




炎
その5
そもそもの話だが、ヴォルスングの一族は、シギという男から始まった。
彼は最高神オーディンの息子であったが、ある日殺人を犯してしまう。スカジという男の連れていた奴隷ブレジがとても優れた能力を持っており、鹿狩りで自分よりも成果を得たのだ。それに腹を立てたシギはブレジを殺害し、死体を隠蔽した。一連の罪が見つかるとシギは追放刑に処されたが、父オーディンより戦力をもらい、ヴァイキング行におもむいた。幾多の戦いの末、彼が手に入れたのがフラクランドだ。
老境に入ったシギには、沢山の敵がいた。妻の兄弟たちも彼に陰謀を張り巡らし、ある日シギと側近達だけしかいないところを襲い、シギは殺されてしまう。 外遊先で訃報を知った息子のレリールは急遽兵を集め、父の仇を討ち、次代のフラクランド王となった。
父よりも強大な王となったレリールだが、一つだけいかんともしがたい悩みを抱えていた。子が、出来ないのだ。レリールと后は神に祈り、それをオーディンの妻フリッグが聞いた。
フリッグは彼らの話をオーディンにした。オーディンにとってレリールは、人の子とはいえ孫にあたる。神は彼の願いをかなえるべく、ワルキュリエのリョッドをレリールの元に遣わせた。リョッドは塚の上で座っているレリールの膝の上に林檎を落とすと、そのまま去っていった。残されたレリールには何一つ説明はされなかったが、彼は自分がどうすれば良いか分かった気がした。
林檎を持つと、后の元を訪れる。レリールは彼女の前で林檎を二つに割るとそのうち一つを妻にさし出し、互いにそれを食べた。后はその後、懐妊した。
待望の子は胎の中で順調に育っていったが、その子が産まれる気配はいつまで経っても無かった。十月十日が過ぎても陣痛は起こらず、そうこうするうちにレリールは戦に出かけ、敗れて仆れた。王の空位を后が守り、そして六年。尋常ではないこの状態に体も耐え切れず、后の命ももはや尽きかけていた。自分の最後を悟った后は側仕えに自分の腹を断ち割るよう命じ、そして産まれたのがヴォルスングである。彼は后の胎から取り上げられると、死に逝く母に別れの接吻をした。
ヴォルスングは並びない体格や優れた知力で戦い抜き、フラクランドをより堅固な国へと発展させた。彼が成人した時に娶ったのがリョッド、父レリールに自分が生まれる事を示唆したワルキュリエである。ヴォルスングとリョッドの間には子供が十一人出来、その長男と長女が双子のシグムンドとシグニイだった。
「そしてお前は、ヴォルスングの長女である私が産んだ息子。ヴォルスング一族の名を受け継ぐべき男子なのですよ」
「はい、母上……」
小さく答えるその声が、シグニイから半歩下がった位置から聞えてくる。
「母上、なぜ父上に黙ってこんな森の奥へ向かうのです?」
「行けば分かります」
不安を隠そうともしない息子につい冷たい声を出してしまい、シグニイはそっと嘆息した。
父や弟たちの死から早十年。彼女には息子が二人生まれていた。二人には幼い頃から繰り返し一族の歴史は語り聞かせているのだが、どうにも反応が鈍く、シグニイはもどかしい思いを感じている。
だが、子供達がこう育ってしまったのには、それなりの原因がある。一番の問題は、彼女の夫シッゲイルだった。
彼は世の習いに反して、息子達を臣下へ養子に出すことも無く、自分の手元で養育した。愛情から出た選択ではない。自分の手元を離れて成長する息子達に、いつ裏切られるか分からないという恐怖心からのことだった。彼は自分の臣下にも心を許さない男だった。
そんな父親の元、絶対服従が刷り込まれた息子達は二人とも大人しく、覇気がない。このまま何も手を打たなければ、二、三年後に長男は成人の儀式を行い、シッゲイル王を守りながらヴァイキングへと行ってしまう。夫に一族の復讐を誓っているシグニイにとって、それだけは避けたい事であった。
だからこそ、長男が十歳になったこの夏、彼女は兄に 自分の息子を逢わせるため、森の奥へと連れてきたのだ。十歳という年齢なら、兄の手を煩わせるほど幼くもなく、かといって夫の呪縛に凝り固まるほど、精神は完成されていないはず。そうは思うのだが、すでに怯えの走る長男の表情を見ていると、シグニイの心に不安が沸き起こる。つい立ち止まり、じっと我が子を見つめていると、がさりと葉擦れの音が側面から聞えた。
「母上!」
叫んだ後、彼女の背後に息子が逃げ込む。
「シグニイ、これは?」
自分の登場に過敏な反応を示す子供の様子を見て、シグムンドが訝しそうに彼女に尋ねた。
「私の息子、シグワルドです。シグワルド、シグムンドは私の兄、あなたの伯父上よ。ご挨拶なさい」
「はじめ、まして。シグムンド伯父さん」
「ああ」
素っ気ない口調で挨拶を返され、シグワルドがまた怯えてびくりとする。二人のぎくしゃくとしたやり取りにシグニイの不安は広がったが、今更ここで引き返すわけには行かない。気分を変えるように彼女は息を吐き出すと、兄に微笑んだ。
「久しぶりです、シグムンド兄様。先日、従者に小麦を渡すよう頼んだのですが、届きましたか?」
「ああ、助かった」
「他に足りないものは?」
「今はまだ問題無いが、塩がそろそろ少なくなっている。冬が来るまでに貰えると嬉しい」
「では服と塩は明日にでもお持ちしますね」
「服?」
「だって兄様、その袖口がもう破れております」
微笑からくすくすという笑いになって、シグニイが兄に告げる。
神の血を引くヴォルスング一族には、老いによる変化はゆっくりとしか訪れない。兄に向かって笑いかける彼女は、あどけない少女のままだ。だが、この十年という年月は、シグニイを落ち着きのある一人の女性へと変えていた。
シッゲイルの母后の死後、シグニイは屋敷の管理をまかされた。万事そつなくこなす彼女は次第に屋敷の者たちの信頼を得るようになり、今では日常に関する全ての事柄は彼女を通すようになっている。こうして彼女が一人で出かけても見咎められないほど、彼女の指示は行き届いていた。そんなシグニイの今日までの努力は、全ては兄シグムンドを匿うため、彼に援助をするためなのは言うまでも無い。
そして年月の経過は、同じようにシグムンドにも変化を与えていた。
育ちのよさが伺える柔和な顔つきは、この十年の過酷な洞穴生活ですっかりそぎ落とされた。余分な脂肪など無い引き締まった体付きに、ぎりぎりのところで生きている者だけが持つ鋭い目。だがその姿には、どんな逆境でも耐え抜いてきたという、裏打ちされた自信と風格が漂っている。その兄が、自分とこうして密かに逢い話すときだけ、ふとした拍子に昔の柔らかな笑顔に戻る。その笑顔を見るとシグニイの心は安らかになり、兄のためにもヴォルスング一族の復讐を果たさなくてはと、心を新たにするのだった。
「シグワルド、あなたは今日からシグムンド伯父の元で暮らしなさい。そして一日でも早くシグムンドの片腕となれるよう、努力をするのです」
「母上……」
不安の残る息子の心を律するよう、あえて厳しい目付きで見つめると、シグニイはシグワルドの背を押した。
「シグムンド兄様、至らない息子ですが、ヴォルスング一族の末裔でもあります。兄様のお役に少しでも立てるよう、どうかこの子を鍛えてやってください」
「承知した」
うなずくシグムンドの顔が、心なしか曇っている。それが自分の息子シグワルドを見た感想なのだろうと思うと、シグニイの心にも影が差す。
「では明日、またこの時間に」
シグニイはそう言い置くと、一人屋敷に戻った。
次の日、シグニイが約束の時間に待ち合わせ場所に付くと、すでにシグムンドが待っていた。
「シグムンド……」
呼びかける声が中途半端に途切れてしまう。近付けば近付くほど、彼の表情が険しいものである事を知ったからだ。
「シグワルドは?」
姿の見せない息子の居場所と、彼の持つ勇者としての資質。両方の問いを、短い言葉に重ねて尋ねる。だが、シグムンドは後者の問いにのみ、答えてくれた。
「シグニイ、あれは使えない」
ぐらりと、足元が揺れる心地がした。
「何か、ありましたか?」
「昨日は洞穴に帰ってから、あれにパンを作らせることにした。小麦の袋はそこにあると言って俺は出かけたのだが、帰ってきた時に何一つ出来ていなかった。理由を聞いたら袋に何か動くものが入っていて、怖くて触れなかったと言い訳をしていた。あんな臆病者では、いざという時に何一つ働けない」
「……そう、ですか」
シグムンドの言うことはもっともだった。彼らの目標は、ヴォルスング一族を倒したシッゲイルに復讐を果たすこと。小麦の袋に何か入っていると思うのなら、開けて確かめてみればよい。それすら出来ぬ臆病者なら、この後どんなに体を鍛えたところで、実の父を手に掛ける行為になど加担出来そうにも無い。
「シグニイ、悪いが今からあれを引き取ってくれないか」
妹を思いやってか、兄の声に責める調子は無かった。だが、せっかく思い描いた復讐への準備が、これで無に帰したことは確かだ。
「その必要は、ありません」
視線をすっと空に移すと、シグニイは感情のこもらない声で返答した。
「王の息子が行方不明になった。今、屋敷では総出でシグワルドを探しています。そんな中に彼が帰ってくれば、誰でも彼の身に何が起きたかを尋ねるでしょう。シグワルドは、秘密を自分の中に留めておける器ではありません。彼の口から兄様の生存を知られるのは、目に見えています。だから」
そこで視線を空から戻すと、シグニイは兄に向かって淡々と言い切った。
「あの子を殺して。シグワルドをこれ以上生かしておく必要がありません」
かち合う兄と妹の視線。シグムンドはしばらく黙ってシグニイを見つめていたが、やがて感情のこもらない口調で一言「分かった」とだけつぶやいた。
数日後、沼を捜索していた屋敷の男たちが、シグワルドの上着を発見した。
シッゲイル王の第一子は、沼へ一人で遊びに行き、足を取られて溺れ死んだ。そう結論付けられ、捜索は打ち切られた。
そしてそれから一年後、シグワルドの弟も、兄と同じ運命を辿っていった。




