オーディンの娘

第二章  流転


その二

 「……それで、ダグはいつまでここにいられるの?」
 客人を迎える宴は夜が更けても続き、広間には酒でつぶれた男達の寝る姿がそこかしこにあった。夏とはいえ、さすがに夜は涼しくなる。未だこの宴の余韻を味わいたい者達は、自然と囲炉の側に集まり、ゆったりと会話を楽しんでいた。
「明後日には出発するよ。」
 蜜酒を一口すすりながら、ダグが姉の質問に答える。
「三夜でおいとまね。」
 なるべく軽い調子でうなずいたものの、シグルーンの表情は明らかに曇っていた。ダグの滞在日数は礼儀にかなったものであったが、その礼儀が自分との間に適応されたことが、シグルーンには寂しく感じられる。
「ま、姉の気持ちも分からんでもないがな。」
 床に座りベンチにもたれたシンフィエトリが、ちらりと彼女を横見で見つつ、酒をあおった。
「ダグはまだまだやらなきゃならんことがあるからな。一つ処に落ち着いている暇なんぞないぞ。もう夏も盛りだというのに、ここが最初の寄港地だ。夏は短い。やれることも限られてくる。」
「そうね。」
 シンフィエトリの慰めにすまなそうに答えると、シグルーンも杯に口をつけた。
「まあ、ところで、……お前達の方はどうだったんだ?まさか、この夏はまだ何も行動は起こしていない、とか言うんじゃないだろうな?」
「交易のため、市には行った。」
 シグルーンの横で杯を重ねていたヘルギが短く答える。
「去年までの戦いで得た品がかなりあったからな。とりあえず整理のために市に行ってきた。ここに帰ってきたのは、つい先日だ。」
「とはいえ、今年の夏はこのくらいしか行動を起こしていないからな。まだ名誉を得るようなことはしていないぞ。」
 ヘルギの言葉の後を受け、話を継いだのはハマルだ。
「どうしたんだ、ハマル。ずいぶんと血気にはやっているじゃないか。」
 そんなハマルを下から仰いで、にやにやと笑いながらシンフィエトリが尋ねる。ハマルは露骨な煽りをふんと鼻で笑って返すと、火掻き棒で囲炉裏の薪を意味無くつついた。
「去年俺は戦いに参加していないからな。どうも体が鈍ってしまったようで不安になる。このままおとなしく秋が来るのを待っているのは、いい加減勘弁だぞ。」
「……どうして去年は戦に出なかったんだ?怪我でもしていたとか?」
 全て分かったような雰囲気の中、何も分からぬダグが窺うように質問した。シンフィエトリの顔は先ほどからさらに表情を深め、明らかにこの話を面白がる様子を見せている。それはハマルも同じだったようだ。ダグの質問に大げさにため息を付いた後、多少芝居がかかった様子でハマルの話が始まった。


「知ってのとおり、ここにいるヘルギやシンフィエトリはヴォルスングの一族だ。そして俺はこの二人の英雄のうち弟の方、ヘルギの乳兄弟として一緒に育ってきた。いわばヴォルスングの一族と命運を共にしている側の人間だ。
 ところでヴォルスングの、特にここにいる二人の父親シグムンド王はフンドランドのフンディング王と反目し合う仲で、この二つの国には昔から不和と敵意が存在していた。そこで、だ。いい加減この険悪な雰囲気のまま長年膠着状態だった状況に終止符を打とうと、去年一人の男が立ち上がった。」
 夜中の、ほの暗い広間の中。ときおりぱちぱちと薪がはぜる音を立て、片隅では誰かのいびきが規則的に響いてくる。ハマルの口調は普段のしゃべりではなく、物語を聞かせるための語りになっていたが、その話し方には手馴れたものが感じられた。
「さすがにシグムンド王の息子ヘルギの名は、敵の間でも知れ渡っている。ヘルギはふらりとここから出ていくとフンディング王の館へと辿り着き、しばらくそこでやっかいになった。ハガルの息子、ハマルとしてな。」
 ハマルはそこで言葉を切ると、思わせぶりにヘルギの方へ顔を向けた。
「……とっさに思いついたのがその名前だっただけだ。」
 短く解説を加えるヘルギ。とりあえず知らない振りはせず、ハマルの話に参加する気はあるらしい。否、隣で子供のように無邪気な表情で真剣に話を聞いているシグルーンのため、話に参加せざるを得なくなってしまったといった方が正しいかも知れない。
「それで?ハマル、続きは?」
 すっかり話に引き込まれたシグルーンは、早く続きを知りたくてうずうずしている。ハマルはそんな彼女に片目をつむってみせると、喉を湿らすように一口酒を含んだ。
「ヘルギの偵察は成功した。こいつはフンディング王を取り巻く戦士達を調べ上げると館を離れ、家路へと急いだ。ところが道の途中で羊飼いの子供に会うと、その子供に自分の存在を告げてしまったんだ。
 フンディング王がハマルと思い込んでいた人物が誰だったかを知っているか。お前達の所にいたのは灰色の狼だったのだぞ、と。」
「敵とはいえ、欺いたままでは夢見が悪い。」
 渋い表情の、ヘルギ。だが、容赦せずに兄のシンフィエトリが反省を促す。
「名乗りをあげること自体はなかなかに勇敢な行為で勇者らしくて良いがな、ただ、時期が早すぎたぞ。」
「そう、少しばかり早すぎた。」
 同じくうなずくハマル。
「羊飼いの報告を聞き、フンディング王の息子ヘミングはすぐに事態を悟ると慌ててヘルギの後を追ってきた。ヘルギは俺の住む屋敷へと逃げてきたが、その時うちの親父が叫んだんだ。ハマル、おまえは今すぐこの屋敷を出てシグムンド王の下へ行け!援軍の手配をしろ!ヘルギ様はこれを着て、台所へ!」
「あ、それって……、」
 ここまで来て、シグルーンは始めて自分の記憶の中にある話にぶつかったような気がした。去年の夏、血塗られた平原でヒルドから聞いた噂話。それはヘルギが下女に化けて危機を逃れた話だった。
「女物の服を着て石臼を回すヘルギはぎりぎり女に見えないことも無かったが、相手もなかなかに鋭いからな。ヘミングと共にうちの屋敷に押し入った従者の一人が、見咎めたらしい。その手には、石臼の柄よりも剣の柄の方が似合うのではないか?と問うてきた。
 ここでヘルギが一言でも答えたら、すぐに女でないことが分かってしまう。うちの親父はすかざず割って入ると、彼女はヘルギにつかまったワルキュリエだと説明した。ワルキュリエなら並みの女とは違って眼光鋭く力強くても格別不思議ではないからな。……おっと、失礼。」
 ついうっかりと言ってしまった自分の言葉を流すように、ハマルは慌てて蜜酒を飲んだ。シグルーンはそんな彼の姿を見て、口元を上げてふっと笑う。
 戦いを知らない女達ならいざ知らず、今のハマルの言葉はワルキュリエにとっては良き誉め言葉だ。
「それでハマルよ、おまえの親父殿の活躍は良く分かったが、その間お前はどこに行っていたんだ?」
 先を知っているはずのシンフィエトリが、あえて先を促した。とたんにハマルの表情は曇り、悔しげに顔を歪ませる。
「この屋敷にハガルの息子、ハマルが二人居ては話がややこしくなる。しかもその自称ハマルは下女に化けての大芝居の最中だ。ヘルギも大変だったかもしれないが、俺だって必死の思いで馬を駆り船を漕いでシグムンド王の元へ行ったさ。
 そこでいざ準備を整え援軍を従えて戻ろうとした途端、うちの親父の登場だ。
 なんとか危機を脱したヘルギはその勢いのままフンディングへ攻め込み、なんと王を倒してしまったと言うじゃないか。親父はシグムンド王にそれを報告すると、そのままのんびりと長逗留だ。まあ、元から王の息子ヘルギをうちに託すくらいだからな、二人の仲が良いのは知っていたがついでに息子もここに居ろと言われ、俺まで付き合う羽目になってしまった。」
 そこでまたもや悔しさがこみ上げてきたのか、ハマルは勢い良く火掻き棒で一本の薪を囲炉裏の中央へと転がした。大きく薪のはぜる音が響き、一瞬炎は五人の顔を明るく浮かびあがらせる。だがしばらくし、薪の燃えが落ち着くと、囲炉裏は先ほどと変わらない明るさへと戻っていった。
 ハマルはそんな炎の反応に満足したらしい。ふと表情を和ませると、穏やかな口調で話を続けた。
「ようやく秋も近づき、シグムンド王にも暇を告げ、ここに戻ってきたらヘルギの身に大異変が起こっていた。今まで戦にしか興味の無かったこの朴念仁が、ワルキュリエを捕まえる為に戦いを起こし、そしてそれを勝ち得ていたんだ。まさかあの時親父がヘミングについたとっさの嘘が、本当になっているとは思わなかった。……これはオーディンの計らいなのか?」
 そう言いながらしみじみと、ハマルはヘルギとシグルーンを交互に見つめた。その瞳は優しく、二人を心から祝福してくれている。
 シグルーンはそんなハマルに感謝しつつも、だからこそ少しだけ座りの悪いものを感じていた。
 この話で行くと、どうも二人の関係は一方的にヘルギの方が彼女を捕らえて離さなかったような印象を受けてしまう。
「……もしかすると、姉上が以前からヘルギに注目していたことは、ここでは知られていないことなのか?」
 いつの間に杯を重ねたのか、かなりろれつの怪しくなった口ぶりで、ダグがぼそりと呟いた。
「ダ、ダグ!」
 その酔い加減に嫌な予感がし、シグルーンがうろたえる。
「だって、ほら、あれだろ?姉上がグラーンマルの戦から素直に帰らずに、寄り道して、わざわざヘルギの戦を見に行った、あのときの話だろう?これって……。」
「ダグ!」
 とりあえず弟を叱り付けては見るものの、その後どうしてよいのか分からずに、ただひたすら顔を赤くさせてうつむくばかりのシグルーン。そんな彼女を見て、シンフィエトリが思わずといった様子で手を叩いた。
「そうだ。初めて会った時、俺達が戦場から引き上げるのを見ていたと言っていた。あれは、偶然見かけた事を言っているのだと思っていたのだが、そうか、違っていたのか。」
「え?ヘルギが見初めて、シグルーン様を無理やり奪取してきんじゃないのか?」
 やはりハマルは勘違いをしていたらしい。だが、シンフィエトリは構わず言葉を続けた。
「いや、それは無い。だが、そんな前からヘルギを知っていたとはなぁ。」
 完全に面白がった口調の男二人に、シグルーンはせめてもの抵抗をするかのように反論を試みる。
「し、知っていたといっても、あの時遠くから見かけたのが初めてだったのよ。ヘルギも シンフィエトリも、その武勇は誰でも一度は聞いたことの有るほどの勇者だわ。そんな二人の姿を見てみたいと思うのは自然なことでしょう?」
「ほう。」
 ハマルかシンフィエトリか、それともダグなのかもしれない。誰かの呟きに耐え切れず、シグルーンはすがるように隣に座るヘルギを見た。そして、そんな彼女の行動に合わせるように、全員の視線が彼に集まる。だが、いつの間にか会話の輪から外れていたヘルギは、突然の注目の意味に気が付かなかったらしい。
 今しも飲み干そうと口元まで持っていった杯は途中で止まり、訝しそうにそれぞれを見つめ返す。
「……え?」
 ごとりと、杯をテーブルに置く音だけが響いた。
 堪え切れず、最初に笑い出したのはシンフィエトリだった。そしてその後、次々と笑い始める一同。ヘルギは相変わらず無言のまま、そんな光景を他人事のように眺めている。ひとしきり笑った後で、シンフィエトリは床からベンチに座り直すと、楽しそうにシグルーンに話し掛けた。
「シグルーン、俺は明後日、ダグを連れてまた旅に出る。本当だったら戦場の一つや二つに放り込んで経験を積ませたいところだが、今回は俺に用が有ってな、その旅に付き合ってもらう。……求婚をしに行くんだ。昔から惚れていた女だ。今年の夏に迎えに行くと約束していた。」
 シンフィエトリはそこで言葉を切ると、今まで自分の手のひらの中で転がしていた杯を置き、まっすぐにシグルーンを見つめ直した。
「あいつを連れて一度親父の元へ戻ったら、こちらにも帰ってくる。シグルーン、あいつに会ってやってくれ。」
 その瞳の強さに、シグルーンはシンフィエトリがその彼女をどれだけ想っているのか分かる気がした。
「はい。楽しみにしています。」
 シンフィエトリの誠実さに負けないよう、シグルーンも彼の瞳を見つめてそう答えた。そんな彼女の返事にシンフィエトリは満足したらしい。にっこりと笑って格好を崩す。
「シンフィエトリ、その行き先とはどの辺りなんだ?」
 今まで黙っていたヘルギが、ようやく自ら話し掛けた。
「親父達のいるフラクランドの先の方だ。」
「ここから行くと、南か……。」
 呟くヘルギ。そしてそれを補足するように、ハマルがシンフィエトリに解説をする。
「俺たちも、この夏は後もう一つくらいは出かけようと思っていたんだ。だが、それがここより北のほうなんだ。折角だから、途中まで一緒に航海できればと思っていたが、残念だな。」
「まあ、どちらにしろ、秋にはここに顔を出す。楽しみにしていてくれ。」
 そう言って微笑むシンフィエトリを見ながら、シグルーンもゆっくりと酒を飲み干した。
 あと数日もすると、この目の前の四人はおろか、領地の主だった男達は旅へと出かけてしまう。彼らの旅も戦いの連続だろうが、その留守を預かる女達もぼんやりと男達の帰りを待っているわけでは決して無い。
 今までワルキュリエとして戦いに明け暮れ、家を守るという経験が少なかったシグルーンだったが、何とかここまで無事日々をこなせたのは、ハマルの妻ハルベラのお陰だ。そして今日、自分にとって最大の協力者、ハールがやって来た。シグルーンにとって、自分を取り巻く人間に恵まれていたのは最大に感謝すべきことだ。生きて生活してゆくのに周りの協力が必要不可欠だということは、結婚してからしみじみと感じる一つだった。そして、シンフィエトリがそんな彼女の元に、妻になる女性を連れてくると言う。
 元々シンフィエトリには放浪癖があるらしく、特に自分の領地を欲することも無く父王やヘルギの屋敷を行ったり来たりしていた。そんな彼が何処に所帯を持つのかは不明だが、彼が新しい生活を始めると言うなら、そしてその協力をシグルーンやヘルギ達に求めるのなら、自分が出来る限りのことはしてあげたい。素直にシグルーンはそう考えていた。それが今まで自分達を支えてきてくれたシンフィエトリに出来る、精一杯のお返しだ。
 シグルーンはぼんやりと、秋になってまた賑やかになるこの屋敷に思いを馳せていた。