恋におちたとき


 休日明け月曜日の朝は、いつも憂鬱な気分に満ちている。曇り空なら特にそう。
 気象庁は一度出した梅雨明け宣言を撤回し、空がいつ晴れるのか様子を伺っている。道行く人たちの手には、傘。今日は降ったり止んだりを繰り返すらしい。
 
 あーあ。休みたい。
 駅から出た途端、げんなりとした。
 駅前商店街からオフィス街に向かう道は、まるで羊の群れのような会社員の列。みんな同じ方向へ歩いてゆき、最後はそれぞれの会社へと吸い込まれてゆく。
 もちろん私もその一人。毎日毎日、同じことを繰り返す。
 思わず逃げるように視線を空へと向けたけれど、あいにくの曇り空。道路に沿って切り取られた灰色の空間は、まるで私に重くのしかかってくるようだった。
 仕方ない。
 心の中でつぶやいて、歩き出す。
 だってご飯食べなきゃ死んじゃうんだもん。自分で稼がなきゃ、お金は手に入らない。
 それじゃあ、お前は専業主婦で家に落ち着いていられる性格なのか? って聞かれても、困ってしまうのだけれども。

 駅前の交差点を渡り右に折れると、金曜日に残してきた仕事を思い返しながら歩いていく。いつもの道。週をまたいだ程度では景色に変化はない。ぼんやりと、ただただ前方を見て歩いていたら、一人の男性の後姿に目がいった。

 この人、いいなぁ。
 明確な言葉にはならないくらいの感覚で、そう思う。

 身長は、ちょっと高め。180センチは確実に超えている。細身で、腰が小さくて引き締まっている。
 背が高くて細身だと栄養不良な感じがして好きではないのだけれど、この人の場合は違っていた。しなやかな感じ。そう思わせるのは、ゆったりとした歩き方のせいなのかな。
 その身長のせいで歩幅が大きくあっという間に進むから、つられて私も遅れないようにと心持ち足早になってしまう。いつもの憂鬱な道なのに、なんだか楽しくなってきた。

 年齢は、どのくらいだろう。スーツのパンツが腰ではく系のデザインで、シャツが細いボーダー柄。この選択は、まだ若い。でも初々しい感じがしないのは、その着慣れた身のこなしのせい。私と同じ年齢くらい。いって三十代手前、というところ。
 まだそんなにはくたびれていない、いまどきのサラリーマン。
 スタイルもいいのだし、あとちょっとがんばればおしゃれな感じがするのに、もう一歩のところで追いつけない。整髪剤をつけていないふわふわと立ち上がった髪の毛が、気の抜けた雰囲気をかもし出していた。
 うん。月曜の朝だしね。髪の毛まできっちりお手入れするほどは、気合入らないよね。それに今にも降り出しそうなこの天気。湿気の高さから、髪の毛もいつも以上に膨らんでしまうのはみんな同じ。
 後姿だけなのに、すっかり目の前の人に惹きこまれていた。

 そのまま彼の後をついていたら、一車線道路の交差点で立ち止まった。
 赤から青に変わる、ほんのわずかな時間。私はあえて手前で止まり、距離を縮めることはしなかった。だってあまり近寄りすぎたら、全体像が見えなくなってしまう。会社に着くまでの約七分間を、彼の後姿を鑑賞することで愉しみたい。

 その昔、私がまだ小さい頃、世の中には『お茶汲み要員』と呼ばれるOLさんたちがいた。『職場の花』とも言われた彼女たちは、男性社員のご機嫌をうかがい、適切なタイミングでお茶を差し出すことを最大のミッションとした。
 仕事の能力ではなく、ひたすら職場に奉仕できたかどうかで価値が決まるなんて! と憤ったのも社会人になりたての頃。今では『お茶汲み要員』を重宝がっていたおじさんたちの気持ちが良く分かる。
 だって、職場に潤いが欲しいんだもん。和みになるものは必要不可欠だもの。私だって疲れているとき、「お疲れ様でした、お茶どうぞ」ってもし可愛い後輩にいわれたら嬉しいし、疲れも半減する。
 そしておじさんたちが若い女の子を愛でるように、相手が男の子だったらよりいっそうやる気が出る。と思う。
 やっぱり同じ残業するのでも、一人で殺伐とした気分でするのより、「そっちはどう?」「いやもう全然終わらないっすよー」って会話をはさんだほうが、頑張れる。絶対に、頑張れる。
 だからそんな気持ちで純粋に、この目の前の人を眺めていた。
 自分好みの男の人。朝から目の保養が出来て、ラッキー。みたいな。

 信号が青に変わり、彼は歩みを再開する。しなやかでゆっくり。マイペースな歩き方。けれど身長があって足のストロークが長い分、どんどんと進んでゆく。
 やっぱりなんかいいなぁ、この人。
 何度目かの感想が浮かんでいたら、彼がふと上を向いてから横を向いた。横顔があらわになって、あ、眼鏡。眼鏡掛けているんだ。
 また新たな発見を愉しんでいたら、腕にぽつりと濡れる感触がした。雨だ。とうとう降ってきた。
 反射的に周りを見回し、そして彼の行動を理解する。本当に雨が降ってきたのか確認していたのね。
 雨はぽつりぽつりと降るけれど、細かくて間隔もあいている。この程度なら、会社に着くまで傘はささなくても平気でしょう。
 そう判断したのと同じタイミングで、彼が手に持つカバンを引き上げた。歩みを止めず、カバンの中をごそごそと探し出す。
 傘、さすのかな?
 なんだかちょっと、がっかりした。あのゆったりとしたマイペースな歩き方から、彼はもっとおおらかな性格だと想像していた。こんな程度の小雨で濡れる心配して傘をさすなんて、自分の中のイメージにそぐわない。
 まあ、むちゃくちゃワガママなこと思っているんですけどね。

 小さく息を吐き出していると、女性が一人、私を追い越して間に入った。彼女に阻まれて彼の体が見えなくなる。
 もちろん身長差はあって全部が見えなくなるわけが無いのだけれど、彼はカバンの中を探るためうつむいていた。こうして視界がさえぎられ彼が隠れると、ようやく自分のやっていることの危うさに気が付く。
 たまたま目の前を歩く男性に目がいってそのまま観察しながら会社までいくって、人に胸張って言えることじゃないよね。少し冷静なったほうがいい。
 良い機会だと自分の行動を反省したはずなのに、それでも彼から視線を外すことが出来なかった。
 今までうつむき加減の顔が上がり、肩から上がまた見える。
 女性は急いでいたようで、すっと彼の横を通りぬけ去っていった。またあらわになる全身像。
 傘、持っていない……?
 てっきり傘をさすのだと思っていたのに、彼の手にはそれはなかった。右手でカバンを持っているだけ。相変わらずのゆったりとした歩き方。
 なにをしていたのかな? と疑問に思うけれど、もちろん答えが出るわけも無い。気が付けばさっきよりも真剣に、後姿を見つめていた。冷静になろうって、数秒前に決めたはずなのに。
 でも冷静でなくなっているのは、多分焦りがあるせい。私の勤務先まで、あともう少しと近づいていた。
 そして彼とはそこで別れてしまう。

 二カ所目の信号を渡ったのをきっかけに、視線を斜め左に向ける。あと数十メートルしたら、私はあそこにそびえるビルの一つに入ってゆく。
 カバンの謎は残したままだったけれど、彼のおかげで憂鬱な出勤が充実したものに変わっていった。またいつか会えるといいなと思い、最後にもう一度凝視する。まるでそれに応えるように、彼がふと横を向いた。
 
 ふわふわの髪の毛、茶色い縁の眼鏡。そして口からはみ出ている、あれは白い、棒?
 なんだか良く分からなくて、目を大きく見開いて見つめてしまった。タバコなんかよりももっと細い、あれは、……棒つきキャンディーだ!
 雨が降ってきたのを知って、思い出したようにカバンをあさって、そして取り出したのは棒つきキャンディー。
 「雨と飴。って、こと?」
 無意識のうちにつぶやいて、すぐにはっとして恥ずかしさからうつむいた。

 雨が降ってきたから傘をさす。ではなくて、雨で飴がカバンにあったことを思い出し、食べてしまう。
 確かにそのほうが、あのマイペースな歩き方をする彼にはよっぽどふさわしい。

 いやでもそもそもなんで、カバンにそんなものあるの?
 いい年した社会人男性が朝から棒つきキャンディーなめて出勤て、果たしてどうなの?
 いっぱい突っ込みたいことがあって、思わず笑いそうになって、……でも笑うことが出来なかった。
 ダメだ。このセンス、別の意味でツボすぎる。
 心臓がどきどきと早くなっていた。それどころか、彼の姿に心臓がきゅっと縮むような衝動が起こっている。
 
 どうしよう。私、あの人のこと好きになってしまった。
 まだ後姿と横顔しか見ていないのに、声も聞いていないのに、どんな人だかなにも分かっていないのに、この瞬間、恋におちてしまった。

 これが私の運命のとき。
 人はこんなにも簡単にたやすく恋におちてしまうものなんだって、身をもって知った朝。