地中海石喰人魚


その一

 そこは夢の中だった。

 夢の中、私は大学のデザイン・ルームでスケッチブックを広げ、意味の無い線をがりがりと描いていた。毎度のごとく出される課題を前に、自分の中にあるアイデアを出せるだけ出してみる。選択や選別なんてまだまだ先の、一番最初の取っ掛かり。
 気が付くとスケッチブックは私の描く線であふれており、昼だと思っていた窓の外は暗くなっていた。
 慌てて時計を見ると、夕方の6時。本日のバイトは無し。私のお腹は空いている。
 となると、仕方ない。コンビニでも行って、夕飯買ってくるか。
 私は思い切り伸びをすると、勢いよく立ち上がった。
「夕飯買いに行くけれど、どうする? ついでに何か買ってくる?」
 隣の部屋に声をかけ、居ると思い込んでいる友達の返事を待つ。するとそこになぜか友達ではなく、苳太(とうた)が居た。
「山本さん。どうしたんですか?」
 驚いて叫ぶと、彼はこちらに向かってにっこりと微笑んだ。
「ここで働くことになったんだ」
 ごくごく自然の笑顔。冷静に考えれば何ですでに社会人、しかも理工科卒の人間が、私の居る美術大学で働くことになるんだか不思議だけれど、そこは夢。細かいことは気にしない。
「何か買いに行くの?」
「はい」
「それじゃあ、頼んでも良いかな」
「どうぞ」
 愛想良く私がうなずくと、苳太は嬉しそうに微笑んだ。牧羊犬に似ていると良くからかわれる、彼ののん気な笑顔。それは彼が他人に対してよく見せる表情だ。
「レンタルビデオ屋で、ビデオを借りてきてくれるかな」
「ビデオ?」
 さすがに夢の中とはいえ、夕飯の買い出しとビデオでは差がありすぎて、お願いを反芻してしまう。
「いい?」
 牧羊犬の笑顔を絶やさぬまま、押し切る苳太。
「あ、はい。で、タイトルは?」
 あっさりと気を取り直した私は、さらに詳しい情報を得ようと質問をした。
 大抵の人はそうだと思うけど、夢を夢と気が付くのは、目が覚める一歩手前になってから。この時点の私はまだまだどっぷりと夢の中に居り、とても素直な気持ちで苳太の役に立ちたいと思っていた。
「商品コードを教えるよ」
 なぜか苳太は私にタイトルを教えようとしない。
「あの、タイトルの方が探しやすいんですが……」
「う、ん」
 苳太はしばらく考え込むと、決心したかのように顔を上げ、私を見つめた。その態度があまりにも物々しいので、見つめられたこちらは思わずたじろいでしまう。苳太はそんな私をなおも見つめながら静かに近寄ると、そっと耳元で囁いた。
「タイトルはちちゅうかいいしくいにんぎょの怪≠セ」
 それは、息詰まるような瞬間だった。
 その瞬間、まるで時が止まってしまったかのようだった。
「ちちゅうかいいしくいにんぎょの怪」
「しっ。声が大きい」
 機械的に言葉を繰り返すと、苳太が慌てて人差し指を口に当てた。
「じゃあ、頼むよ」
「はぁ」
 やっぱり訳が分からず、とりあえず返事をして廊下を歩く。

 ちちゅうかいいしくいにんぎょ。

 ……全然分かりません、山本さん。
 頭の中で十四文字の平仮名が渦巻き、なんだか私はくらくらしてしまった。
 ちちゅうかいいしくいにんぎょ。ちちゅうかいいしくいにんぎょ。
 これ、十四文字でひとつの単語、って事は無いよね。
 ちちゅうかいいし、くいにんぎょ。ちちゅうか、いいし、くいにんぎょ。にんぎょ。……人魚?
 えーっと、地中海、イシクイ、人魚。イシクイ、いし、くい。石、喰い?
「地中海石喰人魚=H」

 ゴボ、ゴボォ。

 思わず声に出してしまった途端、急に耳障りな音が聞こえてきてはっとした。気が付くといつの間にか廊下は消えて、辺りの景色は滄(あお)一色に染まっている。戸惑う私が慌てて前方を振り仰げば、遠くから妙に緩慢なスピードで正体不明の影が近付いてきた。
 ボッ。ゴボ。
 少しずつその影が近付く度に音も大きくなり、そして私はこの音が何かを思い出した。
 あの音は、空気の漏れる音。
 そしてここは海の中。
 さすが夢だけに、自分が今海の中に居るという設定にすんなりと納得をし、前方からやって来るものの正体を見極めようと、私は必死で目を凝らした。けど、すでにここまで来たら、何が来るのかはお約束だ。
 緩慢なようでいて、そのくせ近付いてくるほどにとんでもなく速いスピードであることが分かるそれ。痩せこけた体。耳まで裂けた口。獰猛な牙を持つ半身半漁。あれは、
「人魚、だ」
 私はどうすることも出来ずに、ただ素直にその姿を認めた。二時間物のバラエティー番組とかで紹介される、日本のどこかのお寺に安置されてある、干からびた人魚のミイラ。それが今、動いて泳いで、私の元に迫ってきている。
 ゴボッ、ゴボッ、ボッ。
「あ、あ」
 皺だらけの、獰猛そうな姿の人魚は直ぐそこまで迫ってきて、私を掴まえようとしてか、水掻きのついた手を伸ばしてきた。その時になってようやく逃げる気になった私は、咄嗟に避けようと身をよじり、一歩二歩と後ろに下がる。
 私、なんで苳太が声を潜めたのか、今になって良く分かった。だって、これじゃまるで、
「これじゃまるで、B級ホラームービーじゃないの!」


 私は、自分自身の叫び声に驚いて跳ね起きた。
 肩で息をしながら、今まで腋に挟んであった体温計を引っこ抜く。
 三十八度五分。だぁ。
 こんな熱で、しかも体温計挟んだままでうたた寝すれば、あんな夢見ても不思議じゃないか。
「あー。だるい」
 だるい。が、だりぃ。に聞こえなかったのが意外に思えるほど、私の声は力が無かった。たった今起き上がったばかりなのに、もう上半身が前方の布団に向かってぐらぐら傾いている。
 久し振りの、風邪。でもちっとも嬉しくない。当たり前だけどさ。
 体温計を握り締めたままばったりと仰向けにひっくり返ると、私はしばらくじっとして耳を澄ませた。
 聞こえてくるのは枕元の時計の音と、通りを抜けていく木枯らしの音。
 アパートの中は、静か。病人だけが独り居る。
 お腹、ほんのちょっとだけ空いているけど、でも、
「はぁ」
 三十八度五分もの熱を持ったままご飯を作る気にもなれず、私は布団の脇に転がる市販の風邪薬を、ペットボトルの水で飲み下した。
 何でこんな事になったんだろう。
 ごそごそと布団にもぐり込み、天井をぼんやりと見つめて考え始める。何でこんな事に……。でも、本当は考えなくても分かっている。
 苳太。
 昨日十一月の氷雨降る中、去っていく私を追いかけようともせず、ドアを閉めた彼の横顔を思い出す。
 もう私たち、駄目なんだ。
 こんな陳腐で演歌の一小節みたいな台詞、二十四時間前の私なら、絶対鼻で笑っていた。けれど、そんな時というのはいつか必ずやってくるもので、私はアパートに戻ると髪から雨の滴が垂れるのもそのままに、この陳腐な台詞について何時間も考えていた。そしてその結果が今の自分だ。
「うー」
 熱と涙で天井が歪んで見える。
 だから嫌なんだ。病気になると直ぐ気弱になってしまう。一人暮らしが風邪ひくなんてそれだけでもダメージ大なのに、これ以上弱るなんて絶対出来無い。早く別のこと考えなくちゃ。何か他のこと。何か、別の。
「地中海石喰人魚」
 ぽっかりと、口を突いて出てきたのはこの言葉だった。地中海石喰人魚。おお。
 昨日の別れに至る細々としたことも一切忘れ、希望どおり只ひたすら今見た夢が気になりだした。なんだろう、これ?
 夢のくせに妙に細かくて、おまけに突拍子も無い。地中海石喰人魚なんてフレーズ、一体どこから仕入れてきたんだろう。夢から覚めても、依然この言葉が頭から消えようとしないなんて、それも変。
 一体、この夢はなんだったのかな。心理学とかやっている人に聞けば分かるんだろうか。でも、どっちかというと文字のインパクトだけだから、深層心理なんてあるんだかも、ちょっと謎。
「地中海石喰人魚、かぁ」
 さっきのようにぽろっと、とかではなく、意識して声にしてみた。その途端、この不思議な言葉が魔法の呪文のような気がしてしまい、思わず部屋を見渡してしまう。
 いきなりここが海に変わるとか、無いよね?
 って、
「なにやってるんだろ、私」
 我に返って苦笑してしまった。ああ本当。なにやっているんだろう、私。
 やっぱり、熱のせいなのかな。
 自分自身に言い訳しながら、目をつむる。途端に思い出される夢の場面。遠くから、滄い海の中を掻き分けてやってくる石喰人魚。そして只の知り合い面した苳太の顔。
 山本さん。
 私がそう呼びかけたのは、一体どのくらい前のことなんだろう。一年なんて数字、心の中ではいつもゴムのように伸び縮みして、本当の長さが良く分からない。
 ……苳太なんて、バカヤローだ。
 布団に顔を埋め、私は小さくため息をついてしまった。
 ケンカの後、病気の時、怖い夢から目覚めた直後。そんな誰かに甘えたくなるときベスト3な状況が、私の心に鈍い痛みを与えている。認めるのは悔しいけれど、まるで中毒患者だ。この一年間で、苳太がそばに居る感覚にすっかり慣れてしまった。
 もう、会えないっていうのに。
 布団を頭からすっぽり被ると、私は芋虫のように丸まった。

 苳太に初めて出会ったのは、ゼミの打ち上げでの事だった。
 大学の関係者しかいない飲み会で、背広を着た、いかにもサラリーマンな風貌の苳太がいた。不思議に思って話し掛けると、騙されて連れて来られたのだと暗い表情で語ってくれた。知り合いの後輩に、銀行の窓口嬢との合コンだと言われて来たらしい。その話に思わず吹き出すと、苳太はふいに私の目を見つめにっこりと微笑んだ。別にそれまでが無表情だったり無愛想だったりしたわけじゃない。確かに暗い表情はしていたけれど、それは騙されたのが分かったからであって、初対面の人間に合コンの話を語れる程の社交性は持った人。けれどそれまでの印象が薄れてしまうほど、その瞬間の笑顔は鮮やかだった。邪気の無い、能天気と思えるほどのん気そうな、見ている側もつられて微笑んでしまいそうな牧羊犬の笑み。
 多分、私はあの笑顔にやられてしまったんだと思う。

 それから多少の出来事を経て付き合うようになり、一年が過ぎた。さすがに一年も経つと最近は付き合いもだれ気味で、どちらかの家でビデオを観て一日が終わることも多くなっていた。それはそれで良かったのかも知れないけれど、昨日の私はちょっと苛付いていた。
 卒業製作の課題に煮詰まっていた。自分の中のアイデアを上手く形にすることが出来なくて、もがいていた。ビデオを観ても上の空で、それどころかここでのんびりとビデオを観ている自分というものに焦りを感じ始めていた。
「ねえ、苳太」
 刻一刻と追い詰められていく気持ちを隠し、私はあえて明るい甘えた声で呼びかける。
「んー?」
 何も気付かず、画面から目を離さずに答える苳太。
「これからちょっと上野まで行って、展覧会観てかない?」
「はぁ? 何言ってんの、お前」
 あきれた様に即効で返される言葉。さすがに自分でも無理言っているなと思っていたけれど、その口調にむっとした。確かにあまりにも突然の誘いだったけど、そんな馬鹿にした言い方しなくたっていいじゃない。
 苛立った気持ちはすぐに表情に表れて、でも私はそれを隠そうともしないで苳太に『説得』を試みた。多分、分かってほしかったんだと思う。今の私が苛立っていることを。精神的に余裕がない状態にいることを。
 けれど苳太は眉を寄せたきり押し黙り、どちらも退かない状態でビデオだけが淡々と進んでいく。そしてビデオはやがてエンドロールを迎えて終わってしまった。
「あのさ、その展覧会っていうの、志乃だけの問題だよな」
 音声の途絶えたテレビの代わりに、窓の外の雨音がやけに響いていた。
「……どういう、意味?」
「お前の問題に、俺を巻き込むなって事。行きたければ、一人で行けよ」
「なっ」
 その冷たい言い方にショックを受け、思わず立ち上がる。
 私だけの問題って、自分を巻き込むなって、それどういう事?そりゃあ突然ビデオ観ている最中に出かけようって言った私も悪いかもしれないけれど、でも苳太だってこれたいして面白くないって始まって7分目で言っていたじゃない。それにだいだい仮にも私たち二人、付き合っているんじゃないの? なんで二人の間でそんな線引きして、私を拒否するの? 恋人同士って、一番誰よりも近しい存在なんじゃないの? 行きたいとこに行きたいって言って、どうしていけないの? 苳太だって今まで私に対して我侭言ったことあるでしょ?
 言いたい事は沢山胸の中でぐるぐるしていたけれど、そのどれもをうまく言葉にすることができず、喉の奥で固まった。私が言えたのは唯一この言葉だけ。
「帰る」
 心のどこかで計算していたんだ。ここまで私に言わせたんだから、いい加減、苳太が退くだろうと思っていた。でも、苳太は私の言葉に何も返さず、ただじっとこちらを見つめたままだった。笑みの無い、感情の読めない、初めての苳太の瞳。私を拒絶し突き放す目。今までどんなに喧嘩しても例えどんなに腹が立っても、その目をのぞき込めば、最後に笑みが浮かび上がってきたはずなのに。
 私はしばらく苳太を見つめると、堪え切れずに家から飛び出した。苳太は私を追いかけることも無く、黙ってドアを閉めた。
 そしてその時、彼の心の扉も閉まったのを私は知った。

 人との関係なんて、ほんのちょっとしたきっかけさえあれば、あっという間に崩れていくものなんだ。劇的な何かがあったわけじゃない。ただ展覧会に行こうって言っただけで、こうまで二人の中が崩れてゆくなんて思いもしなかった。
 昨日初めて知った。でも、だからと言ってどうすれば良いんだろう。もう分からない。人の心なんて分からない。苳太の心なんて、分からない。
 面倒臭い。これ以上何も考えたくは無い。今はただ、眠りたい。うん。ただ、何も考えずに眠りたい。
 空っぽの胃に入っていった風邪薬は早くもその効果を現し始めたようで、私の意識は少しずつ朦朧としてきた。
 つむった目に残光のように映るのは、熱に浮かされた頭にこびりつく私の記憶。
 今まで隣で笑っていた苳太。ふとした拍子にその笑顔がゆっくりと強張り始め、気が付くと私を見つめる瞳にはもう何の感情も宿していない。
 次に映るのは、街灯を銀色に反射する雨。私の体に入り込み染み込んで、そして私と雨は一つに溶け海に向かって流れてゆく。
 あ、海? 海は駄目。
 ぴくりと、眠りに落ちてゆく体が震える。
 海にはあんなにグロテスクな人魚がいるじゃない。海は、特に地中海に近付いては……。

 そして私はまた地中海石喰人魚の夢の続きを見たのだった。