遠い記憶

2.草原の章


その3

 私が呆然としている間にも、宴会は乾杯によって仕切りなおされ再開される。シャラブにうながされ座りなおすと、なんだか急に力が抜けた。けれどこの上座という位置も、落ち着かない。いかにも主役といわんばかりに一段高く上げられて、他の側面に座る人達との差をつけられている。
 落ち着かずに妙に挙動不審になっていると、男の人が頭を下げつつこちらに進み出てきた。
「料理があります。こちらです」
 不完全で聞き取りはしづらいけれど、術を使って話してくれる。手前のお皿を指し示たので、そこで初めて料理に眼が行った。
「うわ」
 まず飛び込んできたのは塩茹でされた羊の頭部。ご丁寧にこちらを向いている。大皿にはその他にも脚とか他の部位の肉もきれいに盛り付けられ、そのてっぺんに頭が乗っていた。隣のお皿がとぐろを巻いている腸詰肉なので、それと合わせてちょうど一頭分といった感じ。
 料理の迫力に思わず硬直していると、そこから肉が切り分けられ、一人分のお皿を手渡された。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 受け取ったのは良いけれど、正直ちょっともてあます。いきなり知ってしまったおのれの立場とか緊張感とかで、ただでさえ胃が小さくなっている。その上で、この目の前で解体された肉の塊というのはきつかった。
 そんな自分の動揺を誤魔化すように、お皿の隣、さっきまで握らされていた酒盃を覗き込む。一見牛乳に似た白い飲み物に興味を惹かれ、恐る恐る口をつけてみた。
「これ、なんだろう?」
 酸味がきいて甘くない、そして飲み口をもっとさらさらにしたヨーグルトドリンクのような味だった。結構いける。
「馬の乳の醗酵酒ですよ」
 私のつぶやきに、シャラブの向こうからジハンが解説をしてくれた。
「お酒?」
 それにしてはアルコールっぽさがまったくしない。もう一回くんくんと匂いを嗅ぎながら飲み干したら、シャラブに面白そうに笑われてしまった。
「酒の度数は低いが、油断して呑み過ぎると酔うぞ」
「そうなんですか?」
 先ほどまでとはうって変わったごく普通の会話に、内心ひとごこちつく。つい気が緩んで素の表情になった途端、最初に料理を勧めてくれた人が、すかさず馬乳酒を注ぎ足してきた。慌ててよそゆきの笑顔に戻り、会釈を返す。
 食事に手を出さない上にさらに飲み物も、なんていったらさすがに雰囲気悪くなるよね。
 いかにも日本人な言い訳を自分にしつつ、飲み進めた。飲み干すまではしなかったけれど、とりあえず口をつけて杯を置く。その途端、待ち構えていたかのようにまた注がれた。
 え? と思って顔を上げると、今度は別の人だった。感激してなんだろうか、泣き出しそうな笑顔で私に話しかけると、おじぎをして去って行く。その杯を一口だけ飲むと、次にまた別の人が。気が付くと私達の周り、上座を取り囲むようにゲルの中の人達が寄ってきていた。
 みんな口々にアクタ・ケレイトアの名前を口にする。男の人、女の人。シャラブのような年長者から、誰かと同伴してきたらしき子供まで。術を使って話しかけてくる人もいたけれど、そこまでされなくても気持ちは伝わってくる。みんな嬉しそうに、時には涙ぐみながら私に話しかけ、シャラブとジハンに挨拶をしてきた。
 これが、前世の私。アクタ・ケレイトアなんだ。
 笑顔が次第に張り付いて、硬直していった。
 勇者ケレイトの名を継いだ、次代の後継予定者だった娘。そして結局その座には着かず、玉を造り守る集団に入った。最後は仲間であるサイムジン・ハングを庇い、殺された。
 
 アクタって、一体どんな人だったんだろう。
 
 とても自分のことだとは思えずに、他人事のように思ってしまう。断片的に与えられるその人生に圧倒されていた。この世界に来るまでのんびりと、ごく普通の学生やっていた自分とはあまりにもかけ離れている。
 ちらりと横目で拓也達を見てみる。私と同じくこちらの世界で殺され、転生した仲間達。けれど三人の表情には戸惑いは無く、ごく物慣れた様子でこの場を楽しんでいる様子だった。
 また一人取り残されている気分になって、杯を見つめる。
「アクタ。アクタ・ケレイトア」
「あ、はい」
 いつの間に、ゲルの中央に楽器を持った人が座っていて、演奏を始めようとしている。人々の談笑は途切れず、演奏はあくまでも余興の一つらしい。
 けれど、ひとたび奏でられたその音に惹き込まれた。
 琶をもっと小さくしたような楽器を縦に置き、弦を弓で弾く。それにあわせて唄う歌は馴染みのものなのか、所々で一緒に口ずさむ人達がいた。繰り返される主旋律。何と唄っているのかは分からないけれど、聴くうちにこちらに来て目にした風景が広がってくる。心に染みこむような、それでいて浮き立ってくる音だった。
「あれは、何という曲なんですか?」
 サビにあたる部分で、いたるところから合唱がおこる。思わずシャラブに尋ねてしまった。
「ケレイトの歌だよ。我がケレイト族の始まりを歌っている。祝いの席では必ず唄う歌だ」
「ケレイトの……」
 自分の名に与えられている、その勇者の名前を口にした。キョエンからこちら、草原を支配する民族の始まりとなった人。ケレイトとその後継者のアクタ。二人の事をもっと知りたい。
 私はシャラブに向き直ると、彼を見つめて言った。
「ケレイトについて、それと私の前世について教えて下さい。私、何も分かっていないんです」
 その言葉にシャラブは微笑むと、この場をぐるりと見回した。
「ここに集まるのはケレイト族の中枢を担う者達と、「玉の造り手」だった者達だ。我らの歴史を語るにふさわしい」
 シャラブの声は響き渡り、音楽は途絶え、ゲルの中はしんと静まり返る。
「アクタよ、よく聞いておけ。我々がなぜ勇者ケレイトを奉り、その名を継ぐようになったかを」
 そこで言葉が一旦切れる。待ち構えたように、居合わせる人々からはやし立てる声が沸き起こった。シャラブはそれに片手を挙げて応えると、私の先に目線をやっていたずらっぽくくすりと笑う。
「この話は我々からみた勇者の話だ。途中、「玉の造り手」の方々には面白くも無い部分も出てこよう。先に謝っておく」
 その言葉に三人を眺めるとすでに了解済みのことなのか、流す表情で会釈を返していた。あ、でも微妙にそれぞれの表情は違うのか。
 心底関係なさそうな顔しているのは美幸で、なんとなく渋い様子なのは拓也。ヒコはどちらかというと拓也よりだけれど、それよりは多少は気楽な感じ。
 三者三様の表情を見ていたら、シャラブの話が始まった。

「ケレイトがいたのは今から三百年ほど前、先の玉から五代前のことになる。
 この草原は昔も変わらず広大で、人々はそこに散らばり各々の家族の掟の中で暮らし、大きく一つに纏め上げるものは誰もいなかった。だが、それまではそれでも問題は無かったのだよ。気候は穏やかで、家畜は夏の間に草を食み、冬に向けて肥えてゆく。冬の厳しさもそれほどではなく、春になれば繁殖し、我々は増えた分だけの家畜を市場で売り、その財で足りないものを補い冬に備える。物事が滞りなく進んでいるときは、自分だけの力でやってゆく方が快適だ。だが、大災が訪れた」
「大災?」
「大いなる自然の災いだ。一過性のものではない、一年をかけて繰り返される天候不順を指して、我々は言う。
 夏に日照りが続き草木が枯れ、家畜達を十分に肥えさせることが出来なくとも、冬の寒さがゆるやかなら何とか生きながらえさせることは出来る。その逆も然り。たとえ冬の寒さが厳しくとも、夏の間に十分肥えさせ体力をつけさせた家畜達がいれば、乗り切ることも可能だろう。だが夏の間はずっと日照り、冬の寒さが厳しかったら。家畜も我々も、生きていけなくなる。そんな過酷な天候が訪れたのだ」
 シャラブの語りはゆっくりと、私の頭に入り込んでゆく。聞き取りが出来るように術を使い話しているせいなんだろうか、昼間見た家畜の群れも思い出され、昔語りというよりも今起きている出来事のように感じられた。
「天候が荒れ、世界に満ちる気の流れが目まぐるしく変更してゆく。玉による鎮めの力が弱まっているのは明らかだった。我々は玉の交代が必要なこと、そして次の玉が定まらないまま月日が無駄に過ぎている事を身を持って知ったのだ」
 そこで言葉を切ると、シャラブはすっと顔を拓也達に向けた。
「この時、玉に何が起きていたか、そして造り手がどのような状態であったかは、そこに属する方々の方が詳しいだろう。よろしければお聞かせ願えるだろうか」
 一瞬の間合い。拓也の眉がぴくりと動く。
 わずかに考えるように視線が揺らぐと、彼は落ち着いた声音で話の後を継いだ。
「五代前の玉、ハギの鎮めは約百年続いていた。我々はその間、ハギの守りに徹していたが、いよいよ次の代の玉を選定し祀る時期に来ていた。四人の術者が選ばれ、ハギの指し示す土地へ行き、石を見つけ、玉と成す。だがここで一つ、問題が起こった。一つの斎場で祀られる玉は一つしかない。にもかかわらず四人は二組に分かれ、それぞれが石を磨き始めたんだ。
 ハギの鎮めが緩まりだした頃から、玉の造り手達は二つの派閥に分かれ、お互いに反目しあっていた。両方の派閥を考慮した術者の選出は、逆に二つの石を生み出してしまっていた」
 語る拓也の表情は、さらに渋さをましてゆく。そんな彼を見つめながら、私はなぜシャラブの語りが身近に感じられるのかを理解した。三百年前と今の状況、とても似ているんだ。いつまでたっても埋まらない、鎮めの座。一つだけではない石。内部抗争を始める、玉の造り手達。
「一つの石から削りだされた二つの石は、その色艶から大きさまで、寸分たがわぬほど同じだった。そして彼らは考えた。二つの石に差が無いのなら、先にハギに献上した石が次の玉になるだろう。彼らはどちらが先にキョエンへ帰り着くかを競い、すべての造り手達は彼らのうちどちらかに加担をした。敵対する相手方をキョエンに入れないようにするため、お互いにタラス湖畔に陣を構え、戦が勃発したんだ」
「タラス湖畔」
 その聞き覚えのある地名を、自分でもう一度言ってみる。初日にジハン達と待ち合わせをした、あの湖のことだ。
 拓也の耳にも私のつぶやきは届いたようで、こちらに目線をやってうなずかれた。
「戦力は五分五分。気は乱れ、争いは膠着した。この地域が、ひいてはこの世界が、平定な時代へ戻る事はもはや無いと人々は絶望した。だが、突然その動きが止まった。両者の陣から、お互いが玉であると主張して止まない石が無くなったんだ」
 ゲルの中、そこかしこからため息が漏れる。ここにいる人々全員が、拓也の話に聞き入っていた。けれど拓也はそれ以上を話することなく、シャラブを見つめる。その視線を受け、シャラブはゆっくりと言葉を引き継いだ。
「その頃、我々草原の者達は、この現状に対してどうすれば良いかを考えていた。いくら風の流れを読もうとしても、元となる気が乱れているためキョエンで何が起きているのかを知ることが出来ない。人々は集まり、相談をし、キョエンに赴くことを計画した。その一行の中に、ケレイトはいた。
 まだ成人したての彼は一行の中の最年少で、皆の雑用をするのが仕事だった」
 シャラブの話の区切りに合わせる様に、控えめに楽器が繰り返しの旋律を弾く。そこかしこで笑いが漏れ、誰かが小さく口ずさんだ。
「そう。『半人前のケレイトは、馬の世話。みんなの荷物を守るため、寝ずの番』若者の扱いは、今も昔も変わらんな」
 そんな言葉に、さらに笑いが沸き起こる。
「旅を続けること数日、一行はタラス湖畔へと辿り着いた。キョエンの生活を支えるこの湖はまた、キョエンへの入り口ともなっている。戦ともなればまず守るべき場所として、古来よりいくつかの合戦が行われていた。ケレイト達一行が着いたとき、まさにその合戦が始まっていたのだ。
 術者である彼らは、その場に渦巻く気や日々の流言などから、おおよその経緯を理解した。そしてこのまま戦が膠着すればさらに気は乱れ、東大陸のみならず、この世の崩壊が始まることも。彼らはどうすれば戦を止めることが出来るかを考えたが、それはすぐに行き詰った。キョエンは玉の造り手が斎場を守る聖域ではあるが、一方、そこを詣でる者達が持ち寄る商品であふれる交易都市でも有るのだ。他国の援軍や西大陸の傭兵の力を借り、戦士の数は両軍合わせて五万はくだらなかった。そんな中、たかが十数名の一行に何が出来るというのだろう。
 だが、ケレイトがそのとき前に進み出て、皆の前で言ったのだ。すでに起こった戦を自分達の力だけで止めようと思うから、無理が出る。そもそもの始まりを正すこと。それを考えれば良い、と」
「そもそもの始まり。って、……玉の交代、ですか?」
 真剣に考えて聞き返す。シャラブはそんな私にうなずくと、話を続けた。
「一行は二手に分かれると、術を使い、両軍の陣営深くに忍び込み、両者の主張する石を盗み出した。それを待っていたケレイトが預かり、キョエンの斎場へと持ち込んだのだ。お互いがお互いを入らせまいと警備する建物の中、ケレイトが馬に跨ったまま両腕に二つの石を抱えて、斎場まで一気に駆ける。斎場の奥、すでに玉としての寿命が付きかけていたハギにそれらを献上すると、ハギはそのうちの一つを指し示し、崩壊した。玉の代がハギからドワンに移ったのだ」
 シャラブがそこで言葉を切るけれど、誰も何も話さない。私も彼の話に引き込まれたまま、しばらく頭の中でケレイトの活躍を思い描いていた。そしてゆっくりと、素朴な疑問を口にする。
「結局、玉になったのはどちらの石だったんでしょう」
「さあな。『一つの石から削りだされた二つの石は、その色艶から大きさまで、寸分たがわぬほど同じ』だよ。どちらの側にもついていなかった我等にとって、選ばれた玉がどちらのものだったかなんぞ、見分けは付かないし興味もない。それはハギも同じことだ。ただ献上された二つの石から、玉となり得るほうを選び指し示した。それだけの話しだ。お陰で玉の造り手にとって、この交代劇は非常に後味の悪いものとなった。勝者がはっきりしないのだからな」
 面白そうに口の端を持ち上るシャラブを見て、だから最初に三人に断りを入れたんだと納得した。確かにこれでは、ケレイトにおいしい所を持って行かれっ放しだ。
「ドワンが玉座に据えられたのを確認し、一行は草原へ戻った。そしてケレイトを長として、草原の民は一つにまとまる事を誓ったのだ。ここから、我々ケレイト族が始まった。三百年前の出来事だ」
 一つの話を語り終え、シャラブが馬乳酒をゆっくりと飲み干す。ため息がそこかしこから漏れ、緊張が緩んだ。人々の話す声が、少しずつ聞こえだす。
 シャラブはしばらく黙ってそんな光景を眺めていたけれど、杯を膳に置き、私に目をやった。
「さて、ここからはお前の前世、アクタの話になる」
「私の」
 緊張で、顔が強張る。自然に背筋が伸び、少しでも話を聞きもらさないようにと身構える。

「三十六年前、アクタはこの草原の中でも北東の、凍土との境に近い集落で生まれた。祖先をさかのぼればケレイトの祖母の血筋に属するが、最終的には誰でもケレイトの一族に縁はあるのだ。血筋に関しては深くは語るまい。
 お前は小さな頃から利発で、馬の扱いに長けていた。そして何よりも、風を読む術を生まれながらに習得していたのだ」
「風を読む術?」
「この世を満ちる気を隅々にまで運ぶのは、風だよ。風が何を運んでいるのかが読めれば、その年の天候や、両大陸の世界の情勢など、今この世の中で何が起こっているのかを知ることが出来る。例えここが草原の片隅で、自分ひとりしか住むものがいないとしてもな。私がお前を知ったのも、風がお前の話を運んでくれたからだ」
 そう言いながらにっこり微笑まれ、戸惑いながらもうなずいた。時々感じていた、風が体を通り抜けると妙にざわつくあの感覚。あれも一種の術だったんだろうか。
「地方の大祭の競馬でお前が二度目の優勝を手にした年、私はお前を呼び寄せた。その時の年齢は十二歳。まだ幼い顔つきながら、真っ直ぐに私を見つめ返していた。その目を見て、確信した。私が次の長として一族の将来を託すのは、アクタしかいない。そしてケレイトアの名を与えたのだ」
 私から視線を外さず語るシャラブの瞳が、少しずつ強い力を放ってくる。先ほどまでの昔語りとは違うそれは、私の心を揺さぶりかけてきた。思い出せと、アクタであった頃の自分を思い出せと、そう心に直接ささやかれているみたいだ。
「十二の年から五年間、お前は私の元にいた。私はお前の養父となり、次代の長となるべく育て上げてきた。だが、その日々も終わりを告げた。
 始まりは、やはり気の流れだった。少しずつ荒れだした気は、玉の鎮めの力が弱まってきている事を意味していた。また、玉が代わる。だが、それはケレイト族には関係の無い話だった。
 確かに初代ケレイトは、ハギからドワンへと継承するのに貢献をした勇者だ。しかしその一方、玉の造り手達の争いを愚かなものであると露呈させ、民衆の彼らに対する信頼感を失墜させた。ケレイトの名はこの東大陸の世界のどこでも憧れを持って呼ばれたが、それゆえに今後ケレイト族が玉の造り手達と交流を持つことは有り得ない事とされていた。
 だが、アクタが十七になった年の秋、玉の造り手からの使者がやってきた。アクタを、次代の玉を造るものとして任命しに来たのだ。私は今でもその時の事を覚えているよ。なあ、サイムジン殿」
 その言葉に慌てて拓也を振り向くと、彼は何も言わずにただ深々と頭を下げていた。その横で、ヒコが面白そうに笑いながら話を続ける。
「玉の造り手側から言わせて貰えば、確かにいくら優秀とはいえ、ケレイト族の術者を一員として迎え入れるのには、抵抗がありました。何よりも、このサイムジンが一番反対をしていたくらいですし。だからこそジンは自ら使者となり、アクタの力を見極めた上で連れてこようと考えていたのです」
「そして彼はここまで出向き、お前の力を実際に見て、玉の造り手の一員たるにふさわしいと判断したと言う訳だ」
「はぁ」
 シャラブの言葉にうなずいたは良いものの、なんだか間抜けなため息しか出てこなくて、恥ずかしくなった。けれどその声は小さすぎて聞こえなかったのか、それともただ単に流されたのか、また話が再開される。
「最初は冗談かと思った。もしくは何かの罠かとな。だが、玉の造り手達が本気でアクタを任命しに来たのを知り、私は即座に断った。ケレイト族の運命を担う次の長を、みすみす他の使命になぞ借り出すわけにはいかんからな。
 だが、その時すでにアクタの考えは定まっていたのだよ。数日後、アクタは自分の生まれ故郷で行われる大祭に、私やサイムジン殿を誘った。そこでジハンを私に引き合わせた」
 ほら、ここに。
 そういわんばかりの表情で、隣に座るジハンを顎で示す。示されたジハンの方は穏やかな笑顔のまま、こちらをじっと見つめるだけだ。
「齢五歳にして競馬で初優勝したばかりの子供を呼び寄せて、アクタは私の前へと押し出した。そしてその子供に向かって、これからはジハン・ケレイトナムと名乗るが良いと言ったのだ。自身もまだケレイトの長とはなっていないのに、ケレイトの名を継ぐ称号を勝手に五歳の子供に与えおった。あのときばかりは本気で怒鳴りつけたものよ」
 笑いながら話すけれど、シャラブのその笑みに凄みがある。記憶にはない過去の自分の行動に、次第に冷や汗が出てきてしまった。
「あの、それで怒られて、私はどうしたんでしょう?」
「そこで退くような性格ではなかろう? ジハンには風を読む才がある。自分が長になったとしても、後継者としてジハンを推すのは確実だ。ならば今決めても同じことだと言い切りおった。そして、ケレイト族次代の長の座はジハンに譲る、自分はこの次の世の玉を造りに行くと皆の前で宣言したのだ」
「無茶苦茶だ……」
「やったのは、お前だよ」
 もっともな突っ込みに声も出ない。シャラブにしろジハンにしろ、面白そうに私の反応を見つめている。その表情に、ここで語らないだけでアクタが過去に他にも色々とやらかしていたであろうことがうかがえた。
 いや、でも、いくら自分とはいえ前世のことなんだし、こういうのは他人事に思っては駄目なのかな、なんて。
「お前は、風と同じだよ」
 どんどんと硬直して行く私を見つめ、ふと漏らすようにシャラブがつぶやいた。
「風を捕まえることは誰にも出来ない。一時私の元に留まってはいたが、結局自分の進むべき道を一人で見つけ、行ってしまった。キョエンで殺されたと聞き、なぜあの時もっと反対しなかったのかと悔やんだものだが、こうして転生して戻ってきてくれた。お前がこれから進むべき道は、風だけが知るのだろう」
「シャラブ」
 いつくしむような表情につい呼びかけてしまうけれど、その先が続かなかった。アクタとして、十八年振りに再会した養父に何かを言いたい気持ちはあるけれど、そのアクタであった頃の記憶が取り戻せない。
 うまくまとめられない私の気持ちを察するようにシャラブはうなずくと、ぐるりと辺りを見回した。
「お前の帰還を喜ぶのは、私やジハンだけではない。ここにいるケレイトの民すべての者が祝福をしてくれている」
 意味が分からないまま、つられて辺りを見回す。そして自分が座の中央で、一心に見つめられている存在だということを思い出した。
「あ……」
 すがるように絡んでくる、幾多の瞳。ゲルの中、誰も私から瞳を反らそうとしない。
「先の玉を失ってから十八年だ。その間、キョエンからすべての民が逃げ出し、大災は六度もこの地を襲った。気の乱れは極限にまで達し、日々の生活は辛く、ケレイト族の人口もかなり減っている。誰しもが、次代の玉を待っている。聞えるか? 外の声を」
 その言葉に反射的に耳を傾けると、うおぉという風の唸りにも似た音が聞えてきた。
「あれは?」
「外に出れば分かる」
 言い切るとシャラブはすっと立ち上がり、外へと向かった。慌ててその後を追い、扉から出る。
「な、何っ?」
 ゲルの向こう、境界線のように柵を囲った外側に、沢山の人々が詰め掛けていた。
「転生したお前を一目でも見ようと、こうしてみんな集まってきたのだ」
「嘘……」
 一気に血の気が引く。胃がまたもや縮まるのが感じられた。
「ケレイトの後継者が、玉の造り手の抗争に巻き込まれ殺された。だが今度こそ次の玉を祀るために、転生して戻ってきたのだ。これを悦ばない者はいないぞ。さあ、皆に何か声でも掛けてやれ」
 シャラブは気楽にそういうけれど、私はすっかり固まってしまっていた。
 すでに日が沈んであたりは暗い。どれだけの人数が集まってきているかなんて数えることも出来ないけれど、所々でかざされるたいまつは、かなり遠くの方でも灯っている。祭りの参加者は五、六千人だと聞いていたから、おそらくその全員がここに集まっているのだと思われた。その人々がアクタの名前を口にして、私を一目見ようと押しかけてきているんだ。
「怖い」
 こらえ切れずにつぶやいた。人々の切実な思いを、受け止めることなんて出来ない。そんな容量なんて、自分の中に無いよ。
「大丈夫」
 今にも力が抜けて膝が崩れ落ちそうになった瞬間、手を握られ、耳元でささやく声がした。反射的に顔を上げ、隣に立つ人物を見上げる。
「拓也」
「大丈夫。落ち着いて。何も言わなくて良いから、手を振るんだ」
 言われて、何も考えられずにもう片方の手を上げると、それをぎくしゃくと左右に振る。それだけであたりはざわめきに包まれ、その後歓声が沸き起こった。
「例え記憶が無くても、今はアクタとしてここにいろ。大丈夫。俺が付いているから」
 真っ直ぐ前方を見据え、拓也がささやく。
「……分かった」
 小さくうなずくと、励ますように繋いだ手をぎゅっと握ってくれた。
 
 大丈夫。大丈夫だから。
 
 心の中、何度も繰り返しつぶやいて、人々と向き合う。
 どのくらいそこにいたのかなんて分からない。シャラブにうながされゲルに戻った途端、心の底からほっとして、その場にへたり込んでしまっていた。