オーディンの娘

第三章  決意


その二

 ヘルギ達が住むブラールンドから徒歩で半日ばかり離れた処。ただ鬱蒼とモミの木が生い茂る森の中へ、ダグは今ようやく辿り着いた。
 本来、このくらいの距離ならダグの足で半日など掛かりもしないのだが、仔牛を引いて歩くとなれば違ってくる。夏のため、夜といえども薄明るく、足元が見えるのが幸いだ。ダグは一緒に連れて来た仔牛を怯えさせないように、そっと首を撫でてやった。
 滅多なことでは誰一人として足を踏み入れようとはしないこの森。彼も敢えて従者達を森の入り口で待機させ、仔牛だけを共にやって来た。これから始めることについて、見咎める者はいないだろう。
 ダグは深く息を吐き出すと、作業に取り掛かる事にした。

 今まで大人しく同行していた仔牛の喉元に斧を振るい、手早く屠ると、持ってきた綱で縛り上げ、木に吊るす。仔牛とはいえ結構な重さだ。手助けも無い森の中、一人でする作業は手間取ったが、今更引き返すわけにもいかない。
綱を枝ぶりの良い木に引っ掛け、仔牛を力の限りに引っ張り上げる。作業をしているうちに飛び散った仔牛の血はダグの体を斑に染め上げ、次第に彼を異様な姿に変えてく。血の生臭さは辺りに充満し、重労働に彼の息遣いは激しくなっていった。
 枝に吊り下げられた仔牛が揺れる度、枝が軋みを上げる。たが、それ以外の物音は、いつの間にか止んでいた。
 静寂。
 森はひっそりと静まり返り、彼だけを残して全ての生き物が逃げてしまったようだ。仔牛を吊り上げた今、ダグはすることも無く、ただひたすら次に起こることを待ち受ける。
 ダグの息遣い。
 枝のきしみ。
 他に聞こえるのは、仔牛の血が地面にぽとりぽとりと落ちる音。
 この三つは森の静寂さをより強調させ、言い様の無い圧迫感だけが少しずつ満たされてゆく。
 ふと気が付くと、ダグは誰かに凝視されていることに気が付いた。いつから見られていたのか分からない。どこから見られているのかも。だが、その視線は確実に彼を捉え、彼の心を見透かそうと見つめている。ダグはその視線の意図に気が付くと、あえて背筋を伸ばし顎を上げ、挑戦するように吊るされた仔牛を睨め付けた。
 どれくらい、この駆け引きは続いたのだろう。
「お前か。儂を呼んだのは。」
 不意に何の気配も無く、一人の片目の老人が現れた。緊張感だけが高まり、生き物の気配の無い森の中、ごく自然に立つその姿は、逆に人の本能に警戒心を沸き起こす。老人が老人らしくあればあるほど、その存在の異質さが際立って見えた。
「ええ。私が呼びました。」
 かすれてはいるが、震えてはいない声。自分の声がしっかりしていることを、ダグは意外に思った。
「何が望みだ。」
 片目の老人のもう片方の開いている目は、目深に被った帽子に隠されて見えない。
「あなたの槍を、貸していただきたい。」
「グングニルか。」
 儀式によって呼び出された老人、槍の持ち主オーディンは、唯一見える口元に苦笑を交えてそう呟いた。
「ヘルギは、お前の義兄だぞ。」
「はい。」
「お前の姉、シグルーンはヘルギのことを愛している。」
 オーディンはそこで言葉を切ると、帽子の奥から彼の瞳をしっかりと見つめた。
「それでも殺るのか。」
 この瞬間、ダグの心に耐えて久しい激しい感情が沸き起こった。歯を食いしばり、耐えようとするのだが、その激情はあふれ出る。
「ならばっ、ならばなぜ、あなたは掟を作られたのです、オーディン!姉を、シグルーンを奮い立たせ、その力を与え、戦を起こしたのはあなたでは無いのですか。その一方で私を一族の絆という掟で縛り上げる。」
 ここまでを一気に言うと、ダグは耐え切れないように老人から目をそらし、吐き捨てるように叫んだ。
「あなたは、……あなたは私にこれ以上何を望むのです?神々への裏切り、それとも追従。私にどちらを選べと。」
 ダグの心の叫びとでもいうようなその言葉を、オーディンは静かに受け止めた。
「儂は何も望まない。儂の決めた掟のために必要というのなら、儂はお前に槍を貸そう。」
「一体、」
 ふいに泣き出しそうになる心を押さえて、ダグはオーディンに尋ねてみた。
「何をお考えなのですか。なぜ、シグルーンとヘルギを結びつけたのです。こうなることが分かっておきながら。」
 その質問は、ここに来て初めて神の心を動かしたようだった。老人が身じろいで、森に風のざわめきが戻った。
「お前は知らないかもしれないが、儂はこの身を儂自身、つまりオーディンに捧げたことがある。……ある知識を得るためにな。」
 その話なら知っていた。いや、ダグだけでない。その話ならこの世界の者なら誰でも知っている。
 世界樹ユグドシラルで七日七晩吊り下げられ、自らを生贄にして、文字という知識を得た神、オーディン。
 だが、ダグは敢えて余計な口をはさむ真似はしなかった。
「神は人を司る事は出来るが、かといって全てを思い通りにさせる事は出来無い。神だからこそ、神の定めた掟には従わなくてはならんのだよ。儂は全てを統べる神かもしれんが、その一方、この身を神に捧げる一人の男でもある。」
 そう呟くように話し続けるオーディンの姿は疲れ果てていた。
 この目の前にいる人物は、本当に只の老人ではないのか。
 一瞬そんな思いがよぎったが、それはもちろんすぐに否定した。
「儂はもう去ろう。疲れた。」
 ぼんやりとした夕闇に溶け込むようにして、オーディンは去って行く。後に残されたのは同じように疲れ果てたダグと、その足元に転がる一本の槍だけ。
 生気の戻った森に血の匂いは広まり、どこか遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
ダグはしばらくの間槍を見つめていたが、やがて無言でそれを拾い、森から去っていった。


 胸騒ぎがする。

 館の玄関前に座りながら、シグルーンの鼓動は早まっていた。
 目の前では、男や女たちが忙しく働いている。先日のヘルギ一行が持ち帰った戦利品の仕分けをかねて、貯蔵品の確認をしているのだ。
「シグルーン様、この布はどういたしますか。」
 呼び掛けられて、顔を上げる。
「ハルベラに渡して頂戴。裁縫は彼女に任せてあるから。」
 女が布を抱えて去っていくのを見送りながら、シグルーンは今さっきのヘルギのことを思い出していた。

「何処へ行くの。」
 それが彼女の最初の言葉だった。
 聞きたいことがあってヘルギがいるはずの鍛冶場へ行ったのだが、姿が見えない。屋敷の裏手に回りこんでみると、木陰で昼寝をしている二人の息子達を見つめ、起こさないようにそっと頬にキスをしていた。腰には剣が挿しており、肩には小ぶりとはいえ荷袋が担がれ、まるでこれからどこかへ出かけて行くような格好だ。
「ちょっと人に呼ばれてな。」
 穏やかな表情のまま、ヘルギが答える。が、シグルーンの機嫌は直らない。
「先日戻ってきたばかりだというのに、もう出かけてしまうの?」
「すぐに戻ってくる。」
「ヘルギ。」
 すがりつくような目で彼を見つめる。何か話したかったが、何を言ったら良いのか分からなかった。
 夏は短い。一旦屋敷に戻ってきたとはいえ、すぐにまた夫が旅に出てしまうことは良くあることだ。ただしそれは家臣を連れての遠征であることがほとんどで、このような個人的な用向きは滅多に無いことだったが。
 そのせいだろうか、なぜか不安になる。今回の出立は、シグルーンの心をざわめかせる。だけどそれを一度口にしてしまうと、もやもやとしたその不安が一気に形を成して襲ってきそうで怖い。
「私を抱いて。」
 ただそれだけを口にする。自分のこの臆病な心を、ヘルギにしっかり支えてもらいたかった。ヘルギのぬくもりが欲しかった。
 ヘルギはゆっくりと近寄ると、そっとそんな彼女の体を抱きしめた。
「子供というのは、少し見ない間にすぐに大きくなるものなのだな。」
 自分達の子供を見つめたままの彼の言葉に、シグルーンがゆっくりと微笑む。
「驚いた?」
「ああ。……シグルーン、俺はお前に感謝しているよ。俺はお前に会うまで、戦いしか知らない男だった。そんな男に今こうして二人も子供がいる。不思議な気分だな。暖かくて、ひどく優しい。
 人というのは、守るべき者がいて初めて戦うんだ。いつかそんなような事をシンフィエトリが言っていた。だが、身を持って教えてくれたのは、お前だよ。」
 シグルーンはそれには答えず、その代わりぎゅっと彼の体を抱きしめ返した。
「ヘルギ、早く帰ってきてね。」
「……分かった。」
 そうして彼は出て行った。

「母上―っ!」
 聞き慣れた可愛い声に、シグルーンの思考は中断された。
「見て、見て、剣だよ。」
 誰か大人が与えたらしい鞘に収まった剣を持って、ヘグニが弟を連れてやってきた。
「どうしたの、それ。」
「センリヒンだよ。貰ったんだ。」
 誇らしそうなその表情に、たまらずシグルーンは母の愛情を持って頬に口付けた。
「とても大層な代物ね。でも扱うにはまだ早すぎるかしら。」
「嫌。父上にも見せるの。何所にいるの?母上。」
 剣を両手に抱え、ヘグニが辺りを見回した。
「どこ、どこ?」
 弟のエギルも兄の真似をして繰り返す。
「父王様はね、お出かけしたのよ。」
 無邪気なエギルを膝に乗せて、シグルーンは何気ない風を装ってそう言った。
「ふうん。すぐ帰ってくる?」
「ええ。すぐにね。」
 それは彼女の願いでもあった。


 翌早朝、風が丘を通り抜けたとき、ヘルギは何気無しに立ち止まり、後ろを振り返った。
 青い海。海岸線。自分の足元に広がる野原は海に向かって進み、不意に崖によって終わりを見せる。
 この丘からの眺めが、幼い頃から好きだった。
 そう心の中で呟いた途端、ヘルギは過去の自分を思い出した。シグルーンに出会う前の、あの無鉄砲で投げやりな、自分。
「懐かしいな。」
 心の声が、苦笑混じりに口の端からこぼれる。昔を思い出させたのは、この景色だ。
 この場所は、思い出の地。いつか王になるとはっきりと決意したのは、ここに何年ぶりかで訪れた時のことだった。養い親のハガルに連れてこられ、ここはあなたの領地ですよと言われた時に思ったのだ。自分の気に入った土地を守り、領土を広げるために王になるのも悪くは無いなと。
 それまでは、自分の運命を他人事のように聞いていた。偉大なるヴォルスングの一族。偉大なるシグムンド王の息子。運命の女神達が予言した王の中の王。それが自分。
 だが、生まれたときから決められていた人生に興味を持つ者は、そう多くない。物心がつく頃には、ヘルギはすっかり自分に付けられた形容詞に飽きがきていた。
 だいたい自分と違って、父王シグムンドには「出生時の予言によって約束された、輝かしい未来」などは無かったのだ。だが、立派な勇者として、今でも自分の国に君臨している。近頃では、どこぞの姫君に触手を伸ばして求婚中だとも聞いた。そんな彼から自分が国を譲り受ける日が来るなんて、未だに当分先の話だ。
 ヘルギにとって、父からいつか貰い受けるだろう国などは興味なかった。興味があるのは、ただ戦だけ。
 予言に縛られた窮屈な王子は、戦いの中でだけただのヘルギ、名も無きヘルギへと変わることが出来た。自分の生命を死への門へと晒すとき、人は他人の家柄や予言の事など気には掛けない。人と人との殺し合いは、ヘルギにとっては魂と魂のぶつかり合いに等しかった。兄弟とはいえシンフィエトリとの友情も戦場で築いたし、臣下の一筋縄では行かない荒くれの男達との信頼関係も、こうした命のやり取りの中で生まれたものだ。結果としては、戦に勝ちつづける彼の姿は十分に予言通りの勇者そのままだったが、ヘルギにはもうそんなことはどうでも良いことだった。
 そんな戦いに明け暮れる毎日の中、ふとハガルが言ったのだ。たまには自分の領地を見回ったらどうですか、と。
 その時、ハガルが何を考えて自分にそう勧めたのか、ヘルギには分からない。ただこの場所に、小さい頃よく遊んだこの場所に久しぶりに来たときに、思わず自分の口から深いため息が漏れ、それを見てハガルが微笑んだことは覚えている。
「あなたはオーディンの血を受け継いだヴォルスングの一族。戦いの王なのですよ、ヘルギ。だが、戦場を駆け抜けるのに疲れたら、いつでもここに戻ってきなさい。ここはあなたの領地。あなたの場所なのですから。」
 ハガルはそれ以上何も言わなかった。ヘルギも何も言葉を返さなかった。ただ、その時初めて王になろうと決心した。それだけのことだ。
 そして今、ヘルギはここにいる。
 ヴォルスングの若き王は自力で得た土地を国として、最愛の妻と子供達と暮らしている。
「子供に聞かせる寝物語のようだな。」
 自分の人生がまるで、めでたしめでたしで終わる他愛も無い話のように感じられて、ヘルギが笑った。笑いながら、それに自分が満足していることに気がついた。
 いつまでも心の渇きが癒されず、ただ闇雲に戦場を駆けていた男はもういない。いるのは守るものを知り、愛することを知った一人の満ち足りた男だ。
 だが、
「待たせたな、ヘルギ。」
 その聞き慣れた声に、ヘルギの体はぴくりと反応した。
「ダグか。」
 敢えて振り向きはしないで聞いてみる。
「……ああ。」
 疲れた声。投げやりとも取れる口調だが、その中には固い決意が秘められているのをヘルギは知っている。
 仕方ない。
 心の中でそう呟くと、ヘルギは深く息を吐き出してから後ろを振り返った。ダグは少し離れた位置に立っていた。いつものあの穏やかな春の日のような笑顔は無く、代わりに強張った顔に目だけがぎらついている。全身に走っているのは緊張感。両手に一本ずつ持っている槍は、さぞかし彼の汗で湿っていることだろう。
 ヘルギはそこまで観察すると、大きくダグに微笑みかけた。
「そんなに強張っていたら、自分の力が引き出せないぞ、ダグ。その槍はグングニルか?」
「……ああ。」
「なぜ不意を襲わん。その槍は至近戦には向かない。グングニルを借りたのなら、遠くから目的目掛けて投げるのが鉄則だ。」
 そう言うと、ヘルギはここが目的だと教えるように自分の胸を叩いて見せた。ダグはそんな義兄のしぐさに顔の強張りをほぐしたが、その代わりに浮かんだ表情は、暗くやりきれないものだった。
「あなたの言う通り、不意打ちにしたほうが良かったのは俺も知っている。現に今のあなたは隙だらけだった。……だけど、出来なかったんだ。」
 ダグが悩み、これから始まる出来事に心が引きちぎれそうな位に苦しんでいることは、容易に想像がついた。だが、それが分かったからといって、事態が変わるわけではない。
 ヘルギはやれやれと言いたそうな表情で、ダグに尋ねてみた。
「ダグ、お前がここにいるのはなぜだ。何故俺を襲おうとした。セヴァフィヨルはすでにもう、お前のものだ。俺を倒さなくとも、誰もお前を責めはしないぞ。」
「だが、倒された一族の恨みは消えない。俺が、セヴァフィヨルの血を持つ限り。」
「ならば余計なことを考えずに、さっさと俺を殺せばよかったのだ。」
「……出来無い。俺には、出来無い。」
 がっくりと肩を下ろし、ダグが力なく首を振る。ヘルギはしばらく静かに、そんな義弟を見つめていた。
 出来れば一生、この男とは戦いたくなかった。
 だが、今更そんなことを言ってもどうにもならない。セヴァフィヨルのダグはもう選んでしまったのだから。ヴォルスングのヘルギと戦うという運命を。
 ヘルギはゆっくりと深呼吸をすると、氷のように冷たい声で一言いった。
「俺なら、やる。」
 その口調にはっとして、ダグが顔を上げる。
「槍を貸せ。不意打ちが嫌というのなら、望み通り勝負をしてやろう。手加減はなしだ。お前を殺すか、俺が殺られるか。」
 そこで言葉を切ると、ヘルギは目を細めてうっすらと笑った。
「ダグ、お前が槍を選んだのは正解だったな。剣なら確実に俺に殺られている。」
 その姿はすでに今までの平和に浸っていたヘルギではなく、血と殺戮を求める狂戦士のそれだった。
 ダグはしばらくの間、黙ってそんなヘルギを見つめていたが、すっと視線を逸らすと空を見上げる。
 時は満ちたのだ。もう引き返しは出来無い。
 グングニルを手にし、もう一本の槍をヘルギに向かって投げたとき、ダグの瞳にも獣が宿っていた。

 戦いは、それから暫く続いた。

 太陽が二人の真上を照らす頃、肩で息をしながら立っていたのは、ダグだった。