オーディンの娘

第一章  邂逅


その九

 ようやく戻ったシグルーンに事実を知らせることは、ヘルギにとっても酷く気の重い仕事だった。
 憔悴し、疲れ果てている彼女を抱きしめたまま、耳元で報告する。その瞬間、シグルーンは弾かれたように体を震わせ、ヘルギの顔を食い入るように見つめ直した。
「シグルーン、」
 彼女の口が「嘘。」と言うように動いたが、結局声にならずに言葉は消えた。
「私は、何のために戦を起こしたのだろう。」
 自分の中に残っていた、僅かばかりの力が見る見る間に抜けていくのがシグルーンには感じられる。
「何のためにこの手でヘズブロッドを殺したのだろう。何のために……。私は、何でワルキュリエなの?」
 ゆっくりとすがるような目つきでヘルギを見る。ヘルギは何も言わず、ただ苦しそうな表情でじっと彼女を見つめていた。
「戦の乙女だなんて、勇ましいことを言っておいて、結局自分の家族を守ることもできなかった。私は、私は……。」
 ふいに気も狂わんばかりの悲しみが襲いかかり、耐えきれずに彼女は大きく叫んだ。
「シグルーン!」
「あ……、伝説の女王ヒルドよっ。私に反魂の魔法を教えて!ここに屍となった人たちを、もう一度生き返らせるの。お願いっ。お願い……。」
 全ての人が生き返るのなら、自分はこのまま崩れ果てても良い。シグルーンは本気でそう思ったが、反魂の魔法で戦士を永遠に戦わせたという女王ヒルドは、いつまで経ってもやって来なかった。その代わり、ヘルギが痛いほどきつく彼女を抱きしめる。
「泣くな、シグルーン。お前の家族達が死んだのは、それが彼らの運命だったからだ。お前は俺にとっての最高のワルキュリエなんだ。だからもう、泣くな。」
 そう言っては何度も頭をなでるヘルギの胸で、シグルーンは泣いた。まるで子供のように。心の底から思いきり。
 不思議なことに、不器用な動きでヘルギの手が自分をなでる度、自分の心が安らぎを見つけたように落ち着き癒されていくのが彼女には感じられた。
 どんなに犠牲が大きかったとはいえ、自分がこの人に出会えたことは、最大の幸福なのだ。
 彼の胸で泣きながら、素直にそう思えた。


 ヘルギ率いるヴォルスングの軍は、今日はこのまま野営して夜が明けたらすぐに領地に帰ることにした。もちろんシグルーンも一緒だ。国を捨てた彼女に、故郷はもはや無い。
 ダグは簡単な傷の手当を受けると、父と兄の遺体と共にセヴァフィヨルへ戻ることとなった。二人の亡骸を棺に入れ、ダグに渡したのはシグルーンだ。
 ダグはしばらくの間その棺を凝視していたが、やがて深いため息と共に顔を上げた。
「私を、憎んでいないの?」
 旅支度の喧噪の中、緊張に青ざめながらシグルーンが聞く。ダグはそんな姉を労るように見つめると、そっと頬に口づけた。
「誰も憎んでいない。だが、いつかヘルギに復讐をしなくては、な。」
 そこで言葉を切ると、思い出したように小さく笑う。
「……もっとも、俺が彼に立ち向かうのにどのくらいの年数が掛かるのかは、見当もつかないけれど。」
 もちろん、楽しんで言っているのではない。胸の内は怒りや悲しみで一杯になっている事を、残された唯一の肉親である姉は痛いほど良く理解している。だが、それでも落ち着いて笑っていられる弟を、シグルーンは意外に感じた。もっと激しく責められると思ったのだ。
 ダグはそんな姉に構わず、棺を荷台に運び込む。
「ダグ……、」
 話し掛けようとするシグルーンに首を振り、黙らせる。
「俺は、彼から得なければならないことが沢山あるんだ。これからはヘルギの館に行く機会も多いだろう。……次に会うときはハールを連れてくるよ。」
 そう言い残すと、ダグは傷ついた兵達と共に自分の陣営に引き上げていった。
 もはやこの弟に、これ以上何かを聞くことはシグルーンには出来なかった。そして彼女は無言で弟の後ろ姿を見送ると、ヴォルスングの陣へ、ヘルギの元へ帰ったのだ。

 シグルーンがヘルギと結婚したのは、その夜のことだった。

 身を清め、祭司の前に二人立つと、剣に向かって結婚の誓いをたてる。祭司とはいうものの、それを専門の職業にしている者はこの時代誰も居ない。同行していた経験豊かな長老に頼んで、皆の前で誓うのだ。
 これでもう、二人は夫婦ということになる。酒はともかく、ご馳走など祝いに必要なものなど何もない、内輪だけの簡単な祝宴が開かれたが、二人にはそれで充分だった。
「疲れただろう。」
 宴会も終わりを見せて、そろそろ酒に潰れた男達がたき火の周りで横になり始めた。そんな頃に、ヘルギがシグルーンにそっと声を掛けた。
「大丈夫。」
 そう答えるシグルーンの声は気が抜けていて、ぼんやりとしている。ヘルギはそんな彼女を見つめると、無言のまま入り江の手前にある丘に誘った。
「……明日には、船は俺の館に着くだろう。」
 手を繋ぎ、ゆっくりと歩きながら、ヘルギが言う。
「ええ。」
「後悔、しているか?」
 気遣うようなその声に、シグルーンは優しく首を振る。
「そんなことない。ただ、少し……。」
 寂しいだけ。
 ぽつりと自分の心の中でつぶやき、シグルーンは立ち止まるとヘルギにそっと寄り添った。
 父と兄を思い返すと寂しくなる。まだ無邪気な娘でいられたあの国を、あの肉親を、自らの手で壊してしまった。その喪失感に震えが来る。
「ヘルギ。」
 救いを求めるように繋いだ手をきつく握ると、シグルーンが話し出した。
「私の母は父に会うまでに二度結婚をしたの。全て親の決めたことだった。もちろん父との結婚もそうよ。……私は、母が幸せな人生だったか知らない。知らないの。」
 じっとしていると、小刻みに震えてくる自分の体を意識する。
 母が、初めて自分の結婚相手と出会ったのは自身の結婚式でだった。初めて見る自分の夫。そしてその夫は5日後に戦に出て、そこで命を落としたのだ。
 二番目の夫は最初の夫の親友だった。どうやら戦場で、何かあったときには世話を頼むと言われていたらしい。両親との交渉はすんなり済んで、翌年には再婚をしていた。だが、その生活も3年しか持たなかった。
 そして最後に出会ったのが、セヴァフィヨルの王様ヘグニ……。
「母がもしまだ生きていて、自分の人生は幸福だったって言ってくれたら、私はどうしていたかしら?私はずっと母の人生を疑問に思っていた。好きな人はいなかったの?なぜ周りの人が与える相手を享受できるの?その人のことを本当に愛していたの?私は、……私は、自分の愛する人は自分で見つけたかったの。」
 そこで言葉を切って、目の前のヘルギの顔をじっと見つめる。ヘルギはそんな彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返すと、そっと彼女に口づけた。
「俺は欲しいものを、生まれた時から持っていた。地位や名声、勇者としての資質。当たり前に手に入るから、それらの価値が分からない。……贅沢な話しだがな。」
 自嘲気味に鼻で笑うと、ヘルギはシグルーンの頬を愛おしそうにそっと撫でる。
「お前と、二度と会えないと知った時、初めて心からお前に会いたいと思った。抱きしめたいと思った。力ずくでお前を奪い、それが元でいくつもの国が滅びようとも、それでも構わないと本気で思った。……相手を見つけたのは、お前だけじゃない。俺もお前を見つけたんだ。」
 ヘルギの告白に、シグルーンは初めてであったブルニの入り江での出来事を思い出した。
 私を、欲してくれる?
 祈りは相手の胸に届き、そして二人は互いを求めた。
「ありがとう、ヘルギ。」
 私を見つけてくれて、ありがとう。
 ヘルギは何も言わずにそんな彼女の体をゆっくりと抱きしめると、目を閉じさせるように瞼に口づける。
 少し肌寒いくらいに澄んだ空気。虫が夏の盛りはもう終わったと告げるように鳴いている。いつまでも耳について離れない、波の音。風は森を抜け、ざわざわと音を立てる。
 瞳を閉じ、息を凝らす彼女の感覚は鋭敏になって、そんないつもの風景ですら、深く心に焼き付いた。
 けれど、何よりも感じるのは、ヘルギの鼓動。そして体温。
 いつの間に深く激しくなっていた口づけは彼女の唇から首筋へと向かい、背中に回していた彼の手がシグルーンのもっと柔らかい場所を探して動いていた。性急な、余裕のない動き。でもその焦りがヘルギの真剣さを表していて、シグルーンには心地よい刺激となった。初めて知る、痺れるような快感。次第に吐息は切なくなって、彼女の口からあえぐ声が漏れた。
「愛している。」
 それに応えるかのようなヘルギの声が、まるでどこか遠くからしたように聞こえる。
「愛している。」
 自分から発したとは思えないほど、甘く鼻に掛かったかすれ声。彼に気付かれないように小さく笑うと、また意識を体の方に集中させる。
 シグルーンは満たされてゆく心を感じながら、なぜ男の体が女に比べてこんなにも野生の獣に近いのか、初めて分かったような気が した。
 風が、そんな二人を笑うように、耳元を駆け抜けていった。


 翌日、ヴォルスングの国に戻ったヘルギ一行にとって、それからしばらくは忙しい日々が続いた。
 今回の戦はヘルギの父、シグムンド王が起こした戦いではない。ゆえにヘルギは自分の力量でもって戦の後始末を付けなければならなかったのだ。
 だが、言い換えれば彼が起こした戦いは、彼の損得になるということだ。シグルーンが考えるよりも気楽に、そして手慣れた様子でヘルギはその後始末に着手した。
 先ず、戦いで得た財産の分配。グラーンマルの領地の分割と、統治。そして王を失ったセヴァフィヨルと、それに伴うダグの処置について。

 確かにこの戦によって、差し当たってセヴァフィヨルを統治する者はダグ以外にはいなくなった。だが、問題は山積みだ。
 肉親を殺されたダグは、正式に家の名を継ぐことは許されない。復讐がまだ済んでいないからだ。それに加えて、ダグはつい先日成人式を迎えたばかりの、経験のない若者だ。いつ反乱が起きてもおかしくない状況と言えるだろう。
 考えれば考えるほど強張ってくるシグルーンの表情を見つめて、シンフィエトリが明るく笑いかけた。
「そんなに心配することはない。ダグには俺の側近達を付けておいた。取りあえずあいつらに相談しながら目の前のいざこざを片づけていれば、嫌でも王としての力量は備わってくる。」
 ヘルギにシグルーン、そしてシンフィエトリの三人しかいない部屋の中、酒を片手にすっかりくつろいだ格好のシンフィエトリが、のんびりとした口調でそう言う。
 だがその言葉に、シグルーンは別の意味での心配事が増えてしまった。
「でも、ヴォルスングのお目付役がダグに付いたと知れたなら、セヴァフィヨルの者が黙ってはいないでしょう。」
 王を殺したのは、ヴォルスングのヘルギなのだから。
 その言葉は敢えて言わなかったが、シンフィエトリにはシグルーンの杞憂は十分伝わったらしい。
「彼らの素性は隠してある。……だが、そう長く隠し通せるものではないしな。」
 シンフィエトリはそこで言葉を切ると、面白そうに口の端をふっと上げた。
「俺の側近達をどう扱うかで、ダグの王としての素質は見えて来るぞ。感情に任せてヴォルスングの手の者を邪険に扱うようなら、ダグはそこまでの男だということだ。姉のあなたには悪いがな。」
 意地悪なようなものの言い方だが、確かにそれは事実だ。眉をひそめたまま、シグルーンは何も言えずに目を伏せる。
 その時、今まで黙って二人の会話を聞いていたヘルギが、グラスを置いて一言言った。
「ダグなら、旨くやるだろう。」
「え?」
 慌ててシグルーンが聞き返す。だがその返事を聞く前に、シンフィエトリがにやりと笑って頷いた。
「ああ。あいつは今に立派な王になる。」
「ダグ、が?」
 そう言いきれるほどに弟のことを知っているのを不思議に思い、交互に二人を見つめてしまう。そんな彼女を逆に眺めながら、ヘルギは完全に楽しんでいる口調で話を続けた。
「復讐のためにあいつに殺される気にもならないが、かといってお前達の土地を俺が侵す気にもなれないしな。あいつがいずれセヴァフィヨルの王として立派にやっていけるように、今からみっちり仕込んで行くさ。これはそのための下準備といったところだ。」
 呆気にとられたシグルーンを横目に、二人は無言で酒を酌み交わす。暫くその光景を見ていたシグルーンは、気持ちを切り替えるように息を吐き出すと、肩をすくめた。
「ダグとの間に何があったかは知らないけれど、二人がそう言うのなら大丈夫でしょう。私も信用して、あの子の出方を見守るわ。」
 そしていつまでも残っていた自分のグラスの中の酒を、一気に飲み干す。ヘルギはそんな彼女を見つめると、さっきと変わらぬ楽しんでいる口調で付け加えた。
「そうしてな、シグルーン。次に俺達は俺達の国を造っていこう。」
「私達の、造る国。」
 グラスに酒を注ぐシグルーンの手が止まり、意味を理解しようとヘルギの言葉を繰り返す。
「そのうちに分かる。」
 だがヘルギはあっさりと彼女の疑問を受け流し、そっとその頬に指で触れた。
「それよりも、今はこの館の切り盛りが精一杯だ。よろしく頼むぞ、奥様。」
 にこやかな笑顔。シンフィエトリは冷やかすように口笛を吹く。シグルーンは耳まで赤くなってゆく自分を感じながら、こくりと頷いた。

 確かにこの館を、自分たちの領地を切り盛りする仕事は結構大変なものだ。ヴァイキング猟や戦に忙しい男達に代わって生活の一切を任されているのは、女達。領主の妻だからといって、それだけで贅沢な暮らしが出来るほどこの世界は甘くない。館の、領地の実質的な運営をしてゆくのは妻であるシグルーンの仕事だ。
 機織り、蜂蜜作り、魚の塩漬け。そんな日常の細かい指揮から始まって、この土地で起こるあらゆるもめ事やいざこざも、ヘルギの不在時には彼の代理として、彼女の判断で解決される事になる。

 窓の外をそっと見つめると、まだ見慣れぬ風景にシグルーンは目を細めた。
 彼女にとって、これからが新しい世界の始まりだった。


-第一章 終わり-