




炎
その4
「シグニイ様、今日が最後です」
いつものように森へと出かける前、従者は彼女の元を訪れた。もはやヴォルスング王の息子も一人を残すだけとなったせいか、監視の目もかなり緩んでいる。この数日で神経を消耗したシグニイはすっかりやつれ、今にも倒れそうな状態だ。だが、
「お前を待っていました」
今日の彼女の表情は、前日までとはいささか異なっていた。今までの、打ちのめされて追い詰められた瞳ではない。強い意思を持ち、落ち着いた輝きを放つ瞳がそこにあった。
「シグムンド兄様に、これを渡して欲しいのです」
そう言うと、シグニイは従者に一つの壷を手渡した。
「これは……?」
戸惑うように従者がつぶやく。今、危機を脱するためには武器が必要なはず。壷は重みがあり、中には何か詰まっていたが、片腕で抱えられる程度の大きさしかない。これが武器になるとは到底思えなかった。
「中に入っているのは蜜です。それを、シグムンド兄様の顔に塗ってあげて。特に口の周りにたっぷりと。そして蜜の塊を口に含ませるのです」
「最後のご馳走、という事ですか」
無念な思いを抱きつつ従者が尋ねると、シグニイは静かに首を振った。
「いいえ、それが私から兄様に与えられる最善の方法。シグムンド兄様なら、きっと分かってくれるはず」
そのしっかりとした口調に従者は反射的に顔を上げ、彼女を見つめる。
「よろしく頼みます」
微笑む彼女に、感情の揺らぎは無い。従者は迷うようにその顔をしばらく見ていたが、結局は何も問い掛けることが出来ずに、森へ出向いた。例え二人きりの密談が出来たとはいえ、屋敷の中ではいつどこで誰が耳をそばだてているか分からないのだ。森へ辿り着くと、ただ言われたとおりシグムンドの顔に蜜を塗った。
「なんだ、それは」
不審な動きを監視役に咎められる。
「シグニイ様の最後の情けだ。これくらいは許してくれ」
そう言って黙々と作業に没頭する。そんな従者の手にあるものを確認すると、監視役は小馬鹿にしたように笑った。
「ふん。せいぜい良く味わうんだな、王子様よ」
嘲る声に反応もせず、シグムンドはただ大人しく、されるがままになっていた。だが従者と一瞬交わした視線には、意志の力が満ちている。
「シグムンド様、どうぞご無事で」
密かに囁き、森を後にする。
その夜は従者にとっても、またシグムンドとシグニイの兄妹にとっても、特に長く感じられる夜だった。
まんじりとしないまま朝が来るのを待つと、従者は見張りよりも先に森へと向かった。一日に一人、しかも残された者の恐怖心をあおるよう、敢えて凄惨な方法で人が喰い殺されているのだ。十日目にもなるとむっとするような血の匂いは常に辺りに漂い、朝の清廉な空気をもってしてもそれは消せずにいた。
「シグムンド様っ!」
勤めて冷静になろうと努力をしていた従者だったが、血の匂いが濃くなるにつれ、心はざわめく。堪らずに叫びながらその場所へ行くと、そこで言葉は途切れた。
血の海の中、上半身だけ起こしたシグムンドが木の幹にもたれかかり、天を仰いでいた。足元には毛皮の塊。一目で分かるそれは、年取った雌狼の死骸だった。
「生きて、生きておられましたか、シグムンド様」
涙を堪えながら駆け寄る従者に向かい、シグムンドが疲れた笑顔を向ける。その顔の、特に口元には血がこびりついており、まるで狼を喰らったようだった。
「足枷を外してくれないか」
「ただ今。手枷はどうされましたか」
「狼と格闘しているうちに、壊れて外れた。さすがに両足が動かないというのは踏ん張れずにきつかったな」
軽く笑い声を上げるシグムンドに従者はほっとする。だが、次にはどうしても確かめられずにはいられなかった。
「どのように狼を倒されたのです」
「舌を噛み切ってやった」
「舌を?」
「昨日、顔に蜜を塗ってくれただろう? 夜中にこの雌狼が来たとき、匂いを嗅がれたんだ。そのまま蜜に誘われて顔中を舐め回して、さらに蜜の塊を奪おうと、舌が口の中に入ってきた。そこを逃さず噛み切ったんだ。かなり手こずったが」
その説明に、従者は初めてシグニイが何のために自分に蜜を手渡したのかを知った。
「シグニイには、感謝だな」
屋敷のある方を遠く見つめ、シグムンドがぽつりと呟く。
「シグムンド様、時間がございません。後は私が何とかします。この先に洞穴がございますから、そこに隠れていてください」
「分かった」
従者に促されると、シグムンドは森の奥へと入っていった。
一方従者は雌狼を担ぎ上げると、この場を急いで離れた。そして監視役が出かけるより前に屋敷に帰り着くと、皆に見せるかのように広間に狼を放り投げた。
「その狼は……!」
母后の亡骸にシッゲイル王が動揺する。それに気付かない振りをして、従者は手短に報告した。
「ヴォルスングの息子達は全て倒れましたぞ。だが血の匂いに誘われて、狼の群れがやってきた。全ての遺体は喰われてしまい、そのうち狼達は仲間割れまで起こしていた。この雌狼の死骸が証拠です。私もほうほうの体で逃げました。当分、あの場所には足を踏み入ることは出来ません」
「十人共に、死んだのだな」
「はい。確かに」
「……ならばその狼は、我らの代わりにヴォルスングの息子達を倒した大事な味方だ。手厚く葬ろう」
いくら噂が蔓延していたとはいえ、実際に母后が魔女で狼に変身するのだとはさすがに公表できない。動揺のまま、シッゲイルはシグムンドの死亡を自分の目で確認することなく、狼の弔いとヴォルスング一族を倒した祝宴の準備に入っていった。これでもう、シグムンドにもシグニイにも付いていた監視は無くなる。従者は静かに広間を後にすると、森の奥へとシグニイを案内した。
「シグニイ」
「シグムンド兄様!」
従者から聞かされはしていたが、実際に兄の無事な姿を見て、シグニイは安堵した。自分の服が汚れるのも構わず、兄に抱きつく。ぎゅっと力を込めると、それ以上の力強さで兄も抱きしめ返してくれた。
「お前のお陰で生き延びることが出来た。本当にありがとう」
「私はただ、己に出来る事をしたまでのこと。兄様が生きてくれて、本当に良かった」
今までの気の張りが解けると同時に、涙がこぼれる。だが、ここで単純に喜んでばかりもいられない。シグニイはシグムンドから体を離すと、表情を厳しくした。
「これでヴォルスング一族の血を引く人間は、シグムンド兄様と私の二人だけになってしまいました。我ら一族に味方する盟友も全て倒されています」
「ああ。だが一族が倒された復讐は、遂げなければならない」
事実を淡々と述べる兄を見つめ、シグニイがうなずく。
この世界では、名誉は全てにおいて勝るものとされている。名誉を傷付けられた者は、その名誉が回復されない限り、以前の地位を取り戻すことは出来ない。
祝宴の誘いでヴォルスングを騙し、奇襲で一族を倒したシッゲイルが世間から好意を持って評価されることはないだろう。しかし、ヴォルスングの唯一残った子息が、仇を討とうともせず生き延びる。その方が許されないことだった。
「兄様、たった一人で無茶はしないで。私があなたに味方を差し上げます。私の代わりに兄様の右腕となって戦ってくれる、新しいヴォルスングの血を。私が自分の息子をあなたに引き合わせるその日まで、どうかここで身を匿って下さい」
父が自分を夫の下に返し、子を作れと言ったのは、この事を予測していたからかもしれない。シグニイは兄に語りかけながら、そんな事を思った。女の身では戦えない。だが、女には女にしか出来ないことがある。
そんな決意を秘めた妹の頬に、兄は優しく接吻をした。
「お前は俺に残された唯一の肉親だよ、シグニイ。お前が待てというのなら、俺はいつまでも待つことが出来る。だから、シグニイこそ無茶はするな。この仇を討つまでは、俺はなんとしてでも生き延びるから」
「分かったわ、兄様」
二人はもう一度強く抱き合うと、名残を惜しみつつ別れて行った。
目標のできたシグニイに、己に降りかかった運命を悲観する暇は無かった。兄の助けとなるような子を作り、育てる。そのためにも、自分はあの屋敷でどのように振る舞えば良いのか、頭を使い、気を働かせなければいけない。
シグニイの努力は日々続き、そして十年の歳月が流れていった。




