オーディンの娘

第一章  邂逅


その八

 戦いが始まると、馬はすぐに乗り捨てられた。
 剣と楯、弓や槍を持って戦う白兵戦では、かえって馬は邪魔になる。その馬を引き受けるのは、まだ戦場での経験の少ない従者の仕事だ。素早く手綱を取ると、馬を安全な場所へと保護していく。さすがに使い捨てに出来るほど、軍馬の数は多くない。
 ヘルギは、すでに先頭を切って勇士らの戦う場に臨んでいた。打ち気にはやり、退却など念頭にない。その姿はまさに狂戦士そのものと言ってよいだろう。だが、そんなヘルギを遠目で見つつ、シグルーンも負けてはいなかった。

 空中からの槍を投げての攻撃が終わると、次は一つの剣を両手で持って地上に降りて攻撃を始める。本来なら片手に剣、片手に楯を持って相手の攻撃を避けながら戦っていくのだが、今回はそうもいかない。切る刺すの類からほど遠い、叩き割るという表現が相応しいのがこの時代の剣だ。より確実に人を殺めたいのなら、一つの剣を両手に持って上から振り下ろすのが一番良い。特にシグルーンのように体格が劣る者には、それが最適だった。
 自軍の武将が、そしてワルキュリエがこんな調子では、部下の方も自然張り切らざるを得なくなる。今までにない激しさで早朝から始まった戦いは、昼過ぎにはある程度の決着が付いてしまっていた。
 ヴォルスング軍がヘルギを初めとして以下主だった公達が無傷だったのに対し、グラーンマル側は王はもとより応援に駆けつけた沢山の勇士達の血が流れたのだ。今や、誰の目にも勝敗は明らかだった。

 そしてそんな戦場の中、ヘルギは最後のまとめに取りかかっていた。

 右翼から敵を切り崩していったシンフィエトリが中央へたどり着いたとき、戦いは一組を残すだけとなっていた。
 地面に転がるように倒れている、幾人もの戦士達の死体。そんな中でヘルギともう一人の男だけが立っている。汗と泥で汚れた顔。目だけがお互いの姿を追い求め、ぎらぎらと射て刺している。
 だが、男はヘルギをにらみつけながらも、さすがに疲労の色を隠せずにいた。
 息をするたび肩は大きく揺れ、ヘルギの首先を狙おうとする剣先は、ややもすると足下に向かって落ちていこうとする。今、彼を支えているのは気力だけだ。しかしその気力でさえも、狂戦士と化したヘルギの前では霞んでしまいそうなものだった。
「他の者はもう死んだというのにな。それでも戦おうとするのは、見上げたものだ。」
 傍観を決め込んでいるシンフィエトリが、驚き半分呆れ半分でそうつぶやく。
 うっすらと目を細め、口元に冷たい微笑みを漂わせたヘルギの姿。彼の体には、幾人もの男達を倒した返り血が染みついている。この足下に転がる男達をなぎ払った血だ。しかし、対峙する男と比べて息が乱れていないのは、やはり勇者としての格の違いだろうか。
 男は覚えず生唾を飲み込んだ。
「貴殿の名を聞こう。」
 落ち着いた声で、ヘルギが聞いた。
「……ブラギだ。」
 必死に心を奮い立たせ、剣の柄を握り直し、男が答える。
「そうか。ではブラギ、俺のことを覚えておくが良い。ヴァルハルでまた会おう。」
「その言葉、そっくり返してやる。来い!」
 その言葉を合図に二人の男は挑みかかると、互いの首めがけて剣を振るった。
 重なり合う二つの剣が、金属のこすれる音を出す。剣が交わった部分に体重を掛けると、ヘルギは相手の剣をはじき飛ばした。その勢いで、ブラギの体が思わずよろめく。その瞬間をヘルギが外す訳がない。ブラギの首に狙いを定めると、躊躇無くそれをなぎ払った。
 勝負は一瞬で終わった。立ち止まったブラギの体がゆっくりと揺れると、次の瞬間に彼の首が転がり落ちたのだ。
「兄上っ。」
 一仕事終えた後のため息をつく間もなく、その声に反応してヘルギは辺りに鋭い視線を彷徨わせる。ブラギを兄と呼ぶ者ならば、ヘルギにとってその人物は敵だと言うことだ。油断は出来ない。
 だが、その声の主を見つけたとき、ヘルギは剣を構えるのを止めた。いつの間に横に来ていたシンフィエトリも、ため息をついて張りつめた気を抜いている。
 重なり合う死体に横たわり、血にまみれながらも青白い顔で自分のことを睨み付けている少年。そんな声の主の姿に、殺意が失せたのだ。
「……なぜ、俺を殺さない。」
 それでも少年は挑み掛かるようにヘルギに尋ねる。
「無抵抗な人間を殺るほど、趣味は悪くはないんでな。それよりも、傷は大丈夫か。」
 足下に転がる斧を少年に向かって軽く蹴り上げ、顎をしゃくる。少年はそれを掴むと、斧の柄を杖代わりにして上半身を起こした。
「皮膚一枚、かすっただけだ。どうって事はない。」
 その言葉に、ヘルギは思わず微笑んでしまった。精一杯強がっているが、今でも血が滲み出ているその胸の傷は、本人が言うほど浅くはない。それでもこの自分にむき出しの敵意を投げつける、その気の強さは誰かを思い出させる。
 誰か。そう。あの狼の瞳を持つ、じゃじゃ馬娘。
 シグルーン。
 突然ひらめいて、ヘルギは目の前の少年を見つめた。
「お前、名は何という。どこの国の者だ。」
 あまり楽しくもない予想が、ヘルギの頭の中で駆け巡っていた。少年は相も変わらず、そんなヘルギを睨み付けている。
「ダグ。……ダグ・ヘグニソン。セヴァフィヨルのヘグニ王の息子。」
 ふてぶてしいまでに、落ち着いた声。
「シグルーンの、弟か。」
 シンフィエトリが低くつぶやく。ダグはゆっくり頷いた。
 ヘルギはそんな少年を見つめると、深々とため息をついた。
 自分のしたことが裏目に出てしまった。その、悔恨を込めたため息だった。
「王は、この中か。」
 死体の山を、顎で指す。
「あなたが殺った。」
 短い答えが返ってくる。ヘルギはその無表情なまでに淡々とした言葉の奥に、深い悲しみと怒りが含まれているのを感じていた。
「まさかセヴァフィヨルがこの戦いに加わっていたとはな。」
 シンフィエトリの苦渋に満ちた言葉に、ダグがぴくりと身じろいだ。
「セヴァフィヨルは元からグラーンマルと友好関係を築いていたんだ。何かあったら駆けつけるのが筋だろう。しかも今回は姉が裏切って戦を起こした。二重の意味でも、我々はグラーンマルを助けなくてはいけなかったんだ。」
 だが、それももう終わった。
 三人は同じ方向に視線をやって、同じ言葉を心の中でつぶやいた。
 視線の先に転がるのは、首のないブラギの体。
「恨んで、いるか?俺のことを。お前の姉に国を飛び出させ、戦いの原因を作ったのはこの俺だ。そして知らないとはいえ、お前の父と兄を殺してしまったのもな。」
 そんな言葉にダグはふいっとヘルギから目をそらす。わずかに口を尖らせて、ふてくされたような表情。ヘルギはそれを見て、大人びた口調で話すこの少年が、ようやく戦場に出たばかりの、まだ子供であることに気が付いた。
「……それが、戦というものだ。」
 横を向いたまま、振り絞るようにそう言うと、ダグは一瞬黙り込む。だがすぐに顔をヘルギに向け、言葉を続けた。
「姉は、昔からヘズブロッドを嫌っていた。あれは王としての力量を持たない男だと常々言っていた。そんな姉があなたを選び、戦を仕掛け、そして我々に、ヘズブロッドに勝ったのだ。俺は、……姉の眼識の高さを認めなければならないだろう。」
 本当なら、父を兄を目の前で殺された悔しさを、ヘルギに詰め寄ってぶちまけたいだろう。だが、ダグはそうしなかった。ヴァイキングの誇りが、ワルキュリエとしての姉を、戦士としてのヘルギを認めたのだ。それを思うと、自分の表情が自然に優しく慈しむようになるのをヘルギは感じた。
「お前、俺に忠誠を誓わないか?」
 その場にしゃがみこみ、ダグと同じ目線になって、ヘルギが言う。
「あいつの家族をこれ以上亡くすのは、俺だって嫌だ。お前はまだ、ヴァイキングとして覚えなければならないことが有るはずだ。お前を仕込んでやる。」
「……正気、か?」
 再び射るような目つきに戻ったダグが、そう聞いた。
「俺はあなたを殺そうとする人間だぞ。」
 血の絆は人を縛る。自分の一族を殺されたのなら、残された者はその手を汚した男を同じく殺さなければならない。それが掟。例えどんな深い結びつきのある二人だとしても、復讐を許されることは出来ない。残された者は復讐を終えない限り、一族の名を正式に継ぐことは許されないからだ。ましてやダグは、たった今目前で父と兄を殺されている。生き残しておくには余りにもやっかいな存在だ。
「だが、ダグという一人の人間がヘルギに忠誠を誓うことは出来る。」
 そう言うヘルギの表情は、明らかに面白がっていた。
「ヘグニ王の息子セヴァフィヨルのダグは、一族のため父と兄のために、ヴォルスングのヘルギに復讐をしなければならない。だが、考えろ。今のお前のようなひよっこに、俺は倒せるか?」
「くっ!」
 揶揄されて思わずむっときたダグは、杖代わりに支えていた斧をとっさにヘルギに向かって投げつけようと体を動かした。だが、その瞬間にシンフィエトリが高らかに笑い出し、出鼻をくじかれてしまう。
「止めておけ。今のその状態で立ち向かったとしても、ヘルギが一発剣で跳ね上げれば、それでお前はお終いだ。それよりも、こいつに付いて腕を磨くんだな。戦士としての力量を上げろ。復讐はそれからでも遅くない。」
 明るくのんびりとした口調で言っているのだが、その言葉には事実のみが持つ重みがあった。
「どうだ。良い条件だと思うがな。」
 にこりと笑って、ヘルギが促す。
「俺を引き取ろうなんて、あなたにとっては家の中で狼を飼おうとしているのと同じだとは考えないのか?」
「狼、か。」
 その言葉を聞いたヘルギは、この少年と同じ目をする少女のことをまざまざと思いだした。
「構わん。狼ならすでに一匹手に入れた。それが二匹に増えたところで気にはならない。」
 ダグの目が大きく見開かれて、呆れたような信じられないとでも言った表情を作った。
「……ふ。ふふ。」
 やがてそれは苦笑に変わったが、笑ううちに顔が歪み、ふいに涙が頬からこぼれおちる。
 ダグが初めて強がりでない、素のままの感情を見せた瞬間だった。
「俺は、……あなたに復讐を誓う。必ず。必ずだ。」
 悲しみを怒りに変えて、ダグが言う。泣き顔を見られたくないのか、顔を隠すように手は無造作に髪の毛に突っ込まれた。
「……ああ。」
 ヘルギはゆったりとした笑顔を浮かべたが、すぐにその表情はかき消された。
「さて、もう一匹の跳ねっ返りの狼に、肉親の死をどうやって知らせるか……。」


「シグルーン……。」
 彼女がその呼び掛ける声を聞いたのは、戦の後始末をしている時だった。

 死者の中から身分の高い者を捜し出し、各部族ごとにその遺体を引き渡す。森に挟まれているこの場所なら、直に血の臭いに誘われて、狼たちがやってくるだろう。その前に片づけは終わらせておかなくてはいけない。
 戦いの持つ狂気に興奮がまだ続いている心を抱えながら、シグルーンも仲間のワルキュリエも無言で働いている。そんな気だるい静寂の中で、確かに彼女を呼ぶ声は聞こえた。
「シ、グ……、」
「え?」
 聞き覚えのあるその声にまさかと思いつつ、まばらに散らばる死体の中から彼女はある人物を捜し出す。
「ヘズブロッド!」
「ああ……。」
 地面に無様な姿で倒れながら、彼はシグルーンの姿を認めるとゆっくりと微笑んだ。だがその姿に力はなく、血にまみれ青ざめた顔には死の影が降りてきている。
「ヘズブロッド。……あなたが、セヴァフィヨルのシグルーンをあなたが抱くことは、もう無いわ。」
 一瞬の驚きの後、ふとシグルーンの顔は無表情になり、ワルキュリエの持つ冷静さで、それだけを告げた。
 彼女の選んだ道はヘズブロッドとの結婚を捨てて、ヘルギの胸へ飛び込むこと。そのために敢えて起こした戦なのだ。まさかヘズブロッドが死ぬとは思いませんでした、などという甘いことを言う気はない。
 だが、ヘズブロッドはそんな彼女の言葉を気にすることもなく、ただ虚ろに微笑むだけだった。
「俺はお前にとことん嫌われたらしい。」
「……。」
「まあ、いい。だが、いつかお前にも分かる日が来る。女の身でこんな戦を起こした重大さを、な。お前は何も考えずに大人しく、俺の元に来れば良かったのだ。」
「あなたは、……あなたは最後まで、私を理解しようとはしなかったのね。」
 彼の言葉に表情を取り戻したシグルーンは、そうささやいた。その口調は優しく、そしてどこか寂しい。だが、そんな彼女の気持ちをヘズブロッドが分かるはずもなかった。
「頼みが、ある。シグルーン。」
 一気に喋ってしまったせいか、次第に息が上がり苦痛に顔を歪め出したヘズブロッドがそう言った。
「俺を、殺してくれ。お前の、ワルキュリエの手に掛かって果てたいんだ。このままただ、ぼんやりと死を待つのは嫌だ。……ヴァルハルへ、オーディンの住むという宮殿へ、俺を連れていってくれ。」
 シグルーンはしばらく何も言う事も出来ず、ただ黙ってヘズブロッドの顔を見つめていた。
 グラーンマル王の一番目の息子。尊大で、計算高く、おのれ以外の人間には情け容赦ないその態度。
「頼む、シグルーン……。」
 きっと後悔させてやる。私に屈辱を与えたあなたを、私は決して許さない。
 いつか言ったその台詞を、シグルーンは思い出した。
「あなたは、……偉大な戦士だった。私もあなたをヴァルハルへ送ることを、光栄に思うわ。」
 不思議なことに、もうこれで彼の姿を見ることが出来ないのだと、彼が戦死者達だけがいく館ヴァルハルへ行くのだと思うと、シグルーンの胸が痛んだ。

 もう二度と、彼に会うことは無い。

 静かにゆっくりと剣を持ち直すと、横たわるヘズブロッドの心臓の真上にへと、それの位置を固定する。
「グラーンマルの子、ヘズブロッドよ。偉大なる父、全ての戦死者の神オーディンの子ワルキュリエの名によって、ヴァルハルへ行くことを命じよう。世界崩壊のその時まで、その身を休ませ勇士としてその腕を磨くように。」
「シグルーン、俺はお前を愛していたんだ。」
 その瞬間、ヘズブロッドの胸に彼女の剣が深々と突き刺さった。
 さすがに勇者と謳われただけあって、彼の表情には苦痛も恐怖も浮かんでいない。ただあるのは安らかな死に顔だけ。
 シグルーンは深々と息を吐き出すと、剣を引き抜き彼の遺体の横にそっと置いた。
「ええ。知っていたわ。」
 絞り出すように一言つぶやく。
 シグルーンはちょっとの間自分の肩を抱いていたが、直にヘルギの陣に向かって歩き出した。