1994年登録
Jelling, Denmark
イェリング石碑とイェリング墳墓とイェリング教会


碑文はこちら

デンマークの首都コペンハーゲンからインターシティ列車で2時間程の場所にあるユラン半島のイェリングにある。奥の小さな石碑は140cmの高さで、老ゴルム王の建立と言われている。手前の大きな花崗岩の石碑は7トンを超える高さ240cmの大きさで、ハラルド青歯王が建立したものである。手前の石碑はキリストの絵が描かれたものとしてはデンマーク(スカンジナビア)最古のもので、デンマークが改宗したことを示し、また公的な文章にデンマークという語が記された最古のものであり、非常に価値ある石碑である。

-イェリングとは-

一般的にデンマーク最古の王とされるゴルム王(〜940年)が座をもうけた地で、息子のハラルド青歯王(約935〜985年)がロスキレに玉座を移すまでのわずか1世紀の間だけに歴史上にその名が現れる場所である。現在はその栄光もうかがえないほど寂れている。ここには塚が2基、ルーン石碑2基、教会、並んだ石の列2列がある。塚と教会から出てきた遺物は少ない。

ゴルム王はユトランド半島を治めたにすぎないが、引き継いだハラルド青歯王は領土を拡大し、島々と南スウェーデンのスコーネ地方を手中におさめた。ハラルド青歯王はその征服のための中央として適しているであろうと、ロスキレに玉座を移し、そしてイェリングの王権の地としての役割は終るのであった。

南の塚と北の塚の中心線のほぼ中央にハラルド青歯王の石碑が立てられており、意図的に置かれたのであろうとされている。またゴルム老王の石碑は移設されたものといわれているが、16世紀末期のHenrik Rantzauのスケッチにもすでに現在の位置に書かれている。彼は南の塚の頂に石を置き描き出されていた。この頂の石は想像と思われ、実際にはなかったのであろうと思われる。しかし前ヴァイキング時代、ヴァイキング時代の埋葬塚は石碑と結びつき、頂に石碑が置かれたものも少なくなかった思われる。塚や石碑といったもののセットを記念碑としてみなしていたと推測される。

「デンマーク人の事績」の作者の歴史家サクソがゴルム王とチューラ女王がこの2塚に埋葬され、王は大きな南塚に、女王は小ぶりの北塚に埋葬されたと記録した。そのため長らく南の「ゴルム塚」にはゴルム王が、北の「チューラ塚」にはチューラ女王が埋葬されていると信じられてきた。
1820年の調査で北の塚が調査された。北の塚には同じ大きさに分けられた2つの墓室があったものの、遺体はなく、わずかな遺物が残されるのみであった。ここから発見された塚や石碑よりも時代がさかのぼる銀製のゴブレットの遺物から有名なヴァイキング美術様式イェリング様式が由来する。そしてその40年後にフレデリクVII世の命の下、再び調査が始まり、南の塚が調べられた。
1941年のEjnar Dyggreが南の塚を掘り、墓室を見つけ出そうとした。しかし何も発見されなかった。南の塚は芝生に覆われた山に何層にも土が重ねられて作られたものである。恐らく、王と女王は北の塚に埋葬され、南の塚はこれを指示した息子のハラルド青歯王の自身の記念塚として製作させたのではないかと言われている。この塚の建造というのは、キリスト教以前の異教時代の習慣であったのだが、キリスト教徒であったハラルド青歯王が建造していることから、改宗後もこのような風習が受け継がれたのであろう。

南の塚の度重なる調査で塚の底から連なった石の列が2列発見された。この石の列を延長してみると交わり三角形の2辺を表しているようである。この2辺は「聖地・ヴィー(OI vé)」を表すものやヴァイキング時代の石で船の形を作りだし埋葬の地とする船葬の一部であると推測された。もし船葬の一部であれば、かなり大きなものである。

教会

1970年代の教会の修復で調査が始まる。教会を調べるとこの教会までに3度教会が立てられたことが判った。最も古いハラルド青歯王時代の教会は木造で現在より大きなものであった。聖歌席の下からは南の塚の墓室と同じような墓室が現れ、そこから50才過ぎの男性の人骨が発見された。人骨はばらばらになっており、もとの埋葬地から移動されたことが伺える。そのためこの人骨はゴルム王のものであろうとされた。当時の寿命からすれば50才過ぎというのはかなりの年齢であり、ゴルム老王のあだ名の由来が伺えるのである。その墓室からはわずかな銀製品などが発見された。チューラ女王の骨は発見されず、いまだ謎のままである。


全くもって余談・・・
ハーラル青歯王(ハラルド青歯王(英語読みか北欧語読み(古期か現代かもある)の違い。細かいことは気にしないでおきましょう))の「青歯王」というあだ名の由来については決定的な説というのもなく、古くは「歯が青かった」と文面どおりに取られていた。その歯も単数形であったので「歯が一本だけで、それが青かった」とか。虫歯だったので青かったという説もあるようです。エリクソン社のブルートゥースの解説では(また聞きですが)時代とともに言葉が変わってしまい、もともとは「浅黒い権力者」であるらしい。恐らくこれは企業イメージなんで「虫歯説」は避けたかったのでしょうかね・・・。実際は当時は「父の名+その息子」の苗字で、つまりゴルム王の息子であるので「ゴルムソン」、ハラルド・ゴルムソンを名乗っていた。「青歯王」のあだ名がついたのは彼の死後150年頃であり、彼の容姿の描写というものは全く残っていないのである。これもまた謎である。ちなみにデンマーク人の知人に尋ねたら、「興味ないから知らない」と言われてしまいました。デンマークではあまりたいしたことでもないんでしょうかね・・・。

ゴルム老王(ゴーム老王、ギョム老王(これまた読み方が違うだけ))。南の大国ドイツのオットー皇帝と睨み合っていたんだから、かなり偉い。しかしやはりイェリングという一地方を統治した王であるので、デンマークを統一し、ノルウェイまでも手中にした息子の方が偉いのだろう・・・。


| ゴルム老王の石碑 & ハラルド青歯王の石碑 |
| 石碑、墳墓、図柄、碑文における古ノルド語、正書法など解説のページへ |
| 石碑トップ |