オーディンの娘

第三章  決意


その一

 鷲が、飛んでいる。
 切り立った山々に囲まれた草原を見据えながら、鷲が飛んでいるのをシグルーンは知った。鷲は何かを探しているようで、大空に弧を描きながらも油断無くその瞳を草原に彷徨わせている。
 そして、そんな彼の目に一つの影が飛び込んだ。
 狼だった。
 ぞくりと肌が粟立つくらいの殺意が、鷲の心に沸き起こる。

 あいつを殺さなければ、ならない。

 鷲にとって、それは楽しい考えだった。捕獲などという自然の摂理からはかけ離れた、殺意という感情。彼は喉元で密かに笑うと、また大きく空を回ってから急降下する。
 無駄な贅肉などどこにもない、引き締まった体。しなやかな躍動を持って草原を駆けているその姿。狼に近付くごとに、鷲の心は嬉しさに打ち震える。

 さあ。ようやくあいつを、あの狼を殺す時が来たのだ。

 翼に風を感じながら尚も降りてゆくと、不意に狼が振り向いた。
 大きく見開かれた目。その表情は驚愕に満ちていたが、すぐにあきらめの色に変わる。
 狼は、いつか自分が鷲に殺されることを知っていた。
 鷲はそんな狼を真っ直ぐ見つめたまま、彼の体から血を流させようと、くちばしを突き出す。そして次の瞬間、
「止めてぇっ!」
 自分の叫び声にはっとして、シグルーンはうたたねから目を覚ました。
 息が荒い。額に手を当てると、うっすらと汗ばんでいる。
「シグルーン様、どうなさいましたか?」
 慌ててやってきたハールが、窺うように彼女に呼びかけた。
「あ……、悪かったわ。何でもないの。」
 そう言って微笑もうとするのだが、笑顔がどうしても強張ってしまう。
 駄目だ。
 やり切れない思いを抱えながら、シグルーンは息を吐いた。
 この夢を見たのは今日が初めてではない。繰り返し繰り返し、何度となく見た夢。そう。結婚して、しばらく経ったくらいから見始めて。
 時間はもう、あの暖炉の前で悲しみを分かち合った頃から数年が過ぎていた。
 翌年の春に生まれた子供は希望通りの男の子で、さっそくヘグニと名付けられた。今ではその下にもう一人息子が増えて、すでに二人とも養子として送り出している。
 母となり、后として、この若くて小さな国を支えている。ヘルギと二人、手を取り合って歩いて行く。そんな充実した数年間。それなのに、なぜこんな夢を見るのか分からない。
 ヘルギの愛を一身に受け、娘から女へ母へと変わった自分に何の不満も見つからなかった。この夢だけがその自分の幸せを足元から揺らすように浮かんでくる。
「どこか御加減でも、悪いのですか。薬湯でもお持ちしましょうか。」
 心配そうに言うハールに、シグルーンはつい笑い出してしまった。
「歳をとったせいか、ハールもずいぶん心配性になったわね。大丈夫よ。こんな昼間からうたたねをしてしまったから、うなされたんだわ。」
「まあ、人をそんな年寄り扱いして。……でも、そんな軽口を言うくらいなら大丈夫そうですね。」
 ようやくほっとしたように、ハールが言った。シグルーンはそんな乳母に微笑みながら、ベンチから起き上がる。
 悪夢に気を取られている暇はない。やるべき仕事は目の前に山積みになって置かれている。
 シグトリーヴァの牛の病気は、治ったか。小麦は今のうちにあともう三袋買い足しておかないと、冬が越せなくなってしまう。ネンの奥さんが離婚をしたいと言い出しているが、自分だけの判断でそれを許可して良いものだろうか。
 もうすっかり冴え渡った思考はくるくる回って、シグルーンの注意は止め処もなく広がった。
「そう言えば、今日の夕食は多めに準備するように私言ったかしら。」
 乱れた後れ毛を直しながら、シグルーンはハールに呼びかけた。
「予定では王は明日あたりに帰ってくると言っていたけれど、風はこちらに向かって吹いていたものね。巧くするとそろそろ上陸しているかもしれないわよ。」
「もう帰っているよ。」
「ヘルギ!」
 思いもかけないその声。
 シグルーンはその、今一番会いたかった人物の姿を認めると、まるで子供のように扉に駆け寄り彼を抱きしめた。
 久しぶりに嗅ぐ、ヘルギの匂い。
 潮と汗の混ざった男の匂い。ヴァイキングの勇者で王の中の王、そしてシグルーンの愛すべき男、ヘルギ。
「どうしたんだ、シグルーン。まるで飼い主に見捨てられた犬みたいな顔をしているぞ。」
 そんな彼女に驚きながらも、ヘルギはシグルーンの頭をくしゃくしゃと撫でる。
 その仕草が本当に犬を可愛がるそのままのやり方なので、隣で見ていたハールがつい吹き出してしまった。
「ひどいわ、あなた。私は飼い犬なんかじゃない。」
 ハールの笑い声に顔を上げると、シグルーンはわざとむくれてヘルギの顔を覗き込む。
「それじゃあ、飼われているのは俺のほうか。」
 そんなヘルギの言葉に、ハールが説明をした。
「シグルーン様は王様がいらっしゃらなくて、お寂しかったのですよ。今も夢にうなされておいでで、こちらが心配していたところでございます。」
 その説明にヘルギは片眉を上げると、シグルーンをじっと見つめた。
「俺が留守の間に何かあったのか?」
 耳元に甘く響く、彼の声。
「ううん。ただ、夢見が悪かっただけ。」
「どんな夢。」
「忘れた。」
 ヘルギという、はっきりとした幸福の形がこうして今自分を包んでいる。こんな時に夢のことは思い出したくなかった。
「みんなが帰ってきたのなら、私ものんびりしていられないわね。何か収穫はあった?」
「鯨がある。」
「鯨!凄いわ。どこで獲ってきたの?」
 すっかり調子を取り戻し、シグルーンはヘルギの腕を取って外へ出た。
 すでに屋敷の周りでは、ヴァイキング猟から帰った男たちが荷物の運び出しを始めている。大小の樽や木箱が次々と広場に置かれてゆき、女たちはそれらを仕分ける為、荷物が解かれるのを待っている。子供達はそんな中、久しぶりに会う父の姿や何よりも土産に対する期待で胸を膨らませ、興奮して走り回っていた。
 シグルーンは活気に溢れたこの光景を見回しながら、無意識のうちに怪我人が居ないか、何か異常は無いか注意をしていた。それはこの国を守る立場に居る彼女にとって、ごく自然な行為だった。
「今回は全員無事なようね。戦いは無かったのかしら。」
 問い掛けるシグルーンを見下ろして、ヘルギは軽く頭を振る。
「リムフィヨルドで戦は有った。トルグリームという首領とかち合った。」
「まあ。怪我は?」
「打ち身と切り傷が何人か。動けない程の者は居ない。こちらの損害はそれだけだ。」
 そこまでを言うと、ヘルギは何かを探すように入り江を見渡す。つられてシグルーンも見つめると、そこには自軍の船に混ざって、見覚えのある船が停泊していた。
「今回はダグに助けられた。お陰で鯨が手に入った。」
 その言葉と共に、ダグが男たちを引き連れ、丘を越えてこちらにやってくるのが見えた。
 特に気負った風も無く、身軽な様子でやって来るその様子に疲れは見られない。かなりの荷物を抱え、重傷ではないにしろ旅の疲れと怪我を抱えて帰ってきたヘルギ達に比べ、彼らがまだ旅を始めたばかりであるのは一目瞭然だ。
「途中でダグと合流したのね?」
 久しぶりに見る弟の姿に心浮き立ちながら、シグルーンは小さく叫んだ。
「打ち上げられた鯨の分配について、トルグリームといさかいがあった。気にせず出航したところ、奴に待ち伏せされたんだ。その時ダグの船が通りかかって、形勢が逆転した。」
 そこでヘルギはそのときのことを思い出した様子で、面白そうににやりと笑った。
「トルグリームとしては勝てると思って俺たちを襲った訳だが、当てが外れて残念だったろう。」
 ヘルギの、珍しく面に現れた機嫌の良さにつられ、シグルーンもにっこりと微笑む。
 ダグがセヴァフィヨルの若き王となってから数年が経つ。今はもはや、セヴァフィヨルは名実共にダグの国となっていた。そんな弟の成長が、シグルーンの誇りだ。
 早速、館に近付いて来るダグを迎えようとシグルーンが歩き出すと、その後ろから子供達の声がした。
「父上、お帰りなさい!」
「お帰りなさい!」
 ヘルギとシグルーンの間に生まれた息子達、長男のヘグニとその弟のエギルだ。
 普段ヘグニは夫婦が一番信頼しているハマルへ、エギルも他の側近へと別々の家庭へ預けられ、離れて暮らしている。だが、ヴァイキング猟から男たちが戻るときは、誰も彼もがこの港にやって来る。ヘルギは普段なかなか出会うことの無い自分の息子達を力強く抱え上げ、抱きしめると、挨拶のキスを頬に落とした。
「俺も無事帰ったし、お前達の養い親も無事だ。ダグ叔父さんもいるから、挨拶をしに迎えに行っておいで。」
 エギルを腕に抱えたまま、ヘグニだけを地面に下ろし、合図をするように肩を叩く。
「うん!」
 思い切りよく頷くと、ヘグニはダグに向かって走り出した。
「ダグ叔父さーん!」
 甲高い子供の声。それはすぐにダグにも聞こえたようで、両手を広げてヘグニを迎え入れた。
 笑いあう声。活気に満ちた人々のやり取り。明るい太陽の下で、今この瞬間すべての物事が幸福に満ちている気にさせる。シグルーンはゆっくりと目を細めるとそっとヘルギの腕に寄りかかり、その腕に抱えられた息子の小さな手を握り締めた。

「姉上。ヘルギに誘われたんで、立ち寄らせてもらった。世話になるよ。」
 ヘグニに手を引かれてやって来たダグは、何年経っても変わらぬ優しげな表情で姉に微笑みかけた。だがその表情は変わらなくても、体は年とともに成長してゆく。昔はどちらかといえば線の細い、柔らかい雰囲気の少年だったが、今ではその体に鍛えられた筋肉が付き、がっしりとした戦士の体型となっている。袖をまくった腕から所々に見えるのは、戦いで付けた刀傷だ。それはひとかどの戦士であるという、証のようなものだった。
 これが少年から青年へと成長した彼女の弟、ダグの姿。
 シグルーンもにっこりと微笑むと、この弟を抱きしめる。
「聞いたわ。こちらの船団を助けてくれたんですって?私からも御礼を言うわ。本当にありがとう。」
「大した事はしていない。たまたま通りかかっただけだよ。あの海域はセヴァフィヨルから出るには必ず通る道筋だ。」
 何と言うことも無い調子で、ダグが答える。その表情はごく自然で、何処にも気負ったものが無い。シグルーンは大げさに肩をすくめてみせると、隣に立つ夫を仰ぎ見た。
「我が弟ながら、時々不安になるのよ。欲深な王が長続きをしたためしは無いけれど、自分の功績に気が付かない王もどうしたものかと思うの。」
 日々、王としての信頼を高め、成長していくダグだったが、なぜか積極的に領土を広げることも無く、その統治はひっそりとしたものだった。シンフィエトリとヘルギの二人に見込まれ、こうして危機の時には助けることもできる弟が、なぜ自ら進んで参戦し、勇者として名声を得ようとしないのか、姉としては歯がゆい思いを感じてしまう。
「ヘルギ、あなたの目から見てあなたの義弟はどうかしら。未だに半人前のひよっこヴァイキング?」
 無言のまま反応の鈍い弟を相手にするよりも、夫に何か言わせたほうが良い。シグルーンはそう判断したが、思いもかけずに話を振られ、ヘルギが困惑したように眉を寄せた。 元々、シンフィエトリにも「欲が無さ過ぎる。」と揶揄されたくらいなのだ。この手の話は、得意では無い。
 妻の問いかけに答える気も起こらず、何気なく義弟のダグを見てみると、こちらも負けず劣らずあからさまに迷惑そうな表情をしていた。やはりダグもこの手の話は苦手なようだ。
 ダグに助け舟を出すつもり、というよりも主に自分のため、ヘルギはシグルーンが次に話し出す直前にあえて呟いてみた。
「シグルーン、その前に客人のために水を汲んでくれ。さすがにこれだけ暑くなると汗をかく。」
 その言葉に、いかに自分が夢中になって話をしていたかが分かったらしい。ぱっと顔を上気させ、シグルーンは頬に手を当てた。
「ごめんなさい、気付かなくて。すぐに手桶に水を用意します。ヘグニ、エギル、さあ一緒に行きましょう。ハルベラはどこかしら。」
 慌てて屋敷に引き返すシグルーンを見送っていると、苦笑い混じりのダグの声が後ろからした。
「すまない。助かった。」
 ヘルギはあえて言葉では返さず、小さく肩をすくめてみせる。そのまま二人は特に何を話すということも無く並んで歩き、屋敷へと向かっていった。


 そして翌日。
「シグルーン様、もう始まってますわよ。」
 突然のハルベラの呼びかけに、シグルーンは顔を上げた。
 船から運び出した荷物の仕分けに、屋敷に泊まった客人たちへの朝食の支度。これらの指示のため自室から出てきたところだというのに、肝心の使用人たちの姿が見えない。戸惑うシグルーンを誘うように、ハルベラの声が背後から響いたのだった。
「始まっているって、何が?」
 慌てて問い掛けてみたものの、当のハルベラの姿もすでに無い。だが、そんな彼女の行き先を告げるように、屋敷の裏手から歓声があがった。気が付けばハルベラや使用人だけでなく、普段なら二日酔いでぼんやりとした頭を抱え、昼近くになっても起き出そうとしない男たちの姿も綺麗にいなくなっている。
 何が起こっているのか分からないながらも、シグルーンが屋敷の裏手へ向かった頃には、すっかり見物人の人垣が出来上がっていた。
「これは……?」
 その問いかけに、弾んだ声のハラベラが答える。
「ヘルギ様とダグ様の御手合せですわ。昨日あれだけ飲んでいたというのに、まあ、お元気ですこと。」
 その解説に人垣の中に一歩踏み入ると、すぐに環の中央手前へ通された。真中にいるのは、もちろんヘルギとダグだ。二人とも、シャツを脱いだ背中に真夏の陽射しが降り注いでいる。その汗のかき方からして、すでに何戦か交えているのだろう。観衆の興奮の度合いから、なかなかに良い戦いをしているのが窺えた。
「勝負はどうなっているの?」
 ようやく状況を把握することが出来たシグルーンは、早速、審判役を勤めるハマルを見つけ、声をかけてみる。
「ヘルギが2本取ってます。だが、ダグ様も負けていないな。かなりおしてますよ。ほら!今も良い所を突いた。」
 その言葉とともに金属のこすれ合う音が響いた。お互いに片手に木製の盾を持ってはいるが、防具といえるのはその程度。手合せと言いつつ、剣の運びに遊びは見られず、一歩間違えば剣は体を貫き、大怪我になるのは必至だ。そんな緊張感のある中、ダグの攻撃の隙を突いて、ヘルギがすかさず反撃に乗じた。
 しかし、ダグのほうも慌てることなく盾でそれを交わし、またもやヘルギに向かって振り被る。
 何度か繰り返される攻防戦。だが、上手く交わすことが出来ているためか、逆にダグの心の中に隙が生じたらしい。一呼吸分の気の緩みをヘルギは見逃すはずも無く、渾身の力を込め剣を振り下ろす。それを中途半端に受け止めた衝撃に、ダグは思わず自分が手にしていた剣を滑り落としてしまった。ヘルギは流れるような動作で、とっさに剣先をダグの喉元に突きつける。
「それまで!」
 すかさず宣言をするハマル。
「ヘルギの勝ちだ。」
 そこかしこでため息が漏れ、感嘆の声が沸き起こった。
「今の一戦は良かったぞ!」
 観衆の中から、叫ぶ声がした。その反応に、ダグが少し困ったような表情でヘルギを見る。ヘルギはダグの落とした剣を拾い上げると、観衆に向かって応えるように二本の剣を振り、彼の肩を抱きしめた。
「ああ、今のは良かった。腕を上げたな、ダグ。」
「そんなことは無い。また負けてしまった。」
「だが、この俺をここまで追い詰めた奴はそうはいない。お前が勝ってもおかしくは無かった。」
「だが、負けは負けだ。」
 ダグのその台詞に苦笑すると、ヘルギはこちらに向かってやってくるシグルーンに話し掛けた。
「確かにお前の弟は、少し謙遜が過ぎるようだ。自分の腕が上がったことも、認めようとはしない。」
「まあ。」
 二人の頬にねぎらいの口づけをすると、シグルーンはからかうように言ってみた。
「それじゃあもう、ダグは一人前のヴァイキングだってこと、みんなから本人に教えてあげなくては。」
「この俺が教えたんだ。例え手合わせで俺に勝てなくとも、勇者の仲間入りくらいはとっくに果たしている。」
「大した自信ね。」
 上目遣いに睨みながらも、シグルーンの顔はほころんだ。
「ね、ダグ。」
 何気なく弟を仰ぎ見て、話を振る。だがダグは目を見開いたまま、二人の会話を上の空で聞き流し、ぼんやりと突っ立っていた。
「ダグ?」
「あ、ああ。有り難う。」
 ようやく我に帰ったようで、頭を軽く振ると、ダグが言う。
「え?」
 ヘルギの言葉に感謝したのだということは分かっていたが、それでも彼女は聞き返してしまった。今のダグの態度に何か引っ掛るような、あやふやなものを感じたからだ。だが、すでにもうダグの表情はいつも通りだ。
「さすがに朝からこんなに動いては、力が抜ける。姉上、何か食べさせてくれ。」
 無邪気に微笑まれて、慌ててシグルーンは辺りを見回した。
「そうだったわ、ごめんなさい。あなた達の手合せに見とれていて、すっかり遅れてしまっていたの。すぐに準備するから待っていて。」
 言い置いて立ち去りながら、シグルーンは不安に襲われていた。
 ダグの、あの目。
 一瞬だけ見せた弟の目の輝きが、昨日の夢を思い出させる。
 あの目は鷲の目ではなかったか……?