オーディンの娘

第一章  邂逅


その三

 シグルーンが屋敷の裏手に行くまでもなく、外に一歩出た途端、角杯を片手に持ったヘズブロッドが目の前に現れた。
「よお、シグルーン。久しぶりだな。」
 酒で赤くなった鷲鼻に、堅く密集した顎髭。落ち着き無く視線を動かすその男を見て、彼女は呻くように呟く。
「ごきげんよう、ヘズブロッド。でも確かあなたとは三日前に戦場でお会いしたはずだけれど。」
「三日前の割にはずいぶんとごゆっくりだったじゃないか。天翔る羽衣をお持ちあそばした天女様が、地を這う駄馬でやって来た俺様よりもご帰還が遅れるなんて。一体どうしたんだい?」
「戦はグラーンマルだけが起こすわけではないわ。」
 そんな遠回しな彼女の台詞に、ヘズブロッドは鼻で笑った。
「俺達以外の戦いにも顔を出したって訳か。」
 例えどんなに酒で酔っていようとも、この男の頭の回転は早い。ただその頭の良さは相手を傷つける場合に置いてのみ、有効に活用されるのだが。
「おい、遊びも程々にしておけよ。お前が本気で守らなければならないのがお前の国セヴァフィヨルだとしたら、他の戦に首を突っ込むよりは、グラーンマルを助けた方がどんなに得になるか忘れないんでおくんだな。」
 さすがにこれにはむっとして、シグルーンは眉をひそめる。
「ワルキュリエは自分のために勝者を選ぶのではありません。全てはオーディンの手に委ねられているのです。そこのところを忘れないで下さい。」
「ああ、そうだったな。だが、日頃からワルキュリエと仲良くしておけば、そのうち偉大なる神オーディンも俺の存在に気が付いてくれるだろう。そうなればしめたものって訳さ。」
 なぜこんな姑息な考えの持ち主が勇者になれるのか、シグルーンには疑問だった。だが、こんな赤鼻の酔っぱらいでも、不思議なことに戦となると眼光は鋭く輝き身のこなしには隙が無く、ひとかどの戦士として勝利を自分のものにするのだ。もちろんその影にはシグルーン等ワルキュリエ達の助力があるのだが、今のところ負け知らずのヘズブロッドは父王の大のお気に入りとなっている。
 しかも彼はグラーンマルの王子で、シグルーン、つまり自分はセヴァフィヨルの王女なのだ。二人の関係は自分たちの感情でのみ変えるわけには行かない。多少嫌なことがあっても目をつむらなくてはならないことが、この世の中しばしば起こる。それが今自分の身に降りかかっているということだ。
「どうでしょう?オーディンはお気に入りの勇者をわざと戦死させて、自分の宮殿(ヴァルハル)に呼び寄せる悪い癖をお持ちだそうですから。私と親しくなるということは、あなたの命を早めることに繋がるだけかも知れませんよ。」
 あえてにっこりと微笑み、最大の嫌みのつもりで言ってみたのだが、どうやらヘズブロッドには効かなかったらしい。彼は薄笑いを浮かべながら、シグルーンの腕をぐいと引き寄せた。
「そんなにぴりぴりするなよ。なあ、シグルーン。俺は勝戦の知らせを持って立ち寄った勇者なんだぜ。お前の白い腕で、勝利の角杯になみなみと麦酒を注いでもらいたいんだよ。俺はお前に会いにここまで来たんだから。」
 酒臭い息が頬に掛かる。シグルーンの腕を掴んだヘズブロッドの指が、まるで彼女の肌を舐めるようにうごめいた。
 その感触に生理的な嫌悪感を感じ、反射的に彼を突き飛ばす。
「セヴァフィヨルの王女シグルーン対してこんな無礼を働いて良いと、グラーンマルの王は息子に言ったのかしら?どこでお酒を飲まれようとそれはあなたの勝手です。でも、用意の整っていないワルキュリエに無理強いをするのは、後々災いの種になりかねないわよ。この手を離して。」
 今にも呪いの言葉を口にしそうなシグルーンの気迫に押され、さすがのヘズブロッドもたじろいだ。
「シグルーン、怒るなよ。俺はただ、」
「しっ。黙って。」
 突然シグルーンはヘズブロッドが話し掛けるのを制すると、海のある方向に目を向けた。その表情は出来る限り感情を押さえようとする今までのものではなく、昨日までの戦場で見せた緊張感のある、だが生き生きとしたものに変わっている。
「どうかしたか。」
 さすがにそんな彼女の変化を見て取って、ヘズブロッドも海の方向へ身構えた。
「何かが来る。海の方、ブルニの入り江から。」
 それだけ言うと、シグルーンはまた全神経を集中させる。

 血。血の臭いがする。
 生臭く、あのどこか狂ったような、戦の匂い。

 兵士達を乗せた船だろうか。それならなおさら誰の船だか行って確かめなければならない。 
「……ヘズブロッド、私もう失礼するわ。軍船が来ているみたい。どこの軍か調べなくては。」
 そう言い捨てると、シグルーンは急いで厩まで走り出した。
 ヘズブロッドはそんな彼女の後ろ姿に、慌てたように声を掛ける。
「シグルーン、夕方また会おう。」
 それまで私は自由だわ。
 今宵開かれる酒宴を想像し、シグルーンは憂鬱な気分でそう思った。
 きっと宴会の席で彼女はヘズブロッドの隣に座らされ、彼の酌の相手をしなければならないのだ。
 シグルーンは厩から自分の天馬を連れ出すと、立て掛けてあった槍を掴み、後ろを振り返ることなく空に向かって翔だした。


 一方、同じ頃海岸では、シグルーンが察知した船隊が浜に向かって進んでいた。

 荒ぶる波を切り開く、流線型の船。竜骨には神々の姿が彫刻され、松の木で出来たマストには今はたたまれて見ることは出来ないが、華やかな色の帆布が張られている。兵士達が漕ぐこの船には彼女が感じたように戦と血の臭いが漂うが、しかしそこには死の影は見えない。この船隊を取り巻くものは勝戦という明るい知らせと、己の力によって得た戦利品の品々ばかり。船の中の人々は興奮し、自分の立てた手柄について互いに自慢しあっている。
 だが、いくら船に勝利が積まれ兵士の意気が揚がろうとも、彼らが極度の疲労に達していることには違いなかった。殺生による興奮は、そのまま神経の高ぶりを表している。自分では気が付かない程無意識のうちに、足が地面に降り立つその瞬間を彼らは待ち望んでいた。
「なあ、シンフィエトリ。」
 船隊の中でも一番大きく、先頭を切って進む船のその舳先。そこにまっすぐに立ち、前方を静かに見据える若い男が、隣の幾分年かさの男に呼び掛けた。
 のんびりとした声。だがその声音とは裏腹に、眼光は鋭く隙を見せない。
「これから停まるあの海岸、確かヘグニ王の領地だったな。」
「そうだが、それが何か。」
 隣の男が聞き返す。二人の容姿にはどこかに通ったものがあり、血縁関係であることを伺わせる。
「牛がいるぞ。放牧の途中、一匹だけはぐれたらしい。」
「そうらしいな。」
 シンフィエトリと呼ばれた男はあまり牛には興味がなかったらしく、素っ気なく頷くと、どっかりとその場に腰を下ろした。

 大きく、逞しいその体。全身を鋼のような筋肉で覆われ、野獣の目で見るもの全てを威圧する。隣に立つ若い男もやはり同じ様な体型をしており同じ様な迫力があるのだが、ただシンフィエトリに比べて重くのし掛かるような威圧感がないのは年期の差なのか。
「この海岸はヘグニ王の館からは離れている。ちょっと停まるくらい何でもないが、おい、それよりもこの戦利品、どうやって分けるつもりだ。戦が終わったとはいえ、後かたづけはこれからだぞ。」
「戦利品か……。」
 舳先に立って前方を見つめていた男は軽くあくびをすると、船腹へと自分の視線をずらした。
「後かたづけは嫌いなんだ。勝手に分けてくれ。」
 と、それと同時に船が岸に停まり、男達の間で歓声が沸き起こる。その騒ぎを消すかのように船尾から誰かが怒鳴る声が聞こえ、一斉に兵士達が船から下りだした。
 しかし二人はそんな周りの状況を気にすることもなく、構わず話しを続けている。
「全くお前って奴は欲のない男だな。戦にはあんなに夢中になれるくせに。」
「それはあんたにも言えることだろ?ヴォルスングのシンフィエトリといえば、誰だって竦み上がると聞いているぞ。」
 そう言って男が口元をにやりと上げると、二人の間の空気が和んだ。
「お前も直にそうなる。俺とお前は腹違いの兄弟なんだし、なんと言ってもお前は王達の中でも最大の者になると予言された男なんだ。……ところで、宝を分けるのは良いが、その前にお前の取り分を決めなければな。」
 少しうんざりしたように目の前に広がる戦利品の山を見つめると、シンフィエトリはため息を付いた。
「好きなように分けてくれ。」
「欲しい物はないのか。」
「王が持っていた剣がとても見事な物で、彼を倒したら貰うつもりでいたのだが。……ついどさくさに紛れて奪い損ねてしまった。」
 淡々と話す男を呆れて眺めてから、シンフィエトリはゆっくりと口を開いた。
「なあ、お前は戦いで勝ち得た宝を惜しみなく他の者に分け与える。それは確かに良いことだと思う。気前の良いのは王の第一条件だからな。ケチな王の繁栄が続いた試しなんかありはしない。だがな、お前は欲が無さ過ぎる。領土を広げ宝は得るが、その後のことを考えていないぞ。」
 突然の説教口調を訝しんで、男は眉を寄せた。
「何が言いたい?」
「前からお前に言おうと思っていたことさ。ともかく一つ提案があるんだが、聞いてみる気はないか?」
 面白そうに歪む、シンフィエトリの口元。さらに警戒心を強めた男は何も言わずに顎をしゃくる。続きを話せと言うことだろう。シンフィエトリはそんな弟の態度には慣れているらしく、構わず話を続けた。
「大したことではない。俺が提案したいのは、お前の結婚だよ。」
「結婚?」
 これにはさすがに意表を突かれたらしく、男が珍しく戸惑ったように聞き返した。
「そんなに驚くことではないだろう?」
 弟が自分の提案に驚くことは充分計算済みだったが、あえてシンフィエトリは、後を続けた。
「お前はもはや十二分に地位も名声も、そして財産を持っている。それなのに、お前がする事といったら何だ?戦だ。戦だけだ。争いは破壊と獲得しか生まん。それだけではこの世の中やっては行けないんだ。少しは安定と生産のことも考えろ。」
「それが、結婚か?」
「ああ。」
 自信を持って、シンフィエトリがうなずく。
「いいか、俺達は何のために戦っている?ただ殺し合い、破壊するために生きているわけじゃない。守るべきものがあって、それらを守るために誇りを持って戦っているはずだ。守るものがあるからこそ、宝だって欲しい。欲が出てくるんだ。お前はまだ、守るものを持っていない。結婚しろよ。女は良いぞ。男は女を守り、女は子供を守るんだ。」
 しばらく続く、沈黙。
 二人が黙ったことにより、規則的な波の音とそれをかき消すような兵士達の喧噪がやけに響く。空は青く、海猫が風を捉えて浮遊している光景が別の世界の出来事のように男の目には映った。
 が、耐えられたのはここまでだ。
 シンフィエトリのあまりにも真剣な説得に自分自身の照れもあって、とうとう堪えきれずに男は笑い出してしまった。
「何がおかしい。」
 笑われて、憮然とするシンフィエトリ。
「いや、あんたがそんなことを言うとは思わなかったんでね。なあ、俺達はまだ互いに独り身のはずだぞ。」
「ああ、そうだ。だが、来年の夏にはきっと変わっている。」
 そう言って微笑むシンフィエトリを見て、男は笑うのを止めた。
「誰か、いるのか。」
「ああ。」
 うなずくだけで、シンフィエトリはそれ以上言おうとしない。男もしばらく黙り込むと、一言小さく呟いた。
「女、か……。」
「お前には、いないのか?」
「え?」
「守りたくなるような、女だよ。」
 その問いに、男は苦笑して答えた。
「どうせ俺の興味は戦と酒だけだ。今はまだ考えられんが、そうだな、いつかはそんな女が俺の側にいたらいいと思う。」
「いつか、ね。」
 言葉尻を捉え、意地悪く聞き返すシンフィエトリ。男は軽く肩をすくめると、あっさりとやり過ごす。
「俺にとって女なんてのは、刃の欠けた剣よりも扱いにくい代物だからな。それよりもひとまずあんたの幸運を祈るよ。」
 そんな男にシンフィエトリも苦笑した。
「どっちにしろ、今年はお前と一緒にいるよ。まだまだお前に教えることは沢山ある。フンディング王に勝ったからといって、油断するなよ、ヘルギ。……ところで、どこに行くつもりだ。」
 足下に転がる斧を拾い上げ、残った兵士と共に岸に降りようとする男ヘルギを見とがめて、シンフィエトリは聞いた。ヘルギはそれには答えず前方の崖を顎でしゃくると、にっこりと微笑む。
「ヘグニ王は気前が良い方だと思うか?」
 シンフィエトリは意味が分からず、とりあえず指された崖を眺めてみた。切り立った絶壁をどう迷い込んだのか、正面に登ろうにも上れず下がろうにも降りられない一頭の牛の姿が確認できる。
「……腹が、減ったな。」
 シンフィエトリはにやりと笑うと、そう一言だけ呟いた。

 彼らが牛を一頭潰し、遅い昼食を取ったのはその後すぐのことだった。