




炎
その2
ガウトランドでのシグニイの新しい生活が始まった。
一国を統べる王の后として、彼女にはなすべきことが沢山ある。王の支えになることはもちろん、遠征で不在がちになる男たちに代わり、この屋敷を、ひいてはこの国を影でまとめるのは后の仕事だ。フラクランドの王女として育てられてきた彼女にその覚悟は出来ている。だが、実際の立場はそれとはかけ離れた寂しいものだった。
シッゲイルには母后がおり、彼女が屋敷の総てを司っていたのだ。
魔法を使い、狼に姿を変えることも出来るといわれている母后に人々は怯え、彼女に逆らうものは誰もいなかった。シグニイは夫の行動はおろか、屋敷のことに口を挟むのも許されず、ただ部屋をあてがわれ、そこにいるだけの存在となった。彼女に課せられたのは、毎夜の夫の相手となること。シグニイは、自分がただ世継ぎを生むためだけの道具として扱われている事を思い知らされた。
だがそんな彼女にも、屋敷の動向をうかがうことは出来る。
帰国した途端、シッゲイルは忙しく働いていたが、それが戦の準備であることは直ぐに推測できた。そしてその相手が他ならぬ、フラクランドのヴォルスング一族であることも。シッゲイルは婚礼の宴の席で、花婿であるにもかかわらず名剣グラニを手にすることができずにいた事を、恨んでいたのだった。
約束の三月後になった。
父や一族を乗せた船が港に着いたのを知り、シグニイは唇をかみ締めた。この三月、着々と戦の準備が進められているにもかかわらず、シグニイはそれを止める手立てを何一つ持てずにいた。
夜にしか彼女を訪れない夫とは、会話が成立しなかった。まるで彼女との関わりを避けるかのように、事を済ませるとさっさと出て行ってしまう。勇気を出して、母后へ懇願するため謁見を申し出たが、それもあっさりと拒否されてしまった。人目に触れる事を極端に避け、扉の内側から全ての指示を出す母后には、初めてこの国にやってきた日、その一度しか会えなかった。フラクランドから付いて来た従者ともことごとく引き離され、残ったのは一人の男だけ。足の悪いこの従者は戦力外とみなされ、彼だけが彼女の傍に仕えるのを許されていた。この国で、シグニイは完全に孤立していた。
しかし、だからといって何もせずにぼんやりとはしていられない。今夜は夫の訪れがないと聞かされたシグニイは、躊躇うことなく屋敷を抜け出し、夜の沖を小船に乗って、父王たちの乗る船へと辿り着いた。
「お父様、シグニイです。重要なお知らせを持って参りました。船へ入らせてください」
そう訴えると、父の前で膝をつく。久しぶりに見る親の顔に涙が出そうになったが、それを堪えて現状の報告をした。
「シッゲイル王はヴォルスング一族を欺き、倒そうとしています。彼の揃えた軍勢は圧倒的な数的優位でもって、我が一族を根絶やしにするでしょう。そうならないために、一刻も早くフラクランドへ戻ってください。必要ならば引き返した後、態勢を整えて戦を仕掛ければよいのです。自ら窮地に立とうとすることだけは、お止めください」
「誰でもいつか死なねばならぬのだよ、シグニイ」
落ち着いて、迷いの無いその言葉にはっとして、シグニイは顔を上げた。
「儂は生まれて間もない頃に、火も刃も恐れることなく逃げはしないと誓いを立てた。この誓いを老齢になった今になってから破ることは出来ない。また、息子達が戦を前に逃げ出したなどと非難されることも心外だ。儂は今まで幾度の窮地をくぐり抜けておる。今ここから逃げることだけは、決してしてはならん事なのだよ」
その言葉に、すでに一族の者達が死を覚悟している事を、彼女は悟った。家族だけが集まっているこの場で、兄弟たちの顔を一人一人眺めてみる。まだ彼女自身、嫁いだといっても少女のあどけなさを残している年齢だ。九人の弟たちのうち、剣を持ち、相手の戦士と競り合うだけの力を持つものは半数にも満たない。シグニイは最後に双子の兄シグムンドを見つめると、父に懇願をした。
「ならば、私も共にこの場に留まらせてください。私もヴォルスング一族の人間として、一生を終えたいのです」
「それはならん」
「なぜですかっ。一族に仇をなす男の下で、なぜこの後も生きていかなくてはいけないのですか」
娘の悲痛な叫びに、父ヴォルスングは慰めるように肩を抱いた。
「儂たちの身に何が起ころうと、お前は夫のところへ帰り、一緒にいるのだ。そして、子を作れ。例えシッゲイルの血を半分受け継ぐ存在であっても、一族の血を持つ子供を」
「お父様……」
弟たちから別れの接吻を交わされて、シグニイは泣きながらそれを受け止めた。
「お前は生きろ、シグニイ」
「シグムンド兄様」
兄の胸に顔をうずめ、嗚咽を漏らす。シグムンドは何も言わずその間妹を優しく抱きとめ、あやすように頭を撫でていた。
しばらくして、シグニイを乗せた小船が船から去り、屋敷へと戻っていった。




