オーディンの娘

第二章  流転


その三

 ダグの訪問と、その後の男達の旅立ちから一月ほどが過ぎたある日。

 今までずっと天気が良かったのが急に曇りだし、夕立の気配に慌てて、シグルーンとハルベラは屋敷に向かって走っていた。すぐ近くの民家で麦酒造りが始まったのだ。それの見学と称して遊びに行っていたら、すっかり雲行きが怪しくなっていた。
「奥様、すみません。荷物を持ち替えたいのですが……。ちょっと休ませてくださいな。」
 農場にある、納屋の軒下。途方にくれたようにため息をついて、荷物を抱えたハルベラがそう訴えた。確かにここを過ぎたら後はもう屋敷にたどり着くまで、雨をしのぐような建物は何も無い。シグルーンはハルベラを横目で見ると、ついつい苦笑しながら呟いてしまう。
「こんなことがハールに知られたら、大事よね。」
 ハールはこの屋敷に居を定めると、翌日から周りが驚くほどに良く働いた。いくらハルベラが昔から屋敷で働いており、今もシグルーンの侍女となって助けてくれているとはいえ、ハルベラはハマルの妻だ。彼女自身もハマルとその父ハガルの住む屋敷を管理する身であり、そうそう毎日は顔を出すわけにはいかない。故にこのハールの働きには感謝しても、し足りないくらいだった。だが、そんなハールの毎日繰り返されるお小言に、シグルーンが少々うんざりしていることも事実だった。
 曰く、軽はずみな行動は慎みなさい。何よりもこの領地を統べる勇者の妻であるという自覚を持ちなさい。
 口癖のようにそれを説いて聞かせるハールに、今のシグルーンの姿を見せたらどうだろう。せっかく結わえた髪の毛も乱れるのも構わずに、慌てて屋敷に向かって走っているこの姿。思慮深い、落ち着いた物腰の勇者の妻という理想像から程遠い。
 ハルベラもハールの説教している姿を思い出したのか、つい堪え切れずに笑い出した。
「そうですね。ハールに奥様のこのお姿を見せたら、一緒にいた私も怒られてしまいそうです。」
「あら、でも仕方ないわよ。さっきまであんなに良いお天気だったのだもの。まさかこんなに早く崩れてくるだなんて誰も思わなかったわ。……それよりも、大丈夫?そろそろ本当に降り始めてきたみたいよ。」
 シグルーンはそう言って空を仰ぐと、肩をすくめた。
 ここから始まるなだらかな丘の中腹に、屋敷はある。そこにたどり着くまでに二人が濡れる事は、この空模様では確実だった。
「行きましょうか。」
 ハルベラも覚悟を決めたようにうなずくと、両手に抱えていた荷物を抱きしめ直す。だが、また走り出そうとする彼女達の目に、見慣れた男達の一行が飛び込んできた。
「あれは……?」
「ハマル!まあ、どうしたの、一体?」
 夫の姿を見つけたハルベラが、大きく手を振って一行を止めた。
「帰ってきたぞ。」
 そう言いながら腕を広げるハマルに思わず駆け寄り抱きしめるハルベラを横目に、シグルーンも自分の夫を見つけようと辺りを見回す。
「ああ、シグルーン様。ヘルギなら一足先に屋敷に向かいました。俺たちは荷物の搬入があったので、まだ残っていたんですが。」
 力強くハルベラを抱きしめ返しながら、のんびりとした口調でハマルが説明する。
「ヘルギが先に戻るなんて……、何か有ったの?」
 そもそもこの帰還自体、予定より早いものだ。シグルーンはとっさに自分の夫が負傷した姿を想像し、顔を青ざめさせた。だが、ハマルはその問いに苦笑で答える。
「俺たちのところに、フラクランドから使者が来たんですよ。内容は、……ヘルギに聞いてください。どのみちすぐに出かけることになると思うんで。ハルベラ、お前も一緒に先に帰っていろ。このままじゃ、シグルーン様が濡れてしまう。」
 夫の言葉にハルベラは素直にうなずくと、口づけを交わしてから体を離した。
「さ、シグルーン様。」
「……ええ。」
 促され、ハルベラとともに屋敷に向かって駆け出す。

 それから直、屋敷に戻ったシグルーンは、広間のベンチに座っている夫の姿を見つけた。
「お帰りなさい。」
 そう言って夫の頬に口づけするのだが、ヘルギの心はここにあらずといった表情で何か考え事をしている。幸いなことに他の仕事をしているのか、それとも気を利かせてくれているのか、召使達は広間に入ってこようとしない。ただハルベラだけが乾いた布を持ってきたが、それをシグルーンに差し出すとそのまま静かに去って行った。
 シグルーンは布で髪を拭きながら、ヘルギを黙って見つめる。だが、こちらから話し掛けない限り、この状況は変わらないらしい。
 暖炉にかざすように布をベンチの上に広げると、彼の隣に腰掛ける。それから一拍間を置いて、聞いてみることにした。
「あなたの元に使者が来たと言う話だけれど。」
「ああ。俺の弟、ハームンドからだ。」
 ヘルギはそれ以上言おうとしない。シグルーンは少しの間ためらった後、もう一度聞いてみた。
「……何か、良くないことでも起こったの?」
 その言葉にため息で答えると、ヘルギは彼女をじっと見つめた。
「ヘルギ……?」
「シンフィエトリが、俺の伯父を殺した。」
「シンフィエトリが、え?」
 突然の言葉に混乱して、ついつい聞き返してしまう。
 この広間で、自分の妻を連れて帰ってくるとシンフィエトリが言ったのは、つい一月ほど前のことだ。その彼がなぜ、伯父殺しをするのかが分からない。
「説明してくれる、ヘルギ?私には何が何だかさっぱり分からないわ。」
 シグルーンの言葉に、ヘルギは淡々とした口調で話を始めた。
「シンフィエトリはここを出て、例の相手に求婚をしに行った。だが、そこに同じく彼女を求める男がいたらしい。鉢合わせをした二人は、一人の女を賭けて戦った。そして勝ったのが、シンフィエトリ。負けたのが俺の母の弟だった。という訳だ。」
「まぁ。……でも、それでは戦った相手があなたの伯父上だとは、シンフィエトリは知らなかったのね。」
「ああ。」
 ヘルギのうなずきを聞いて、シグルーンはほっとした。
 シグルーンの母が二度の結婚の後、子連れの父と三度目の結婚をしたように、ヘルギの家にもそれなりの家庭の事情というものが存在していた。戦死や病死がほとんどで、天寿を全うすることが難しいこの世界だ。そんなことは誰の家にもある。
 ヴォルスングの一族で言えば、シンフィエトリの母がそうだった。彼の母は戦の中で亡くなったと、シグルーンは聞いていた。
 シンフィエトリの父はヴォルスング一族の王、シグムンド。だが、シンフィエトリは正式な結婚を経て生まれた子供ではなかったらしい。シグムンドは恋人を亡くした後、妻を娶り、そして息子が二人生まれた。その二人のうち最初の子供がヘルギで、次が使者をよこしたハームンドだ。
 そんな事情を知っているシグルーンは、だからこそほっとしたのだ。自分の出生にまつわる怨恨ならば、この殺人は色々な問題をはらんで複雑になってゆく。しかし、恋のいざこざでの決闘による殺人なら、後に残る感情のしこりも、あくまでも個人対個人だ。
 だが、そんな彼女の考えとは反対にヘルギの表情は晴れようとはしない。伯父が亡くなったという悲しみとは違う、考え込むような表情でいつまでも囲炉裏の炎を眺めている。そんな様子の夫にシグルーンは敢えてそれ以上は何も聞かず、そろそろ乾いた布をたたむことにした。
「なぜ、シンフィエトリは親父の館に居たがらないか、知っているか?」
 突然の問いかけに、シグルーンは慌ててヘルギを振り返った。
「いいえ、知らないわ。教えて。」
 それがどう今回の事件に関係しているのかは分からないが、ヘルギが自ら話し出したことだ。シグルーンは先を急かさず聞くことにする。
「親父がこの世で一番信頼しているのは、シンフィエトリだ。母にはそれが気に食わない。」
「どういう意味で?シンフィエトリが父王の信頼を盾に、あなたのお母様を脅かしているとでもいうの?」
 そう言いながら、シグルーンはヘルギの母親の事を思い出そうとしていた。去年の、冬の始まる前、数日だけシグムンド王の館へ滞在したことがある。ヘルギの母はにこやかに出迎えてくれたが、ただ、ふとした拍子にひどく冷たい目をしたのが、印象に残っていた。
 その時は初めての土地で、初めて夫の両親に会うために自分が神経質になっているせいだろう、くらいに思っていた。だがヘルギの口ぶりに、シグルーンはとっさにあの時の姑の目を思い出してしまう。
「父は未だに昔の恋人を忘れられない。だからその忘れ形見であるシンフィエトリを、可愛がるんだ。」
「そんな、」
 そんな短絡的な考え方、と言おうとしたら、ヘルギが手を振ってそれを抑えた。
「これは母の考えだ。母はシンフィエトリを疎んじ、シンフィエトリはそんな母に心を開くはずも無く、父の館を嫌って俺の屋敷を根城にする。父はそんな、たまにしか姿を見せない息子が帰ってくると、途端に上機嫌になって惜しみない愛情を注ぐ。お陰でまた母の機嫌は悪くなる。それの繰り返しだ。」
 ヘルギはそこまで一気に言うとため息をついて、目の前に立っているシグルーンを見上げた。シグルーンはようやく自分が話す番になったことを知ると、乾いた布を抱きかかえ考え込むように首をかしげる。
「それで、今回の殺人の件はどうなるの。民会でシンフィエトリは裁かれるの?それとも即刻追放の刑に処されるの?」
「いや、裁判は行われない。父の執り成しで、シンフィエトリが母に賠償金を払うことで和解は成立した。母は伯父の追悼宴を開くことにしたそうだ。ハームンドの使者は、それに俺も出席するように言ってきた。」
「それならば、別に問題はないでしょう?」
 上目遣いにそう聞くと、ヘルギは前かがみに座り直し頬杖をついた。
「だといいがな。とにかく、行って来る。同行するのはハマルとグンスロー、ネン。これだけで十分だ。あまり大騒ぎはしたくない。」
 ようやく決心したかのように立ち上がると、ヘルギは物思いを振り切るように首を振った。シグルーンは逆に、そんな彼を見て不安を覚えてしまう。
「大丈夫よ、ね?」
 ヘルギは彼女を見つめると、安心させるように微笑んだ。
「ああ、大丈夫だ。十日程で戻ってくる。待っていろ。」
 そう言って、ようやく彼女を抱きしめる。シグルーンはヘルギの体に包まれ安らぎながら、シンフィエトリが愛した女性に思いをはせた。
 昔から惚れていたと言っていた。今年の夏に迎えに行くと約束していた。今、彼女の身はどうなっているのだろう。シンフィエトリはすべてが片付いたら、彼女を改めて迎えに行くのだろうか。

 だが、ヘルギは十日もしないうちに帰ってき、事件は思いもかけない方向へ進んでいったのだった。