地中海石喰人魚


その二

 はっと気が付くと、私は見知らぬ土地の崖上に立っていた。
 目前は海。頭の上には真っ青な空。足元の土は白く焼けており、後ろを振り返るとまばらに草の生えた丘に濃い緑をした木が列を作って並んでいる。
 オリーヴの木。
 いつかテレビで観たことのある、そう、これはオリーヴの木。
 気温はまるで初夏のように高く、風は汐の香りを運び、どう見てもここはあの、地中海。
 でもいくら夢とはいえ、ううん、夢だからこそ、何でこんなに細部に渡ってリアルな風景が広がっているんだろう。自慢じゃないけれど未だに海外旅行なんてしたことのない私が、ここまで徹底して異国の地を想像するなんて無理。確かに美術史でギリシアとローマの芸術は習ったけれど、特に興味も湧かなかったし、何より風景は習っていない。しかも、ここまで夢の中ではっきりと「夢の中」だと思うのも初めてだ。
 どうなっちゃっているんだろう。確かにさっき、地中海石喰人魚の夢は見たけれど、
「って、地中海石喰人魚……?」
 思わず息を呑んで、私は前方の海を見つめた。
 さっきの夢で見た海はほの暗く、寒さに凝った滄い色をしていた。目前の海はそれとは対照的に明るく、これぞまさしくサファイア・ブルーといった色。波は穏やかにゆっくりと揺れ、日の光がその動きに合わせて反射し、キラキラと輝いている。
 けれども私はそんな美しい海に感動する間もなく、あるものを探してせわしなく視線を彷徨わせた。
 ここが本当に地中海なら、これが本当に夢の中なら、地中海には石を喰う人魚がいなくてはいけないんだ。
 海の中を泳ぎまわる人魚を探そうと目を凝らすと、その内だんだんと目が慣れて海の中が見えてきた。けれど、そこにはお目当ての人魚は居らず、その代わり見えたのはごつごつとした岩のようなものばかり。
 ……違う。
 その形に何か別の意味を感じ、さらに知ろうと目を凝らす。
 岩よりももっと人工的な、柱とか、建物の崩れた後のようなそんなもの。
「遺跡?」
 頭の中に浮き出た単語を口にして、初めて自分の答えに納得した。
 そう、遺跡。崖下の海には、人魚の代わりに古代の遺跡が眠っている。
 すべての遺跡はどこかしら崩れ落ち朽ち果てて、海底に埋もれていた。澄んだ水はそれらを青く染め上げて、影の塊として水面にゆっくり浮かび上がらせる。
 揺れる波。水面を反射し輝く光。
 私の周りには思考をさえぎるものは何もなく、ただ規則的に波の音が聞こえている。それは辺りの静けさを余計に強調させることになり、そのために遺跡の持つ静粛な美しさも強調された。
 海の中で眠る街。夢の中で眺める私。
 規則的な波の音に、私は思わずため息を付いて、体の力を抜く。

 何を、焦っているんだろう。

 同じ夢ならあんなB級ホラーのキャラクターより、今の景色のほうが心地好い。それならここでこうして、景色を眺めているほうが良い。
 私は気持ちを入れ替えるように頭を振ってその場にしゃがみこむと、今度は何を見るとも無く海を見つめた。


 そして、どのくらい過ぎたのだろう。
 夢の中だというのにうっかり眠りそうになるくらいぼんやりとしていたら、ふいに海中に動く影を見つけた。
 街をぬうように泳ぐ魚影。やけにえらの部分が張っていて、全体的に平べったい感じの魚の形。
 でも。
 ふいに気が付いて、思わず立ち上がってしまった。
 もしあのえらだと思っている部分が肩だとしたら?平べったい形だなんて、あれが人間の上半身だとしたら、あのくらいの幅になるんじゃないの? ってことは、もしかして、
「石喰人魚、だ!」
 そう確信した瞬間、私は海へと飛び込んでいた。
 だってここは夢の中。石喰人魚が海に居るんなら、夢を見ている本人がそこまで行かなくちゃ、続きは見ること出来ないじゃない?
 なんて、これを単純な夢だと思っていた私は、はっきり言って甘かった。
「く、ぐる……!」
 海に入った途端、鼻に水は入り込み、苦しいと叫ぶと同時に肺の中の空気は海に溶け込み、この予想外の事実にじたばたとあがく私の体は見る間に海底へと沈んでいった。
 ゆっ、夢! 夢だよねっ? 夢なのに、何で本当に溺れなくちゃいけないのっ?
 言葉にならない悲鳴を心の中であげてみても、夢は覚めるどころか体はどんどん苦しくなっていく。
 私、このまんま夢の中で溺れ死んじゃうのかな。誰か、お父さん、お母さん、……苳太。苳太っ、助けて……!
 しだいに頭がぼうっとしてきた。目が霞んで、最後まで残っていた体中の空気が口から漏れ出すその直前、人影が視野に飛び込んできた。
 苳太。じゃない。誰?
 人影は私の体を抱きかかえると、無理やり口をこじ開け、何か小さくて硬い塊を押し込んだ。
「ん……」
 ふいに呼吸が楽になって、強張っていた体が緩む。この天と地ほどの差に驚いて大きく目を見開くと、私の体を抱えている人影と目が合ってしまった。

 人魚。

 それは紛れも無く人魚だった。
 海の中でさえなお白く透き通るような肌。まだあどけなさの残るその顔は地中海だからか何なのか、なんとなく東洋的で、明るい茶色の長い髪は少しウェーブしながら自分の姿を包み隠すように揺れている。私の体に回した腕はほっそりとしてしなやかで、昔憧れたお姫様はこんな風に華奢な体をしていたに違いない、と微妙にずれたことを連想させた。
 そう。日本人が憧れるお姫様って、実際の西洋美人なんかじゃなくて、きっと今目の前に居るこの人魚のような女の子なんだ。バービーじゃない、リカちゃんタイプの人魚姫。
「ばぼ、ぶぉ……!」
 人魚の可愛らしさにこの状況をすっかり忘れ、口を開いた途端に海水が入ってきた。慌てて水を吐き出すと、その拍子で彼女がくれた小さな塊は口から飛び出し、見る間に海底へと落ちて行く。そして馬鹿な私はまたさっきと同じように溺れかけた。
 なんで、何でこんな目にばかり遭っちゃうのっ?
 救いを求めるように人魚にしがみつくと、彼女は安心させるかのようににっこり微笑んでから、ふいに私の手を振りほどいた。見捨てられたかと思い慌てる私にもう一度微笑むと、彼女はひらひらと海底へと泳いで行き、崩れかけた遺跡から小さな塊を拾い出す。
 もしかして、あの塊さっきのと同じのじゃないのかな。
 混乱した頭でそう考えたけれど、人魚の元へ泳いで行く程冷静な行動は取れず、かといって溺れかかっている私は水面に浮かび上がることも出来ずにじりじりと沈んで行く。彼女は慌ててそんな私の元に泳ぎ戻ると、謎の塊を急いで口の中に放り込んでくれた。その途端、私の呼吸は楽になる。

 ありがとう。

 しばらく息を整えて、気持ちを落ち着けてから、感謝の笑みを浮かべてみた。うっかり口を開くことも出来ないし、もとより日本語が通じる相手とも思えない。そうしたら、やはり顔の表情くらいしか、伝達手段は無いわけだし。

 どういたしまして。

 こちらの趣旨は理解してくれたようで、人魚もにっこり微笑んでくれた。これでコミュニケーションの第一段階はクリア、かな。
 なんとなく安心した私は彼女の腕に掴まりながら、ゆっくりこの海の世界を見回してみた。
 青いガラスを透かして覗き込んだような海の色。名前の分からない魚が群れを成して泳いでいる。水の流れに揺れている海草。そしてその傍らに朽ちかけた古代の遺跡。
 遺跡。そうか、遺跡は石で出来ている。
 ちょっとだけ息を止めると、私は口の中から塊を取り出した。
 白くてごつごつとした、小さな石。もう一度それを口の中に入れて舌で転がしてみると、体中に空気が染み渡って楽になる。
 地中海、石喰人魚。
 今、私の目の前に居るこの女の子が、本物の地中海石喰人魚なんだ。
 なんだか感動してしまってじっと彼女の顔を見つめてしまった。彼女はそんな私に向かって軽くうなずくと、誘うように遺跡を指差す。
 あそこに行こうって、言っている。
 私もうなずき返して、二人そろって海底を目指す。
 こぽこぽ。こぽこぽ。
 自分の吐き出す空気が、泡になって上って行った。


 人魚は規則的に並べられた柱の間をひらひらと横切り、広間の奥に据えられた台座へ、私を招待してくれた。
 広間の中央、浮かび上がらないように手すりをしっかりと握り、台座に落ち着く私を彼女が見守る。そんなこととはまるきり無関係に、魚たちは我が物顔で横を泳いで行く。
 これ、地中海版の竜宮城ってことなのかな。
 そんなのんきな事を考えていると、人魚がゆっくりと尾をくねらせて遺跡の間を泳ぎだした。
 揺れる尾っぽ。揺れる髪。優美な姿にみとれ、私はため息代わりの泡を吐き出す。
 こぽ。
 泡の音に気が付いて人魚はこちらを振り返ると、楽しそうにくすりと笑った。そして手近なところにある遺跡を指で引っ掻き、一つの欠片を作り出す。彼女はそうして作った塊を、まるで柘榴でも食べるような要領で小さく割ってはこりこりと噛み潰した。
 不思議な光景。地中海の海の中で、人魚が古代の遺跡を喰べている。
 よくよく自分の周りを見てみると、きれいに残った遺跡など何処にも無い。すべての柱は崩れて折れているし、床にしたって土地の起伏に沿ってひび割れて、いつしか海底も床も分からなくなっている。今の今まで遺跡が崩れて行くのは自然の成り行きだと思っていたけれど、自然の力以外にも人魚の働きがあったのかもしれない。
 なんて、この不思議な光景を目の当たりにして、変に納得をしてしまった。
 地中海の、遺跡の石を喰う人魚。うん。きれいにまとまったぞ。
 自分の中のオチも付き、気持ち良く人魚を眺めていたら、彼女もこちらを見てにっこりと笑ってくれた。人魚の微笑みはさすが夢の住人らしく可愛くて、私は余計に嬉しくなってしまう。
 彼女の微笑みにへらへらとした私の笑顔を返していたら、人魚はすいっとこちらまで泳いできた。
 こぽ。こぽぽ。
 近寄った彼女はなにか言いたそうに息を吐き出してから、ぐっと拳を私の目の前に突き出した。
 こぽ。こぽこぽ。
 訳が分からず彼女を見つめると、手を広げて新しい石の塊を見せ、それを食べる真似をする。……口に入れろって、言っているんだろうか。そう言えば、なんとはなしだけれど息苦しい。そろそろ石の中の酸素も切れてきたって事なのかな。
 今さっきの溺れかけた恐怖心を思い出し、急に慌てて石を受け取る。今までの石を取り出して新しい石を口に含んだところ、途端に人魚は不満そうに頬を膨らましてしまった。
 う。可愛い。
 けど、そういう問題じゃないし。何言いたいんだろ?
 戸惑う私を前にして、彼女はもう一度石を喰べる動作をした。
 あ、喰べろってことか。
 そこで初めて理解はしたけれど、でもこれって石でしょ? 本当に喰べるなんてこと、一人間が出来ることなのかな。
 どうも信用できずにしばらく口の中で石を転がしていたけれど、あまりにも人魚が期待のこもった顔で私を見つめるので、根負けしてしまった。とりあえず、お愛想程度にでもかじっておこう。
 こりん。
 軽く歯を当てた途端、石はあっけないほど簡単に崩れてしまった。そしてその瞬間から、私の中で奇妙な感情がむくむくと湧き出してくる。
 なんだか急に偉くなってしまったような、それでもって、とても満ち足りているような、そんな感覚。なんだろう、まるでいきなりお父さんになってしまったような感じ。お父さんになって、食卓で家族を全員見回して、よしよしうん、とかうなずいているような。って、え?
 なんで?
 大きく目を見開いたまま固まってしまった私を見て、人魚は面白そうに笑った。そして、私が口から取り出した最初の石を、今度は喰べろと動作で指示をする。もちろん私が反対するはずも無く、それどころか急いで口に入れ噛み砕いた。
 がぼっ。
 一瞬、自分の中で何が起こったのか分からなかった。お父さんの静かで満ち足りた気分が突然飛び跳ねて、空中ででんぐり返しをしているようだった。
 わくわく、している。
 好奇心でいっぱいになっている。次に何をして遊ぼうか、それともこっそり台所に忍び込んで、おやつを盗ってこようか。そう考えるだけで足が走り出したくてうずいているような、これは、……子供の気持ちだ!
 あまりの驚きにまたもや口がぽかんと開きそうになったけれど、流れ込む水にむせそうになり、慌てて口を閉じた。
 ああもうじれったい! こんなに驚いているのに人魚にそれを伝えることが出来ないなんて、ただ彼女を見ているだけなんて。どうすれば直接彼女に自分の気持ちを伝えることが出来るんだろう?
 いまだかすかに残る満ち足りたお父さんの幸せと、子供の体いっぱいの躍動感、それに私自身のじれったい気持ちがぐるぐると渦を巻いて、まるで酔っ払ってしまったようだった。ひたすら潤んだ瞳で人魚を見ていたら、彼女がぽこりと泡を吐き出した。
「どうだった?」
 あまりの至近距離についその泡を飲み込んだ途端、頭の中で声が響く。
「声」
 驚いてつぶやいた言葉が、そのまま泡となって口から漏れた。彼女はその泡を飲み込んで、ゆっくりとうなずく。
 こぽぽ。こぽ。こぽぽぽぽぽ。
 彼女の口から吐き出される泡。はっと気が付いて、その泡を飲み込んでみる。
「こんなに驚いてくれると、こっちも石をあげた甲斐があるわね。どう? 面白い?」
 泡の向こう、満足そうに微笑む彼女。そうして私はようやくこの泡が言葉で出来ていることを理解した。
「人魚って、しゃべれたんだ」
 恐る恐る泡を吐き出す。
「歌もうたえます」
 私の泡を飲み込んでから、彼女は言葉の泡を吐き出した。私の問いかけに彼女の答え。すごいっ。ちゃんと会話が成り立っている。
 ごぼぼぼぼぼぼ!
 一連の不思議な出来事にプラスして、意思の疎通が出来たことが嬉しくて、力強く息を吐き出しながら私は思わず彼女を抱きしめた。
 こぽこぽこぽ。
 あ、これはきっと言葉の泡じゃなくて、彼女の笑い声だ。
「あのね、ご覧のとおり石はそこいら辺に転がっているの。もし気に入ったなら、自分でも好きな石を拾って喰べていいのよ」
 人魚はそう言って、するりと私の腕からすり抜けた。
 お好きな石をお味見ください。
 なんて、まるで梨もぎ園の持ち主みたい。そう思って上目遣いに見ていたら、今度はまるで観光協会の職員さんのように彼女は右手で遺跡を指差した。
「今採った場所がここいらでは上等なの。見かけ以上に幸福な家庭なんてそうそう居ないものね。最初にあなたが喰べたのが食堂の壁。次のが多分、玄関の基礎部分よ」
「へ?」
 彼女の言っている意味が良く分からず、私は間抜けな泡をひとつ吐き出した。どうやらそれは飲み込まなくても、こちらの表情で十分伝わったらしい。彼女は彼女で、そんな反応をする私を不思議そうに見つめていたけれど、急に納得したようにうなずいた。
「ああ、そうね。説明が足りなかったのね。でも」
 ぐい、と手首をつかまれて、私の体は海中に漂った。
「言葉で説明しなくても、石を何個かかじってみれば分かると思うわ。来て」