




炎
その1
その屋敷の広間には一本の大きな樫の木が植わっており、天井をつきぬけ、屋敷を覆うようにその枝を広げていた。バルンストック、子供達の幹と呼ばれた木の周りはその名のとおり、屋敷に住む子供たちの格好の遊び場だった。
シグニイが自分の故郷フラクランドを想う時、真っ先に浮かぶのはこのバルンストックだ。子供一人では抱えきれないくらいの大きな幹。腕を伸ばし、この幹に抱きつく。すると双子の兄シグムンドが同じように腕を伸ばして、彼女の手を握って笑ってくれた。
木肌のごつごつとして、でも温かな感触と、シグムンドの優しい笑顔。彼女の思い出はすべてそこへ帰ってゆく。
屋敷の主であり、最高神オーディンを始祖とする名家、フラクランドの王ヴォルスングには、彼女を含めて十一人の子供がいた。最初に生まれたのが双子の兄妹で、それがシグニイと兄のシグムンド。彼女以外に娘は産まれず、後はすべて息子ばかりが続いた。
唯一の女子であるシグニイは、他の兄弟たちと違って養子に出されること無く、バルンストックと共にこの屋敷で育った。良家の子息は幼いうちから養子に出されるのが、この世界のしきたりとなっている。だから兄のシグムンドと一緒に遊んだのも、数としてはさほど多くは無いのかもしれない。だからこそバルンストックでの遊びは、彼女にとっては子供時代の大切な思い出だった。
だか、そんな無邪気な時代もあっという間に過ぎ去ってしまった。
「儂からの贈り物だ。この幹より剣を抜ける者に、これをやろう。剣を得た者は、これに勝るものなど無い事を自分で知ることになるだろう」
汚れてぼろぼろになったマント、屋敷の中だというのに目深に被ったままの帽子。振り乱された白髪に、片目には眼帯をしている。毛羽立ったズボン、靴もはかない泥だらけの足。この場にはふさわしくない老人の姿だったが、誰も何も言えずに彼を見つめていた。
彼が来るまで、広間にいるすべての者達は宴に浮かれていた。フラクランドの王ヴォルスング息女シグニイと、ガウトランドの王シッゲイルの婚礼の席だ。両国の財を誇示したその宴に人は集まり、明るいざわめきに場の空気は満ちていた。そこに、老人が扉を開け、躊躇いもせずにバルンストックに向かい、深々と幹に剣を刺したのだ。人々はただ呆気に取られ、彼を見るしかなかった。
「さて、この宴会の席に集う男たちはみな腰抜けどもばかりなのか。誰も、挑戦するものは居らぬのか」
しんとした広間に老人の声が響き渡る。
「我こそが、一番の名乗りを挙げよう」
ここまで言われ、広間にいる男たちがいきり立たないはずがない。ベルセルク、狂戦士としてヴォルスングを守り戦っている男が、真っ先に立ち上がった。この場が一気に盛り上がる。人々の注目を浴び、男がバルンストックの前に立つ。
異形な風貌とはいえ、木の幹に剣を刺したのは只の老人だ。その剣を抜けばよいだけのこと。風変わりな余興と侮っていた男の表情は、だが次の瞬間には変わっていた。
柄が、びくとも動かない。
見る間に男の顔に険しさが浮かび、それは次第に焦りへとなってゆく。人々は面白そうにそんな彼を囃し立てていたが、そのうちの誰かが、気も短く彼を押しのけた。
「まだ出来ぬのか、腰抜けめ」
「何をっ!」
いきり立つ男に、嘲笑の掛け声が浴びせられる。だが、二番目の男の顔つきも直に変化し始めた。
「ほら見ろ、お前も口ほどに無い」
「うるさい。油断していただけだ。こんなもの、俺が真剣になれば」
「誰か、次の挑戦者は居らぬか」
広間は、この余興に盛り上がる。次々に男たちは名乗りを挙げ、挑戦をしては敗れていった。老人の姿はいつの間にか消えている。
一通りすべての者が柄を引いてみたが、結局誰一人として剣を幹から抜くどころか、緩ませることすら出来ずにいた。
そんな中、兄のシグムンドが現れた。
「申し訳ない。せっかくの婚礼の席に遅れてしまって」
そう挨拶をする彼をさえぎり、人々はバルンストックへと誘った。
「遅刻の言い訳など後でよい。とりあえずこれに挑戦してみてくれ、シグムンド」
「これか?」
事情も分からず、またこの場の雰囲気も読めていないシグムンドが、不思議そうな表情で柄を眺める。広間には、ヴォルスングの第一子シグムンドこそが剣を手に入れるのではないかという期待が満ち、奇妙な静けさが訪れていた。
シグムンドが柄に手をかける。持ち手を確かめるように握りなおし、手に力を込める。
その途端、剣は何の抵抗も無くすっと幹から離れていった。広間にどよめきが起こり、その後に歓声が響いた。
「これで良いか?」
まだ状況を把握していないシグムンドの言葉に人々が明るく笑い、喝采を浴びせる。今まで大人しく事の成り行きを見守っていたシグニイもたまらず立ち上がり、兄を手招いてねぎらいの接吻を頬にした。
「おめでとう、お兄様。これで剣はシグムンド兄様のものになりました」
「確かにこれは、一目で名剣と分かる逸品だが。この騒ぎは……?」
「その剣、余に譲るのであれば三倍の重さの黄金と引き換えにするが、どうだ」
ふいに横から声がして、シグニイが振り向いた。
「シッゲイル王?」
何を言われたのか分からずに、小さく聞き返す。自分の夫となった男だったが、つい数刻前にはじめて会った相手だ。挨拶を交わした以外にまだ話をしておらず、どんな人間なのか把握をしていない。
だが、他人が正当な理由で得た褒美を、その直後に金の力で手に入れようとする。そんな考えの人間がいること自体に、彼女は戸惑っていた。
「貴殿はこれに挑戦されたのか?」
兄のシグムンドも、訝しげな表情でシッゲイルに尋ねている。
「ここにいる者たちはすべて試してみたぞ」
「ならば貴殿はこの剣を帯びるのにふさわしくないと判定を下されたのだろう。黄金をどれだけ差し出されたとしても、私があなたにこの剣を譲ることは有り得ない」
きっぱりと言い切るシグムンドに、広間の男たちが一様に喝采を送る。
「シグムンドよ、晴れてお前の物となったその剣に、銘を付けなくても良いのか?」
誰かの呼びかける声に、シグムンドがじっくりと剣を眺めた。
「では、これからこの剣はグラムと呼ぼう」
その宣言を祝うように、あちこちで乾杯の声が沸いた。老人が現れて以来途絶えていた楽音が再び鳴り響く。宴会はさらに勢いを増し、より盛り上がってゆく。
シッゲイルはもはやそれ以上剣について何かを言うことは無かったが、シグニイの表情は不安で曇っていた。兄の反論に瞬時に視線を尖らせた、夫の態度に不穏なものを感じたからだ。
その夜、シグニイは花嫁としてシッゲイルと閨を共にした。
初めての体験に彼女の心は不安で震えていたが、夫がそんな彼女に気遣うことは無かった。宴から引き上げた彼はひどく不機嫌で、なにか考え事に気をとられていたからだ。一方的な行為は彼女の心を踏みにじり、痛みに恐怖して終わった。
涙をこらえながら浅い眠りについていると、夢を見た。バルンストックの傍で、泣いている女がいる。シグニイが手を差し伸べると、女は首を振り一歩退いた。ただ、それだけの夢。
だがシグニイは、この夢が何を意味しているのかを理解した。
翌日、朝食の席で新婦のシッゲイルが皆に宣言をした。
「今日は大変天気が良い。出航日和だ。予定の三日の宴会を勝手に早めることになるが、今日、余は花嫁を連れて自国へ戻ろうと思う。無礼を許していただきたい」
にこやかに微笑むその瞳はすっと細まっており、心からは笑ってはいないことが伺える。彼の決意が固い事を知ると、誰も引き止めるものは無く、出発の準備が進められた。
「お父様」
予定外の行動に誰もが慌しく働く中、シグニイが父に駆け寄る。この機会を逃したら、もう二度と父に自分の訴えを聞いてもらう機会は無い。彼女の心は急いていた。
「我が一族を守る精霊が私の夢に現れ、別れを告げてゆきました。この結婚は失敗です。シッゲイルは、我ら一族に災いをもたらす存在となるでしょう。お父様、そうならないうちに早くこの婚姻を解消してください」
すがりつく勢いで、娘が父に訴える。だが、父は固い決意でもってそれを退けた。
「それ以上、言うてはならん。それはお前の見た夢の話であって、現実にシッゲイル王がどうこうしたという話ではあるまい。確たる証拠も無いのに相手の信義を破るなど、彼にとっても我等にとっても大きな恥辱となるのだぞ」
「お父様!」
「シグニイ、お前が不安がる気持ちも分かるが、一度取り決めた約束は守らなければならないものだ。お前はシッゲイルと共にガウトランドへ向かえ」
どう言ったところで父王の決意が変わらないことを知ると、シグニイは暗澹たる思いのまま、ガウトランドへ向かう船に乗り込んだ。一方、帰国が決定した途端上機嫌となったシッゲイルは、にこやかな笑みを浮かべてヴォルスングに挨拶をした。
「今回の埋め合わせとして、ガウトランドでも宴席を設けたいと考えています。三月後に我が屋敷までいらしていただきたい。もちろん招待するのは、貴殿や息子殿だけでなく、ヴォルスング家の家臣や友人方も含めてです。盛大にもてなしますので、必ずお出で下さい」
「承知した。三月後にまた会えるのを楽しみにしておりますぞ」
二人は固く次の再開を約束すると、別れていった。




