遠い記憶

2.草原の章


その2

 山羊と羊、合わせてどのくらいいるんだろう。百とか二百とか、よく分からないほどの数の家畜の群れ。それをまとめるように馬に乗った人影が三人ほどいて、牛車の列が群れの真ん中あたりをゆっくりと進んでいる。一頭立ての牛車は、二頭立ての私達のような荷台の中でくつろげるスペースも無く、幌も掛かっていない。そのかわり荷台の後ろにも同じく荷台が連結されていて、沢山の荷物がぎっしりと紐で括られていた。それが三台。まさに移動をしていますといった感じ。今まで私達の歩みをのんびりしたものだと思っていたけれど、こんな家畜連れの大所帯に比べると、こちらは遥かに身軽で機動力もある。じりじりと先頭の車両に追いついたところで、ジハンが声をかけた。
「バトバヤー!」
 呼ばれた御者が慌てて牛車を止める。そんな光景を好奇心を押さえきれずに、見つめていた。考えてみれば、この旅の仲間以外に初めての人達だ。
 ジハンが話しかけると、バトバヤーがうなずきながらこちらの荷台を覗き込む。ジハンの肩越しに目が合ったので思わずぺこりとおじぎをすると、慌てたように何かを言われた。
「何言っているんだろ」
 とりあえず私を見て反応したのは分かるけれど、だからこそなんと言われたのか気になってしまう。
「アクタ・ケレイトアが戻ってきたって言っているのよ」
 同じように荷台から外の光景を眺めていた美幸が、横から解説をしてくれた。
「言葉が分かるの?」
「術を使えばね」
 驚いて聞いたのに、美幸はごくごく当たり前の事を話すように返してくる。
「言いたい事を言うのも聞くのも、基本的には同じことだから。普段ジハンが使って話している術を、今は私達が反対に聞くほうに使えば良いし」
「そういうものなんだ」
「原理が分かったら、あとは実践。もう聞き取りできるでしょ」
 素直に感心していたら、さらりと言われてしまった。
「へ? 出来ないって」
 ぶんぶんと手を振って否定する。
「何で? 術使えるでしょ?」
「誰が?」
「真子が。移動で術使っているじゃない」
 確かに術を使って移動をすることは出来るようになっていたけれど、あれはあくまでも拓也に誘導されているから出来ているだけだ。
「何で移動できているのか、自分でも分かっていないんだもん。術を使えと言われても、どうすれば良いのか分からないよ」
 焦って反論をしたら、呆れたように美幸がため息をついた。
「大変だわ」
 何が? と思ったけれど、わざわざ聞くのもなんなので、あえて黙る。美幸はそんな私を気にする風でもなく、視線を外に戻してジハン達の会話を聞いていた。微妙な空気がこの場を支配する。
 彼女にとっては何気ない一言。でも私にとっては堪える一言。やっぱり、記憶が無い人間をいちいち相手にするのは、面倒くさいよね。
 ひそかに落ち込んでいたら、ジハン達の会話が途切れたところで、急に美幸がこちらを振り向いた。
「彼らは途中の草場に家畜を置いてから丘に向かうから、先に行ってくれって。シャラブはもう着いているはずだって」
「え?」
「分かった?」
「うん」
 中途半端にうなずいて、また黙る。でもやっぱりうやむやにしたくなくて、思い切って聞いてみた。
「私、……足手まといだよね」
「なんで?」
 速攻で返されて、その勢いに言葉が詰まる。
「だって、記憶が戻っていない。いちいち説明されなくちゃ分からないし、術も使えない。馬にもろくに乗れないし。面倒くさくならない?」
 拗ねた喋りになっているなとは思ったけれど、今更取り繕うことも出来ない。美幸はそんな私をじっと見つめると、淡々と言い切った。
「面倒くさいかどうかって聞かれたら、面倒なんじゃないの」
 その直球な言い方に、顔が引きつった。やっぱり、そうだよね。
 目を合わせていられずに、うつむこうとする。その瞬間、美幸が同じ口調で話を続けた。
「でも、面倒なのはみんな同じでしょ。一番面倒なのは、一回殺されて死んだっていうのに、わざわざ生まれ変わってまでこの世界救わなくちゃいけないって事なんだし。真子と私達の差は、その思い出しが出来ているか今やっているかだけの話しでしょ」
「え?」
 いいの? そんなこと言っちゃって。
 呆気に取られて思わず彼女の顔を見つめると、ふっと笑って肩をすくめられてしまった。
「大変だよね、真子も。まだ思い出してもいないうちから、こっちのペースに引き込まれているんだもん」
「大変って、そういう意味?」
 さっきつぶやかれて、一人傷付いていた言葉の意味を聞き返した。問われた本人は何を確認されたのか良く分かっていないらしく、小首をゆっくりと傾げてみせる。
「とりあえず覚悟はしておいた方が良いとは思うけど。私達、有名人だもん。特にアクタはね。地元出身のスーパースターでしょ」
「スーパースター」
 環境が環境だけに、里帰りをして熱烈歓迎されている外国人力士を思い出した。駄目だ。余計に自分とかけ離れていて、想像が付かない。
「直に分かるから」
 その言葉で、美幸はこの話題を終わらせてしまった。


 しばらく進んでいくと、次第に牛車や馬に乗った人達の姿が見受けられるようになってきた。やはり二頭立てはほとんど無く、一頭立ての牛車ばかり。乗り合いをしているのか、何人もの人達が荷台に乗り込みこちらを振り返る。
 昨日辺りから見え始めていたなだらかな山が目的地のハダクの丘で、そこに付く頃には牛車や馬の数はかなりのものになっていた。広大な土地にいるためどうも数の感覚がつかめないけれど、美幸の話だと毎年五、六千人くらいは祭りに訪れるらしい。
 丘に近付けば近付くほど、人の数とともにテントの数も増えてくる。簡易型の天幕だけ張られたものがほとんどだけれど、たまにきちんと設営されたタイプも見受けられた。円筒の形をした、天井が丸く膨らんだ白いテント。パオとかゲルとか言われている、あのタイプ。その組立作業や近くでくつろぐ人達が、私達の牛車を見つめている。
「注目されてる?」
「スーパースターだから」
 少しずつ緊張してくる私とは反対に、美幸はすっかりこの状況を面白がっているみたいだ。
 私達の牛車は丘の手前まで進んでいくと、一番奥で構えていたゲルまで辿り着いた。明らかに大きさが他のゲルとは違う。お祭りだけに社務所のような雰囲気で、骨組みに屋根だけついて、壁面はきれいな布で飾られていた。社務所ゲルの周りにも通常のゲルがいくつもあって、色んな人達が忙しそうにそれらから出たり入ったりをしている。いかにもお祭りの準備をしていますといった様子だ。
「さあ、降りて」
「拓也達は?」
「ここからしばらくは、男子とは別行動」
 美幸はそう私に声をかけると気楽な様子で牛車から降り、手前のゲルに躊躇無く向かっていった。慌てて私も降りるけれど、馬の鞍を外している拓也とヒコの前で立ち止まってしまう。
「美幸は先に行ったぞ」
「でもみんなは?」
「俺達は良いんだよ。準備の手間が違うんだから」
 ヒコにそう言われ、ようやくゲルの中に入る決心がついた。踏み込むと、美幸の隣にとりあえず立ってみる。
「ホンジ、アクタを連れてきたの。よろしくね」
 ゲルの中、働いていた女性三名の手が止まり、こちらをゆっくりと振り返った。
「アクタ?」
 リーダー格らしき年配の女性につぶやかれたので、とりあえずうなずいてみる。
「あの、よろしくお願いします」
 無言でうなずくだけというのも感じが悪い気がしたので、そう付け加えてみた。その途端、女性の表情が崩れ、一気に泣き顔になってしまった。
「うわっ、あの」
 三人の女性が口々に何かを言いながら私に向かって膝を折り、土下座に似た動作をする。
「まさか生きてお目にかかれることはないと思っていたって言っている。感動しているよ」
 相変わらずあっさりとした美幸の解説と、目の前の彼女達の盛り上がり様。どう対応して良いか分からず、おろおろとしてしまった。
「とりあえずシャラブに会おうと思っているの。いきなりアクタを連れて行くのもどうかと思ってこっちに寄ったんだけれど、着替えとかお願いして良い?」
 あくまでもマイペースな美幸の話しに大きくうなずき、ホンジと呼ばれた女性が一歩私に近寄る。目頭を押さえ、小さく鼻をすすりながらも、彼女は私を見つめ微笑んだ。
「……よろしく、お願いいたします」
 何年振りの親戚のおばさんに再会すると、こういう感じになるのかな。たとえ記憶は無くてもなぜか懐かしい感じがするのは、彼女の心のこもった笑顔のせいなのかも知れない。そんなことをぼんやりと思っていたら、手をぐいと引っ張られ、ゲルの奥へと引き込まれた。
「さあ、ここからが大変」
「ええ? 何が?」
「着替えよ。こっちの服って、普段着る分には簡単なんだけど、本格的に装うとものすごいことになるから。覚悟してね」
「って、どんなよっ」
 焦る私に構わず、箱積みの引き出しが次々と開いて、中から色とりどりの衣装が引っ張り出される。それらを順々にあてがわれ、試された。
「どういうのが好みかって、聞かれているよ」
「好みも何も、分からないよ」
「お任せするって、ホンジ」
 その言葉にホンジが嬉しそうに笑い出す。
 つやつやとした絹布に細かく刺繍が施された生地や、複雑な織り目で柄が入っている生地。こちらに来てから着始めたものと同じ形だけれど、生地の質が段違いに上品。そんな着物がこのゲルに置かれたいくつもの引き出しの中、納まっていた。
「あ」
 ぱっと合わせた赤紫の生地が深みがあってとても綺麗で、それを外して別のを選ぼうとしたホンジに思わず話しかけてしまった。
「これ、これが良いです。駄目ですか? 私に合わない?」
 このタイミングでこの表情で何かを言えば、たとえ言葉が通じなくても言いたいことは分かってくれる。ホンジはうなずくと早速その着物を着せてくれた。普段はつい忘れがちなんだけれど、やっぱり私も女の子なんだ。最初は受身のはずだったのに、気が付けばこうして積極的に参加している。
「真子、次は帯ね」
 隣で同じように着物を選んでいる美幸がすかさず声をかけてくる。一つが決まれば次はさらに別のものを。もちろん下に履くパンツも忘れてはいけない。
 身長165センチの私とそれより10センチは低いであろう美幸。背丈が違いすぎる二人だけれど、全体的にゆったりとした着こなしをするこの着物では、10センチくらいの差は関係なかった。着丈に関しては帯の部分で長さが調節できるし、袖口は折り返して見せるようになっている。その折り返しの幅が狭いか広いか、そのくらいの差だ。見せるのが前提だから、裏地にも凝った生地が使われていた。
 着物を着せてもらって満足のため息をついたら、後ろから声をかけられ髪の毛をくっと引っ張られた。気が付けば、最初三人しかいなかった女性が、五人に増えている。彼女達は手に櫛やかんざしの様な物をもって、私と美幸を取り囲んでいた。
 ホンジはどうやら役目を終えたようで、後ろに下がる。代わりに私達と同年代の女の子が、こちらに話しかけながら髪の毛を梳いてくれた。
「髪が長くて素敵だって褒めているよ」
「え? あ、ありがとう」
 女の子に向かって御礼を言ったら、はにかんだような笑顔でおじぎをされた。なんだか自分が女優か何かになった気分。
 戸惑ったまま、それでも大人しく彼女達の動きを目で追っていた。鈍く光る銀製の板を髪の毛に巻きつけて、持ち上げる。途中できゅっと引っ張られたり、さらに装飾品を付けられて次第に頭が重くなってきた。でも鏡が無いから、自分が今どういう状態なのかわからない。
「美幸、今の私ってどうなっている?」
 横目で美幸を見てみたけれど、肩までしか髪の長さの無い彼女と私では、どうも装飾品の付け方が違うみたい。美幸の髪は左右に分けて束ねられ、うなじの辺りで花が咲くようにかんざしが挿されていた。全体的に清楚で可愛らしい雰囲気。美幸にとても合っている。一方の私といえば、左右に分けられた束までは同じだけれど、その束を板で補強されたり頭の上のほうで細工されたりと、加工の仕方に違いがある。
「すごい豪華。なんか花魁みたい」
「おいらんー?」
 顔が引きつってしまった。この頭の重さと相まって、土産物屋で首をゆっくり振ってお饅頭を宣伝している日本人形を思い出す。
「それって、変じゃないの?」
「いや、似合ってるって。ホンジ、アクタがどんな風になっているか気になるみたいよ」
 その言葉にうなずいて、ホンジは手鏡を渡してくれた。
「うわっ」
 頭の上のほうから左右に分けられた髪の毛が銀の板に巻き上げられ、山羊の角のようになっている。髪の毛は少しずつ小さな束を作り広げられ、その合間に銀の鎖や宝石が編み込まれていた。
「確かに、すごい豪華だ」
「こっちでは、髪は長いほうが縁起が良いからね。短い髪はそれだけ運を逃すんだって。アクタが長い髪の毛で良かったって言っている」
 自分の髪の毛が短い事を気にもせずにそう言うと、美幸は軽く伸びをした。
「最後に仕上げの化粧をして、と」
「……確かに、男子とは別行動にもなるよね、これじゃあ」
「まあね」
 そこで目を合わせると、美幸と二人、ふふっと笑ってしまった。
 正直言って、今までは美幸の淡々とした態度に掴みきれないものがあって、一緒にいてもどこか緊張している自分がいたんだ。でもこうして話していて、少しずつ分かってきた。美幸は自分のペースを崩すことはしない。それが時々他人を突き放した、冷たい態度に見えていた。でも本人にそういう意図は無いんだ。こっちが踏み込めば、きちんと応えてくれる。
 華やかな民族衣装やお祭りの雰囲気、そんなものと相まって、私の心もどんどんと晴れやかになってきた。


 私達が準備をしているうちに時刻は次第に深まって、ゲルの外に出た頃は空は夕暮れに染まっていた。ホンジの誘導で社務所ゲルの傍に立つ。美幸とホンジから教わったばかりの正式な挨拶、シャラブに会ったらまずやらなくてはいけない儀式の仕方を頭の中で復習していたら、同じく晴れ着に身を包んだ三人が現れた。
「お。頑張ってる格好だ」
「化けたなー」
 私達を見てのそんな拓也とヒコの感想に、ついふき出してしまう。そういう二人の着物だって、色合いが鮮やかでいかにも民族衣装ですって感じだ。けれど着物自体は普段も着ているせいか、浮いた感じがしない。
「みなさん似合いますよ。さすがです」
 ジハンの体から金属の触れ合う音がして、じっくりと眺めてしまう。
「ジハン、格好良い」
 思わず素直に返してしまった。
 元々ゆったりとしたデザインでもあるせいか、ヒコや拓也のような細身の体型よりも、ジハンのようにどっしりとした体躯の方が、男性の場合は似合っていた。さらには腰に挿してる剣のせいなんだろうか、いつも柔和なジハンの表情が引き締まっていて、貫禄を与えている。
「やっぱ民族衣装は地元の人間の方がしっくり来るというか、似合っているよな」
 私とジハンを交互に見ながらヒコがつぶやく。
「地元ねぇ」
 生まれ変わっているんだし、記憶も無いんだけれど、それでもひとくくりにされてしまう大雑把さがなんだかおかしい。ひとしきりお互いの姿を見て笑い合うと、ホンジが声をかけてゲルの中へと誘導する。いよいよケレイト族の長、シャラブとの対面だ。

 すでに宴会が始まって騒がしいゲルの中、ホンジが私の手を引いて入ってゆく。扉をくぐった途端、すべての人が黙り込み、こちらに視線が集中した。
 大きいといっても所詮ゲルの中、三十人ほどの人間が座っている。中央には左右の柱が立っていて、その間にある手前の台にいくつもの樽が、奥の台には食べ物がぎっしりと乗っていた。そしてさらにその奥、祭壇を背にして座る人物がいた。小柄だけれど背筋をぴんと張り、威厳に満ちている老人。シャラブだ。
 緊張で体が強張る。ホンジにうながされ、人というより目標物に向かって正座をすると、教えられたとおりに手のひらを上に向け、ゆっくりとおでこを地面に三度つけた。髪につけた装飾品が、その度にしゃらしゃらと音を立てる。
「よく戻ってきた、アクタ・ケレイトア」
 三度目の礼が済んだ後、顔を上げると老人と目があった。術を使って話しかけられる。
「シャラブ……」
 その深く穏やかな瞳に引き込まれるように、彼の名前をつぶやいた。なぜだか胸が一杯になって、瞳が潤む。挨拶の言葉も教えられたはずなのに、何も言えずにただその姿を見つめていた。
「こちらに来なさい、アクタ」
「……はい」
 手招きをされて、素直にシャラブの左横に座った。居場所が定まったのであらためてこの中を見渡すと、すべての人が私を一心に見つめている。一気にのぼせ、頬がかっと熱くなった。
「客人とジハンを中へ」
 その言葉を受け、ホンジが拓也とヒコ、美幸を中へ招きよせる。三人は静かにゲルの中央まで進み出ると、流れるような動作で礼をした。さっきまでの、気楽に笑い合っていた姿が嘘のようだ。
「この祭りの大切な時期に来ることが出来、ケレイト族の長シャラブ殿と再びまみえた事を、感謝します」
 ヒコの明瞭な発声が、ゲルの中を通り抜ける。普段のどこかひねくれた、面倒くさそうな態度からは想像も付かない、堂々としたヒコの姿。それを見つめて、思い出した。
 私がアクタであるように、この三人にも前世の名前があるんだった。今のヒコは藤崎晴彦ではない、オロム・アルスンとして存在している。そして美幸も、拓也も。
「私も「玉の造り手」の方々にまた会えた事を嬉しく思う。特に今年は我々の大切な娘、ケレイトの名を継ぐアクタを探し出してくれた。心より礼を言おう」
 その言葉に賛同するように、ゲルの中、いたるところで声が上がる。好意的な反応がすべて自分に向けられているのだと思うと、逆になんだか居たたまれなくなった。アクタが帰ってきたと歓迎してくれればくれる程、当の本人は心苦しくなる。逃げ場のない圧迫感に身を縮ませると、シャラブが片手を挙げてざわめきを制した。そのまま手を横にずらし、三人を私の座った側、左の横へと誘う。
 確かに狭い室内ですぐ横に配置はされているけれど、正面と横とでは座る位置に隔たりがある。私の知らない三人の堂々とした姿と相まって、一人取り残された気分になってしまった。つい三人をすがる様に見つめると、一瞬だけ拓也と目が合う。彼の口角がふいに上がり、きれいな笑みが浮かび上がった。
 いつものあの笑顔だ。
 その見慣れた表情に、私の張り詰めた緊張感が少し和らぐ。
 小さくうなずいて息を吐き出すと、顔をまた正面に向ける。私の意識が三人に向けられている間に、ジハンが挨拶をする番になっていた。

 腰に挿した刀を取り出すと、うやうやしく頭上に掲げ、傍にいた男性へと渡す。そしてシャラブに向き直ると一人、礼をする。堂々として、品のある動作。先ほどの三人とはまた違った、何か迫力のようなものがジハンから感じられる。けれど三度目の礼が済んでも、彼は顔を上げることなく伏したままだった。
「ジハン、よくアクタを連れて戻ってきてくれた」
 シャラブが静かに声をかけた。
「ここにいる客人達のお陰です」
 なおも顔を上げること無く、ジハンが答える。その言葉にシャラブがゆっくりと微笑んだ。
「確かに、「玉の造り手」の方々には感謝してもしきれない。だがそれとは別に、アクタよりケレイトの名を引き継いだお前が、アクタをここまで連れてきたことが嬉しいのだよ。これも風の導きがあった故のことだろう。さあ、顔を上げなさい。そしてジハンも私の横へ」
 許しを得て私とは反対側、シャラブの右隣に座るジハンを見つめながら、今の一連の会話を反芻していた。
 “ケレイトの名を継ぐもの”のアクタと、“アクタよりケレイトの名を引き継いだ”ジハン。
 確かにアクタの名前はアクタ・ケレイトアで、ジハンはジハン・ケレイトナム。シャラブも下の名前はケレイトナム、だったよね。
 あれ?
 でも下の名前って、ファミリーネームってやつではないの? ジハンはアクタの甥っ子って聞いていたから、勝手にそう思っていたんだけど。
「あの」
 すべての人が席におさまり、なんとなく緊張感も途切れてざわついた雰囲気の中、そっと目立たぬようにシャラブに声をかける。威厳はあっても決して威圧的ではないこの老人になら、自分の素朴な疑問も訊けるような気がした。
「すみません、よく分かっていないんですが、ジハンと私って親戚とかそういう関係ってだけではないんでしょうか?」
「どういう意味だね?」
 恐る恐るシャラブに尋ねたら、おや? という表情をされた。そのくだけた表情にほっとするけれど、説明のしかたに悩んでしまう。どういう風に訊けば良いのかな。相手が当たり前だと思って話している事をあらためて尋ねるのって、難しい。
「“ケレイトの名を継ぐ”というのが良く分からないんです。そういえば私の姓はケレイトアで、ジハンもシャラブさんもケレイトナムなんですよね。微妙に違うのは何でかとか……」
 だんだんとあやふやな言い方になってゆく私を見つめ、シャラブはなぜか喉の奥で笑い出した。
「ジハン。転生後のアクタに記憶が無いというのは、本当の事のようだな」
「はい」
「それでもここに戻ってきたか。さすがケレイトの名を継ぐにふさわしい娘だったというわけだ」
 ひどく楽しそうなシャラブのその表情に戸惑っていると、彼は私の顔を真っ直ぐに見つめた。
 一見穏やかそうな老人なのにその瞳は力強く、視線は私の心に真っ直ぐに入ってくる。
「アクタよ、ケレイトの名は知っているか?」
「ここの、ケレイト族を作った勇者だって聞きました」
「そう。ケレイトアもケレイトナムも、彼の名から作られた。だが、我々はその直系ではない。基本的にケレイト族は名前のみで、姓を持たないものなのだよ」
「え? でも……」
 意味が分からず、口ごもる。シャラブは相変わらず面白そうに私を観察していたけれど、深く落ち着いた口調で言い切った。
「我が一族は、先の長が次に長になる人間を選び出し任命をする。長の候補となった者はその証として、男ならケレイトナム、女ならケレイトアの名を与えられるのだ。二十四年前、私は当時十二歳だったアクタに、ケレイトアの名を与えた。そしてそれから五年後に、お前はジハンにケレイトナムの名を与えた」
 あまり考えたくも無い事実を教えられているような気がして、顔が強張った。反対にシャラブはますます面白がる表情になってゆく。
「お前は私が選んだ唯一の後継者。このケレイト族を統べる次の族長であった。そしてジハンはお前の後を継いださらに次の族長予定者だ。まあ実際のところ、お前は長になる前に玉の造り手になったので、こうして未だに私が引退もせずに長なんぞをやっているわけだがな」
「え、えーっと」
「よくぞ帰ってきてくれた、アクタ。この再会を感謝して、乾杯をしよう」
 そう言うとシャラブは立ち上がり、杯を掲げた。ホンジがすかさずやってきて、私を立ち上がらせ、杯を握らせる。
「アクタとの再開を祝して。そして良き風を祝して!」
 シャラブの言葉に、ゲルの中にいた人達が一斉に乾杯をする。多分慣用句なんだろう、同じ言葉がいたるところで響き渡り、私の頭の中でこだました。とっさに美幸を見つめると、くすりと笑い出しそうな表情で私を見ている。
 玉を護って死んだだけでも十分派手な人生送っていたと思うのに、それに加えて族長の後継者でしたか。
「地元出身のスーパースターって……」
 そんなレベルの話じゃないってば!

 声に出せない思いを、心の中で叫んでいた。