オーディンの娘

第一章  邂逅


その四

「ここだわ。」
 潮風を受けながら、シグルーンはつぶやいた。
 血の臭いだけを頼りにここまで来たのだが、その勘はどうやら当たっていたようだ。
 全速力で空を駆けてきたため息を弾ませている天馬を優しくなでてやり、そっと足下の崖をのぞき込む。するとやはりそこには骨だけとなった牛の残骸と、数人の男達の姿があった。

 火は、焚いた後がない。煙が上がるのを恐れて、生のままで食べたのだろうか。
 前方の岸辺を見てみると、立派な軍船が数艘停まっている。食事の済んだ者達は船へと戻り、今残って居るのは首領と、その側近5,6名だけらしい。
「ヴァイキング猟から帰ってきた者達……?に、しては雰囲気が違う。」
 さらにもっとよく見てみようと、シグルーンは崖から身を乗り出した。自分の領地に無許可で入られたのだから侵入者の名前を聞くのは当然だが、その前に彼らを観察してみたい。

 よく見ると、彼らは二人の男達を輪にするような形でめいめいがくつろいでいた。皆、体格がよく不敵な面構えをしている。いわゆる「楯の囲い」と呼ばれる親衛隊だろう。そして、その中心に収まっている二人の男達。
「ただ者じゃあ、無いわね。」
 シグルーンの目がすうっと細まり、口元が笑みをたたえて上がった。
 強い男に出会えば出会うほど、彼女の心の中に互角に張り合おうとする闘志が沸いてくる。また、そうでなければワルキュリエなどやっていられない。
 シグルーンは急いで天馬にまたがると、崖下まで降りようと槍を持つ手を握り直した。
 その時、槍の刃の向きが変わり、日の光が弾いて輝く。

 鋼に当たった光は崖下の一行のうちたった一人を選ぶように、真っ直ぐに射て指した。楯の囲いに守られた二人のうち年若の男がまぶしさに目を細め、とっさに身構えつつ光源を仰ぎ見る。
 シグルーンはすぐにその視線を感じて、男を見返した。
 崖下に立つ男は微動だにせず、真っ直ぐな視線はシグルーンを突き刺すように鋭い。あの目はどこかで見たことがある。彼女にとって、とても身近な……。
 そう。
 ケモノノ目ダ。

 頭ではない、どこか遠いところから聞こえる声のように、自分の中で言葉が響いた。
 証となる熊の皮こそ被っていないが、あの目はベルセルク、狂戦士のものだ。ひとたび戦いとなれば全てを忘れ、死を恐れることもなく、ただ純粋に戦いに没頭する、あの男達だけが持つ獣の目。

 ふいにシグルーンは優しく微笑むと、全速力で崖を駆け下りた。天馬が勢いにたまりかねて、短くいななく。
 その物音で初めて彼女の存在に気が付いたのか、今頃になって周りの男たちが騒ぎ出した。が、シグルーンは動じない。
 正確な手綱さばきで天馬を彼らの船の横に止まらせると、シグルーンはゆっくりと馬から下り、そして男と向き合った。
「このブルニの入り江に船隊を付けたのはどなたでしょうか。あなた方の故国、ここにこうしている理由、以後の予定をお聞かせいただきたいのですが。」
 あくまでも優しく、しかし有無をも言わせぬ迫力で、シグルーンは尋ねる。もちろん周りの男達の間に緊張が走ったのを見逃す筈もない。 
「私たちは、」
 場数を踏んでいるのだろう。表情も変えることなく、中心にいた二人の男達の内、年かさの方が、なめらかに話し出そうとした。が、その後を引き継いで話し出したのはもう一人の方、獣の目を持つ男の方だった。
「船隊をここに付けたのは、この男ハマル。我らの故国はフレース島。ここにいる理由はこの入り江で順風を待ち、東に向かう予定だったので。」
 感情を表さない顔。質問に答える以上のことは言おうとしない。それでも男が口を開いたのがそんなにも意外だったのか、年かさの男が思わずといった様子で横目で彼を見つめていた。
「どこで戦い、敵を倒したのでしょう。あなた方の甲冑は血に染まっている。それも脱がずに生の肉をむさぼっているとは、どういった訳なのかしら。」
 シグルーンの次の質問に、男はゆっくりと自分の甲冑を見つめる。
「これか。」
 短いつぶやきだったが、まるで初めて血にまみれた自分の姿を知ったかのような言い方に、少しだが抑揚が付いていた。だが、その感情の現れも、一瞬にして隠れてしまう。
「私たちヴォルスング一族は、この海の西ブラガルンドで熊たちを捕まえ、鷲のような兵士達の胃袋を満たしてやった。この血はその熊のものがついたのだろう。」
 またもや棒読みの台詞のような、ものの言い方。

 何を言っているのやら。

 すでに大方の予想は付いていたシグルーンは、この男の嘘に呆れて心の中でこっそり肩をすくめた。あくまでしらを切り通そうとするのだろうか。
 探るように見つめると男はそれに気が付いたようで、素早くにやりと微笑むとまたもや表情を堅くした。もちろん周りの男達は、そんな彼の態度を知る由もない。
 ここに来てようやく自分があそばれていることにシグルーンは気が付いた。
「分かりました。」
 軽く息を吐き出すと、シグルーンも負けずにいたずらを楽しむような笑顔で言葉を返す。
「戦いの様を熊に例えるとは思いませんでした。戦場のヘルギの前で、敵であるフンディング王が倒れたのですね。あなた方は自らの剣に敵の血を塗った。違いますか?」
 どうやらこの彼女の反応は、男の予想に入っていなかったらしい。男は少しむっとしたように眉を寄せると、初めて自分の素のままの口調でシグルーンに話し掛けた。
「ずいぶんとあなたは賢いらしいな。なぜ我らがフンディングと戦ったことを知っている?」
「ヘグニの娘はヘルギのことは良く知っています。昨日の朝、フィンディング王が息を引き取ったとき、私はその側におりました。あなたが戦場から引き揚げるのも、見守っておりました。あの時あなたは血に染まった舳先に立ち、全てのものに見せるように、冷たい波に洗われていた。そのくせ今、私に身分を隠そうとしています。どうですか?」
「ヘグニの娘というと?」
 尋ねながら、男がシグルーンの瞳をのぞき込む。それは何気ない仕草であったはずなのに、二人の目がかち合った途端、シグルーンは目眩にも似た興奮が自分の身に沸き起こるのを感じた。
 真っ直ぐな、視線。二人ともお互いの瞳から目を離すことが出来ないでいる。
「名前は?」
 もう一度尋ねるヘルギの声がかすれている。だが、それに気が付いたのは彼女だけではない。ヘルギも己の感情の変化に気付き、戸惑っていた。
「……シグルーン。」
 それしか言えずにシグルーンは視線を落とした。まつげの先が震えている。
 ひょっとしたら、自分はいきなり泣いてしまうのではないか?理由もなくシグルーンはそう思った。

 頬が熱い。自分の鼓動がやけに耳に付く。目の前のこの相手には、自分の動揺が分かるだろうか?それがどうして起こるのかも……。

「シグルーン、今すぐ俺に付いてこないか?家で祝いの酒を飲もう。」
 気が付くと、男は自然とそんな誘いを口から発していた。女性を誘うとは今までの彼の人生において無かったことだ。ヘルギは自分で言っておきながら自分自身驚いたような顔をしていたが、隣のシンフィエトリなど横目などではなくあからさまに彼の顔を見つめ直している。他人にとっても驚きだったということだろう。
 だが、
「……ごめんなさい。」
 一瞬大きく目を見開いたシグルーンは、すぐにまた目を伏せ頭を振った。
「私、あなたとお酒を飲むより前に、しなければならない事があるんです。せっかくですが、ご辞退申し上げます。」
 シグルーンはヘズブロッドの顔を思い出していた。退屈な酒宴。大嫌いなヘズブロッド。もしも出来ることならそんな嫌なもの全て忘れて、ヘルギと共に語り合いたい。
 今までの彼の歴史、自分の過去。彼が今何をしたいのか、これから何をするつもりなのか。自分がどんなにヘルギに憧れていたか、今こうして目の前に立っているだけでどんなに自分の心が震えているのか……。
「ごめんなさい。」
 もう一度、シグルーンはヘルギに向かって謝った。
「いつかまた、君に逢えるだろうか。」
「あなたの起こす戦に、私は必ずワルキュリエとして参戦します。いつか、必ず。」
 彼女の言葉に、眉を寄せ目を細めるヘルギ。その視線が渇望するように自分を射て指しているのが、彼女には感じられた。

 私を欲してくれる?

 祈りにも似た気持ちで、心の中でヘルギに問いかける。
「約束を、してくれ。」
 まるでだだをこねる子供のような表情で、ヘルギが答えた。
「行きます。ヘルギ、待っていて。」
 深いため息と共にシグルーンはそう言って、微笑んだ。
 その顔がやけに寂しく見えて、ヘルギはそっと彼女に手をのばす。
 一瞬だけ、触れる指先。
「……それでは、失礼します。」
 降りたときと同じくらいの身軽さで、シグルーンは馬に飛び乗る。後も見ずに駆け去って、まるでヘルギへの思いを断ち切るように歩を早める。
 指先が、ヘルギに触れた指先が、火傷をしたように熱く火照っている。

 どうしよう。私、どうしよう。

 形にならない思考が、とぎれとぎれの言葉のように浮かんで消えた。なぜ「どうしよう。」なのか、自分でも分からない。だが、ヘルギと言葉を交わす前と後とでは、自分の中の何かがすっかり変わってしまったことだけは、彼女には分かっていた。
 天馬の、風を切る翼の音だけが、やけに彼女の耳に残った。


「どうした、ヘルギ。」
 ヘルギの顔を横目で見て、シンフィエトリが聞いてみた。
 シグルーンが去ってからすぐに彼らも船に乗り込み、船隊は早くもブルニの入り江を後にしている。先ほどと同じように二人とも舳先に立ちながらも、シンフィエトリは油断無くヘルギの様子に注目していた。今までずっと上の空だった弟がふと風の向きに注意を向けた瞬間を突いて、すかさず話し掛けたのだ。
「いや、別に。」
 ごまかそうとするヘルギだが、もちろんシンフィエトリがそれで納得するはずがない。
「シグルーンのことを考えていたのだろう?」
 面白そうに言う兄に、この手の話題に慣れていない弟が迷惑そうに眉をひそめる。
「お前が酒に誘うなんて、初めてのことだからなぁ。」
 弟の迷惑など眼中にないシンフィエトリは、先ほどの二人のやりとりを思い出したらしく、しみじみとした口調で呟いた。そんな兄の様子にさすがのヘルギも思わず苦笑で応えてしまう。
「あれがお前にとって守ってやりたい女になるのか、な。」
「さあな。」
 ヘルギは軽く伸びをすると、シグルーンの去っていった方向へと目を向けた。
「あれの瞳は狼のようだった。」
「シグルーンか。」
「ああ。さすがにワルキュリエだけのことはある。俺の視線を真っ直ぐに受け止めたのは、ヴォルスング一族以外には彼女だけだ。とても不思議な瞳をしていた。ひどく懐かしくて、暖かで。」
「そのくせ狼のように鋭い。」
「……戦場で、また逢えるだろう。」
「そうだな。」
 そして二人は黙り込み、櫂を漕ぐ男達のかけ声と波の音だけが規則的に聞こえていた。