オーディンの娘

第一章  邂逅


その七

 山の中腹に、形の粗い岩がいくつもころがる平野がある。ヴォルスングとフンディング、どちらがそこを戦場に決めたかは定かではないが、ともかくヘルギはそのロガフィエル山の戦場に息を切らしながら立っていた。
 戦いの結果は、ヴォルスング一族の圧勝。だが、ヘルギは無表情のまま近くの岩に腰掛ける。
「水だ。飲むか?」
 シンフィエトリが革袋を持ってやって来た。
 億劫そうに無言のまま頷くヘルギの姿は血にまみれ、埃と汗で汚れた顔に瞳だけが射るように光っている。シンフィエトリはその姿を見ると、彼に気付かれないように肩をすくめた。
「ずいぶんと今回も活躍したものだな。」
 革袋を手渡しながら、シンフィエトリが言った。
「アールヴにエイヨールヴ。ヒョルヴァルズ、ヘルヴァルズ……。一体何人を手に掛けたんだろうな。」
 自嘲気味に答えると、ヘルギは岩の上でごろりと仰向けになる。無表情な分、彼の不機嫌さが良く伝わってくる動作だ。シンフィエトリは隣に腰を掛け、彼を見つめた。
「最近荒れているようだが、どうしたんだ一体。今日なんて、味方の狂戦士でさえお前を恐れて近寄らなかったほどだ。弱気な態度は禁物だが、しかし、死に急ぐこともないだろう。進んで鷲の餌になるような真似は止めるんだな。」
「……。」
 彼の忠告に返事もせず、なおかつそれ以上言われたくもないのか、ヘルギは目をつむる。そんな姿を見続けるシンフィエトリは、ため息混じりにつぶやいた。
「まるでおいてけぼりを食らった犬というところだな、ヘルギ。原因はシグルーンだろう。あのセヴァフィヨルの、ブルニの入り江で出会ったワルキュリエ。俺達の戦いにいつか参加すると言って別れたが、あれ以来音沙汰無しだ。」
「もう、ワルキュリエではないのだろう。」
 目を閉じたままでヘルギが答える。
「なぜ分かる。」
「彼女はグラーンマルの息子と婚約したそうだ。」
「婚約?」
 そのニュースに驚き、思わず言葉を繰り返してしまった。
 確かに、夫を持つ女はワルキュリエであることを辞める。その常識からいっても、もうシグルーンが戦に出ることがないのは明白だ。
 だが、あの出会いの時にはそんなことをおくびにも出さなかったシグルーンが結婚するとは、突然な話しだ。しかも、自分すら知らない彼女の結婚話をヘルギが知っているのは、どうにも解せない。
「その話を誰から聞いた?」
「……この戦場のワルキュリエ。」
 渋々といった様子の彼の答えに、シンフィエトリの口元に思わず笑みが浮かんでしまった。
 今までのヘルギというのはさすが勇者と謳われるだけあって度胸も良く気前も良いのだが、ただ、愛想の無さが大きな欠点となっていた。他人に対して好奇心を持つこともなく、物事に執着することもなく、戦いに明け暮れる毎日。そんな彼が初めて誰かに興味を持ち、その誰かの消息を聞くために他人に話し掛けたのだ。
「お前、ずいぶん可愛くなったな。」
 感心してシンフィエトリがそう言うと、ヘルギは片目を開けて迷惑そうに彼を睨んだ。その視線を受けてもう一度微笑むと、シンフィエトリは大きく伸びをして寝転がる。
「だが、婚約か。予想外の展開だな、ヘルギ。」
 その言葉にヘルギは返事をしない。
 確かに自分が初めて興味を持った女を、他の男に取られたのだ。機嫌の良い訳はないだろう。
 シンフィエトリはそっとため息を付くと、しばらく彼一人だけにしておこうと立ち上がった。
 が、その途端、当の本人のヘルギがシンフィエトリに問いかける。
「セヴァフィヨルの、……特徴を知っているか?」
「特徴か?さあ。特には知らん。」
 あっさりと答えたが、ヘルギからの反応はない。もっとよく考えろと言うことなのだろうか。
 意図が掴めぬままシンフィエトリはやれやれというように座り直すと、自分の記憶を探るように言葉を続けた。
「セヴァフィヨルは、……まあ、あまりぱっとしないのが特徴とでも言えるな。語りぐさになるような、派手な戦は聞いたことがない。だが、あそこの王はヴァイキング猟で勝ち取った財宝よりも、自分のところで取れた農作物で富を得ている。なんて、悪口にもならん悪口を聞いた気もするが。」
「では、グラーンマルは?」
 ゆっくりと上半身を起こして、ヘルギがまた問いかけた。
「あそこは逆だ。毎年凶作に見舞われているが、武の国なので足りない物は取りあえず奪って補っているらし、い……。」
 中途半端に言葉を切って、シンフィエトリは思わずヘルギの顔を見つめた。今自分のいった言葉の意味をもう一度考えてみたい。
 派手ではないが国力の豊かなセヴァフィヨルと武の国グラーンマル。セヴァフィヨルの王ヘグニの娘シグルーン。突然の結婚。結び合わさる二つの国。
 そこまで考えが至ったとき、それを見計らったようにヘルギがシンフィエトリの瞳を見据えて話し始めた。
「グラーンマルの息子はなかなかの切れ者だな。欲しい物は何としてでも手に入れる。」
「ヘルギ……。」
「だが、それはそいつだけのやり方ではないだろう?」
 シンフィエトリの答えを待たずに、ヘルギは山の麓から広がる海に視線を転じる。
 ゆっくりとうねる波。風は山から吹いている。この様子なら、帆さえ張れば船はすぐさま海原へと滑り出し、目的地へとこの体を届けてくれるだろう。
「シンフィエトリ。俺は、行く。グラーンマルの息子からシグルーンを奪う。」
 立ち上がるとヘルギはシンフィエトリを見つめ、にっこりと笑った。
「自分の欲しいものは、自分で手に入れなければな。」
 シンフィエトリはちょっとの間そんな彼を眺めていたが、ゆっくりとした口調で彼に言葉を返した。
「いつか、俺が言っていたな。守ってやりたくなるような女が、きっとお前にも現れると。」
 ヘルギにとって、それがシグルーンのことだった。それならば、一度守ると決めた相手なら、命がけでも守ればよい。
「守ると言っても、多少意味が違うがな。」
 生真面目な表情で、ヘルギが返す。
「確かに普通の女とは違うな。」
「……目が、好きなんだ。あの瞳は、縛られては輝かない。あいつを自由にしてやりたい。」
「それがお前の守り方だよ。」
 シンフィエトリはそう言うと、ヘルギと同じように立ち上がった。
「セヴァフィヨルは良い国だ。我らが一族、ヴォルスングとしてもこれ以上グラーンマルに力を付けて貰っては問題が出るしな。ヘルギ、お前はこの軍勢を束ねる若き王子だ。俺はお前に従う。さあ、何なりと命令を出してくれ。」
「すまない。」
 ヘルギは短くそう言うと、今の状況を把握するように周りを見回した。
 戦の終わった直後だ。使える兵の数、武器の点検、兵糧。全てを頭に入れなくてはいけない。次の戦いには決して負けてはならないのだ。
 次第に精神が次の戦に集中されていく瞬間、隣で黙って立っていたシンフィエトリが身じろいだ。
「おい。お前が行くまでもなかったようだぞ。」
「ヘルギ!」
 被さるように、空から少女の声がした。
「……シグルーン?」
 ヘルギの口から名前が漏れる。
 日の光を浴び、白い大きな翼で羽ばたきながら、やって来る天馬の影。
 それは徐々に大きくなり、背に乗せた人物の姿がはっきりと見えるほどに近づくと、無謀にもその背の少女は空中で馬から飛び降りた。
 思わず反射的に差し出されるヘルギの腕。羽衣をまとっている彼女は半ば浮遊しながらその腕を掴み、馬の背から降りた勢いのままヘルギの胸に飛び込んだ。
「ヘルギ!会いたかった……。」
 引き締まっているが、やはり男などより遙かに細く柔らかい彼女の体。金色の髪からこぼれる甘い匂い。たまらずヘルギは彼女の体をぎゅっと抱きしめる。
「……私は、民会でヘズブロッドと婚約させられました。」
 自分の胸の中で彼女がそう言うのを、ヘルギは聞いた。
「その話は、知っている。」
「でも、」
 シグルーンは顔を上げると、彼の瞳を真剣な眼差しでのぞき込む。
「でも、夫にしたかったのは別の勇士です。ヘグニの娘は心にもないことを口にするのは慣れていないわ。聞かせて、ヘルギ。あなたの気持ちを。」
 息を切らしながらそう訴えるシグルーンに口づけて、ヘルギは自分が思っているよりもなお強く、この娘に惹かれていることを知った。
「お前のことは、俺が守る。例えこれが元でお前の一族の怒りを買うことになるとしてもな。俺は決して恐れない。」
 ヘルギの言葉に応えるように、シグルーンは小さく安堵のため息を付いた。そして気持ちを切り替えるように頭を振ると、ゆっくりと体を離す。
「一族の者は、私を一生許さない。私は父上の夢を打ち壊しました。でも、そんなことはどうでも良いの。それより恐ろしいのは、グラーンマルの復讐。助けて、ヘルギ。ヘズブロッドは私が逃げたことを知ったら、セヴァフィヨルを攻撃するわ。私のために私のいた国が戦いに巻き込まれるなんて、そんなことは絶対に避けたいの。そうならないうちに、早く手を打っておかないと。」
「……あなたが、ここに逃げてきたのを知っている者はいるのか?」
 今まで黙って二人を見守っていたシンフィエトリが、そこで初めて口を開いた。シグルーンはその声に振り返って、素早く考えを巡らせる。
「いません。あなた方がここで戦をしていることを知っている者もいないはずです。父上が私の居場所を見つけるのも、グラーンマルが兵を率いてセヴァフィヨルへやって来るのも、後数日は時間を要すると思います。」
「セヴァフィヨルもグラーンマルも、今頃は大騒ぎになっていることだろうな。この混乱に乗じてこちらの体制を整えた方が有利になる。急ごう。」
 そう言ったヘルギの目がすうっと細まって、冷たい光をたたえた。間近で見るそんな彼の変わり様にシグルーンは一瞬鳥肌が立つような怖さを感じたが、もとより彼女も戦の女神の一人だ。すぐに気を取り直すと、今までずっと握りしめていた葦をヘルギに手渡す。
「これは……、」
 ここまでの道中を折れもせず、真っ直ぐなままの一本の葦。戸惑うヘルギをすっと見据え、シグルーンが説明する。
「これは、力の象徴。私が戦の神の娘であるという証拠。これを受け取ったあなたに、全てのワルキュリエの父、オーディンのご加護が届くはずです。」
「これは、“グングニル”か。」
 葦をじっくりと見つめ、ヘルギがつぶやいた。シグルーンは無言でうなずくと、自分が乗ってきた天馬へと踵を返す。
「兵のことはお任せします。私もこれから出来る限りのワルキュリエを集めに参ります。」
「我々は、これから船でスヴァリンスハウグへと向かう。グラーンマル王の館だ。あなたなら航路も分かるだろう。途中で合流できるように急いでくれ。」
「分かりました。」
 シンフィエトリの言葉に答えると、シグルーンはすぐに天馬で空を駆けだした。二人が見守る中、その姿は見る見る小さくなってゆく。
「つくづく、……お前はとんでもないのを相手にしたと思うよ。」
 彼女の姿が見えなくなってから、シンフィエトリがぼそりと言った。
「まあ、な。」
 その言葉にうなずくヘルギの口元が、ついわき上がってくる微笑みを堪えるように、微妙に歪んでいた。


 ヘルギ達ヴォルスングの一族が援軍を連れてスヴァリンスハウグへ辿り着くのに、結局二晩もかかってしまった。援軍を待つためにブランドエイ島へ立ち寄ったのと、途中暴風雨に巻き込まれたのが原因だ。が、暴風雨はシグルーン率いるワルキュリエ達が彼らの軍に合流した途端に、おさまってしまった。
 グラーンマルは最初こそこの事態に驚いたものの、使者としてシンフィエトリが先に着いた頃には落ち着きを取り戻していた。すぐさま援軍の手配を始め、フレカステインという場所で戦うことが取り決められた。
「さて、ここからが問題だな。」
 船を降り、戦場となるフレカステインへ行く途中、馬上でシンフィエトリがそう言った。
「グラーンマルの武勇は名高い。どのように戦ったら良いものか……。いくらこちらにはオーディンのご加護とワルキュリエが味方に付いているからといって、気を抜くことは出来ないぞ。」
「楔形陣形をしこう。一番先頭には俺が出る。シンフィエトリは右翼から回ってグラーンマルの息子達を攻撃してくれ。」
「分かった。」
 戦場に一歩近づくにつれて、自分の心の中の獣が目を覚ましていくのがヘルギには感じられる。そしてまた、冷静にそれを観察している自分の目も。

 シグルーン。

 無意識のうち、ヘルギは心の中で彼女の名を呼んでいた。シグルーンなら、きっと同じ感覚を味わっているはずだ。空中で待機している、あの軍神の娘なら、きっと。
「準備は出来たな。」
 森と森の間にぽっかりと空いてしまったような草原の真ん中。前方に広がるグラーンマル軍を睨み付けながら、隣に控えた男に向かってヘルギが聞いた。
「はい。大丈夫です。」
 シンフィエトリは己の配置場所に着いた。今いるのは側近の者だ。
 ヘルギは大きく深呼吸をすると、シグルーンから貰ったあの葦を力一杯敵軍に投げつけた。
 一見すると細く長い葦はあまりにも頼りなく、今にも吹き飛ばされてしまいそうだ。だが、この葦は只の葦ではない。
 葦は敵軍へと飛んでいる最中から次第に姿を変え始め、もっと太く力強くしっかりとした形になり、しまいには大きな槍へと変化して敵の一人を刺し貫いた。
「オーディンの槍、グングニルの味はどうだったか?」
 敵のざわめきを聞きながら、ヘルギは不敵な笑みを浮かべた。
「お前らの軍には恐怖が、お前らの王には死が有るぞ。よく聞け!余は汝らを全てオーディンに捧げる!」
 高らかに叫びそう宣言すると、ヘルギは敵陣めがけて馬を走らせる。そしてそれが戦いの始まりだった。