オーディンの娘

第一章  邂逅


その六

 銀製のブローチを手でもてあそびながら、シグルーンはため息を付いた。
 この北の世界では夏の季節はとても短い。酒宴が行われてからまだ半月ほどしか経っていないというのに、すでに季節は初夏から夏へと移行し、太陽は一年のうちで最高の日差しを大地に投げかけている。
 父王ヘグニが民会に出かけだのはいつだったろう。予定では今朝には帰ってきているはずの一行から、まだ何も連絡が入ってこない。
 ここから馬で三夜かかる平野で行われるとはいえ、子煩悩なヘグニ王のことだ。娘の結婚と息子の成人式に浮かれて、民会の終わる七夜以上も居座っているのだろうか。
「シグルーン様、肩マントはこの茜色のでよろしいですか?」
「え?あ、ああ。そうね。」
 侍女の用意する服に着替え、きれいに自分の姿を飾り立てていく。しかしいくら外見を引き立てたからといって、彼女の心は晴れ上がろうとはしなかった。
「この夏は遠出を控えたせいか、あまり肌が焼けなくて良かったですわね。もともと姫様は色白でいらっしゃるから、この茜色のマントに肌の色が良く映えて、まあ、美しいこと。」
 一人ではしゃぐ侍女をぼんやりと眺めながら、シグルーンはもう一度、そっとため息を付いた。
 今年の民会に出なかったのは、何もシグルーンが行きたくないと駄々をこねたからではない。嫁入り前の準備として刺繍の壁掛けを一枚仕上げておくように、そうヘグニ王からの厳重な命令が彼女に下りたせいだった。だが、シグルーンにしてみれば例え名目は花嫁修業であろうとも、ヘズブロッドと一緒に旅をしない分だけ今の状況の方が気が楽というものだ。
「シグルーン様、」
 小さな細工物の木箱を抱えながら、ハールが部屋へ入ってきた。
「ただ今使いの者が帰ってまいりましたよ。王様はゲムルの川を越えた辺りにいるそうで、予定通り今宵の宴までには帰ってこられるそうです。」
「……そう。」
「さあ、皆様がお帰りになられたら、いよいよ姫様のご婚礼ですからね。今のうちに支度をしておかないと、後で慌てることになりますよ。」
 気のない彼女の返事に構わずに、ハールは抱えていた木箱の蓋をそっと開けた。
「この首飾りを着けて下さい。これはあなたのお母様の宝物。ヘグニ王がシグリーズ様に求婚したときに贈った首飾りです。」
 ハールに手渡されて、シグルーンはその首飾りをじっと見つめた。
 銀で造られた、精巧な鎖の首飾り。母が身につけたこの宝飾品を持って、嫁いでくれとハールは言っているのだ。
「シグルーン様。」
 改まった口調のハールに、シグルーンはぴくりと反応した。
「私はあなたのお母様、シグリーズ様の乳姉妹として共に彼女と育ちました。一番近くで彼女の一生を見てきたのがこの私です。シグリーズ様は、ヘグニ王と結婚されて幸せでしたよ。」
「ハール……。」
 つぶやいたが、シグルーンにはそれ以上の言葉が出てこなかった。
 自由な恋愛など認められない。身分が上になればなるほど、なおさらだ。シグルーンの母は王族ではなかったが、裕福な家の見目麗しき娘だった。妻に先立たれ、二度目の結婚相手を捜していたグラーンマルの王様にとって、彼女はどんなに魅力的に映っただろう。例え彼女が過去に二度も結婚して、その二度とも夫を戦場で亡くしていたとしても。
 三度も親の言いなりになって結婚して、結局若くして亡くなった母親を、ハールはそれでも幸せだったと言い切った。それは、今から結婚という人生の転換期を迎える娘に対する慰めの言葉なのか、事実なのか。
 シグルーンは首飾りを握りしめると、静かに立ち上がった。
「シグルーン様……?」
「ごめんなさい。少しの間、独りでいたいの。浜辺まで散歩に行ってくるわ。」
 ハールの返事も聞かずに、シグルーンは外へ出た。屋敷の周りではヴァイキング猟のために武器を整備する者、今宵の婚礼のために料理をする者などが忙しく立ち働き、彼女に構う者は誰も居ない。シグルーンは波音に導かれたようにゆっくりと浜辺に向かって歩き出した。

 只の時間伸ばしに過ぎないことは分かっている。だけど、でも……。

 それでも花嫁の飾り付けをする前に、どうしても海が見たかった。ヘルギとの思い出は全て海に繋がっている。
 彼を乗せた船隊や、初めて出会ったブルニの入り江。そんなことを思いながら海を見つめていると、シグルーンの胸は鈍く疼く。最初は只の憧れだった。戦場での彼の活躍、戦いぶりを仲間から聞いて興味を持っただけだった。それが、あのたった一回の出会いで大きく変わってしまったのだ。
 憧れという、空想の産物だった勇者が生身の男として現れた。その存在感に、その現実に、シグルーンは今こんなにも惹かれている。
「なぜ、そんなにくらい顔をしているのかね?お嬢さん。」
 ふいに背後から声がして、シグルーンは驚いて振り向いた。
 黒いマントを羽織り、帽子を目深に被った大柄な老人が、彼女のすぐ後ろに立っている。
「あ、いえ、そんな、」
 言葉にならない言葉を口の中でつぶやきながら、シグルーンは訝しげにこの老人を見つめた。
「隣に座らせて貰うよ。」
「……どうぞ。」
 一拍おいてから、返事する。
 いくら彼女が物思いに耽っていたからといって、こう簡単に近寄られたことに気が付かないわけがない。この気配の消し方からみて、昔は相当に武に長けていた勇者だったのだろうか。
「一緒に座らんかね。」
 老人はそんな彼女に頓着せず、気軽に声を掛けてくる。
 のんびりとした彼の声。何となくその声に惹かれたシグルーンは、ちょっと躊躇するとすぐに思い直して、彼の隣に腰を下ろした。
「お前さんはもしかして、ヘグニ王の娘かね。」
「そうですが。」
「おお、やはり。お前さんのその身のこなし、高貴な光を放つ瞳。ワルキュリエに違いないと思ったが、当たっておったか。」
 そう言って老人は笑うと、その後は何も言わずに海に目をやった。訳が分からずシグルーンはそっと横目で彼を見る。しかし老人は相変わらずとなりに座る彼女を気にする風でもなく、ぼんやりと海を見つめていた。

 規則的な波の音。光を弾いて輝く水面。葦は海風に吹かれてゆらゆらと揺れている。

 ふと、この老人に何か話し掛けてみようかとシグルーンは思いついたが、やはり思い直して海を見た。
 生まれたときから毎日のように見続けている海。この波の一つ一つは、いつかヴォルスングの領地であるブラールンドの入り江までたどり着く。あの、ヘルギの住むブラールンドまで。
 水面のあまりのまぶしさに目がくらみ、シグルーンはきつく目を閉じた。
 もう二度と会うことのない彼の面影が、なぜこうも自分の胸を締め付けるのだろう。
「シグルーン。」
「え?」
 老人の呼び掛けに、シグルーンは我に返った。
「お前さんは人からの命令と自分の心、そのどれに運命を掛けても良いと思うかね。」
「私、が……?」
 今までとは違う、毅然とした老人の態度。そしてそんな彼の突然の問いかけに戸惑って、シグルーンは口ごもってしまう。
「ワルキュリエというものは、自らの手で運命を切り開いていくものだ。父の言葉に自分の運命を掛けてみるのも良し、また、自分の心に素直に従うも良し。しかし見るところ、今のお前はそのどちらにも覚悟を決めることが出来ず、ただ状況に流されているだけのように思えるのだがね。」
 見知らぬ老人の指摘に、シグルーンの体がぴくりと動いた。
「お前が最も嫌う男との結婚を父が命令したとしても、それを受けるか受けないかはお前の意志で決めること。例えそれが強制的であったとしても、最終的な決定権はお前の手の中にあるのだ。」
「私の手の中に?」
 そうつぶやいてから、彼女は思わず笑ってしまった。
「なぜ笑う。」
「だって、そんなことなどある訳もない。私など、所詮国と国を繋ぐ道具でしかないんだわ。国同士の友好のために差し出される、贈り物。それだけよ。」
「甘いな。せっかく婚儀によって固められた友好も、お前のそんな態度では余計に亀裂が入るというもの。お前は二つの国の仲を裂きに行く気かね。」
「……なぜ、そんなことをおっしゃるのですか。」
 青ざめたシグルーンの唇から、かすれたため息のような言葉が漏れた。
「さあな。ただ、儂はお前にワルキュリエの心を失って欲しくはないんだよ。ワルキュリエというものは、決して戦うことを諦めたりはしない。自分の運命は自分で切り開くものだということを知っているからな。自分の意に染まぬ命令ならば、例えオーディンが発したものでも時にはそれを破りさえする。そんな強さを、儂はお前にいつまでも持っていて欲しいと思うんだが。」
「そんなもの……、不要だわ。」
 ゆっくりと頭を振って、シグルーンは老人の言葉を否定した。
「私はワルキュリエの心なんて、要りません。自分の意志を持ち続けたままでヘズブロッドと一生添い遂げるなんてこと、私には出来ないもの。私はセヴァフィヨルの王女です。この国の繁栄を確かなものにするためにはグラーンマルの力が必要なんだってこと、誰に言われなくても知っています。だからこそ、その友好関係を続けるためにも、この自分の心を早く失いたいの。」
「本当に、そう思っているのかね。」
 あくまでも理想論を説こうとする老人に、シグルーンは苛ついた。
「では、どうすれば良い?自分の意思を尊重すればどんなことが起こるのか、それが分からないほどの馬鹿ではないわ。民会での決定を無視して私が逃げ出せば、グラーンマルは侮辱されたとしてセヴァフィヨルに戦を仕掛ける。この国の戦力ではグラーンマルに太刀打ちできない。私だって今すぐ逃げ出したい。けれど、そんなことをしたらこの国の将来がどうなるか、誰だって想像できるでしょう?」
「いや、方法はまだある。」
 次第に興奮してきたシグルーンとは対照的に、老人は相変わらず落ち着いた態度でそう言いきった。
「どういう、意味?」
 そのあまりのなめらかな口調に何かを感じ、シグルーンは身構える。
「儂が言いたいのは、この世の中に国はいくつも存在していると言うことだ。お前が言っていることは、この近郊でセヴァフィヨルと釣り合う力を持っているのが、たまたまグラーンマルだけだったということだろう?確かにこの国がグラーンマルからの攻撃に耐えることは難しい。だが、戦いはグラーンマルだけが起こすわけでは無かろうに。」
「……。」
「お前の望む男はどんな男だ。この国を飛び出て、お前はどこに行くつもりだ。戦の神の娘、ワルキュリエが選ぶ男は、自分の恋人の危機を黙って見過ごすような卑怯者なのか。」
「……つまり、あなたは、」
 しばらくの沈黙の後、シグルーンが老人の顔を見つめて言った。
「あなたは、グラーンマルがセヴァフィヨルを攻める前に、私が援軍を率いて戦えば良いとおっしゃるのですね。」
「それは自分の考え次第だよ。」
 そう答えて微笑む老人の目は鋭く、その鋭さに自分の心で眠っていた何かを揺り起こされた気が、シグルーンはした。

 自分の気持ち。自分の判断。
 あと数時間後には結婚式は始まってしまうだろう。行動に移すとしたら、 

 ……今しかない。

 冷静に分析している自分に気が付いて、シグルーンは思わず小さく笑ってしまった。そんな彼女の表情の変化を見て取り、老人が尋ねる。
「決心がついたようだの。」
「……はい。」
 シグルーンの声は落ち着いていて力強く、その姿にもう迷いは見られない。老人はしばらく彼女の瞳を無言で見つめると、重々しくうなずいた。
「お前の気持ち、儂がしかと受け止めよう。」
 その言葉は威厳に満ちており、シグルーンを圧倒する力を持っている。
「あなたは……、あなたの御名をお聞かせ下さい。」
 シグルーンにはもうその答えが分かっているような気がしたが、それでもあえて聞いてみた。
「儂は時に自分のことをヘリアン、軍勢の王と呼ぶ。」
「ああ、やはりあなたは……。」
 彼女が最後まで言おうとした言葉を無言で遮り、老人は浜辺へと歩み寄ると葦を一本引き抜いた。
「これは……。」
「お前が選んだ男に、この葦を渡すのだ。その時儂の力は全てその男のものとなるであろう。」
 シグルーンは葦を掴むと彼を真っ直ぐに見つめ、彼もそんな彼女を見つめ返した。
「良い目をしている。狼のように鋭い、生気に満ちた目だ。それでこそ我が娘、ワルキュリエというもの。さ、行け。ヘルギは今、ロガフィエル山でフンディングの息子達と戦っている最中。行ってお前の意志を伝えてこい。」
「ありがとうございます。」
 シグルーンはそれだけを言うと、屋敷に向かって走り出した。
 会いに、行こう。ヘルギの元へ。
 屋敷に戻ると息吐く間もなく今までの綺麗な着物を脱ぎ捨て、戦士の格好に白鳥の羽衣を肩から羽織る。
「姫様、何を!」
「シグルーン様、おやめ下さいっ。」
 そんな彼女の様子にただならぬものを感じ、侍女達が叫ぶ。構わず部屋を出ようとすると、知らせを聞いて慌ててやって来たハールと出会ってしまった。
「ハール……。」
 出来ることなら、会いたくはなかった。
 この家を、この国を捨てて出ていく決心は変わらない。しかし、ハールの信頼を裏切るような真似をする。そのことが、シグルーンの心に後悔に似た鈍い痛みを作っていた。
「シグルーン様。」
 いっそのこと怒鳴ってくれた方が、気は楽だった。だが、ハールは彼女の名前をつぶやくと唇をかみしめ、それ以上は何も言わない。
 シグルーンは腕に巻き付けていた首飾りをほどくと、ゆっくりとハールに差し出した。
「ハール。これ、私には受け取れない。」
 父が贈った宝物。母の思い出の品。父を裏切り、母を裏切ることになるこれからの自分には、この首飾りは相応しくなかった。
「……いいんです。」
 首を振って、ハールは寂しそうに微笑んだ。
「それはあなた様の物。他の誰の物でもありません。お行きなさい。決心したのなら、迷わず道を進むのです。シグリーズ様もそんなお人でしたよ。」
 ハールの目に涙が溜まっていたが、シグルーンはあえてそれに気が付かない振りをした。
「ごめんなさい。ハール。」
「そんなことより急ぎなさい。男達も直にやってきます。」
 その忠告に無言でうなずくと、シグルーンは剣を腰に収めつつ外に出た。
 彼女を引き留め、押さえつけようとする男達を難なくかわし、厩から天馬を連れ出してそれに飛び乗る。
「父上に伝えて頂戴。あなたの娘、シグルーンは死にましたと。ここにいるのはワルキュリエ。オーディンの娘には、もはや血を分けた実の父は存在しません。」
 混乱する従者達にそう告げると、彼女は力強く手綱を引いた。天馬は高くいななき、大きく翼を広げ宙を舞う。
 振り返ると、自分の今まで生まれ育った場所がどんどんと小さくなってゆく。たが、シグルーンはすぐに前方を見据え、馬の歩を早めた。
 いつまでも感傷にとらわれてぐずぐずしているわけにはいかない。目指すはここから遙か西に位置するロガフィエル山。一刻も早くそこに辿り着き、ヘルギに会って自分の思いを告げるのだ。

 屋敷の者達はこの突然の出来事に混乱して、ただ自分たちの頭上からどんどんと遠ざかってゆくシグルーンを見送るだけだった。