オーディンの娘

第三章  決意


その三

 扉の開く音にはっとして、シグルーンは顔を上げた。
 暖炉の薪がはぜる音。角杯に酒を注ぐ女達の嬌声。食事をする男たちの笑い声、怒鳴り声。そんな騒がしい熱気に包まれて、広間にいる誰もが気が付かない。ただ、扉を見つめた彼女にだけ、そこを開けて入ってこようとする弟と、その従者達の姿を認めることが出来た。
「ダグ、」
 力なく、今にも倒れそうな様子で歩いてくるダグ。思わずシグルーンは立ち上がったが、彼の手にしている槍を見つけた途端、その表情は凍り付いた。
「姉上、……心ならずも悲しい知らせを伝えねばなりません。」
 ダグは足を引きずりながら広間に入ると、中央にある囲炉裏を挟んでシグルーンと向かい合った。
「俺は、姉上を泣かすことになってしまった。」
「どういう、意味。」
 無意識のうちに胸に手を当て、聞いてみる。
 膝が震える。耳鳴りがする。
 だが、広間にいる他の者達には何が起こったか分かるはずもない。彼らは突然現れたダグとその対応をするシグルーンの間にある緊張感を感じ取ると、慌てて今までの会話を止めて二人を見つめた。
「今朝、フィヨトゥルルンドの下で、勇者達の征服者、天下に並びない王が果てました。」
「嘘よ。」
「彼を手に掛けたのは、この俺です。」
「嘘よ。嘘よ。嘘っ。」
「姉上っ。」
 大きく叫ぶとダグは顔を強張らせて、手にしていた槍を突き出した。
「この槍をお忘れか?俺はこのグングニルで確かに彼を突き刺した。彼を、……ヘルギを。」
 ダグがそう叫んだ途端、広間の空気が凍りついた。そして男たちの間に、緊張が走る。
「今の話は聞き捨てなりませんぞ。」
 淡々とした口調でそう言うと、ハマルがのっそりと立ち上がった。
 彼の腰元から刀のこすれる音がする。身じろぐダグ側の従者達。
「動くでないっ。」
 ダグを見据えたまま片手をかざし、そんな男たちをシグルーンが制止した。
「説明して頂戴。何故あなたがヘルギを倒さなければならなかったの。そんな、そんなこと、」
「なぜ?」
 その、信じたく無いが故に、余りにも子供じみた姉の質問に、ダグはつい鼻で笑ってしまう。
「それは姉上が一番良く知っているはずではないですか。我らの父と兄は誰に殺された?俺は、ヘルギを殺さない限り一族の名を継ぐことは許されない。それは姉上とて同じことでしょうに。」
「でも、彼はあなたの義兄なのよ。」
「そう。では姉上は、悔しいと思ったことは無いのですか。今の暮らしが幸せだと、むざむざ死に至った一族を哀れむ気持ちにもなれないのですか。我々の父は、兄は、誰に殺された!」
 次第に興奮してくる心の片隅で、ダグは自分が悲しみを怒りに換えていることに気が付いていた。そして、その怒りをただ闇雲に姉にぶつけていることも。
「止めて。」
 怯えたような表情のシグルーンが、ゆっくりと首を振った。
「俺だって、こんな事はしたくなかった。いつまでもヘルギの側にいて、笑っていたかった。でも、ヘルギが、俺はもう勇者の仲間入りを果たしているって言うから。勇者の……。」
 そこで言葉を切ると、ダグはふと囲炉裏の炎を見つめた。炎の赤に、ダグは血の色を見出したのだ。
 贄を捧げろ。木に吊るせ。グングニルを手に入れるために。ヘルギの命を奪うために。
「絆の掟は、実行されなければいけない。でなければ、俺はいつまで経っても、真の勇者にはなれない。これはオーディンの決めた掟なんだ。オーディンの決めた掟なんだよっ。」
「止めてっ。」
 シグルーンは悲鳴をあげるかのようにそう叫ぶと、制していた片手をダグに向けた。
「冥府の川レイプトの……輝く水と、冷たい浪の岩にかけ、ヘルギに誓ったすべての誓いが、お前の身の破滅になるように……。」
 ぼろぼろと、彼女の目から涙がこぼれる。だが、それをぬぐおうともせず、燃えるような目付きで弟を見つめ続ける。
「姉上、何を、」
 姉のただならぬ口調に、ダグがはっと我に返った。が、シグルーンは構わず言葉を続ける。
「お前の乗った船は、申し分の無い順風であっても進むな。お前の乗った馬は、敵から逃げなければならない時も走るな。お前の振った剣は、お前自身の首の回りで音を立てるとき以外は切れるな。
 お前が、外の森で狼になり、富も喜びもすべて失われ、死体をむさぼって腹が裂け死ぬ以外は何の食べ物にもありつけぬよう。
 この言葉がすべて実行されたとき、初めてヘルギの復讐が遂げられるのよ。」
 呪いの言葉だった。正式な方法で行う呪詛とは違う、ただの脅しにしか過ぎないものではあった。だが、実の弟に向けて言うべき言葉ではないことは、言った本人も良く分かっていた。
「俺の不幸を願うなど、血迷ったのか姉上。」
 青ざめた顔のダグ。そんな弟に、シグルーンは涙のたまった瞳で微笑みかける。
「そうね。血迷っているのかもしれないわ。でも、これだけ言ってもまだ言い足りなくて、私は心の中で言葉を探しているのよ。」
「姉上……、」
 唇を噛み締めると、ダグはシグルーンを見つめ返した。逆上している彼女を見ていると、ヘルギの最後を思い出す。
 燃えるような狼の瞳で戦って、自分をぎりぎりまで追い詰めた義兄。あの時とっさに振り回した槍が彼の胸を刺したのは、やはり自分の実力ではなく、神の槍の持つ威力だろう。
 そして、その直後のヘルギの表情。
 一瞬大きく目を見開いてから、ダグを見つめてにやりと笑った。
「お前に一つ、頼みたい事がある……。」
 自ら胸に刺さった槍を押さえながら、彼は言ったのだ。
 そう。そんなことを思い出したくなくて、今までずっと彷徨っていた。この館には戻りたくなかった。だが、戻らない訳には行かなかった。ヘルギとの、約束があったから。
「……義兄さんは、……頼むと、妻と子供を頼む、シグルーンを幸せにしてやってくれと、俺にそう言って果てました。だから、俺は、」
 不意に言葉が途切れた。胸に何かがつかえたようで、声が出なくなった。今まで押さえていた悲しみという感情が、一気に溢れ出したようだった。
「姉上、償いはします!黄金の腕輪と、俺の土地。それにヴィーグの谷も差し上げましょう。セヴァフィヨルの領地の半分は姉上とあなたの子供達が統治すればよい。」
 振り絞るようにそう叫ぶ。だが、そんなことで姉の心が晴れるとはダグも思っていなかった。シグルーンは輝きの消えたまなざしを虚ろに漂わせ、首を横に振る。
「どんな富も、私の悲しみを和らげないわ。ヘルギが、帰ってきてくれなくては。死んだなんて、そんな、そんなの、嘘よ。私は信じない。ヘルギがいないなんて、そんなの……。」
 暖炉の薪が、大きくはぜた。
 そして、そのはぜる音さえ包み隠すほどの、やりきれない沈黙。永遠に続くかと思われるような、長い長い。
 だがその沈黙を破ったのは、今まで敢えて口を挟むこともせず黙って待っていたハマルだった。
「シグルーン様。ヘルギが、王が亡くなったかどうかはともかくとして、彼が今この場で王を侮辱したのは確かです。私は、彼が償うというのなら、富や財産などではなく、御自身の血でもって贖(あがな)っていただきたいですな。」
 その言葉と共にテーブルを飛び越えると、ハマルは溜めていた感情をぶつけるように、素早くダグに向かって剣を振りかぶる。
「何をするっ!」
 はっとした瞬間、シグルーンは反射的にハマルに向かって角杯を投げつけていた。
 角杯は彼の肘に勢い良くぶつかり、その衝撃で動きが止まる。
「その者に触れるな!」
 ハマルが態勢を整える前に、シグルーンは広間に響き渡る声でそう叫んだ。気勢をそがれたハマルはぎりぎりと歯を食いしばりながらも、小さく呟く。
「ダグ様、よくも今までの恩も忘れ、我が王を手に掛けてくれましたなっ。」
「ハマル……。」
 どこか虚ろな表情で、ダグはハマルを見返した。シグルーンは小さく息を吸い込むと、厳かな口調で宣言をする。
「例えどんな趣で我らが屋敷に出向いたとしても、この屋敷に一歩でも入ったからにはダグは大切な客人です。だが、これ以上のもてなしは不要でしょう。ダグは一刻も早く我らの領地から立ち去るよう忠告します。他の者はダグが領地から離れるまでは、決して危害を加えてはなりません。この言葉は、王の言葉と同じと受け止めよ!」
「姉上、」
「早く行って頂戴。もう、……もう私に、私の愛する人たちの死を、これ以上見せないで。それが私の、残された私の、唯一の……、」
 言い終わらないうちから、シグルーンの腰から力が抜け、思わず床にへたり込んだ。
「ヘルギ、ヘルギっ。どうして、……どうして、なの。ヘルギ……。」
 低く細く、彼女の口から嗚咽が漏れる。広間にいる者達は、為す術も無くただそれを見守るだけ。
 ダグは深く息を吐き出すと、グングニルを持ち直して無言のまま館を去った。
 その後、この弟は二度と姉の前に姿を現すことは無かった。


 ヘルギの葬儀は、それから程なくして行われた。
 沢山の宝物や日常品と共に、彼の遺体の入った棺を墓穴に安置する。それを囲むように石を築き、ちょっとした小屋程度の塚を造るのだ。
 ヘルギの顔はとても安らかで、シグルーンにはやはり彼が死んだとはどうしても思えなかった。ただほんの少し疲れて眠り込んだだけ。そう。胸に赤黒く口を開ける、槍の傷跡さえ見なければ、そう思えるほどだった。
 だが、そんな彼女の気持ちに構わず、葬儀は執り行われた。
「まさかシグリーズ様に引き続き、シグルーン様の悲しみを見るとは思いませんでしたよ。」
 疲れ果てて、侍女に抱きかかえられながら屋敷に戻ったシグルーンを見て、ハールは目頭を押さえながらそう言った。
「年を取ると、見たくないものまで見てしまう。私はもうこれ以上、あなた様の泣く姿を拝見したくはございません。」
 シグルーンの心を奮い立たせようと、わざと強い口調で言ってくれているのは分かっていたが、肝心の本人も泣きながら言っているのだ。言葉を返す気力も無く、シグルーンは只ぼんやりと乳母を見つめた。
 何もしたくは無い。ただ、悲しみに打ちひしがれていたい。意識をはっきりとさせるということは、ヘルギのいない現実を認識するということだ。今のシグルーンにとって、それが一番堪え難かった。
「シグルーン様、よろしいですかな。」
 ためらいがちの咳払いの後、扉の向こうから声がした。
「ハガル……?」
 息子のハマルに家督を譲り、すっかり楽隠居の身となっているヘルギの養い親、ハガルの声だった。シグルーンはゆっくりとベンチに座り直すと、ハール以外の侍女を下がらせる。
「どうぞ。」
 その声に導かれ、ハガルが重々しい足取りで姿を現した。
 戦場で鍛えたその体つき。一見柔和な瞳だが、眼光の輝きはまだまだ鋭い。楽隠居とはいえ、何か事が起こる度、息子を表に立てつつ裏で仕切るのがこの老戦士だ。
「この度は、うちの愚息が先走った行動に出まして、申し訳御座いませんでした。」
 まず挨拶代わりにそう詫びると、シグルーンの正面に座り込む。シグルーンは無言のまま首を横に振ると、ハガルにグラスを差し出した。
「ダグ様は無事にこちらの領土を抜け出して、北上している模様です。行き着く先はダンメクルかスヴィジオーズか。うちの息子を始めとする幾人かが追跡しているようですが、難なくかわしたという話です。さすがにヘルギ様のお目にかかっただけのことはある。」
 ヘルギ、という言葉に反応しながらも、シグルーンは目を伏せる。だが、暫く間を置いてから、かすれた声でハガルに尋ねた。
「あなたは、復讐はしないのですか。」
「復讐?誰に。」
 素知らぬ顔で、ハガルが聞き返す。
「我が弟に。いいえ、私にでも構わない。現にあなたの息子、ハマルはダグ討伐に心血を注いでおります。」
 青白い顔で億劫そうに言うシグルーンを見て、ハガルは優しく笑った。
「息子はまだ若い。あれのは只単に怒りを発散させているだけのこと。直に気持ちも落ち着くでしょう。それよりも私が考えたいのは、この国の行く末です。」
 その言葉に動かされ、シグルーンは思わずこの目の前の男を見つめた。
「偉大なる王ヘルギが亡くなったことは、すでに近隣諸国に知れ渡っております。この機会にヘルギ様が築き上げたこの国を、踏みにじろうとする者は幾らでもいる。ダグ様を追いかけて、帰ってきた頃にはこのブラールンドが無くなっていた、などということにはしたくは有りませんからな。」
「ハガル……。」
 柔らかい笑顔に隠された、彼の鋭い瞳に射て刺され、シグルーンの頭がはっきりとしてきた。
 確かにヘルギという主のいない今、この国を乗っ取ることは簡単だ。
 このままただ悲しみに浸っていれば、せっかく二人で造ってきた国を手放すことになってしまう。この国を無くすことは出来無い。そう。この、ヘルギの愛したこの国を。
 次第に顔付きの変わってゆくシグルーンを見つめ、ハガルが満足そうに微笑んだ。
「今が正念場ですぞ。この国にはあなた様を、勇者が愛したワルキュリエ、女神と見る者もいれば、全ての争いの種と陰口を叩く者もおります。そのどちらが本当なのかは、これからのあなた様次第。」
「あなたは私を、どちらだとお思いですか。」
 泣き腫らした目が一瞬きつく光って、そう言った。
「さあ。私は見守るだけ。この国をね。」
 年を重ねた分だけよりさりげなく、ハガルはシグルーンの質問をはぐらかす。その答えに思わず彼女が苦笑したのを合図に、ハガルは酒を飲み干して立ち上がった。
「そう言えば、ヘグニ様はいかがいたしますか。こんな人の心も揺れている時期です。私どもの屋敷でいつまでもお預かりしている訳にも行きますまい。」
 戸口に向かいながら、思い出したようなハガルの言葉。だが、それが思い付きで言った事ではないのは、シグルーンには良く分かっていた。
 ヘルギ亡き後、この国を継ぐのは誰になるのかと聞いている。嫡男だから、という理由だけでまだ幼い遺児に国が譲られる法は、この世界には無い。かといってヘルギの一族とはシンフィエトリの一件以来、すっかり疎遠となっている。その気になればシグルーンが王女として、ヘルギからこの国を与かることは出来た。
 だが后とはいえ、ヘルギを殺した犯人、セヴァフィヨルのダグの姉がこの国を取り仕切るのは、人々は不満なのだ。例え母からセヴァフィヨルの血を受けているとはいえ、ヘルギの息子であるヘグニの王位擁立をいち早く望んでいることは、シグルーンにも理解できていた。
 葬式の際の追悼宴で、シグルーンは敢えて次の王に関する話題を避けていた。夫の死さえ受け止めきれていない彼女に、次の支配者のことなど考え付きもしない問題だった。だが、いつもでもそうは言っていられ無い。
「ハマルは今どこにいるのでしょう?」
「さあ。ただ、すでに帰路には着き始めているようです。数日中には戻るのではないかと。」
 ハガルの言葉を聞きながら、シグルーンの視線は窓に移っていた。採光のため窓板は大きく開け放たれており、そこから外の景色が見えている。特に何があるというわけでもない、屋敷の背に広がる林が見えるだけだ。だが、日の光に照らされた世界は穏やかで、シグルーンには目の前に映る風景が、どこか遠い世界のもののように感じられた。
「……ハマルが戻ったら、ヘグニをこちらの屋敷に呼びましょう。王亡き後、次に国をまとめるのは王の息子、ヘグニしかおりません。だが、彼は幼い。あなたやあなたの息子の協力が必要です。ヘグニが王の宣言をする際には、ぜひともハマルに居て貰わねば。」
「分かりました。」
 ハガルは深くお辞儀をすると、今度こそゆったりとした足取りで部屋を去った。シグルーンはそんな彼に頓着する事も無く、小さくため息をつくと、ただぼんやりと窓の景色を見つめつづけていた。