オーディンの娘

第二章  流転


その一

 外に出ようと扉に手を掛け、一瞬何かに躊躇するようにシグルーンは後ろを振り返った。
 ここは平屋作りの屋敷の中央部。毎晩人が集う食堂兼広間になっている。真ん中には囲炉裏があつらえており、そこにはすでに今夜のための煮込みが鍋の中でことことと音を奏でている最中だ。天井の通気窓は大きく開け放たれてはいるものの、そこから差し込む日の光と囲炉の薪しか明かりがないこの広間は昼間というのに薄暗い。だがそれは決して陰気な暗さではなく、母の胎内に居るような、どこか優しい落ち着けるものとなっていた。
 シグルーンはそんな広間の様子に満足そうに軽く頷くと、もう一度両手を扉に掛けてそっと開ける。
 厚い樫の木で出来た扉が低い音で軋みながら開け放たれて行くと、その隙間から割り込むように日の光が広間に入り込んでいった。
 夏の日だ。
 まぶしさのあまりに、思わず目をすがめる。だがそんな彼女にも、逆光に浮かび上がる一人の男の姿が確認できた。
「シグルーン。」
 扉の開く音に気が付いて、男が振り返って彼女の名を呼ぶ。彼女の夫、この地を統べる若き領主、ヘルギ。
 ヘルギは歩いてくるシグルーンに向かって手を伸ばすと、そっと彼女の指に触れた。
「……冷たいな。」
 短くつぶやいてから、ヘルギはまっすぐに彼女を見つめる。多分、何も知らない人間が見れば不機嫌そうに見えるヘルギの表情。だがシグルーンには分かっていた。この瞳は自分の不安を思いやり、受け止めようといつでも努力している。彼の精一杯の愛情は、その表情と共にただ単に表に現れにくいだけなのだ。
「大丈夫よ。……大丈夫。」
 シグルーンの口元に自然に笑みが浮かび、優しい気持ちのままでそっと彼から手を離した。ヘルギは自分の手を持て余すように宙に浮かせ、ふと思いついたように彼女の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「あーあ。お前は何をやっているんだ?自分のかみさんの髪の毛乱して。」
 突然のその声に、シグルーンとヘルギは同時に後ろを振り返った。
「ハマル。」
「せっかく結い上げた髪の毛を無駄にするのは、どういった訳なのかな、ヘルギ?他の奴らには良いとこを見せたくないのだとか?」
 からかうようなその声に、ヘルギはあからさまに迷惑そうな表情をつくり、反対にシグルーンは小さくくすくす笑いだした。
「駄目駄目。シグルーン様、ちょっとはこの無粋な男に怒った方がいいですよ。こいつは昔っから女の扱いを知らない奴なんだ。黙って耐えていると次に何をするか、わかりゃあしない。シグルーン様が教育してやらないと。」
 ね?
 そう言って片目をつぶって見せるハマル。その豊かな表情はヘルギには無いもので、故にヘルギを守る側近の者として彼は重要な位置にいた。ヘルギの無愛想で誤解されやすい性格を補って外交を助ける、それがハマルだ。
「……しかし、面白いもんだな。シグルーン様の側にいると、こんな朴念仁のヘルギも不思議と可愛らしく見えてくる。乳兄弟としてヘルギが生まれたときから側についてはいたが、今が一番見ていて楽しいですよ。ああ、今この場にシンフィエトリがいたらなぁ。」
 そのつぶやきに、ヘルギはさらに眉をひそめる。ただでさえ、このハマルの毒舌に閉口しているのだ。これにシンフィエトリが加わったら、何を言われるか分かったものではない。
「ハマル!あんたはもう、ヘルギ様をからかうのもいい加減にしなさい。」
 黙っているとなおも言葉を続けそうなハマルの後ろから、そう叫びながらやってくる女が居た。シグルーンとこの屋敷の面倒を見てくれている侍女で、ハマルの妻ハルベラだ。先ほどシグルーンが開けた扉を、風で閉じないように石を置いて固定させている最中、この三人のやりとりを聞いたらしい。慌てて駆けつけては、まるで子供を叱りとばすような勢いでハマルを諫める。
「まったくあんたは、その口のきき方をもう少し何とかしなさい。ヘルギ様だってほら、ご自分のことを言われたってどう返して良いのか困っていらっしゃるじゃない。もう、誠に申し訳ございませんヘルギ様。」
 だが、ハマルは彼女のそんな態度に慣れているのか、気にする様子もなくヘルギに話し続ける。
「シグルーン様がここの屋敷に来てそろそろ一年。この屋敷の雰囲気もずいぶんと変わったというのに、俺はお前のその変化にだけは未だに慣れないんだよなぁ。」
「別に変わったことなど無い。」
 ぶっきらぼうなヘルギの台詞に、からかうようににやにや笑う。一見無遠慮とも思えるハマルの態度だったが、この主従を越えたあけすけな付き合いはヘルギの屋敷では当たり前の光景だった。群雄割拠するこの時代だ。もともと王位による威光よりは、培ってきた個人同士の信頼関係の方がものを言う。ましてや領主のヘルギはまだ若く、その守りを固める回りの人間達も血気盛んな性格な者が多くを占める。その点、付き合いの長さや気心の知れ具合など、ヘルギとの関係に置いてハマルはシンフィエトリですら勝てないものを持っていた。
「ま、いいか。どうせ後もう少しでシンフィエトリも帰ってくる。今夜は久しぶりにじっくりと語り合おうぜ。」
 そういって無邪気に微笑むハマルの言葉に、シグルーンの体が思わず僅かに身じろいだ。

 シンフィエトリが出かけたのは去年の冬のことだ。雪と氷で閉ざされるこの世界で、わざわざ冬に旅をしようとする酔狂な者などそうは居ない。だが、シンフィエトリは気楽に笑ってある日ふらりと出ていってしまった。行き先は言わない。だが、彼の行く先には予想がついた。
 そして数日前、彼からの言伝を持った使いがやってきた。「客を連れて、帰ってくる。」
 シンフィエトリと客を乗せた船は、後もう少しでこの岸までやって来るだろう。ヘルギとシグルーンはこの地を治める者として、彼らの出迎えに行く予定だった。
「ああ、いけない!うっかり忘れるところでした。先ほど沖合に船影を見たと、見張りが叫んでいたんですよ。もうそろそろ岸に着く頃じゃありません?」
 時刻をはかるように太陽を見上げると、ハルベラがそう言った。
「奥様もせっかくお着替えになったのだし、ここは私に任せてどうぞお迎えに、……あら?せっかくの御髪が乱れてしまって。強風でも吹いたのかしら?」
 慌ててシグルーンの髪の毛を直そうとするハルベラを後目に、三人の視線が一瞬かち合う。
「……悪かった。」
 ぽつりとつぶやくヘルギ。
「はい?」
 意味が分からず聞き返す、ハルベラ。
 耐え切れなさそうに、ハマルの口元が笑いで歪む。だが、一番に笑い出してしまったのはシグルーンの方だった。
「ヘルギ、ハマル、行きましょう。」
 無邪気に笑ってヘルギの手を取る。笑ったことによって一気に心が軽くなった。シグルーンは自分を取り巻く人々を眺めると、愛おしそうに目を細めた。これが今、自分の住んでいる世界。これが今。


 船は浅い岸辺まで乗り上げると、板を渡され、それを伝って次々と男達が降りてきた。少し離れたところにヘルギと立つシグルーンは、そんな一人一人の顔を食い入るように見つめている。もちろん見知らぬ顔も居たが、少しでも見覚えのある面影を見つける度、彼女は無意識のうちに自分の手をきつく握りしめていた。この船にはシグルーンが一度は手放した、大切な人たちが乗っているのだ。
「シグルーン様!」
 不意に人混みの中、そう叫ぶ声が聞こえたかと思うと荷物を抱えた女が駆け寄ってきた。
「ハール……!」
 思いも掛けないその姿にシグルーンも思わず踏み出し、荷物ごと彼女を抱きしめる。
 母亡き後、親身になって自分を育ててくれたかけがえのない人物。多分、二度と会うこともないと思いながらも、心のどこかでいつも彼女にまた出会えることを望んでいた。そんな自分の乳母と対面出来たのが、シグルーンには喜びの反面、信じられない事だった。
「ハール、どうしてここに。セヴァフィヨルの館はどうなっているの?」
「俺が連れてきたんだよ、姉上。」
 ハールの背後から聞こえたその声に、シグルーンははっとして顔を上げる。
「ダグ……。」
 小さく弟の名をつぶやく。そして次の瞬間、シグルーンは自分でも思っても見なかったほど素直に、彼の頬に口づけていた。
「久しぶり、姉上。」
「……背が、伸びたのね、ダグ。」
「ああ。もうヴァイキング猟に出られるほど大きくなったんだ。」
 姉の感慨をそう言ってからかうと、ダグは面白そうにくすりと笑った。その表情は落ち着いていて、その穏やかさが彼を一年前とは違う大人の男に見せていた。
 今となっては唯一の、血を分けた肉親である弟ダグ。
 本来なら欲して止まない彼との再会の時を、シグルーンは密かに恐れていた。自らの選択で一族の幸せを踏みにじってしまった姉にとって、この唯一残された弟は愛する者でもあり、また己の犯した罪の象徴でもあったのだ。だが、ダグはそんな姉の元を訪れ、穏やかに笑いかける。
「姉上も、綺麗になった。幸せに暮らしているのが良く分かるよ。」
「ダグ、あなたは?」
 あなたは幸せにすごしているの?
 思わず問いかけてから、はっとする。聞いてはいけない質問を口にするのは愚か者のすることだ。
 と、その時、急に大きな手ががっしりと彼女と弟の肩を掴んでゆさぶった。
「ようやくここに帰ってきた。航海は順調だったが、やはりここの景色を見るとほっとするな。」
 そう言って、にやりと笑ったのはシンフィエトリだった。
「お帰りなさい、シンフィエトリ。」
 精一杯の気持ちを込めてシグルーンが微笑むと、シンフィエトリは何も言わずに彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「……こういうところが、やっぱり似ているんだよな。」
 一連の様子を見ていたハマルが、呆れた様子で小さくつぶやく。意味が分からぬシンフィエトリは訝しそうに片方の眉を上げて見せたが、それ以上の問いただしはせずにこの目の前の仲間に挨拶の抱擁をした。
「俺が留守の間に、何か面白いことはあったか?ハマル。」
「そりゃあ、何が聞きたいかにもよるな。」
 そこで思わせぶりに言葉を切ると、ハマルは今まで一言も発せずに後ろで控えていたヘルギを仰ぎ見る。だが、シンフィエトリは安易にヘルギに声を掛けることはせず、代わりにダグに向かって顎をしゃくった。
「ダグ、姉との抱擁は済んだか?」
「……ああ。」
 その言葉を受け、ダグはゆっくりと一歩前に進むと、いささか緊張した面もちでヘルギの目を真っ直ぐに見つめた。
「挨拶が遅れて、すまない。ヘルギ。」
「構うことはない。」
 相変わらずの無愛想な短い言葉にダグは一瞬迷うように視線をそらせ、そして再び決意したように彼をじっと見つめた。
「……去年、フレカステインでの戦いからセヴァフィヨルへ戻った後、俺は父と兄のために追悼宴を行った。その席で、これからは自分が王になると宣言した。
 俺はまだ復讐も果たさず、実戦経験も少ないひよっこだ。不満がある者はいつでも俺を倒して代わりの王となれば良いと思っているが、今のところそれを実行する者は居ない。今回、俺はセヴァフィヨルの王として、この地へ姉を訪ねにやってきた。
 ……俺を、客として迎えてくれるだろうか、ヘルギ。」
 ダグがそこで話を止めると、辺りには沈黙が漂った。いつの間にかこの場にいる全ての者が、次ぎに来るであろうヘルギの言葉を待っている。シグルーンは無意識のうちに、すがるような目つきで夫を凝視していた。
「お前が王となれたのは、セヴァフィヨルにヘグニ王を超えるだけの人物が居らず、お前が唯一ヘグニ王の血を分けた生き残りだからだ。」
 回りの様子など気にも掛けず、それどころか侮辱とも取れる言葉をヘルギが放つ。思わずシグルーンは自分の胸元を押さえたが、ダグは身じろぎもせずにまだヘルギのことを見つめていた。
「自分の親に感謝しろ、ダグ。そしてヘグニ王の後がまではなく、早く王として己の地位を確立させるんだ。」
「ああ。分かった。」
 ダグがうなずくとそこでヘルギは初めて口元に笑みを浮かべ、ダグの肩にぽんと軽く拳を当てた。
「良い面構えだ。」
 短くつぶやくと、ヘルギはシグルーンに顔を向け、回りに聞かせるように大きな声で言った。
「シグルーン、宴の準備は出来ているか?ここにいる客人達をもてなすには、通常の量の酒では足りないぞ。大切な客だ、精一杯のもてなしをしてやろう!」
 その言葉を受け、客からも迎え入れる側からも歓声が湧き起こる。港は一気に活気づき、その雰囲気のまま、屋敷では宴会が始まった。