炎
ヴォルスンガ・サガ

序章
どこか奥で、建物が壊される音がする。
かすかに伝わる振動。燻されて、うっすらと辺りに漂う白い煙。この屋敷の外、悲鳴と怒鳴り声が響いている。
広間の中、一人の女がベンチに座り込み、黙ってそれらの喧騒を聞いていた。
きれいに結い上げられた髪の毛。簡素なように見えて、実は上等な布地を使った服。首から下げられた短刀と、腰帯から下がる幾つもの鍵は、彼女がこの屋敷とその周辺地域を統べる身分であることを表している。
彼女は深くため息をつくと、ベンチからゆっくりと立ち上がった。
「シグニイ! 出て来いっ。そこから逃げるんだ!」
「母上!」
外から男たちの呼びかける声が聞こえていた。だがシグニイはそんな彼らに応じることなく、自分が今いる場所を見回す。火の手はまだ迫っては来ていないが、ここから彼女以外の人間が逃げ去って、すでに久しい。屋敷に留まっているのは、彼女を残せばあと一人だけ。だが今はまだ、その人物を探してまで会う気にはなれなかった。
「シグニイ!」
叫び声。それを聞き、こらえるように目をつむる。だがすぐに目を開くと、シグニイはゆっくりと扉に向かい、それを開け放った。
煙が外へ向かって流れていく。思わず小さく咳き込むが、自分を見つめる視線を感じ、顔を上げる。
「何をしているっ。早くこちらへ!」
返事をする間もなく、ぐっと手首を掴まれた。あっという間に抱きかかえられ、シグニイは転がるように屋敷の外へと連れ出される。
「怪我はしていないか?」
まるで叱るかのような勢い。だが彼女の姿が見えたことで、目の前の男にはほっとした表情が浮かんでいた。泥や煤で真っ黒になった顔や手足。彼の頬に飛んだ返り血は、まだ乾くことなく濡れている。伸ばし放題の髪の毛。ぼろぼろになった服。だが長年鍛え上げられた体と射る様な瞳は、彼に迫力と威厳を与えていた。
「シグムンド……」
口の中で、そっと彼の名前をつぶやく。彼の腕の中にいるというだけで、彼女の鼓動は高まっていた。
「母上、早くここから逃げましょう」
急かすように、男の隣に立つ少年が声を掛ける。彼女の息子シンフィエトリもまた、泥と煤で汚れ果てた姿をしていた。
シグニイはしばらくそんな二人の姿を見つめていたが、ゆるゆると首を振り、その身をそっと男から引き離した。
「シグムンド兄様、シンフィエトリ」
呼びかけて、にこりと微笑む。
「私はそちらへは参りません」
「何を馬鹿な事をっ」
「母上!」
彼らの反応は、予想できている。シグニイの微笑みは翻らなかった。
木で造られた建物の火の回りは速い。この玄関前という場所も、いずれは危険な場所となるだろう。兄と息子がここから早く離れようとする気持ちは良く分かったが、彼女はこれ以上一歩も前に進む気は無かった。
「ここでもうお別れです。私はガウトランドの王シッゲイルの后として、この屋敷と共に焼かれる道を選びます」
「正気か、シグニイ」
間髪入れずに、シグムンドが聞き返す。彼女が結婚をし、ガウトランドへと渡ってから二十余年が過ぎている。すでに嫁いでからの人生の方が、生家での年数をしのいでいた。だが兄であるシグムンドは、そんなことなど気にしない。
「お前はガウトランドの后である前に、我らが一族、ヴォルスングの人間だ。お前もそのつもりで今まで俺を匿い、シッゲイルに復讐するために力を尽くしてきたのだろう? ようやくフラクランドへ戻れるというこの時に、お前は何を迷っている」
「迷いは無いのです、兄様。いえ、それ以上に私は一族の仇を返すため、シッゲイルに復讐するために、してはならない罪を犯しました。この罪は罰せられなくてはならない。私の心は決まっています」
「な、に?」
戸惑い、訝しく眉を寄せる兄の表情を見て、シグニイの心は鈍く痛んだ。
愛する兄と息子を残し、自分はこれから焼かれるために屋敷に戻らなければならない。事情の分からない二人を説得するには、彼女は自分の罪を話さなければならないだろう。
そう。自分の犯した罪。そして自分の中に今まで秘めていたこの気持ちを。
「聞いてくれますか? 私の懺悔を」
シグニイはもう一度二人を見て微笑んだが、その瞳から涙がほろりとこぼれた。
彼女の脳裏に、今までの人生の断片が浮かんでは消えていた。






