




炎
その6
シグニイは刺繍をしていた手を止めると、ふうっとため息をついた。
「お加減が、よろしくないのですか?」
すかさず同じ作業をしていた侍女が気遣うように、彼女に話しかける。
シグニイの二番目の息子が行方不明になったのは、最近のことだ。彼は兄と同じく一人で沼に遊びに行き、そして帰らぬ人となった。その頃からシグニイの表情が思いつめたようなものになっていることに、侍女は気が付いていた。だが去年と今年、二年続けて大切な子供を不慮の事故で失っているのだ。仕方の無いことだろう。
侍女をはじめとし、屋敷の者、否、国の民は全てこの薄幸なお后に同情をしていた。自分の血族を皆殺しにされ、その張本人の庇護の下、復讐も果たせず生きる事を余儀なくされている哀れな女。唯一の救いであろう二人の子供たちは相次いで事故にあい、亡くなっている。侍女は自分が使えている女主人を心から哀れみ、そしてその心のどこかで、そのような運命に翻弄されることのない、平凡な自分に満足していた。
「お水でもお持ちいたしましょう」
「ありがとう。でも大丈夫。気分が悪いわけではないから」
そういって微笑みかける后の顔色は、青白い。例え病気で無いにしても、心に鬱屈する何かを抱えていることは一目瞭然だ。
「シグニイ様」
思わず話しかけてから、侍女が中途半端に黙り込む。自分の持っている情報をそのまま后に話してよいものか、彼女は判断に迷っていた。
「どうしたの?」
「あの、只の噂で本当かどうかは分からないのですが、北の岬に住む女が魔法を使うらしいのです。シグニイ様、最近あまり眠れていらっしゃらないようですし、彼女に会って、少しでもお心が軽くなる魔法とか薬を処方していただければと思ったのですけど」
そこまで一気に言ってから、窺うように侍女がシグニイを見つめる。純粋に自分を心配し気遣う彼女に、シグニイは柔らかな笑顔を見せた。
「そうね。……たまにはそういう力に頼ってみても、良いかもしれないわね」
その言葉にほっとして、侍女は刺繍を再開した。だがシグニイの手は止まったままだ。彼女は今知り得た情報を、じっくりと吟味していた。
「魔法の力、ね」
シグニイの瞳に、暗い光が宿った。
数日後、北の岬に一人で住む女の住居を、シグニイは従者も連れずに密かに訪れた。
彼女がヴォルスング一族のために出来ること、ヴォルスングの血を絶やさぬために産み育てた息子達は、手持ちの駒として使うには弱すぎた。オーディンの末裔としての誇りや意志を、次世代へとうまく受け渡すことが出来ないでいる。母の一族のため、父を殺すと誓う息子が欲しい。だが冷静に考えれば、それは土台からして無理な話だった。母の血だけではない、父の血も等しく、息子達は受け継いでいるのだから。
「せめて、剣だけでも取り戻せれば良いのだが」
あの時、二人目の子供に判定を下し、シグムンドが呟いた言葉を思い出す。
「グラム、を」
そう聞き返すシグニイに、シグムンドが真剣な表情でうなずいた。
「あれは俺の剣であり、この争いはグラムから始まった。剣さえ取り戻せば、俺独りでも何とか戦えると思う」
「それは、無理です」
兄の希望的意見を即座に否定し、シグニイは苦しそうに目をふせる。
「確かに、シッゲイルがあの剣を肌身離さず持ち歩いていたのは、ほんの最初の頃だけ。今では剣は宝物庫に眠っており、ヴァイキング行の時にだけ、持って行くような状態です」
「ならば、宝物庫から盗めばよいのだろう?」
「いいえ。宝物庫は屋敷の一番奥にあり、必ず見張りが立っていて、私ですら一人で立ち入ることは出来ません。それに例え盗むことが出来たとしても、直ぐに人がやってきて、退路は絶たれてしまうでしょう」
「しかし」
勢い込む兄の腕をそっと掴むと、シグニイはゆっくりと首を振った。
「焦りは禁物です。この期に及んで浅慮から、お兄様を失うような真似はしたくありません。お願いです。私がお兄様に次の息子を引き渡すことが出来るまで、待っていて欲しいのです。グラムも、その時に奪回しましょう」
祈るような気持で、兄を見つめる。もうこれ以上、身内の人間を失うのは嫌だった。
仇であるシッゲイル王の下から逃げずに子まで成したのは、父や弟達、一族を失った代償を得るためだ。復讐は、果たされなければならない。だがその目的のため、適任ではないと判断されれば、せっかく生まれた子供たちも自分たちの手で殺さなくてはならない。一族の復讐を果たそうとしているのに、その復讐のため、新たな犠牲も増えている。こんな状況の中、焦りから安易な策に流れ、失敗することだけはしたくなかった。
「お兄様に、ヴォルスングの血を引く協力者を引き渡す。それが私の役目です」
そう説得するシグニイを見て、シグムンドの肩からようやく力が抜ける。
「ああ。頼りにしている」
いつもの表情に戻る兄に、シグニイはほっとした。だが、よりいっそう自分の中で不安が生まれたのも確かだ。
二人いた子供たちは、どちらもヴォルスングだけでない、自分たちにとっては余分な特性を備えていた。これから生まれるであろうシッゲイルとの子供は、多少の差こそあれ、同じ結果になるのは否めない。
それならば、
北の岬へと向かう道を踏みしめながら、シグニイは心の中でつぶやいた。
シッゲイルの血が混ざらない、純粋にヴォルスング一族の血を受け継ぐ男子を産めばよい。
「お前は魔法で何が出来るのかしら」
薄暗い小屋の中、平静を装いながらシグニイが女に尋ねる。暖炉には鍋がかかっており、そこでは何か薬草が煮詰められていた。
「人の心が欲するものを叶えること。それが魔法だと考えております」
そう答える女はシグニイが想像していたよりも若く、そして美しい。
「お后様は何をお望みで?」
今まで伏せていた顔を上げ、女がシグニイを見つめた。シグニイはその視線を受け、ゆっくりと自分の腕から黄金の腕輪を抜き取ると、女の手に滑り込ませる。
「私たち、互いに姿を変えてみたいものね」
「お心のままに」
口角を上げて、薄い笑みで女が請け負う。その返事にうなずくと、さらに首飾りを外し、シグニイはそれを与えた。
「夜は王の寝所に上がるように」
「かしこまりました。ただし、私の魔法が効くのは三日間だけでございます」
「分かったわ」
シグニイは女を連れて屋敷に戻ると、魔法で姿を入れ替えさせた。
「私が出来るのは、人の見た目を変える事だけ。中身は何も移すことは出来ません」
そういう割には、女の立ち居振る舞いは堂々としており、十分に后らしさを備えている。シグニイは女に後を頼むと、兄の住む洞穴へと向かった。
「森を散策していたら道に迷い、ここまで来てしまいました。今日一日、泊まらせていただくことは出来ませんか」
「道に迷った?」
人の気配に、薪を割る手を止めたはず。それなのに、斧を持つ手に力がこもっている。聞き返すその表情が険しい。彼のそんな様子に気が付かぬ振りをして、シグニイはにこりと微笑んだ。
ヴォルスングの一族は、シグニイを除いて全滅させられた。そう思わせるためにシグムンドは身を隠してわざわざ洞穴に住んでいるのだ。ここはそうやすやすと、人が辿り着けるような場所では無い。
高まる警戒心から拒否される前にと、シグニイは言葉を重ねた。
「朝、森に入ったというのに、もうそろそろ日も落ちる頃です。こんな奥深くまで来て人に会えるなど思ってもみませんでした。どうぞこのまま夜の森を歩かせるようなことは、させないで下さい」
「……分かった」
女のお願いを、シグムンドは言葉少なに受け止める。 そんな彼をシグニイがじっと見つめる。シグムンドは直ぐにその視線に気が付き顔を背けるが、動きはどこかぎこちなかった。
「お礼に私が夕飯を作ります。使ってよい材料はどれでしょう」
「それならば、ここに」
警戒はしているのに、女の進入を拒めないでいる。彼の表情に、もどかしさが浮かび上がる。兄の内面の変化を敏感に感じ、シグニイの心はざわついていた。
兄を誘惑し、純粋にヴォルスング一族の血を持つ子供を作る。もちろん従者だけでなく、当事者の兄にも言えない計画だ。表面上は笑みを絶やさなかったが、自分の指先が小刻みに震えていることに、シグニイは気が付いていた。
緊張する。だが、それを相手に気取られてはいけない。
それでも、料理を作り夕飯の支度が整うと、会話の少ない食事は穏やかに進んでいった。何かの折に屋敷の者たちと共に煮炊きをすることはあっても、自分ひとりで料理を作り上げたことは一度も無い。そんな彼女の拙い煮込みを食べ、シグムンドの目が満足そうに細くなる。たったそれだけのことなのに、なぜか嬉しさで胸がいっぱいになり、泣きたくなった。こんなにくつろげる時間を持ったのは、このガウトランドへ嫁いでから初めてのことだ。
「食器、片付けますね」
感傷に流されそうになる心を慌てて切り替え、シグニイは空になった椀を取ろうとシグムンドの前に腕を伸ばした。
「お口に合ったでしょうか?」
自分の作った料理に満足してもらえたか、気になってしまう。正直な意見を聞きたくて彼に問いかけたが、シグムンドはそれに答えず、彼女を見つめた。
視線が絡まり、動きが止まる。彼の瞳を見ているうちに、忘れかけていた胸のざわめきが甦ってきた。
無言のまま、ふいに彼に手首を掴まれ胸元へ引き寄せられる。からんと椀が地面へ落ちる音がした。けれどシグムンドに抱きしめられ、何も見ることが出来ない。ただ、耳元で聞える彼の息遣いに、体が震えた。
一呼吸置いて、そうっと窺うように顔を上げる。その途端飛び込んでくるのは、まるで獲物を追い詰めるかのような、彼の瞳の強さ。気圧されて、身が竦む。けれどそんな自分を逃がすまいとするかのように、顔が近付き唇を重ねられた。
まるで、喰われるかのようだ。加減を知らない腕は強く彼女を抱きしめ、噛み付くような勢いで口付けは深さを増す。
「う。ん……」
一方的に翻弄され、男と女の力の差を思い知らされた。その圧倒的な力に怯え、シグニイは無意識のうちに彼の胸板を叩いてしまう。何度か叩くうちにようやくシグムンドがはっとして、唇を離した。
「すまない。つい」
シグムンドにとっても、自分の行動は予想外だったのだろう。手を自分の唇に持って行き、視線を落としている。その頬に赤みが差していた。
「あの、驚いただけ」
父を、兄弟を、一族の人々を殺され、過酷な生活に感情をそぎ落とされていった。そんな兄が久々に見せる動揺した表情に、シグニイの体から自然に力が抜ける。
「だから、いいの」
自分からゆっくりと彼の頬に触れ、その手を下ろして唇に指をあてる。そうして柔らかさを愉しむように、彼の唇をなぞり上げた。
もとよりこれは自分から望んだことだ。
ただ少し、慣れないことに怯えてしまっただけ。けれどこうして一呼吸置いて、彼の表情を見ていれば、それも直ぐに消えてなくなってしまう。
「お前、名をなんと言う?」
少し余裕を取り戻したシグムンドが、あらためて彼女の体を抱きなおして聞いてくる。先ほどまでのような、ただやみくもに締め上げてくるような抱き方ではない、優しい力加減。その扱いに鼓動が高まり、シグニイの頬も朱に染まった。
「シグニイ」
自分の名を素直に告げる。
人の見た目を変える事だけ。中身は何も移すことは出来ません。
魔法を使う女に注意されていた事を思い出していた。
たとえ見た目を他人に変えようと、ここにいるのは他ならぬ自分だ。ヴォルスング一族の出で、シグムンドの双子の妹である自分。生まれたときから兄を見つめ、兄と共に生きていた、そんな自分の名前。
「シグニイ?」
体を離し、こちらの顔を見つめ、シグムンドが繰り返す。
「どうしたの?」
分からない振りをして、シグニイは聞き返した。シグムンドの瞳は彼女を真っ直ぐ射て刺しているが、まるで幻の相手を見つめるような、どこか焦点がぼやけたような感じになっている。
「その名を持つ女を、知っている」
つぶやく声が、苦しげに聞こえた。
「……その人は、大切な人?」
彼の瞳をじっと見つめ返し、シグニイは重ねて尋ねる。神経が、一気に集中される。目の前の男がどう答えるのか、その時浮かぶ感情はどんなものなのか、彼の些細な変化すら見逃したくは無かった。
「ああ」
短い答えに、満足できない。もっと聞きたい。彼の言葉を、声を、聞いていたい。
シグニイはゆっくりと顔を近づけると頬を寄せ、シグムンドの耳に囁いた。
「その人が大切なら、名前を呼んで。ねえ、あなたの名前は?」
「シグムンド」
「そう。……シグムンド、私をその人だと思って。私を、抱いて良いの」
その瞬間、男の体がぴくりと動いたのがシグニイには分かった。ややあって、男は深く息を吐き出すとそっと彼女に口付ける。
「シグニイ」
「ええ」
「シグニイ。シグニイ、シグニイ」
一度許しを得てあふれた感情は、止まらない。すがるように抱きしめてくる兄を受け止め、彼の髪の毛に指を入れて梳く。
「シグムンド、愛しているわ。そう。愛しているの」
一族の復讐のためだけではなく、もっと単純な気持から、彼に抱かれたかった。
自分の閉ざされた気持ちに名前が付いて、初めて納得する。
彼に触れられるところすべてが熱を持つのは、甘くしびれるようになるのは、彼を愛しているから。
この男が欲しい。
明確な欲望に衝き動かされ、彼の背中に指を這わせる。そんな彼女を乱暴に引き剥がし、シグムンドは衣服を脱がす。裸になった二人は、互いの肌に溺れていった。
三日後、何度目になるか分からない情を交わし、シグニイがゆっくりとシグムンドから身を起こした。そしてそのまま気だるい体に衣服をまとい、扉を開ける。
「行ってしまうのか?」
差し込む日の光りにまぶしそうに目をすがめ、シグムンドが聞いてくる。
「そろそろ、帰らなくてはいけないから」
「そうか」
つぶやいたきり何も言ってこない男を、シグニイは少しの間黙って見つめた。どんなに激しく抱き合い、愛を交わしても、シグムンドが女を引き止めることは決してない。彼には課せられた役目がある。そしてその役目は、彼女にも等しく課せられていた。
「さようなら、シグムンド」
シグニイは優しく微笑むと、外へと一歩踏み出した。男が起きる気配を背中で受け止める。だが、振り返ってはならない。振り返ってしまったら、きっと未練が残ってしまう。
「さようなら」
もう一度小さくつぶやいて、洞穴を後にした。
屋敷に戻ったシグニイは、いつもと変わらぬ態度で誰に気取られることも無く、日々を過ごした。
そしてそれから十一年。
「あなたはこれからシグムンド伯父さんと共に暮らしなさい」
目の前の少年に、シグニイは短く命令をした。
「分かりました」
真っ直ぐ母親を見つめ返し、少年が躊躇い無くうなずいてみせる。十歳だというのに落ち着いた物腰、勘の鋭い剣さばき。全てが亡き兄たちや、彼のあとに産まれた弟たちを凌駕しており、それゆえにこの屋敷では浮いた存在となっている、そんな息子。父親であるはずのシッゲイルが彼を無視するようになって、久しい。だが母であるシグニイはこのシンフィエトリを一番に愛していた。
彼女は息子の姿を目に焼き付けようと、じっくりと眺める。その後おもむろに、針と糸を取り出した。
「出かける前に、肌着が簡単にめくれないよう、細工をしておきましょうか」
そう言うと、シンフィエトリの反応を待たずに、肌着の袖口を左手首に直接縫い付ける。十二年前、十一年前にも、少年の兄たちに対して行った試練だ。だが二人の兄たちは針が肌に刺さった途端に泣き喚き、あっけなく終わってしまっていた。
「痛いかしら?」
反応の無いシンフィエトリを確かめるように、母が問う。
「平気です」
無表情を装う息子に微笑みかけると、シグニイは一気に肌着を剥ぎ取った。途端、彼の左手首の肌が裂け、鮮血があふれ出す。
「痛いでしょう?」
「このくらいの傷、ヴォルスング一族の者にとって、何でもありません」
言い切るシンフィエトリの瞳は強い力を放っており、それはシグムンドを彷彿とさせた。
「それでこそ、私の息子。あなたを産んで、本当に良かった」
思わずぎゅっと抱きしめて、シグニイは息子を慈しむ。この子なら、シグムンドを助け、ヴォルスング家の復讐を果たすことが出来るだろう。
シグニイは彼の両頬に別離と祝福の接吻をすると、兄に引き渡すため、森へと連れ立っていった。





