オーディンの娘

第一章  邂逅


その五

 シグルーンがその夜の祝宴に姿を見せたのは、一通り酒も食べ物も出揃ったちょうど宴たけなわという時だった。
 遅れたのはブルニの入り江に行っていたせいもあったが、それよりも着替えとその準備に追われていたため、といった方が正解かも知れない。

 布をたっぷりと使いひだをとったスリップの上に、肩紐のついた二枚の布を前後に垂らす。それを胸に付けた一対の亀型ブローチでずれないようにして、首からはお守り用の短剣を鎖に通して掛ける。こんな正装をしたのは久しぶりだ。
 動きやすいように短いスカート姿か、さもなければ戦士と同じ格好という、普段の格好とは大違い。戦いの最中は邪魔になるといって一つに編み込む髪の毛も、この時ばかりはとハールが丹念に梳いてくれ、真っ直ぐに垂らしている。さすがに彼女が張り切っただけあって、今夜のシグルーンは一国の王女としての尊厳と美しさが充分に引き出されていた。

「父上、遅れまして申し訳ありません。」
「おお、シグルーン。さ、早くこっちに来なさい。」
 シグルーンの登場にざわめく男達を制しながら、ヘグニ王は目を細めて言った。
 どうやら今夜はいつになくご機嫌らしい。
 父王と抱き合いながら、何とはなしに彼女は思う。
「ヘズブロッドが先ほどからお前が来るのを待っていたのだぞ。早速彼に酒でもついでやりなさい。」
「はい。」
 素直に返事はしたものの、父王の隣、主賓席でこちらを眺めているヘズブロッドの視線を感じると、シグルーンはつい顔を背けて反対側を向いてしまった。
 上座の中心がこの中での最高権力者の座、つまりヘグニ王の席となっていて、その右隣に客人であるヘズブロッドが座っている。左側にはいつも通りに兄が座っており、そしてさらに隣に座っている弟を見て、シグルーンは驚いて目を見開いた。
「ダグ。なんでこんなところに座っているの。」
 成人前の子供がこんな上座にきちんと席を与えられて座っているとは、いくら王の息子だといえ有り得ない。宴会時には子供は下座で大人の邪魔にはならないようにしているのが普通なのだ。シグルーンが驚くのも無理はなかった。
「シグルーン、とにかく席に着きなさい。お前にも、また、ここにいる全ての者にも聞いて貰いたいことがある。」
 訳が分からず、だが取りあえず、ダグの隣に座るシグルーン。そんな彼女を嬉しそうに見つめながら、ヘグニ王は角杯を片手に立ち上がる。
「さて、諸君。今年もまた夏がやってきた。我々誇り高き海の勇者達が、本腰を入れて活動を再開するのが、この季節。我らが友、グラーンマルのヘズブロッドなどは、勝戦の知らせを持ってこの国を訪れてくれた。このセヴァフィヨルの勇者の中にも、新たなる冒険を求めて旅立った者もいるのではないのかな。」
 王の言葉に刺激され、広間にいる全ての男が顔を輝かせどよめいた。
「諸君らの期待通り、儂もそろそろヴァイキング猟に出かけようと思っている。準備が整い次第出発するつもりだが、その前にやらなきゃならん事がある。ここにいる儂の息子ダグだが、今度の夏の民会でこいつに成人の義を受けさせようと思うのだ。どうだね、諸君。」
 どよめきはざわめきに変わり、男達の興奮は熱気と共に渦を巻き、この館全体を包み込んだ。
「乾杯だ!」
 返事の代わりに誰かが立ち上がり、そう怒鳴った。
「まずは偉大なる神オーディンに。そしてヘグニ王とその息子ダグのために乾杯しよう。」
 一斉に広間にいる全ての者が立ち上がり、角杯を上座に向かって差し上げる。
「ダグ、そう言うことだったのね。」
 シグルーンは照れくさそうに笑う弟に頬を寄せて言った。
「なんで私に事前に一言も言ってくれなかったの。もっと早くに知っていたら、お祝いに壁掛けを刺繍してあげたのに。」
「お祝いならもう貰ったよ。ほら、フンディング王のあの剣。……ごめん、姉上。本当は姉上に真っ先に報告するつもりだったんだ。だけど、つい、言いそびれて。」
「今日のは私がいけなかったわ。ヘズブロッドのことでちょっと苛ついてしまって。だから、もうお互いに謝るのは止めましょう。ともかくダグの成人の儀があるんだし、今年の民会にまた楽しみが一つ増えたわね。」
 父のような首領や、発言権のある自由民にとって民会とは、評議会や裁判をしたりという重要な集まりであった。だが、彼女のような女や子供にとっては、それは楽しいお祭りでしかない。特に夏の民会は規模が大きく、セヴァフィヨルだけでなく他の国々も集まる。この時ばかりは戦も休まり、争いは裁かれ、人々の心に平和と安らぎが生まれるのだ。そして、大抵の少年はこの民会で正装した戦士のいでたちで儀式を受け、初めて一人前の男として扱われることになる。シグルーン達も毎年出かけるこの民会で、ダグがヴァイキングとして初お目見えする。想像しただけで彼女の心は躍ったが、その気持ちを表すためにダグの両頬にキスをした。
「シグルーン、喜ぶことはまだあるぞ。自分の席に着きなさい。」
 すでに角杯を飲み干したヘグニ王が、侍女に酒をつがせてうなずいた。
「喜ぶことはまだあるって?」
「さあ……。」
 成人の儀以上におめでたいことが、そう立て続けにあるのだろうか。不思議に思ってダグに問いかけたが、弟も自分のこと以外は分からなかった。姉弟で思わず顔を見合わせたが、取りあえずシグルーンは言われたとおり席に着くことにする。
 ヘグニ王はもう一度角杯を片手に持つとそれを高く掲げ、周囲を見回した。
「めでたいことはダグだけじゃないぞ。申し込みがあったのでな、シグルーンをこの夏グラーンマルの王子、この儂の隣で座っているヘズブロッドに嫁がせる事に決めたのだ。どうだね、諸君。似合いの夫婦になるとは思わんか?」
「……!」
 シグルーンの、まるで悲鳴のような息を吸い込む音は歓声にかき消され、父王の元には届かなかった。
「三日後に民会に出席するために、ヘズブロッドと共に出かけるぞ。ついてくる者はそれまでに支度をしておいてくれ。そうでない者は儂達が帰ってくるまでの間、ヴァイキング猟の準備を怠るでない。ダグはそこで成人の儀を受け、儂はグラーンマルとヘズブロッドに結婚の持参金を交渉して決めてくる。シグルーン、帰ったら婚礼だ。さあ、諸君。乾杯しようじゃないか。」
 辺りの騒音は今やシグルーンの耳には聞こえず、血の気の引いた顔に表情は凍り付き、燃えるような目はただ当てもなく前方のテーブルを睨み付けるだけだった。
 突然の婚約発表。それが彼女の五感全てを瞬時に麻痺させた。
「これでもう、お前は俺から逃げられなくなるという訳だ。」
 酒臭い息が近寄りそう言うのを、シグルーンは聞いたような気がした。
「……ヘズブロッド。あなた、父上に一体何を吹き込んだの。」
 低くくぐもっているが、落ち着いてしっかりとした声。まるで自分の声がどこか遠くで響いているようにシグルーンは感じられる。
「ただ俺は事実をのべただけだぜ。俺がヴァイキングとして立てた手柄の数々。結婚して家督を継いでもおかしくない年齢だということ。そしてグラーンマルはセヴァフィヨルとこれからも友好関係を結んでいきたいという、我が父の言葉。」
「あなた……。」
 面白そうにのどの奥でくっくと笑うヘズブロッドの声を聞いているうちに、少しずつシグルーンの頬に赤みが差してきた。自分の体の中、血が逆流してきたのが分かる。
「何か誤解をしていないか?シグルーン。俺はお前を高く評価しているんだぜ。お前のその身分。セヴァフィヨルの資産。ワルキュリエとしての戦闘能力。どれを取ってもお前は魅力的な女なんだよ。」
「それは、私の本当の姿ではない。あなたは私に付随するものしか見ていない。私のことなど見ていない!」
 睨み付けながら訴えたが、ヘズブロッドにその言葉が届くわけはなかった。
「どちらにしても、もうお前には道はない。子供はその父親に従うこと。それが父なる神、全てのワルキュリエの保護者であるオーディンの教えだからな。お前には決定権はないんだよ。」
「こ、の、……!」
 無意識のうちに手が動き、ヘズブロッドの横面を張り飛ばそうとしたシグルーンだったが、それは直前になって阻止された。
「お手柔らかにお願いするぜ。そんなに怖い顔なんかしないで、祝杯でもあげようじゃないか。」
 ヘズブロッドに手首をきつく捕まれ、その手に無理矢理角杯を持たされたシグルーンは、唇をかみしめた。
「シグルーン。俺はお前を他の男に取られるほど、ぼんやりはしていない。勝機を見たら素早くそれを拾い上げるのが、この世界で上に立つコツだ。お前もそれを覚えておけ。この俺に選ばれたことに感謝するんだ。」
「あなたは、私を愛していないわ。私を資産の一つとしか見ていない。」
 ヘズブロッドはそれには答えず、ただにやりと笑った。シグルーンはそんな彼を怒りに満ちた目でもう一度睨むと、手にしていた角杯の酒を一気に飲み干す。
「あなたは私の尊厳を踏みにじった。いつか、後悔させてあげる。私はあなたを決して許さないから。」
 すでに酒の回った席の中、彼女とヘズブロッドの会話を聞いている者は誰もいない。あっという間に男達に囲まれたダグは、多分酔っぱらって倒れるまで酒を飲まされているのだろう。ハールといえばご馳走を出すのに掛かりきりだ。
 シグルーンは一呼吸おくと、手にしていた角杯をヘズブロッドに向かって放り投げた。
「う、このっ!」
 驚く彼の不意を付いて、自分の手首を軽くひねる。途端、ヘズブロッドの体は大きく揺れ、シグルーンを掴んでいた手はいともたやすくはずれてしまった。
「もう、今夜は失礼するわ。」
 何事もなかったように軽く一礼すると、シグルーンは広間を去った。

 今夜の婚約発表を境にして、明日からはもう今までのような自由な行動は出来無くなるだろう。「結婚前だから」の一言で、勝手気ままに野山を駆け回ることはもとより、ワルキュリエとして戦に参加することも禁止されてしまう。

 あなたの起こす戦に、私は必ずワルキュリエとして参戦します。

 ついさっき言ったその台詞が、むなしくシグルーンの心の中で思い出された。あれが今日の出来事だとは、彼女にはどうしても信じられない。
 もしヘズブロッドとの結婚話を自分が事前に知っていたとしたら、果たしてそれを素直に受け入れることが出来ただろうか?
 答えの分かっている疑問を自分自身に聞いてみたところで、シグルーンの心に光は射してこなかった。ワルキュリエは戦場で数多くの勇者達が戦う姿を目にしている。あれほど嫌っているヘズブロッドとの結婚話がここまで進んでいると知っていたなら、戦場で知り合った勇者の中からそれに代わる男を選ぶことくらい、シグルーンならしかねないだろう。
 そう。取って代わる、男。
 武に優れ、王としての器量を備え、そして彼女を資産としてではなく人間として愛してくれる人。例えばヴォルスングのヘルギのような……。
「でも、もう、遅い。」
 自分の考えを払いのけるように、頭を振る。ヘズブロッドはなんと言った?他の男に取られるほど、ぼんやりはしていない。
 確かに、彼はその点に関しては抜け目がない。
 シグルーンは唇をかみしめると真っ直ぐ前を見つめ、離れに向かって歩き出した。