オーディンの娘

第三章  決意


その四

 ハマルが戻り、ヘグニの王位宣言の宴も無事終了し、季節は冬を迎えた。
 冬の間、世界は寒波と吹雪に襲われ、人々の足も留まる。人々は何故、夏になると遠出をし、ヴァイキング猟に出かけ、戦や貿易に情熱を注ぐのか。それは夏の間に蓄えた食糧や燃料を、冬の閉鎖された期間に消費するからだ。そして冬が厳しければ厳しいほど、人々の鬱屈とした心は外の世界を求め、春の訪れと共に飛び出してゆく。その外へと向かう荒々しいまでの情熱は、この北の世界に属していない者達には理解しがたいものであり、驚異に映るものだった。
 だが、冬だからと言って、全ての者達が旅を終え故郷に戻ってくるわけでもない。遠出を何年も掛けてしている旅人や商人達は、冬の間はその土地土地の有力者に滞在を請う。宿屋など無いこの世界では、王やその地を統べる郷主の館が、客の滞在先となるのだ。春になるまでの半年近く、客は滞在し、一緒に生活をする。
 旅人達はこの滞在期間の間、夏に見聞きした出来事や噂話を屋敷の者達に語ってくれた。それは閉鎖的な空間の中で、最大の娯楽であり、重要な情報収集でもあった。また、旅人が商人ならば、この期間にゆっくり商談をする事もできる。どちらにしろ、王の屋敷であるならば、冬の客の宿泊は、避けては通れない問題だ。それはヘルギ王を失ってまだ日の浅い、ここブラールンドでも同じだった。
 シグルーンにとって初めての、ヘルギのいない、領主としての冬だ。頼りになる者のいないこの屋敷に、一体どんな客達が宿泊を願ってくるのか。シグルーンは不安に思っていたが、すぐにそれは杞憂に変わった。
「最初は自分の屋敷に来たんですがね。」
 その冬初めての雪が降った日、客の一行十名はハマルに連れられ、やって来た。
「こいつらなら身元もしっかりしているし、以前、シグルーン様とお会いした事もある。どうせなら王の屋敷のほうが良いだろうと思い、お願いしに参りました。」
「以前私に?」
 冷気と共に広間に入った客達のため、シグルーンは薪をもっとくべるよう、従者に命じる。その合間に一行をまとめる男、トルステインを見て、首をひねった。ヘルギやハマル達の故郷、フラクランドの出の者だというだけあって、屋敷の者達にも見知った顔が居るらしい。そこかしこで声があがり、挨拶の抱擁が交わされるのだが、シグルーン自体には彼に対する印象はなかった。以前に彼女と会ったことがあるというのなら、商売ではなく戦に関連してのことであろうか。その疑問を口にすると、トルステインは柔和な笑顔を彼女に向けた。
「そうです。以前、私はヘルギ様に仕えておりました。戦のときは盾の囲いとなり、彼を一番身近な位置でお守りする役目でした。シグルーン様とお会いしたのは、ブルニの入り江での事です。」
「ブルニの入り江ですか。」
 思わず小さく叫ぶと、シグルーンの目に輝きが宿った。ブルニの入り江は彼女にとって大切な場所だ。あそこで初めてヘルギと出逢ったのだ。
 客をもてなすため、次々と出される飲み物や食べ物を堪能しつつ、トルステインはヘルギとの思い出を語ってくれる。合いの手を入れるのは、同じく盾の囲いとして共に戦ったハマルだ。ここ最近、どうしても沈みがちだった屋敷の雰囲気ではあったが、今夜は久し振りに笑いと喧騒が広間に充満していた。
「……久し振りに、楽しい夜を過ごすことが出来ました。」
 夜も更けて、ベンチで眠りだす男達がそこかしこに現れた。養父ハマルの姿を見つけてはしゃぎ、大人に混じって話を聞いていたヘグニも、いつの間にか彼の膝の上で眠っている。息子を起こさぬよう、ハールに寝室へ運び込むようお願いすると、シグルーンは退席の挨拶を起きている者達にした。その言葉に、トルステインがゆっくりと頭を上げる。
「これから春になるまでの期間、お世話になります。私達で何かお役に立てることがありましたら、是非ともおっしゃってください。私達をハマルの代わりと思ってくださって結構ですから。」
「ハマルの、代わり?」
 意味が分からず聞き返すシグルーン。ハマルはそんな二人の会話に慌てたように割って入ってくる。
「何でもないですよ、シグルーン様。トルステイン、余計なことは言わなくていいぞ。」
 そんなハマルの様子を見て、トルステインは面白そうに笑うとシグルーンに向かって解説をした。
「ハマルは本当は、こちらの屋敷で冬を越そうかと半ば考えていたようなんですよ。心配でね。」
「心配。」
「シグルーン様と、ご子息のヘグニ王のことがです。幾ら気心の知れた従者達が居るといっても、冬の閉ざされた期間に、屋敷に万が一のことがあったら堪らない。せめてこの冬だけは、こちらの屋敷でお二人を手助けしたほうが良いのではないかとね。」
 トルステインの話にただ目を見開き、何も言えずにシグルーンはハマルを見つめた。ハマルはそんな彼女に照れたように、角杯に残った酒を飲む。
「ずっと、心に残っていたんですよ。ヘルギが仆れたと聞かされた時、俺は逆上して、報復することしか考えていなかった。あの後親父にどやされました。」
 そこで言葉を切るハマルに、葬式後に現れたハガルの姿を重ね合わせた。容姿や性格のあまり似ていないこの親子だが、こんな時は同じような表情をする。
「お前の今しなければならないことは何だ、と言われました。俺があの時しなければならなかったことは、ヘルギという支えを失ったシグルーン様と、二人のご子息を守ることでした。俺は、大事なことを忘れていた。」
「ハマル。」
「シグルーン様、俺にとってヘルギは、大切な兄弟なんです。兄弟が残したものを、俺は大切に守ってゆきたい。ただ、それだけなんです。」
 真っ直ぐな瞳でそう言うと、ハマルは自分の言葉によほど照れてしまったのか、空になった自分の角杯を放り投げ、トルステインの手にあるものを奪い、一気に飲み干した。奪われたトルステインの方は笑いながら、彼の肩を軽く叩く。
「私とて、こいつと同じような気持ちですよ。今年、この地にやって来たのは偶然だったが、これも何かの縁だったのかもしれません。春になれば去ってしまいますが、それまでの間は家臣として、仕えて行きたいと思っております。」
二人の男達の話に、シグルーンは上手く言葉を返すことが出来なかった。ただ、二人の手を握り、「ありがとう。」と呟くのが精一杯だった。


「シグルーン様。」
 それから数ヶ月し、年を越え、春が来た。トルステイン一行は惜しまれながらこの地、ブラールンドを出立し、それから数日。夜中にことりと音がして、気遣うように小さく男の声がした。
「何。」
 寝室に侍女ではない、見知らぬ男。シグルーンは反射的に、枕下の短刀を引き寄せる。
 ハマルは冬にもかかわらず、天気の良い日に幾度か顔を出してくれた。トルステインも、客とは思えないような気遣いで、彼女をよく支えてくれた。
 だが、例え周りの人間がどれだけ良くしてくれようとも、この半年の間に彼女はずいぶんと用心深くなった。枕元の短刀も、新しい習慣だ。それを責めることは誰にも出来無い。ゆっくりと刀を握り締めると、シグルーンは上体を起こした。
「お目覚めでしたか、シグルーン様。」
 だが、そんなことを気も付きもせず、ほっとしたように男が言う。その声に敵意は無かったが、それでもシグルーンは油断無く肩掛けを羽織ると、声のするほうに顔を向けた。が、闇に阻まれて、男の体の輪郭すら分からない。
「何かあったの。」
 暖炉のある方向にも顔を向けてみるが、火はいつの間にか消えており、そこにも寒々とした闇が広がっているだけだ。
「シグルーン様、今すぐ外へお出で下さい。見たのですよ、私は。あなたの夫、私たちの王、ヘルギ様を。」
「ヘルギ、を?」
 意味が分からず繰り返す。
「そうです。ヘルギ様です。私が見張りのため、屋敷の回りを歩いていたら、大勢の共を連れた勇士が塚の中に入っていくのを見たのです。ヘルギ様の墓塚ですよ。」
 男の声は焦って上ずっていたが、決してシグルーンをからかうつもりでないことは感じ取れた。ただ、自分の見たこの出来事に驚き、興奮しているだけだ。
「そんな、馬鹿なことが……。」
 思わずそう呟きつつも、自分の声が震えていることに気が付いた。
「ヘルギ様は傷口から、未だに血を流されておいでです。早く行って介抱差し上げてください。」
「でも、」
「早く。会いたくないのですか。」
 男に急かされて、シグルーンは反射的に立ち上がった。これが何かの罠だとしても、構わない。そこにヘルギがいるというのなら、会いに行くだけだ。
 立ち上がった瞬間に、彼女の肚は決まった。
 月の明るさだけを頼りに、松明も持たずに夜道を走る。目指すはヘルギの埋葬された墓塚だ。だが、塚に近付くにつれ、闇に慣れた目には眩しいほどの明かりが墓塚から漏れていることを、シグルーンは知った。
 息を切らし、墓塚の前で立ち止まる。
 塚にはいつの間に作られたのか、入り口が出来ていた。その入り口から中をそっと覗き込んで見ると、そこには幾人かの男達が立っていた。なおも良く見てみると、どうやらベンチに座っている一人の男を囲んでいるらしい。
 見覚えのある後ろ姿。あれは、
「ヘル、ギ……?」
 試すかのように、小さく呼んでみる。一斉に振り返る男達。一呼吸おいて、中心の男も振り返る。
「シグルーン。」
 懐かしい、その柔らかい瞳が彼女に呼びかけた。
 ヘルギ。ヘルギの声。ヘルギの姿。ヘルギの表情。
 シグルーンは驚きと嬉しさの余り、暫くの間立ちすくむ。そしてようやく一歩を踏み出した。
「本当に、本当に、ヘルギなの?」
 震える声。胸に当てた手が、どうして良いか分からずに、ただ肩掛けをいじっている。
「ああ、俺だ。」
 ヘルギも立ち上がると、シグルーンに向かって歩き出す。二人はゆっくりと手を伸ばすと、無言で見つめあい、お互いの指先に触れた。
「あなた……。」
 指を絡め、体を引き寄せ抱きしめあう。
 久しぶりのヘルギの胸。だが、傷跡は生々しく残り、彼の体は冷たく冷え切っていた。
「キスを頂戴、ヘルギ。あなたの体、とても冷たい。傷口から、まだ血が流れている。どうすれば止まるの?どうすれば、体は温まるの?」
「そんな事は考えるな、シグルーン。」
 抱き合った時に彼女の頬に付いた自分の血をキスの代わりに舐め取って、ヘルギが言った。
「ただ、俺とまた会えたことだけを感謝して、笑ってくれ。」
「だって、」
「気付かないか?この血はお前の涙だよ。お前は寝る前に苦い涙を流して苦しむ。それが俺の胸の上に冷たく落ちて、悲しみのために重くなり、燃えるような血になるんだ。」
「嘘よ。私、泣いてなんかいない。」
 慌てて見上げると、シグルーンは否定した。ヘグニはそれには答えず、ただ優しく彼女のことを見つめている。その瞳に見つめられているうちに、不意に彼女の目から涙がこぼれた。
「嘘。毎晩泣いている。」
 そう白状すると、彼の胸に顔を埋める。
 あの日から、毎晩思い出しては密かに声を殺しながら泣いていた。ただ、それを他の者には気付かせなかっただけ。その胸にまた帰れたのだ。
 シグルーンは貪るようにヘルギを抱き締めていたが、突然漠とした不安に襲われて、顔を上げた。
「ヘルギ、」
 何かが、足りない。
 しかしそんな不安感は、すぐにヘルギの悪戯っぽそうな表情に前にかき消されてしまった。
「さて、この国ではこの先何が起こっても驚きはしないだろうな。この国の女王が墓の中で、死者の腕に抱かれているのだから。」
 そう言って笑うと、ヘルギはシグルーンを抱き上げて、従者達を見回した。
「皆は下がれ。俺は妻と共に休むぞ。」
 従者達はうなずくと、静かに塚から去って行った。
 この場所に二人だけ。
 シグルーンは久し振りに気持ちが高揚してくるのを感じながら、さっそく塚に供えてあった幾つかの箱を開けた。
「何をしているんだ、シグルーン。」
 そんな彼女を見て、ヘルギが訝しむ。
「あなたのために、蜜酒も確か供えたはずなの。今こそそれを取り出して、二人で酌み交わしましょう。」
 その言葉と共に酒を取り出すと、杯に注ぐ。二人はお互いを見つめると、無言のままそれを掲げてから、飲み干した。
「どう?味は。」
「ああ。良い酒だ。」
 深々とため息混じりにヘルギが呟く。シグルーンはそんな彼を見て満足そうに目を細めると、次は宝物と一緒に埋葬してあったベッドを、きちんとしつらえ直した。
「あなたと一緒に眠れる日が来るなんて、まるで夢みたいね。」
「夢にして、いいのか?」
 杯をベンチに置くと後ろからシグルーンを抱き締めて、ヘルギが囁く。
「……夢でも、現実でも、私は構わない。ただ、あなたがいてくれれば。」
 彼の腕からするりと抜け出し、ベッドにゆっくりと倒れ込むと、シグルーンはヘルギを見つめて微笑んだ。
 明かりに浮かび上がる彼の顔は青白く、見たくも無い彼の傷からは今でも血が滲んでいる。
 だけど、今はそんなものに気を取られて悲しんでいたくない。ただ、感じていたい。ヘルギのことを。自分の全神経、全感覚を使って、心に刻み込みたい。
 ヘルギも何も言わずに彼女に覆い被さると、シグルーンを見つめたまま口づけた。
 一瞬だけ唇に触れるだけの、微かな口づけ。それだけなのに、触れた部分が甘く痺れる。ヘルギは二度三度とそれを繰り返すと、ふとその動作を止めて、シグルーンの頬を両手で押さえ、じっくりと彼女を見つめた。
「お前に会えて、俺は幸せだった。」
 シグルーンは小さく首を振ると、自分の唇で彼の言葉をふさぐ。
「言葉は、いらない。ただ、口づけが欲しいの。」
 彼の首に自分の腕を巻きつける。
 ヘルギもそれに答えるようにきつく彼女を抱き締め直すと、そっと彼女の首筋に頬を寄せた。
 背中に回した手の、リズムを取るような微妙な動き。抱かれている彼女にしか聞こえない、微かな吐息。引き締まった体躯。どこか海を思い出させる、彼の匂い。
 体を重ねることによって初めて知った、そんな彼の一つ一つ。ヘルギの行為はそれ以上に発展することなく、ただひたすら抱き締めあうだけだったが、シグルーンにはそれで十分だった。抱き合うだけで、心が満たされていく。落ち着いてゆく。
「鼓動が聞こえる。」
 あやされている子供のように、すっぽりとヘルギの体に収まり目を閉じていると、そんなつぶやきがした。
「え?」
「お前の鼓動だ。もう、俺の体からは聞こえることが無い。」
 淡々としたヘルギの言葉。
 だが、その言葉は悲しいほどに事実を的確に伝えている。
 鼓動が聞こえない。ヘルギからは、もう。
 それは、この自分が愛すべき夫が死の世界の住人になってしまったという事。
 先程抱き合った時に感じた不安感が何だったか、シグルーンは理解した。だか、今では静かにその事実を受け止められる。自分でも不思議なくらい、冷静に。
「そろそろ空の道も明らんできた頃だろう。行かなくては。オーディンの雄鶏が時を告げて戦士の群れを目覚ます前に、帰らなければならないんだ。」
「い、や……。」
 ぴくりと体が動いて、彼女の口から言葉が漏れた。
「シグルーン、」
「嫌よ。行っては駄目。」
 とっさにヘルギの体にまたがると、シグルーンは押し倒すように彼の肩に手を掛ける。
 たった今、彼の死を認識した彼女だったが、だからといって今ここにいる彼と永遠の別れをする気は毛頭無かった。
「行かないって、言って。」
 真剣な表情で、ヘルギを見つめる。ヘルギはそんなシグルーンの瞳を静かに見据え、何も言わずに黙り込む。
「どうしても、駄目、なの?」
「……シグルーン、俺はお前の悲しみを軽くするためにやって来た。だが、それはお前の願う方法とは違っていたんだ。」
 そんな事は分かっていた。事実、彼女はヘルギに会えた事によって、彼の死を冷静に受け止める事が出来るようになっていた。だが、今目の前にいる彼を見ていると、このままで引き下がる気にはなれない。
「それなら、それなら明日も来るって言って。ね?」
「シグルーン。」
「お願い。言って。」
 嘘でも良いから。
 強張る顔の口元を無理に引き上げて、一生懸命笑顔を作る。だが涙は溢れてきて、頬を伝い、ヘルギの顔にこぼれ落ち、そしてそれは血に変わった。
「……良いの、か?」
 彼女の真意を理解して、それでもためらうようにヘルギが聞く。
「言って。」
「明日も、来る。」
「もう一回。」
「明日も来る。シグルーン。」
 ヘルギの胸に、ぽたぽたと涙の滴が落ちてきた。ヘルギが大きく腕を広げシグルーンを包み込むと、やがて小さくくぐもった泣き声が、彼の胸から聞こえてきた。
「シグルーン。」
「ん?」
「……幸せになれ。」
 彼はそれを最後の言葉として、もう一度彼女を強く抱き締めると、やがて従者達と共に去って行った。


 時間が経つのが、ひどく鈍く感じられる。
 暗闇の中、シグルーンは見えない自分の手をただ見つめていた。
 彼女は待っていた。ヘルギが来るのを。
 ハールにも気付かれないように密かに、侍女はとうに墓塚まで見張りに出している。昨夜の男を捜し出して詳しく話を聞きたかったが、声のみで顔も分からないのでは捜し様も無い。シグルーンはただ待っていた。墓塚に明かりが点るのを。いくつもの人影がその中に入っていくのを。そして、侍女がそれを自分に報告するのを。
 深く、息を吐いてみる。目を瞑る。目を開く。ただ祈る。ヘルギが帰ってくることを。
「何を、お待ちなのですか。」
 何の物音もさせずに、ふいに昨夜の男の声がした。
「奇跡は昨日で終わったのですよ。」
 昨日とは打って変わった冷たい声。シグルーンはゆっくりと顔を上げると、声のするほうに向かって睨み付ける。
「何故、お前にそんな事がわかる。」
「あなたの夫はあなたの弟に殺された。その夫に昨日会えただけでも十分奇跡だというのに、これ以上何を望むのですか。生き返り?幾らなんでもそれは無理な相談でしょう。」
 笑いを含んだ密やかな声。シグルーンは思わず立ち上がると、外に向かって駆け出した。あの男と言葉を交わした分、ヘルギがやって来る可能性が潰れていく気がしたからだ。
 走れ、走れ。あの男に追いつかれる前に、ヘルギの元へ辿り着け。
「墓塚には誰もいませんよ。」
 月明かりの中、裸足のままで丘を駆け上る彼女の耳に、男の声がする。次の瞬間シグルーンは石につまずき、もんどりを打った。
 足の先が鈍い痛みに襲われる。口の中に根雪交じりの泥が入ってざらついている。降り乱れた髪は汗と共に顔に張り付き、その不快さでシグルーンの気持ちをより一層惨めにさせた。
「な、んで。なんで、こんなことを、するの……?」
 這いつくばったまま地面に生えている草を握り締めると、シグルーンは空を見つめた。
「なんで?……オーディン!」
 彼女がそう叫んだ途端、風がすさまじい勢いで唸りを上げる。
「……気付いておったのか。」
 彼女の視線の先でため息混じりの声が言い、それは見る間に形となって、月明かりに一人の老人を浮かび上がらせた。
「ヘルギの運命を定める者は、あなたしか居ない。彼を殺すのも、生き返らせるのも。」
 そう言いながら、シグルーンはゆっくりと上半身を起こした。
「なぜ、夢を見続けさせてくれなかったのです、オーディン。あの人との別れを二度も経験させるなんて。これがあなたの優しさなのですか?」
「ただの気紛れだよ。」
 彼女の言葉に、オーディンは自嘲気味に答える。シグルーンはいつまでも草を握り締めていた手を放し、力なく笑った。
「そうね。あなたのその気紛れで、私の夫は私の弟に殺されたんだわ。」
「……儂のしたことを、酷いと思っているか?シグルーン。」
 オーディンの言葉にシグルーンの体はぴくりと反応する。が、視線は手元の草を見つめるだけ。
「元を辿れば、儂がお前をけしかけたのが始まりだった。戦いは起き、そしてお前とヘルギは一緒になった。だが、その後に起きたごたごたは、きちんと整理させなければならなかったのだよ。儂が神である以上はな。」
「ええ。そしてあなたはその目的のため、ダグを使った。」
 シグルーンは感情のこもらない、淡々とした口調でオーディンに同意した。だが、その瞳はなおも地面を見つめたまま、決して彼を見ようとはしない。
「ダグもヘルギも、もうここには居ません。掟に縛られてしまったが故に、私達、無用な争いを続けてしまったんだわ。あの人と一緒に居たかったから起こした戦いなのに、結局残ったのは私一人。」
 初めてヘルギに身をゆだねた、あの夜のことを思い出しながら、シグルーンが独り言のように呟いた。
 あの夜の波の音。風のざわめき、草の匂い。そしてヘルギ。思い出せる。全てのものを。
「ダグを使ってか。だが、お前も彼を殺すのに、儂と同様に弟を使ったではないのか?」
 そんな彼女の言葉を聞きつけて、オーディンが帽子から目を光らせた。
「な、に?」
 その言葉に、シグルーンは初めて面を上げて、オーディンの顔を見つめる。
「そう、お前もヘルギを殺したかったのだよ。」
 断定するオーディンの顔には、冷たい微笑が浮かんでいた。
「儂は掟の施行者だ。そしてお前は儂の娘。ワルキュリエだ。そんなお前が血の絆を断ち切れるはずがない。お前の体にセヴァフィヨルの血が流れる限り、父や兄を殺された悔しさは消えることは無いだろう。一族を殺した相手、ヴォルスングのヘルギに対する殺意は、陽炎のように浮かんできたはず。例え、相手が愛する夫であったとしてもな。」
「そんな事、」
 愛する夫に殺意を感じたことがあるはずだと言われ、かっとなったシグルーンは、オーディンを睨みつけた。だが、そんなことで戦の神が動じるはずもない。
「無いとは、言わせないぞ。」
 オーディンの視線が彼女を射すくめた。
 シグルーンは持ち前の気の強さでそれを受け止めるが、次第に体は小刻みに震えてくる。
 手に残る千切れた草が、汗に濡れてぬるついている。いつまでも吹き続ける風が彼女の体温をとうに奪っていたが、不思議にそんな事は気にならない。体の内側から、まるで黒い炎が立ち上がるかのように火照ってきているから。
「そんな事、有り得ない。そんな事……。」
 耐え切れずに口の中でつぶやくと、シグルーンは不意にあの夢を思い出した。
 空高く舞い上がる鷲。野原を駆けている狼を見つける。その瞬間感じるのは、ぞくりと鳥肌が立つくらいの、そう。それは、殺意。
 夢という、閉ざされた意識の中でしばしば沸き起こっていたあの感情は、確かに殺意だった。
「けれど、あれは、……嘘よ。そんな、」
 何度も繰り返し呟くが、次第にその声は小さくなっていく。
 オーディンを見つめる彼女の瞳に、怯えが走った。
「お前は儂の娘だよ、シグルーン。戦の女神、ワルキュリエなんだ。」
 万物の神の言葉は優しく響き、彼女の心にすんなりと入って行く。そんなオーディンの声を聞くうちに、いつしか彼女の体から気力と言うものが抜けていた。
「お前は、お前の一族を、父と兄を愛していた。」
「確かに私は、……父も兄も愛していました。そう。今でも。」
 がっくりと肩を落とし、地面を見つめる。神の望んだ通り、今では彼女はもう、はっきりと思い出していた。鷲が狼を見つけたあの瞬間の、殺意という心地好い感覚を。
「彼等を殺した者を、お前は知っている。」
 オーディンの言葉を受け、シグルーンはきつく目を瞑り、首を振る。今まで思い出すことなかった父と兄の遺体を、記憶の中から呼び起こしてしまったからだ。
 彼女の手により命を果てた、ヘズブロッドの最後の顔が浮かび上がる。
 闇に隠れて、鋭い視線で自分を射て刺しているのは、あの日のダグ。棺を見つめる眼差しは、肉親を殺された悔しさにぎらついていた。
「ダグは、己に課せられた運命を知っておった。復讐をしなければ、一族の名は継げない。だが、それだけではないだろう?人の気持ちというものは。お前や、お前の弟の中にある殺意は、ごく自然なものだよ。儂はただ、それに手を貸しただけに過ぎない。」
 やんわりと諭していく神の声に耳を傾けながら、掌をゆっくりと広げると、草で切れた指に幾つもの切り傷が、血を滲ませていた。
「私は、……私はどうしたら良いのでしょう。」
 自分の役割を知り、実行に移したダグ。だが自分の中に潜む感情に目を向けていなかったシグルーンには、次にすべきことが分からなかった。
 この瞬間まで、ヘルギに心から会いたいと願っていたのだ。それだけしか考えていなかった。万に一つの可能性でも、墓塚に行けば会えるのなら、毎日通うつもりでいた。だがその心の奥底に、純粋な愛以外の感情がある事に気が付いてしまった今、ためらいが生じている。会って自分はどうしたいのか、何をしたいのか、急に何もかもが分からなくなり、不安になった。
「お前の不幸は、ヘルギという男に出会った時から始まったのだ。全てのことは起こるべくして起きてしまった。当事者達はもう居ない。残るのはお前だけ。ならば、お前も今までの過去は捨て、新たな人生を生きるが良い。そこで幸せを掴め。」
「新たな、人生?」
「女一人で息子を、王を守ろうとするな。再婚をしろ。新しい夫の下へ行き、そこで新たな生活を始めるのだ。この国の繁栄は、儂が手を貸してやる。」
 その提案に衝撃を受け、シグルーンはオーディンに聞き返した。
「……母のように?私に、母のようになれと?」
 三度の結婚をし、早くに亡くなった彼女の母の姿がおぼろに浮かび上がる。無意識のうちにまた草を握り締めるシグルーンを見つめ、オーディンは腰をかがめると、彼女の肩に手を掛けた。
「お前は母の人生を否定するのか?母が幸せではなかったと、お前は考えておる。だが、お前の父との間に愛は無かったと、果たしてお前は言い切れるのか?」
「そんな、」
「シグリーズはヘグニとの間に、お前とお前の弟を生んだ。その結果は、決して不幸から生まれたものではないぞ。」
 にっこりと、安心させるように微笑むオーディン。その慈愛に満ちた表情に触発されるかのように、いつか言ったハールの言葉をシグルーンは思い出す。

 シグリーズ様は、ヘグニ王と結婚されて幸せでしたよ。

 この言葉を聞いたのは、いつだったか。そう、あれはヘルギへの想いを止めることが出来ず、苦しんでいた時。そしてその直後、シグルーンはヘルギの下へと出奔し、二人は結ばれたのだ。
 あの時、自分が言った言葉を彼女ははっきりと覚えていた。

 母がもしまだ生きていて、自分の人生は幸福だったって言ってくれたら、私はどうしていたかしら?
 その疑問には、母の人生に対する反発心は無いはずだった。
「……私は、ただ、自分の愛する人は自分で見つけたかっただけなんです。」
 ただ、それだけのことだったのだ。
「知っておる。だが、ヘルギはもういない。」
 オーディンの口調は変わらず、柔らかく優しく彼女の耳に響いてくる。
 そう、ヘルギはもういない。
 これから何度彼女が墓塚へ訪れようと、ヘルギが現れることはないのだろう。そして、無邪気な愛だけが自分の中にあると信じていたシグルーンも、もういない。だが、いないからといって、彼と培ってきたものを全て捨て、新しい伴侶の元へ行かなくてはいけないものなのだろうか。シグルーンが疑問に思った母の人生のように。
「……違う。」
 その瞬間、彼女は知らずにつぶやいていた。
 自分の母を、結婚という外因でしか見ようとしない考えに、シグルーンは酷く違和感を覚えたのだ。
「母は、……決心したのなら、迷わずに進む人だと聞いておりました。」
 自分が何を言いたいのか、シグルーンは頭の中でうまくまとめることが出来なかった。だが、少しずつ何かが心の中で沸き起こるのを感じ始めていた。
「母の決意は、三度の結婚。そしてそれは幸せとなって終わったのかもしれない。私はそれを否定しない。けれど、私は、」
 けれど自分は、
 そっと目を瞑ると、息を吐く。次第にはっきりとかたどってゆく自分の答えを、シグルーンは感じていた。
 そして、ふいにヘルギの顔を鮮明に思い出す。額にかかる前髪、一見無愛想に見えるその顔つき、そしていつも真っ直ぐに彼女を見つめていた、あの瞳。
 ごく自然に彼女の口元に笑みはこぼれ、先程までの不安が消えた。シグルーンは神を見定めると、落ち着いた口調で言い切った。
「新しい夫の下へ行き、そこで新たな生活を始めるのではなく、この国に残り、この国を、一生掛けて守ってゆきたいのです。それが私の決意です。」
 彼女の言葉にオーディンは何も言わず、ただ目を細めた。たったそれだけのことなのに、神の発する気配から、優しさが掻き消える。
 だが、シグルーンはそんなオーディンの姿を見つめながら、ただひたすらにヘルギの事を思っていた。
 二人が結ばれた直後、ダグとセヴァフィヨルの将来を杞憂している彼女に、彼は自分達の国を造ってゆこうと声を掛けた。そのときの彼女は、ヘルギが何を目指し、何を考えているのかが分からなかった。そしてシンフィエトリの死。その際に言った彼の言葉で、初めてヘルギの夢を知ったのだ。

 新しい国を造っていきたいんだ。ヴォルスングのヘルギではなく、セヴァフィヨルのシグルーンでもなく、ただのヘルギとシグルーンが造る国。

 血の繋がりに、家のしがらみに、自分が縛られていたことを知った今、初めてシグルーンは彼の夢を真に理解することが出来る。
「ブラールンドは、ヘルギと私で造った国。私の体にはセヴァフィヨルの血が流れ、その血はヘルギを殺すことを欲したかもしれません。ですが、あの国はそんな血のしがらみに縛られないよう、二人で造った国なのです。私には、あの国を守り、育ててゆく義務があります。」
「それは、儂の意見を聞く気にはなれんということか。」
 冷ややかな口調でそう尋ねると、オーディンはかがめていた腰を真っ直ぐにし、彼女のことを見下ろした。シグルーンはその視線を逸らすことなく、見つめ返す。
「オーディン、どうぞお忘れにならないで下さい。私はあなたの娘です。あなたは以前、ワルキュリエは自らの手で運命を切り開くものだとおっしゃいました。私は今、その運命を切り開く決意をしただけ。あなたの教えは私の中で培われているのです。」
 しばし続く、沈黙。その間、神とその娘の姿は微動だにせず、ただじっとお互いを見詰め合っている。
 だがその沈黙は、ふいにオーディンの笑い声で終わりを告げた。
「面白い。お前はお前の考えた通り進め。儂はもう去る。二度と会うことも無いだろう。」
 そう言い放つと、この父なる神はマントを大きく翻らせ、風と共に姿を消した。
 後に残されたシグルーンは、ただぼんやりと空を見つめる。オーディンとの対話に疲れ果て、立ち上がる気力も残っていない。

 結局のところ、オーディンの不興を自分はかったのか、シグルーンには良く分からなかった。だが、今後何が起ころうと、彼女は選んでしまったのだ。この国を守り、育ててゆくという道を。

「……シグルーン様?シグルーン様っ。」
 前方から松明を持つ人影がやって来て、彼女の姿を見つけて慌てて駆け寄ってきた。
「ハール……。」
「こんな所で、何をされていたんですか。」
 シグルーンを見つけた安心感からか、ハールは真っ青な顔をしながらもきつい口調で責めたてる。
「スヴァンニが震えながら戻ってくるから、何事かと問い詰めたんですよ。さあ、館に戻りましょう。ヘルギ様がこんな夜も更けてから現れる訳がございません。ほら、お立ちになって。御后のあなた様がこんな時間に墓塚に向かうなんて、正気の沙汰じゃございませんよ。」
 腕を掴まれ、引っ張り上げられる。シグルーンはハールのやりたいようにさせながらも、それでも視線は空に固定していた。まるでそこにオーディンがいて、自分の姿を見ているのを知っているかのように。
「……私は、」
 シグルーンは無意識のうちに、つぶやいていた。
「やり遂げてみせるわ、オーディン。」
「シグルーン様?」
 訝しがるハールに構わず、シグルーンは腕を振り解くと、ゆっくり自力で立ち上がる。
「あなたは私に幸せを掴めと言った。ヘルギも私に幸せになれと言ったわ。私はこの国を、子供達を守ってゆくの。オーディン、私が幸せになる道は、私が切り開いてゆくのよ!」
 彼女の叫び声は、次第に強くなってくる風にかき消された。ハールはうろたえ、ただ立ちすくんでいる。だが、シグルーンはいつまでも闇を睨みつけ、誓っていた。
 この国と、自分自身の幸せを。
 それが今の彼女にできる、唯一にして最大のことだったから。

*        *        *        *

 その後の彼女とその国の運命は、分からない。部族ごとに造られた小さな国は、やがて歴史のうねりと共に、より強大な一つの国へとまとまってゆく。彼女とヘルギの造った国ブラールンドも、いつか時が経つにつれ、そのうねりの中に消えていった。

 ただ二人の恋だけは、時代を隔てた今も伝説として、奇跡的に残されている。


- 終わり -