめるだけだ。良幸はあずさに向き直ると、俊成に当てつけるように優しい声音を出して言った。
「あず。じゃあ、あっちの部屋に行って二人でチョコ食おうぜ」
「トシちゃんは?」
「独り占めしたがるような奴は、一人で食ってれば良いんだよ」
 ここに祖母なり母なり家族の者がいたら、八つも年の離れた弟になにひどい事を言っているんだと怒られそうな台詞だ。だが例え八つ年が離れていようと、こういう時の拗ねた弟は鬱陶しいし、いじめたくもなる。
「ほらあず、行こう」
 そう言いながらちらりと横目で俊成を眺めると、うつむいた俊成の頬が紅潮していた。
 そろそろ泣くかな?
 さすがにこれ以上、幼児の心をもてあそぶわけにも行かない。引き際を悟り、良幸が軽く息を吐き出す。
「仕方ないなー。あず、あっちの部屋は止めだ。ここで」
「あずって言うな」
 ぽつりとくぐもった声が聞こえ、意味が分からず言葉が止まった。
「あずさちゃんのことあずちゃんって言うのは、僕だけだ」
「へ?」
 てっきり仲間はずれをされた寂しさで泣き出すのかと思ったのに、予想外のところで怒られて、良幸は呆気に取られてしまう。
「ユキ兄ちゃんがあずって言うな!」
 そう叫ぶと、堪え切れなくなったように俊成が泣き出した。
 つまりは仲間外れにされる寂しさよりも、兄に幼馴染を独り占めされる不安の方が、俊成の中では大きかったということらしい。
 その思いもかけない発想に戸惑って黙っていたら、なおも弟は涙のたまった目で兄を睨み付けた。
「あずさちゃんのことあずちゃんって言うのは、僕だけだ」
 繰り返される宣言。その真剣な弟の姿に、良幸は苦笑するしかない。
「わかったよ。これからはあずさのことをあずって言うのは、トシだけだ」
 安心させるようにそう言うと、気が緩んだのか、俊成はさらにまた泣き出した。
「泣いちゃ駄目だよ、トシちゃん」
 そんな言葉と共に、俊成の頭にあずさの小さな手がふわりと乗る。
「あのね、それならね、あずさも考えるから」
「あず、さ?」
 良い子、良い子と撫でながら、あずさも俊成に負けずに真剣な表情になった。
「トシちゃんのこと、これからはトシナリ君って言う」
「は?」
 それでは余計に他人行儀になるのでは? と良幸の心に疑問が広がったが、口に出さずに言葉を飲み込む。大真面目なあずさに、気押されてしまっていた。
「みんなトシちゃんって言うから、あずさだけトシナリ君って言うの。だから、トシナリ君だけあずって言っていいよ。これでおあいこ」
「うん」
 いつの間に泣き止んでいた俊成が顔を上げ、にっこりと微笑んだ。あずさも負けずに笑顔になる。
 トシとトシナリ君では言い難さが断然違う。あえて難しい方を選んだのは、あずさなりの心意気だったのかもしれない。

 まあ、いいんだけどさ。

 良幸は妙な疎外感を感じながら、目の前の四歳児達を眺めていた。

 
 そしてそれから十八年後。
 良幸の視線の先に、不機嫌な顔をした男女が座っている。二十二歳になった俊成とあずさだ。
「なに、あれ?」
 夕方の、店が忙しくなる時間の手前。買出し兼休憩の時間から戻り、厨房からカウンター越しに店内を眺めると、件の二人が食事を取っていた。
 確かに予約は入っていた。この十月の連休に帰ってきて、久しぶりにあずさと二人で店に来ると弟は言っていた。
「しっかし久しぶりに会って、あれは無いだろうよ」
 思わずつぶやきながら、まじまじと見つめてしまう。向かい合わせに座る二人に会話は無く、目を合わせることなくただ黙々と食事だけが進んでいる。事情を知らないこちらですら、何かあったと思わせる重苦しい雰囲気。本来この場を盛り上げてくれるはずの卓上の赤ワインのデキャンタが、妙に浮いて見えるほどだ。
「困ったわよねー」
 気が付くと隣に母親が立ち、同じくため息混じりに二人を見ていた。
「なにがあったんだよ、あれ」
「ケンカよ」
「見れば分かるよ。そうじゃなくて、なんでケンカになったんだよ」
 要領を得ない話に重ねて質問しただけなのに、なぜか母は言葉に詰まって黙ってしまう。そしてその背後で、父の苦々しそうな声が聞こえた。
「余計なこと言う奴がいたんだよ」
「はぁ?」
「違うわよ。ちょっと聞いただけでしょ。ほら、この間ユキも見たじゃない? あずさちゃんが公園まで男の子に送ってもらっていたの」
 焦ったように説明しだす母と今にも舌打ちしそうな父の顔を見比べ、良幸は先日の光景を思い出した。
「ああ。あのクラス会の帰りとか言っていたのか」
 いつものように店を閉めて家に帰るとき、公園で帰宅途中のあずさに出会ったのだ。男に手を振っていたので尋ねたら、クラス会の帰りで友達に送ってもらったということだった。
「直前まで松永さんのところの、真由美ちゃんだっけ? その子とも一緒だったっていう話のだろ? 第一、後ろめたいことあったらこんな近所まで男連れ込まないし」
 半ば呆れてそう言うが、記憶の端に何かが引っかかる。
「そう思ったから俊成にその話しただけなのに、あの子ったら妙に不機嫌になっちゃって。中学のクラス会で、帰りに男の子に送ってもらうなんて、べつに普通のことじゃないのよねぇ」
「あー、中学のか」
 そこでようやく合点がいってつぶやいた。
 中学生の頃、あずさは俊成ではない別の男と付き合っていた。秋祭りで初めてのデートをしているあずさと偶然遭遇したことを、良幸は今でも覚えている。当時、実の弟が誰と付き合っていたとかどんな遊びをしたかとか、気にもならなかったし記憶にも残っていない。そのくせ、他所の家とはいえ妹分だと鮮明に覚えている。やはり女の子のほうが、心配にもなるのだろう。
 送っていたのは、あの時の男か。
 弟の不機嫌な顔を見て苦笑する。
「相手が悪かったな」
 俊成の中の、余計な感情が作動するスイッチを押してしまう相手。あずさを送った男はそんな存在だ。
「良幸、ポークソテー」
 短く父に声を掛けられ、現実に戻った。
「おう」
 フライパンをコンロに掛け温めている間に、手早く冷蔵庫から材料を取り出す。いつもの作業に戻るとすべてのことは忘れ去ったが、一息つくとまた気になった。カウンター越しにそっとのぞいて見ると、食事は終わったようだが踏ん切りが付かないまま、ワインを飲んでいる二人がいる。相変わらず会話は無いようだ。
「どうせケンカするんなら、自分ちの店じゃなくて他所でしてくればいいのにな」
 半ば呆れてそう言うと、客にポークソテーを出し終えて戻ってきた母に睨まれた。
「トシにこの店の予約入れさせたの、ユキ、あんたでしょ?」
「そうだっけ?」
「ビーフシチューなんて時間が掛かってなおかつ数が限定されるもん、予約じゃないと受け付けない。って言っていたじゃない」
「それは俺だけじゃないだろ」
 自分の放った余計な問いかけで、こんな事態を招いてしまった。そう十分理解している母は、なんとかして共犯者を作ろうとしている。しかしビーフシチューが要予約なのは、良幸のせいではない。それでもってその予約をキャンセルせず、律儀に店で冷戦状態に入っている二人も、良幸の関与するところではない。
 勘弁してくれよと厨房の奥に引込もうとしたところ、父兼店のオーナーから指示が飛んだ。
「良幸、五番はもう食事済んだんだろ。さっさと食器下げて来い。」
「俺?」
 たずねたが、キャベツの千切り作業に移ってしまった父はもうこちらを見ようともしない。共同経営者の母は早く行って来いと言わんばかりに顎を上げる。
「ったく」
 前掛けを放り投げて、一従業員である息子はテーブル席に向かった。

「なに辛気臭い顔しているんだよ」
 五番テーブルの前。腕を組み、仁王立ちになって良幸が客に声をかけた。
「ユキ兄」
 今まで黙りこくっていた当事者の片割れ、あずさがどこかほっとしたような顔で良幸を見上げる。一方の俊成は露骨に迷惑そうな表情でちらりと兄を見たきり、目を反らしたままだ。
「可愛くねーな」
 どう説教してやろうかと思案する。
 確かに、俊成の焦りは分からないことも無い。遠距離恋愛で普段離れているから、どうしても相手の些細な行動で不安になる。これが自分のまるきり知らない男なら、多分こうまで反応はしないのだろう。下手にあずさが昔付き合っていた男だと知っているから、そしてその男自身のことも知っているから、二人でいるところを想像出来てしまう。こうなるともう、理屈ではなく感情だ。しかし、その感情をあずさにぶつけるのはいただけない。
 もうちょっと冷静になれよ、俊成。
 そう言ってやりたいのだが、今ここでそんなことを言ったら余計に感情を逆なでし、逆効果になりそうだ。
 気が付くと良幸までもが二人の暗い雰囲気に引き込まれ、黙り込んでしまっていた。
「……俊成君は、私を信頼していないの」
 ふいにそんな言葉が聞こえた。
「はい?」
 慌ててあずさを見つめると、視線を落とし今にも泣きそうな表情をしている。
「信頼していないから、私の行動に突っかかるんだよね。でなきゃ、圭吾に送ってもらってみんなで遊びに行こうって誘われたただけで、こんな不機嫌になること無いもの」
「え?」
 いや、それ違うから。
 つい出そうになる言葉を良幸は飲み込んた。いくらみんなと一緒と言えども、元彼に遊びに誘われた話を聞かされて機嫌がよくなる男などいない。信頼云々の以前の話だ。試しに弟を横目で見ると、黙りこんだまま顔にはっきりと、「なんでそうなるんだよ」と書いてある。
 俊成の行動は、分かりやすい。今の弟は只の駄々っ子だ。だが、自分にやましいことが無いあずさには、それが分からない。一方的な感情に対して自分が納得できるような理屈をつけようとしているから、おかしくなる。どんどんと二人の間に距離が出来てしまう。
「お前達なぁ」
 息を吐き出すと、良幸はどっかりとあずさの隣の椅子に腰掛けた。
「あず、お前デザートはなににする?」
「え?」
 腰掛ついでにあずさの肩に手を回し、そのまま頭を撫でてやる。俊成の表情がさらに険しくなったが、構わない。
「定番のチーズケーキはあずの好物だもんな。でも、おすすめは秋らしく、カボチャのプディング。デザートは俺担当だから、胸張ってすすめるぞ。あとアイスもあるけど、これは業者から仕入れているからどうでもいいか。あず、なに食う?」
「ユキ兄」
 思い切り体を硬直させ、戸惑うように小さくつぶやくあずさに向かい、微笑みかける。頭を撫で、髪の毛をいじっているせいか、ふんわりと柔らかい匂いがした。華奢な体つき。潤んだ目。弟と同等の扱いで構ってやった子供の頃と、あずさはもう違う。十分に色香の漂う女だった。
「兄ちゃんのおごりだ。好きなの言えよ、あず」
 これ見よがしにあずさの耳元でささやいた瞬間、がしっと手首を掴まれた。
「あずって言うな」
 気が付くと、弟の顔が目の前に迫っていた。
 怒りを抑えようともしない、きつい目つき。ちょっとでも体を揺らしてこれ以上あずさにもたれたら、すぐにでも拳が飛んできそうな勢いだ。こちらも十分、男の顔つきだった。
 いや、この目は昔から変わらない。あの四歳のときも、あずさを見つめる俊成の目は真剣だった。
「……ばーか」
 ぶっと吹きだしながらそう言うと、良幸は立ち上がって俊成の頭を殴った。
「ええっ?」
 状況を把握できないあずさの、疑問符が店内に響く。
「ってーよ、ユキ兄っ」
「お前が悪いんだよ。男の嫉妬なんてみっともないことするから。なあ、あずさ」
「へぇっ?」
 まだ追いついていけてないあずさに向かい、今度はにやりと微笑みかける。
「おごるのは止めだ。また次の機会な。今日はもう二人とも、帰れ」
 どうしてよいか分からないといった表情であずさは良幸を見つめ、そしてゆっくりともう一人の当事者に視線を移す。
「俊成、君?」
 先ほどまでとはうって変わり、顔を真っ赤にした俊成がそっぽを向いている。その表情に、あずさもようやく理解が出来たらしい。中途半端に口を開くと、そのまま何も言えずに一気に顔が赤くなった。そんな二人を見て、また良幸が笑い出す。 
「帰ろう、あず」
 がたんと椅子を倒しかねない勢いで立ち上がると、俊成は強引にあずさの手を引いた。
「え、だって、お会計」
 あずさがとっさにカウンターに目をやると、兄弟の母が慌てて手の甲を振って見せた。
「仕送りから引いておくから、今は良いわよ」
 つまりはさっさと帰れということだ。
 良幸は母にもにやりと微笑みかけると、そのままの意地悪い顔つきで、俊成の背中に呼びかけた。
「俊成。言っておくけど、俺が妹って呼ぶのは、あずさだけだからな。それ以外は認めないから、ちゃんと捕まえとけよ」
 その瞬間、弟の背中がぴくりと震える。顔は見えないが、すでに耳元まで赤くなっているのは確認済みだ。
 俊成は無言のまま店を出、一方のあずさはもたもたとバッグを手に、そんな恋人の後を追おうとしていた。
「あずさ」
 声をかけると良幸はそれ以上何も言わず、親指をぐっと突き立て、片目をつむった。
 あずさは一瞬戸惑うような表情を見せたが、すぐに同じように親指を突き立て、へへっと笑う。その照れた表情のまま母に向かってぺこりとおじぎをすると、小走りで店から出ていった。
「可愛いねぇ」
 しみじみとつぶやくと、背後から母の声がした。
「ユキ、からかいすぎよ」
 だがその声は笑いを含んでいて、真剣味がない。良幸は店内から厨房に戻ろうと振り返り、準備運動をするように肩を回した。
「さてと。迷惑な客も帰ったことだし、そろそろ本気で働くか。親父、お袋、今日は店閉めたら鳥源行こうなー」
「焼き鳥?」
「ちなみにお袋のおごりだから」
「なんでよ」
「まあ、仕方ないよな」
 今まで黙って見守っていた父が、苦笑する。口を尖らせ抗議する母を笑ってかわし、良幸は前掛けを締めなおした。
 くら澤は、これからが忙しくなる。
 良幸の頭の中には、もはや二人のことなど残っていなかった。