遠い記憶

1.風の章


その四


 真っ直ぐ立っていられずに、木にもたれかかったまま飯島君を見つめていた。まだ何か言われるのかなと思っていたけれど、飯島君もただ黙って私を見つめるだけだ。言うべき事を言い、後は相手の出方を待っている。そんな表情だった。
「あ……」
 とりあえず口は開いてみるものの、その後が続かない。
 幼い頃から気になって、でも答えが出るはずもなかった、背中の痣ができた訳。まさかこんな形で示されるとは思ってもみなかった。ただ単に巻き込まれ、連れ出された気でいたけれど、目の前で証を見せられている今、他人のせいには出来ないことを感じている。
「俺の場合、物心付く頃から少しずつ前世のこと、思い出してきたんだ。こちらに行く方法が分かったのは、六年くらい前からかな。行き来が出来るようになってすぐに、オーロとエシゲにも出会えるようにもなった。でも、アクタだけがいなかった」
 私の心の動きを読むように、飯島君が話を再開する。
「昨日は、転生後の世界からこちらに来る最後の日だった。キョエンに玉が無いことによって、気のバランスが乱れているんだ。この世界がそれに耐えられるのにも、限界がある。本来の目的を果たさなくては」
「ドゥーレンを、チャガンを捜す?」
「うん。こっちの世界に行こうとすると、いつも必ずキョエンの斎場に出てしまう。でも捜すためには、これ以上この地に留まってアクタを待つことは出来ないから。そんな時、出会ったんだ。ようやく見つけた。成田さんがアクタ・ケレイトアだよ」
「私が、アクタ……」
 初めてその名前を口にした。昨日からずっとこの名前で呼びかけられていたけれど、良く分からないまま問いただしもしなかった。あらためて口にすると、不思議な感じだ。妙に懐かしい響きがする。以前から時々沸き起こっていた、心のざわつく感覚がよみがえる。
「思い出した?」
 そう問いかける飯島君の瞳の強さに耐え切れず、目を伏せる。そのとき、風が自分の横を通り抜けていくのに気がついた。
 早春の夜の街の中から、一瞬にして夏の草原へ。日差しをさえぎるのはわずかばかりの木くらいで暑いけれど、乾燥していて適度に風が吹いている。記憶はまだよみがえらないけれど、風の心地よさに、すでに自分がこの環境に馴染み始めているのを知った。
 でも、
「一つ教えて」
 状況に流されて、何も考えずに行動に移すのは嫌なんだ。
 飯島君の説明で、ようやくおぼろげながらも一連の出来事が分かってきた。でも、まだ聞きたいことは沢山ある。その中でも特に最初に押さえておきたい疑問があった。
「ドゥーレンを探して新しい玉を、チャガンを持ってキョエンに戻る。それが目的で、今、ここにいるのは分かった。でも、その後はどうなるの? 私達、目的を果たしたら元の世界に帰ることが出来るんだよね」
「え?」
 まるで不意打ちを喰らったかのような彼の表情に、私の不安は一気に膨れ上がった。
「帰ることは、出来ないの?」
 昨夜の、家から出る時に見たパパの姿を思い出す。あれから半日、今頃パパはどうしているだろう。
「飯島君は、帰るつもりがないの?」
 重ねて聞くと、彼は困ったように眉を寄せた。
「考えて、無い。チャガンを斎場に祀らなければ、最終的にこの世界は崩壊する。でも、きしみはすでに起きているんだ。壊滅状態の「玉の造り手」の立て直しとか、キョエンの再建とか、チャガンが気を鎮めた後にもやることは沢山あるよ。少なくとも俺は、帰ることなんて考えた事無かった」
「そんな……。でも、帰れないってことでは無いんだよね?」
「分からない。とりあえず現段階ではあちらの世界へはもう戻れない。昨日俺達二人が来たことによって、また気のバランスが狂い始めている。何かするなら、チャガンを祀って気を鎮めてから、玉の力を借りるのが一番確実だと思うけど」
「そんな……」
 もう一度つぶやいて、唇をかみ締めた。
 前半の答えに足元が揺れるような思いがしたけれど、飯島君の考えは明確だ。余分な可能性は含まれないから、自分がしなければならないことがいやでも導き出されてしまう。
「……帰るためにも、ドゥーレンを探して、チャガンを持ってキョエンに戻らなくてはいけない」
「そういうこと」
 きっぱりと言い切る飯島君がなんだか憎たらしくなって、にらみつけてしまった。
 物心つく頃から少しずつ分かり始めて覚悟を決めているならともかく、私にとってはすべてが突然の出来事だ。それなのに、ここに残るのが当たり前みたいな言い方をされている。思いやれとまでは言わないけれど、もうちょっとこちらの気持ちを想像してくれても良いんじゃないのかな。
「他に何か質問ある?」
 むっとした表情のままでいたら、素っ気なくそう聞かれてしまった。なんだか飯島君も、いつの間にか不機嫌になっている。
「なんでそんな聞き方するの?」
 反射的に聞き返すと、さらに表情が険しくなった。
「俺の話すことは終わったから。他にどう聞けと言うんだよ」
 うっわ、冷たい言い方。って、ちょっと待って。また喧嘩になるの? 私達。
「あのさぁ」
 それならいっそ、
 と覚悟を決めてゴングを鳴らそうとした瞬間、突然後ろから叫び声が聞こえた。
「あーっ、俺のポテチーっ!」
「え?」
「空になってるっ。ジン! てめー、俺のポテトチップス食いやがったなっ」
 馬から下りると、ものすごい勢いでオーロが走ってきた。
「あれって、……もしかして本気で怒っている?」
 あまりの迫力に、思わずつぶやいてしまう。私の疑問を受け、飯島君は後方の人物に目を向けると肩をすくめた。
「オーロのじゃないだろ。アクタが買ってきたんだから」
「でも食ったのお前だろ。ジン、顔に似合わず大食らいなんだよっ。ったくよぉ」
 袋の口に顔を突っ込み、はぁっと盛大なため息をつく。オーロの心から残念そうな表情に、直前までの私のやる気がそがれてしまった。
「ポテチ、好きなんだ」
 気が抜けたついでに本人に聞いてみる。
「っていうか、ここに売ってないって思うと余計に欲しくならね?」
「だからそれ、オーロのじゃないってジンが言っていたでしょ。アクタのなんだからさっさとあきらめてよ、鬱陶しい」
 面倒くさそうなその声に振り向くと、馬から下りたエシゲが歩いてきた。
 さっきの出会いではきちんと見る余裕は無かったし、馬上だったから分からなかったけれど、とても小柄で華奢な感じのする女の子。黙っていればふんわりとした雰囲気で可愛いのに、話し言葉はずいぶんと辛らつだ。
「で、説明は済んだの?」
 そう聞くと、エシゲが足元に転がるTシャツを飯島君に向かって放り投げる。
「済んだ」
「記憶は?」
「戻らない」
 相変わらず機嫌が悪そうな飯島君の態度。まるで思い出せない私を責めているみたい。
「そんな急に言われたって、思い出せないよ」
 今までの勢いはそがれてしまったから、何とか反論はしたものの自然と視線が落ちてゆく。そんな私に真正面から向き直り、エシゲが淡々と言い切った。
「あの馬鹿はちょっと拗ねているだけ。気にしなくて良いから」
「馬鹿?」
 やっぱりきついぞ、この子。
 ギャップに慣れずに戸惑うと、彼女は自分の放った言葉に、うんとうなずいた。
「約十八年振りに会えたからって、一人で盛り上がっているんでしょ。まあ、それは私達も同じだけれど」
「え、あの」
 到底盛り上がっているとは思えない態度でそう言われ、どう返事して良いか分からずに口ごもる。その横でオーロの声がした。
「なんか、もっと盛り上がっているのがやって来たぞ」
「え?」
「アクタ!」
 聞き返す間もなく、前方から犬と共にやってくる男の人にそう叫ばれると、がしっと抱きつかれた。
「うわっ」
「アクタ・ケレイトア!」
 その後は何か一気に語りかけられたのだけれど、何一つ理解することが出来ずにただ抱きしめられるだけだった。丸顔で、がっしりとした体つきの東洋系成人男性。どこで区切れるのかすら分からない、外国の言葉。言葉が通じてコンビニの話も出来るオーロやエシゲと違って、明らかに「異世界」の人だ。
「あの、ちょ、ちょっとすみませんっ」
 彼の目に涙が浮かんでいるのを見て、焦ってしまった。
「一体これはなんなの?」
 困ったように辺りを見回すと、そこでようやく男の人が体を離してくれた。
「申し訳ない、です。少し興奮してしまいました。とても、嬉しかったので」
 まだ少し分かりづらいけれど、今度はきちんと日本語になっていた。というか、日本語に聞こえるようになっている。
「これは?」
「術を使って話さないと、聞き取りが出来ません。つい忘れていました。久しぶりです、アクタ。私はあなたの甥のジハン。ジハン・ケレイトナムです」
「甥……?」
 またもや出てくる新しい関係に、いい加減混乱が始まっていた。
「ああもう、誰か説明をしてーっ」

「基本的に「玉の造り手」というのは祭祀集団だから、玉を護ったり造ったりする力があると判断されれば、誰でも造り手の一員とされるんだよ。だからみんな、出身地がばらばら。たまに西大陸の人間も混ざっていたし」
 あれから十数分後、木陰にみんなで車座になり、オーロの説明に耳を傾けていた。
 何で俺が、とか、面倒くせーとつぶやきながらも、結局こうして解説をしてくれる。オーロの面倒見の良さがあらわれていたけれど、他に話してくれそうな人がいないというのも大きかったかも。的確に説明するのはエシゲが上手そうだけれど、彼女にその気は無いみたいだし、飯島君はさっきからずっと黙ったままだ。
「やっぱり大陸が違うと遠いの?」
「当たり前だろ。そこら辺は、俺達のいた世界もこっちの世界も同じだよ。で、アクタはここ、東大陸の草原の民。遊牧で暮らしているケレイト一族の出だ。キョエンから北側、凍土の手前までは、ほぼ彼らの世界だな」
「広いね」
 ぼんやりと辺りを見回してつぶやいたら、オーロにふきだされてしまった。
「広いんだよ」
 明らかに面白がっている口調だ。
「十八年前に前の玉が壊れてから、人々は気の流れを制御することが出来なくなってしまった。一番その影響を受けたのは、もちろんキョエンだな。人が住める場所じゃなくなって、誰もがいなくなってしまった。今やこの地に立ち入るのはケレイト族の、気を読む力を持つ術者、ジハン以外は皆無だよ。あの斎場、嫌な感じがしただろ?」
 そうたずねられ、思い出す。じっとりとした空気で居心地の悪い、噴水のある中庭。荒れ果てたいくつもの部屋。台座に向かって走っていったのは、そういったものから逃れたかったから、というのもあるのかもしれない。
「うん、変だったかも」
 こくりとうなずくと、エシゲが口を開いた。
「私は駄目。こっちに来るときはどうしてもあそこを使うしかないけれど、それ以外は極力キョエンにいるのは避けているから」
「今回の出迎えも俺に行かせたしな」
 オーロのわざと嫌味っぽく放った言葉に、斎場での彼の態度が重なった。確かにあのとき、早く場所を移動しようとしていたっけ。
「二人とも、そんなにキョエンが嫌なんだ」
「好き嫌いじゃなくて、あそこは耐えられない場所なんだよ。俺達だけじゃなくて、すべての生き物がな。
 キョエンは気の流れが一定しない。気が暴走している。前世の俺達が死んだ後も何度か新しい玉を祀ろうとしたらしいけれど、結局すべて失敗して、よりいっそう気の流れを狂わせることになってしまった。そしてそれはキョエンやこの東大陸だけでなく、この世界すべてのバランスを崩すことになってしまっている」
「キョエンにチャガンを祀らないと、いつかこの世界は崩壊する?」
 さっきの飯島君の台詞を口にする。
「いつかじゃなくて、近々ね」
 肩をすくめてエシゲが答えた。ちらりと隣に座る飯島君を横目で見るけれど、彼はずっと黙ったままだ。
「ともかく、そんな見捨てられたキョエンだけれど、俺達とこの世界を繋ぐのはあの斎場だけだ。ケレイト族がいなかったら、俺達は玉を捜す前にまず、ここで生き延びる方法を考えなければならなかったから。ジハンには感謝だな」
 オーロの終わりの言葉に、ジハンがにこやかに微笑んだ。あなた達の話だからと言い置いて、彼は会話に参加せずに忙しく働いていた。彼が乗ってきたという二頭立ての牛車からブリキの水筒を持ち出して、お茶を注いでくれていたんだ。
「五年ほど前、初めてこの人達を見つけました。生まれ変わりの話を聞いたとき、アクタが戻ってくると考え、大変嬉しかったです。アクタ・ケレイトアは一族の誇りです。玉を護って死んだあなたは、ケレイトに継ぐ勇者とされていますから」
「ケレイト?」
「一族の祖。我が部族を発展させた勇者です。彼も玉を護り、世界を救った」
 丁寧に答えてくれるジハンに曖昧にうなずいて、誤魔化すように出されたお茶をすする。とりあえず、自分がとんでもない立場の人間に祭り上げられていることだけは理解した。
「……勇者、ね」
 こっちの世界に来てしまったってだけでもかなり動揺しているのに、大丈夫なんだろうか、私。
「情けない顔だな、アクタ」
 そんな言葉に顔を上げる。私を見て面白そうに笑っているオーロに、さっきから気になっている事を聞いてみることにした。
「オーロ達も、生まれ変わってこっちに来たんだよね?」
 ジハンという生粋の、こちらの世界の人間を見てよく分かった。オーロとエシゲ、二人は私と同じ世界の人間のはずだ。
 人工的に脱色され、短く整えられているオーロの髪の毛。きれいに手入れされているエシゲの眉。さすがにこの環境で化粧やヘアワックスまでつけていないけれど、どう見たって学校内や街中で見かける同世代の日本人だよ。それに上半身は民族衣装だけれど、よく見れば下は二人ともジャージ素材のパンツにブーツはいているし。
「そうだけど」
 あっさりとうなずくオーロに、さらにたずねてみる。
「名前は? なんていうの?」
「オロム・アルスン」
「私はエシゲ・ポンボ・ナムニ」
「そうじゃなくて」
 素で答える二人に、どう聞けば良いかと悩んで言葉を切る。
「私の名前は成田真子。前世はアクタ・ケレイトアという名前かもしれないけれど、現在は成田真子。ジンは飯島拓也君。それじゃあ、二人は?」
 ぴくりと、飯島君が身動きしたのが感じられた。さっきから私が話すたびに、不機嫌オーラを出してくる。気にしていられないからあえて気付かない振りしているけれど。
「小笠原、美幸」
「藤崎晴彦だけど」
 一方この二人はというと、なぜ私がそんな事を聞くのか分からないといった表情だ。
「そっちの名前では呼ばないの? なんで?」
 今の自分がこうして生きて存在しているのに、どうして前世の名前で呼ばれるのかが分からなかった。前世に自分が存在していた世界に戻るって、そういうことなんだろうか。
 でも、どうもこの質問はこのメンバーの中では、ずれた内容だったらしい。
「……私達の、過去の記憶は繋がっているから。私達の中で、まだ前世というものは終わっていないから」
 すっとエシゲの目が細められ、静かにそう説明される。
「でも、今は小笠原美幸って名前なんだよね?」
 言いながら、少しずつ語尾が小さくなっていった。飯島君だけじゃない、この場の空気がどんどんと冷えたものに変わっていく。なんとなく、自分が地雷を踏んでいることには気が付いた。でも、中途半端に止めることは出来ない。
「あの、小笠原さんのことエシゲって呼ぶのが嫌って話じゃないの。ただ単に、私はアクタと呼ばれるのは困るな、ってだけで」
「なんで?」
「だって、今の私は成田真子なのに、わざわざ前世の名前で呼ばれるのって、実感がわかないよ」
 なんだか駄々っ子みたいな言い方になってしまって、嫌になる。冷えた空気のまま、誰も何も話そうとしないのも、居たたまれなかった。
「それにみんな、元の世界に戻ろうって思わないの?」
 問いかけも小さくなって、私は手に持っていたお茶碗をぎゅっと握り締めた。
「私は、帰りたいよ」
 その言葉に答える人は誰もおらず、沈黙だけが続いてゆく。
「あなたがナリタ・マコでも、私は構わないですよ」
 もうアクタでも何でも好きなように呼んで良いから、早く帰してほしい。そんなことを思った瞬間、助けを出してくれたのは意外にもジハンだった。
「え?」
「ジハン、いいの?」
 エシゲこと小笠原さんの短い問いかけに、びくりとする。ジハンは軽く肩をすくめると、私に向かってうなずいた。
「今が何と呼ばれようとも、前世がアクタであるならば、ケレイトの末裔であることに変わりはありません。私はあなたが呼ばれたい名前を呼びますよ」
「……ありがとう」
 彼の言葉にほっとして、感謝の言葉を口にした。そんな私の態度があまりにも分かりやすかったのか、今までずっと黙っていた飯島君が突然話し出す。
「分かった。アクタとは呼ばない。帰る方法についても、この件が済んだら一緒に考える」
「飯島君」
「拓也」
「へ?」
 反射的に聞き返し、目をしばたかせる。そんな私に、むっとした表情のままの飯島君が宣言をした。
「俺の今の名前、拓也だから。サイムジンが嫌なら、そっちで呼んで。俺もこれからはアクタとか成田さんとか言わない。真子って呼ぶから」
「え? ああ、はい」
 どう反応して良いか分からず、間の抜けた返事をする。飯島君、じゃない、拓也はそんな私をちょっとの間見つめると、立ち上がって歩き出した。
「ジハン、馬借りる。俺は先に行く」
「分かりました」
 穏やかなジハンの返答を背に受けて、さっさと彼は行ってしまった。
「……何、あれ?」
 思わずつぶやくと、隣でああとうなずく声がした。
「だから、拗ねているのよ」
「拗ねているって?」
 意味が分からず、聞き返す。
「ジンの、拓也のつもりで想像すればわかるでしょ。前世の最後の記憶が、自分をかばって死んだ仲間の死に顔なんだもの。ずっとその相手を探していて、ようやく見つけたっていうのに、相手はきれいさっぱり忘れているわけだし。さっさと帰りたがっているし。ま、仕方ないんじゃない? 許してあげてよ」
 妙に達観した彼女の表情に、ついため息をついてうつむいてしまった。
「覚えのないこといっぺんに言われたって、こっちだって正直、困る」
「まあな」
 軽く同調する声とともに、オーロに肩をぽんと叩かれた。
「真子にとってはこれからだもんな。けど、早く思い出して欲しいって思っていること、忘れるなよ」
「……うん」
 素直にうなずいてから、動きが止まった。
「真子?」
「拓也にだけ言わせるわけにはいかないだろ。合わせてやっているんだよ」
「じゃあ、オーロはヒコね。私も美幸で良いわ」
 きっぱりと言い切る彼女に、すかさず突込みが入る。
「晴彦だって」
「長いのよ。オロムだってオーロって言われていたんだから良いでしょ」
「じゃあサイムジンはどうなんだよ」
「ジンは拓也でしょ」
「……たっくん?」
 ついぽろっと言ってしまった後、三人で顔を見合わせた。
「有り得ねー」
 真っ先にヒコが笑い出す。一緒になって笑ううち、しだいに心が軽くなってきた。
 現に、別の世界に来てしまったんだもの。一刻も早く帰るためにも、いつまでも落ち込んでいたり戸惑ってばかりもいられない。
「さて、それでは出発しますか?」
 立ち上がり、そう声をかけるジハンにあわせ、慌てて立ち上がった。
「ドゥーレンを探すの?」
「それもあるけれど、その前に立ち寄りたいところがあります」
「立ち寄り?」
「雨乞いの祭りがあるんだよ。ケレイト族の、年に一回のお祭り。ドゥーレンを探す前に、まずそこからスタートな」
 そう説明をしながら、ヒコが軽々と馬に乗る。私は問いかけるようにジハンを見つめた。
「旅を始めるにあたって我が一族の長、あなたの、アクタの養父シャラブに会っていただきたい。それが、私があなた方と旅を共にする、唯一の条件です」
 ジハンの説明に、こくりとうなずく。参加したばかりで何も分からない自分に、異論なんて無かった。でも、現状の把握くらいはしておきたいな。
「そこは、ここからどのくらいのところにあるの?」
 特に意識したつもりは無いんだけれど、場所を聞いたのだから距離で答えが返ってくると思っていた。
「五日ほど北西に行った、ハダクの丘と呼ばれる場所が会場です」
「五日ーっ?」
 一瞬、言われた意味が理解できずに繰り返してしまった。五日? 五日って言った、今?
「ここからこの編成で行くと、オボ山を目指した方向に五日ほど進むと辿りつけますよ」
 ごくごく普通にそう返すジハンについてゆけず、ひきつった笑みを浮かべてしまう。目的地に行く前に五日かかる場所に行くって、本気なの?
「大丈夫よ。私達がドゥーレンを探そうとしている場所もそっちの方向だから」
「美幸」
「二泊三日で帰れるような、そんな旅ではない事だけは、覚悟しておいて」
「はあ」
 あっさり言い切られ、うなずくしかなかった。でも、本当に始めるしかないんだ、私。
「ほら、行くぞ」
「うん」
 ヒコの掛け声に急かされて、牛車に向かう。牛といって良いのか、ヒコと拓也が乗った馬達に比べても大きい体格の二頭立て。フェルト製の天幕がかかった荷台には、水桶やら木箱などよく分からない荷物がぎっしりと詰まっていた。そこに美幸と二人で乗り込んで腰を下ろす。荷台の先頭でジハンが手綱を掴むと、牛車ががたごとと動き出した。その足元で犬が誘導をするかのように、元気に駆け回っている。
「始めるしか、ないんだ。私」
 荷台からこの草原を見回して、小さくもう一度つぶやいてみる。風が荷台の中を通り抜けていった。

 ここから、私の旅が始まった。


-第一章 終わり-