遠い記憶

3.鳥の章


その9


「遅れて申し訳ございません。私達が先に着けば良かったのですが」
 そう謝るイーシィは、この地方の最高権力者としての威厳に満ちていた。
「いまからポンボ・シャータの部屋へ参ります。皆様方も、こちらへ」
 実の姉のしていたことに衝撃を受けているのだろう。イーシィの顔は蒼ざめていたけれど、毅然とした態度は崩さない。鳥として現れた時の、あの頼りない雰囲気は微塵も感じさせなかった。一方のジョエは一言も話さず目を伏せたまま、ただイーシィの後ろについている。
 とっさに美幸の姿を目で追うと、無言のまま軽くうなずかれた。素直に従おうということなんだろう。
 そのまま二人の後に続くと廊下を進み、シャータの部屋の前で止まる。衛兵達は全員ひれ伏しており、今までの妨害が嘘のようだった。そんな光景を眺めながら、素朴な疑問が沸き起こる。
 こんなにイーシィって、凄い人だったっけ?
 確かに偉い立場の人なんだけれど、それでもなにかしっくり来ない。鳥の時は別として、初日の謁見を思い出してみる。あの時も、従者もいたし衛兵もいた。でも、やっぱり違うんだ。イーシィもだけれど、回りの人間の敬う態度とか緊張感みたいなものが。散々な謁見だったけれど、今思えばあれは本当に内々のものだったんだ。
 イーシィの次にジョエを見つめる。さっき北の関所で会った時とは違う、感情の読めない淡々とした姿。最初に会った時と雰囲気が違うのは、この人も同じ。
 多分、イーシィだけじゃない。このジョエがいるからこそ、みんなの態度が違っている。そんな気がした。
「お姉様、イーシィです。扉を開けさせていただきます」
 一方的に宣言をし、扉に手をかける。それを止めるものは誰もいない。
 そして大きく開け放たれた扉の向こうは、薄暗かった。

 無造作に床に散らばる布。その布ですべての窓を塞ぐつもりだったのか、やりかけのまま中途半端に窓に貼り付けられている。その隙間から日が差し込み、かろうじて部屋の中が見渡せた。
 そんな室内の正面に、シャータが一人立っていた。隅にはまるで身を潜ませるように、侍女が二人伏せている。
 ただ事ならない部屋の雰囲気に、一歩中に入って息を呑む。イーシィにジョエ、そして私達の計七名が全員部屋へ入ったところで、ジハンが無言で扉を閉めた。これから話される内容もこの部屋の有様も、人目に触れて良いものではないと判断したのだろう。
「それ以上、入ってくることは許しません」
 固い声音、早い口調。ゆとりなど感じられないその態度。初見で圧倒された、宗主の姿はここには無かった。
 苛立ちと焦りのようなものを隠そうとしない彼女は、腕に何かを守るように抱きかかえている。目を凝らしているうちにそれはもぞもぞと動き出し、顔をのぞかせた。小さな子供が片言に、息苦しさを訴える。
「ツェンバイ……?」
 イーシィが、確かめるように問いかけた。
 シャータの、二歳になる子供。未来のポンボ、エシゲ家の跡取り娘。
 薄暗く、なおかつ広い室内で目を凝らさなければよく見えない。それでもツェンバイが正装させられていたのは判別できた。赤い色調の衣装に、繊細な造りの宝飾品。こんな状況でなければ、その可愛らしさに駆け寄って頬擦りしたいくらいだ。
 シャータとツェンバイの姿に気をとられ、ただ見つめ続けてしまう。そんな私の横を通り抜け、ジョエがすっと前へ進み出た。
「シャータ様、突然のご無礼申し訳ございません。本日は緊急の用があり、イーシィ様にお願いしてここまで連れてきていただきました」
 緊張感に満ちたこの空間の中、ジョエはあまりにも自然に言葉を紡いでいた。
「以前、そう、二年ほど前です。羽根をお貸ししたのを覚えておられるでしょうか。あれをお返し願いたいのです」
「知らない。覚えておりません」
 言いながら、シャータは自分の娘をぎゅっと抱きしめる。その力の強さに、ツェンバイはいやいやをしながらぐずついた。
「覚えていらっしゃらなくても、私には羽根の行方が感じられます。あれは私の力を具現化したもの。私自身の一部でもありますから」
「知らないといったはずです! 全員ここから出て行って。早く!」
 淡々とした口調を崩さないジョエと、最初から追い詰められているシャータ。イーシィは無言で二人のやり取りを見つめている。その手がぎゅっと握り締められていた。
「ずっと、忘れていたのです。渡す相手さえ見極めてしまえば、あとはどのように使われても構わない。それが私の本質であり、ここにいる理由ですから。しかし、まさか前ポンボ職のシャータ様にそのような使われ方をされているとは思いも寄りませんでした」
「知らない。私は、知らない」
 じりっとシャータが一歩後退する。ツェンバイがまたぐずついて抗議する。ジョエはじっとツェンバイを見つめると、顔を動かさずにイーシィに呼びかけた。
「イーシィ様、私の羽根はツェンバイ様の中にございます。ですが、私では触れることが出来ません。申し訳ございませんが、私の代わりに取っていただけますでしょうか」
「触れることが、出来ない……?」
 斜め後から美幸の呟きが聞えてびくりとする。それほどまでに、彼女の声は硬かった。
 触れることが出来ないって、身分の差に細かそうなこの人達の間なら、そういうのも有りなんじゃないのかな。自分が使えていた人の身内に軽々しく触れるのは憚られるとかなんとか。そういうのとは違うんだろうか。
 美幸に質問をしようかと振り向いたけれど、その美幸が前に進み出たため口をつぐんだ。
「シャータ、なぜ自分の子にジョエの羽根を飲ませたの?」
 そう問う口調はいつもの美幸ではなく、多分ナムニの頃に戻っている。シャータは口も開かずツェンバイを抱きしめ直し、こちらを睨みつけていた。その様子に埒が明かないと判断したのか、ジョエが代わりに答える。
「気付かれたくなかったのでしょう。私の意識を反らすため、子供の存在を「うっかり」と私が忘れてしまうよう、あえて私の羽根を子供に飲ませ、異質な感覚を消していたのです」
 すでに前に出ているジョエの細かな表情までは、後ろにいる私には分からない。けれど口調には、何の感情も浮かんではこなかった。ただ事実を告げるだけ。
「シャータ、なぜ」
「なぜ? なぜだなんて、どうして聞くのです?」
 一方のシャータは、まるで感情の固まりだった。先ほどまでのだんまりはかなぐり捨て、尋ねる美幸に照準を定め、挑戦するように言葉を吐く。
「あなたが本当のナムニ叔母様なら、すぐに理由は分かるはず。ジョエが触れることが出来ないのは、何? この斎宮がエシゲ家の娘達だけで守られたのは、なぜ? この子は、エシゲ家の歴史を紡ぐ一員として生まれるはずでした。それを乱したのは、ジョエであり、ナムニ叔母様、あなただわ。あなた達が気を乱したから、この子が女児として生まれなかったのよ!」
 女児として、生まれなかった?
 言葉を反芻しながら、薄暗い部屋の中、ツェンバイを見つめる。綺麗に着飾った、可愛らしい女の子。でもそうじゃない、ってことは
「男の子、なの?」
 つい口に出し、その声が予想外にこの部屋に響いたことにはっとした。瞬間、シャータと目が合うけれど、彼女の視線は私ではなく美幸とジョエの間を彷徨う。
「私は、私の職務を全うした。ポンボとしての責任を果たし、その上で宗主になった。次に私がすべきことは未来のポンボを、次代の宗主を産み育てること。私は結婚し、身ごもり、私のすべきことを全うした。それなのに、ジョエはこの地の気を私に十分与えることを怠り、私に男児を産ませたんだわ」
「お姉様!」
「ナムニ叔母様だってそうです! 叔母様がキョエンできちんと玉を守っていれば、こんなにこの大陸の気は乱れなかった。どうしてあなた達の怠惰で私が苦しまなければいけないの? キョエンの玉を造り守るべき者と、このホータンウイリクの玉がいながら、なぜ!」
 ホータンウイリクの、玉?
 シャータの悲鳴のような声を聞きながら、話に乗っていけずに軽く混乱をしてしまった。どうしよう。彼女の言っている意味を、私だけが分かっていない。
 けれど良く飲み込めないながらにぼんやりと、ジョエの後姿を目で追っていた。
 ジョエはこの地の気を十分与えることを怠った。ジョエが男子に触れることは出来ない。そう言えば昨日、ジョエが自分で言っていた。自分では力を操作しないって。
 これらが意味するもの、指すものは……?
「拓也、ジョエは、……人ではないの?」
 自分の出した答えに自信が持てず、左隣の拓也に助けを求める。拓也は横目で私を見るとまたジョエとシャータに視線を戻し、小声で答えてくれた。
「玉だよ。このホータンウイリクの玉」
 玉?
「玉って、石なんじゃないの? ジョエ、どう見たって生きて動いている!」
 出した答えと同じであっても、すぐに納得できるものではない。抗議するように小さく叫んだら、短く解説が入った。
「化身なんだよ。この地の気を鎮めるだけの力を持つ玉は、その精を人の形とすることが出来るんだ。そして自分を探し出し磨き上げた造り手達の、助けになろうとしてくれる」
 玉を取り戻すため行動を起こされている方々を、協力こそすれ妨害することなど考えられません。
 ジョエの言葉を思い出す。
 確かに、ジョエが本当に玉だというのなら、その言葉の揺らぎの無さにも納得がいく。
 九百年前に王が犯した穢れにより、当時の玉は崩壊した。男性に触れたくない、もしくは触れられないのは、そこら辺の事情が今の玉にも影響しているからなのか。イーシィが最初に告白した、玉を扱うことの自信の無さ。そして、ジョエに対する拓也の説教。ジョエが傍にいることで変わる、従者達の敬う態度や緊張感。妙に理解が出来てしまう。
「ナムニ叔母様とジョエを責めるのはお止め下さい」
 イーシィの必死な声が耳に飛び込み、はっとした。自分の考えをまとめることに熱中し、つい目の前の状況を忘れてしまっていたんだ。
「玉の交代による内乱は、玉の造り手だけで収まる問題ではありません。そして東大陸のこの不安定な気を鎮めるため、ジョエがどれだけの力を尽くしていたのか、お姉様もご存知のはず」
 どうにかして姉の目を覚ましたい。イーシィの声からは、そんな気持ちが痛いほど伝わってくる。けれどその内容はあまりにも正論で優等生過ぎた。
「それで?」
 すっと細まるシャータの目。その表情に、反射的にまずいと思う。
「力を尽くしたのはナムニ叔母様とジョエだけではないわ。玉だけでは何も出来ない。それを造り、扱う者が必要不可欠。ホータンウイリクの宗主に次代の跡取りが生まれなければ、この地もいずれキョエンと同じく滅びてしまう。私だって、自分に出来る限りの努力をしてきました」
「……それが、エルムダウリを引き込むことですか」
 丁寧だけれど低く押し殺すような声に、隣を慌てて見上げた。険しい顔をした拓也が、シャータを見つめている。
「ジョエや妹であるポンボ・イーシィに相談もせず、密かにエルムダウリと通じていたのは、あの荷台のためですね。軍の姿が見えたとき、すぐに分かりました。あれは、玉だ」
 拓也の言葉に、呪術を掛けられる直前の景色を思い出す。十は下らない、馬車の荷台。その中央に据えられた一台を守るよう、男が立っていた。
「あの玉に、東大陸の気配はしませんでした。エルムダウリは西大陸で造った玉を、キョエンに据えようとしている。その輸送途中の補給のため、彼らはホータンウイリクを、そしてポンボ・シャータ、あなたを頼ったのでしょう」
 初めて理解する状況に、自分の中の警報が鳴り響く。
 エルムダウリがキョエンを、ひいては東大陸の気を鎮めようとする。私達の玉、チャガンではなく。
 そんなことをしたら、一体どうなってしまうのだろう。
「ただでさえ玉の不在で狂っているこの気の均衡を、さらに狂わせようとするのか? 無謀すぎるぞ、それ」
 私の疑問に答えるような、ヒコの言葉。その口調には、いつものからかうような気配は無かった。
「西大陸で造られたからといって、何が問題だというのかしら? 今までの仮の玉は力が弱すぎたから壊れただけだわ。キョエンを、この東大陸を鎮めるだけの力を持つ玉を据えれば、良いだけの話。その玉をエルムダウリが持っているのなら、それを据えれば良いのです!」
 その結果がどういうことになるのか、この世界の歴史を知らない私にでも、なんとなく想像が付く。
 万が一、西大陸製の玉でこの地の気が鎮められたとしても、後に待っているのはエルムダウリの支配。それに第一、キョエンに据えるのは西から運んだ玉なんかじゃない。
「あなたは、キョエンの玉の造り手たちが玉を探しにオボ山へやってこようとしていたことをご存知のはずです。なぜそれを無視してまで、エルムダウリと結託しようとしたのですか」
 ジハンの問い掛けに、シャータははっと短く笑った。
「遅すぎるからよ。決まっているでしょう? 十八年もの間、キョエンの玉座は定まらず、その影響はこのホータンウイリクでも現れた。いつ発見できるか分からないあなた達の玉を待って、それから私は女児を産むのかしら? 六歳になれば、私の子供はポンボ職に就任する。ツェンバイが男児だと人前にさらけ出されるのは、その時。それまでに私が新たな女児を産んでいれば、いくらでも取り繕うことは出来るわ。すでにあるエルムダウリの玉と、いつ発見できるか分からないあなた達の玉、どちらを選択するか明白でしょう?」
「事実を公表するという選択は、無かったのですか?」
 暗く硬い、イーシィの声。ぴくりと身を震わせると、シャータは妹を見つめた。
「無かったわ。宗主に男児が生まれたなんて、公表できる訳が無い」
「では、私やジョエへ相談は?」
 そう重ねて問いかけるイーシィの手は握り締められたまま、血の気が引いて白くなっている。
「すべての者に公表するのは、検討が必要でしょう。けれどその前に、なぜ私やジョエに話してくれなかったのですか」
「……その必要は無いと、判断したからよ」
 きつく、突き放した口調。シャータの表情には必要以上の頑なさがあった。
「どうして。私では頼りにならなかったから? ポンボとして、大切な事態を任せるに値しないと判断したから?」
「イーシィ」
 低く押さえているにもかかわらず、悲鳴のように胸に響く声。たまりかねて呼び掛けるけれど、彼女の意識は姉にだけ向けられて、他の音を拾わない。
「この二年間、私やジョエのすることを見ながら、お姉様は黙って自分の思い描いた計画を進めていた。こんな、世界を変えてしまうかもしれない重要なことを。本当にホータンウイリクを、ひいてはこの世界を考えるのなら、一人で勝手に決めることなんか出来ないはずです」
「決め付けないで! 私はホータンウイリクやこの大陸の今後を憂いたからこそ、宗主として決断をしただけです」
「違う。お姉様は傷を付けたくなかったのよ。宗主としてのご自分の立場を。ご自身の自尊心を!」
「イーシィ!」
 言っちゃ駄目だ。それは分かっているのに、どうして駄目なんだとか、じゃあどうすればいいんだとか、そういう具体的なことはちっとも思い浮かばなかった。ただ彼女の名前を呼ぶばかり。
 そんな緊迫した雰囲気や責め立てる声にたまりかねたのか、ツェンバイが泣き出した。部屋の中、重苦しい空気を子供の泣き声がかき乱してゆく。
「怖かったのよね」
 ふわりと、柔らかな口調。その声と共に美幸が一歩、シャータに近付いた。
「自分の身に起こったことが、そのままここホータンウイリクの将来と直結してしまうのだもの。怖くないわけが無い」
「ナムニ、叔母様……」
 虚をつかれたようなシャータの表情。美幸はそっと彼女の傍によると、その手に抱える子供の頬を撫で、引き寄せた。
「シャータ、この子の父親は?」
 そのまま彼女から子供を引き離して持ち上げると、あやすように体を揺らす。それに安心したのか、ツェンバイは次第に泣き止んだ。
「夫は、……自分の領地へ戻っています。病気がちで、静養が必要で」
 震えるシャータの声。必死で取り繕うさまに、ぎくしゃくとした空気が漂う。美幸は一拍おくと、納得したようにつぶやいた。
「そう。耐えられなくなったのね」
 何に、とは言わなかった。けれどもう、みんなが理解できている。
「シャータは一人で、耐えてきていたのね」
 その言葉に、我が子を見つめたままのシャータのひざがゆっくりと崩れ、座り込み、肩が落ちた。
「あ……」
「ごめんなさい、シャータ。あなたに負担をかけたのは、私が至らなかったから。それは事実だわ」
「ナムニ叔母様!」
 首を振り、強く否定をするイーシィを見て、美幸が優しく微笑む。
「イーシィも、不安だったものね。でも、この世界を守ろうとして頑張っていた。イーシィもシャータも、それぞれが守ろうとしたものがあって、そのための努力をしていた。ただ、それがちょっと掛け違えてしまって、別の要素が入り込んでしまっただけのこと。ね、シャータ」
 美幸はツェンバイを母親のシャータの手に戻すと、静かに言った。
「私に、いえ、私達にチャンスをちょうだい。私達が残してきたことを、やり遂げたいの。そのために、生まれ変わってここまで帰って来たのだから」
「でも! ……でもエルムダウリはすでに新たな玉を擁しています」
 くぐもり、かすれた声。興奮状態から冷めたシャータの言葉は弱く怯えていて、彼女の不安が伝わってくるようだった。
 美幸はそんな彼女を抱きしめると、安心させるよう、明るい口調で宣言をする。
「大丈夫よ。すぐにオボ山で私達の玉、チャガンを見つければいいんだもの。ホータンウイリクにいて、エシゲ家の宗主と現ポンボ職、それに玉であるジョエが協力してくれるなら、すぐに見つかるわ。そうでしょ、ジョエ?」
「私の力は、この地の気を鎮める方々のためにございますから」
 そう言うと、ジョエは感情を取り戻したかのように微笑んだ。落ち着きと無邪気さが混じった、この笑顔。ようやく自分の知っているジョエに再会したような気がして、ほっとする。
「……私は、あなた方をずっと恨んでいました」
 ジョエとは対照的な、苦しみからもがくような声でシャータがぽつりとつぶやいた。腕の中からの声に美幸は力を緩め、彼女の体を離す。現れたシャータは何かを堪えるように、眉を寄せていた。
「そう。ずっと恨んでいました。正しい玉を据えないまま荒れ果てていったキョエンを。そしてそのきっかけを作ったナムニ叔母様と玉の造り手達を。私に苦難を強いたジョエを。だってそうでもしなければ、心の均衡を保つことなど出来なかったのだから。跡継ぎが男児であったなんて、このエシゲ家の歴史にあってはならない。なんてことになってしまったのだろう。でもこれは私のせいではないからと、恨んで、恨んで。
 エルムダウリからの密使が来たのは、ツェンバイを産んだ直後。一番心が乱れている頃のことでした」
 シャータはうつむいたまま、ぽつりぽつりと話してゆく。まるで過去の自分をのぞき込んでいる様で、その姿に誰も口を挟むことが出来ない。
「すでに彼らは、キョエンに据えるための石を見つけ出し、玉へと磨き上げようとしていました。それを西大陸から運び込むための援護をして欲しいと。私はそんな彼らと結託する道を選びました。その時は、それしか方法が無いと思ったのです。そしてその直後、ナムニ叔母様が転生をしてこの世界に戻ってきたのを知りました」
 途切れる言葉。きつく目をつむり、唇をかみ締める。
「私は、……もう一度、あなた方を恨みました。エルムダウリは強大な帝国です。今更、密約を無かったことにするわけにはいかない。引き返しの付かない選択をした自分を許すには、あなた方を恨むことしかなかったのです」
 ただでさえ気の均衡が崩れ、荒れ果てたキョエン。そこに別文化の玉を無理やり据える危うさ。そしてその玉でこの地が鎮まったとしても、後に続くのはエルムダウリの支配。
 冷静になれば気付くことが気付けず、そして気付いた時はその選択の拙さに愕然とする。
 追い詰められてゆくシャータが心の逃げとして人を恨む気持ちが、分かるような気がした。
「でも、私がすべきことは人を恨むことではなく、真にこの世界に大切なことを考えること。掛け違えただけ、とおっしゃっていただきましたが、私の犯した罪は重い。この東大陸の、そしてホータンウイリクの宗主として、してはならないことをしてしまいました」
 そう言うと、シャータは深々と頭を下げ、ひれ伏した。
「私はもはや宗主と名乗る資格などございません」
 小さく震える肩。その線の細さ、頼りなさに胸が痛む。
 あってはならない男児を産んでしまった。彼女のせいではないそのことを取り繕うため道を違えたというのに、シャータは決してツェンバイを手放そうとはしていなかった。今この瞬間も、彼女は我が子を腕に抱いている。
「お姉様」
 硬い声が呼びかける。イーシィは顔を強張らせ、強く手を握ったまま、姉のことを見つめていた。
「宗主を降りることは、ポンボであり、あなたの妹であるこの私が許しません」
「ちょっ」
 反射的に声を上げて抗議しようとした途端、それを止めるように腕を握られた。すぐ右隣を振り向くと、いつの間に美幸がいて首を横に振っている。口を挟むなの仕草に、慌てて言葉を飲み込んだ。
「分かっているはずです。私達エシゲ家の人間にとって、宗主とは絶対的なもの。宗主がエシゲ家をまとめているからこそ、ポンボ職というものが確立され、このホータンウイリクで玉を扱っていられるのです」
 イーシィの表情は強張ったままだ。けれど食い入るようなその視線は、ただひたすらに姉に向けられていた。
「あなたが宗主でいたからこそ、私もポンボとして精一杯やってこれた。だから」
 言葉が途切れ、唇が震える。そこから振り絞られるのは、心からの声。
「宗主を降りるようなことを言わないで! その方向を違えてしまっただけなのなら、もう一度やり直して下さい。まだこの世界に対して出来ることは、沢山あるはずです。私は、未熟者です。お姉様という支えが無ければ、どうしていいのか分かりません」
 こらえ切れないように、涙が一粒二粒とこぼれてゆく。それは見る見る間にあふれ出し、小さくしゃくりあげるような嗚咽も漏れ始めた。先ほどまでの責任感や威厳で固められた姿が消えてゆく。残ったのは、頼りない少女の姿だった。
「イーシィ」
 戸惑うようなシャータの呼びかけに、イーシィは言葉を続ける。
「駄目なんです。私だけでは、玉を扱うことが出来ません。ジョエは気が付くとすぐどこかに行ってしまうし、何をしているのか何を考えているのか聞いても答えてくれないし」
「あの、イーシィ様」
 心底どうして良いのか分からない表情で、ジョエも呼びかける。けれどイーシィは強くかぶりを振り、それ以上の言葉を拒否してしまった。
「お姉様もずっと難しい顔してよそよそしくって、私とお話してくれなくなってしまったし、この地の気を鎮めるのも日に日に難しくなってくるし、自信も無くって、私……」
「ごめんなさい」
 妹に近づくと、シャータはツェンバイを左腕に抱えたまま、右腕でイーシィを抱きしめる。
「私は、あなたまでも追い詰めようとしていたのね。自分だけじゃない。一人で問題を処理しようとして失敗してしまったのに、さらに妹にまで同じ目にあわせようとして」
 自分の肩に額を摺り寄せる妹に、シャータはもう一度「ごめんなさい」とつぶやいた。それを聞いて、イーシィはぎゅっと姉を抱きしめ返す。
 もう、大丈夫。
 姉妹の姿を見て、そんな言葉が浮かんだ。掛け違いは起こってしまった。けれどこの二人なら、やり直すことができる。
 安心して気が緩みそうになるけれど、拓也が隣で姿勢を正したので、あ、と思った。気持ちを引き締め慌ててそれに習う。美幸にヒコにジハンも揃い、全員で姉妹に向き合った。
「ポンボ・シャータ、そしてポンボ・イーシィ。あらためてあなた方の協力を仰ぎたい。私達キョエンの玉の造り手がオボ山で玉を探すのに、あなた方の力をお貸し願えますか」
 拓也の呼びかけを受け止めて、シャータとイーシィが同時にうなづく。
「西大陸の介入を許してしまった今、私達の望みはキョエンが正統な玉をその座に据えること。自らの過ちを償うためにも、玉の造り手への協力は惜しみません」
 シャータの返答にお互い見合わせると、疲れた顔にゆっくりと笑みが浮かぶ。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
 イーシィの言葉に、ひとつの壁を乗り越えたような気がした。
「これで先に進めるかな」
 伸びでもしたい気分でそう言うと、美幸がうんとうなずいてくれる。
「そうね。でも、その前に」
 美幸は立ち上がると、いつの間に少し離れた場所で私達を見つめていたジョエに手を伸ばした。
「イーシィに、泣かれちゃったわね」
 くすくすと、面白がる口調。一方のジョエは戸惑った表情のまま、美由紀を見下ろす。
「ポンボ様方のお役に立ちたいと常より思っているのですが。どうも失敗してしまいます」
「そう思うのなら、せめて出かけるときは声をかけていかないと」
「サイムジン様にも、先ほどご指摘いただきました」
 言いながら身を縮ませるその姿は、拓也のお説教を食らったときと同じだ。なんだか私までおかしくなって、一緒に笑い出してしまう。そして声に出して笑いながら、確信をした。
「やっぱり分からないことって、本人に聞かないと分からないままなんだね」
 イーシィがあれほど分からないって言っていたジョエの反応の鈍さも、本人からしてみればがんばって働いている証拠のようなものだったし。
「……深く、考えすぎてしまっていたんですね。気が付けば外を巡り反応をしてくれない玉の精に、私は一人で落ち込んで、負の原因ばかりを思いついていた。でもそんなことをしていないで、単純にもっと踏み込んでいけばよかったんだわ。最初にナムニ叔母様がおっしゃっていた通り、応えてくれるまで直接玉に訊ねればよかっただけのこと」
「どちらにも原因はあったのよ。それが分かってよかったじゃない。ね、ジョエ?」
 美幸の呼びかけに、ジョエは困ったような表情のまま言葉を返した。
「人の心は難しいです」
「嫌になった?」
「いいえ」
 間髪入れずに否定する。そうしてからジョエは真っ直ぐに美幸を見つめた。
「難しいからこそ、予想もつかない喜びにも出会えました。ナムニ様に再会できたのですもの。この地にナムニ様がご帰還できたのは、戻りたいと願う心があったからですよね」
 問い掛けるけれど、美幸の返事を待たずにジョエは言葉を続ける。
「気配を感じてからこの数年間、半分は信じきれない思いでお待ち申し上げておりました。こうして今、私の目の前にナムニ様がいらっしゃる。人にしか出来ない意思の力と行動力だと思います」
 その視線と同じくらい、真っ直ぐな言葉。
 美幸はしばらく黙り込むと、ゆっくりと息を吐き出す。それから、まるで吹っ切れたかのように微笑が浮かんだ。
「ただいま、ジョエ」
「お帰りなさいませ、ナムニ様」
 そう返されて、美幸の笑みに安堵が混じる。それは私が初めて見る、美幸の素直な反応だった。