




炎
その7
シンフィエトリは引き合わせて直ぐに、シグムンドに受け入れられた。
「パンを焼くようにと言って俺はその場を離れたんだが、戻ってきたときにはパンはきちんと焼かれていたよ」
「味はどうでしたか」
「食べていない。粉の入った袋には、毒蛇を入れておいたからな。直ぐに捨ててしまった。」
「それは残念なことを」
その時の二人の情景を想像し、シグニイがくすくすと笑いだす。一方のシグムンドの口調も、どこか楽しげだ。
「前の子供たちは袋の中に何かが入っているというだけで怯えていたが、奴は気にせず混ぜて捏ねてしまったと言い切った。食べてしまうのも一興だがな。ヴォルスング一族の者に毒は効かないが、シッゲイルの一族はそうではないんだろう?」
「……ええ」
笑いが途切れ、兄の問いかけに一瞬だけ目を伏せると、曖昧な表情のままシグニイは肯定する。確かにヴォルスングの血を引く者達に毒は効かない。その法則で行けば、本来シンフィエトリが毒に弱いなど、ありえるはずは無いのだ。だが、念のためにと試させた結果、息子の体は毒に触れても何とも無いが、体内に毒を取り込むことは出来ないことが判明した。それが単純に濃すぎる血のせいなのか、人としての禁を犯した自分への戒めなのかは、分からない。そしてその問いは、誰に聞けるものでもない。
「今日は、奴と手合わせをしてみた。なかなか良い太刀筋をしている。だが、まだ荒いな」
「シンフィエトリは、兄様の助けにはなるでしょうか」
シグムンドを真っ直ぐに見つめ、祈るような気持で聞いてみる。その真剣な様子に気押されたように兄は目を瞬かせたが、直ぐに口元に笑みが広がった。
「あれだけの逸材をシッゲイル王にやるには、もったいない。シンフィエトリはヴォルスングの血を引く一員だ。胸を張ってそう答える事ができる。俺が育てるから、心配するな」
そう言って、安心させるようにうなずいてみせる。そんな兄の返答に、彼女の顔にもようやく安堵の笑みが広がった。
「あの子を、シンフィエトリをよろしく頼みます」
母の心でもって、お願いをする。
十一年前の出来事は自分の胸に秘めたまま、兄に告げる気は無かった。こうして二人きりで会ってはいても、一番に気になるのは息子のこと。そしてヴォルスング一族全体の将来だ。シグムンドへの思いは穏やかに、あるべき姿、兄妹としての敬愛へと落ち着いていた。
「あの子がシグムンド兄様の力となり、二人が無事に一族の仇が打てるよう願っています」
シグニイが祈るようにシグムンドの手を握り締める。兄はもう何も言わず、彼女の手を力強く握り返した。
それから数年は、表面上はただ静かに月日が過ぎ去るだけだった。ヴォルスング一族に悲劇が起きてから二十数年経っている。シンフィエトリという逸材を確保できたシグムンドは、今更焦ることも無く、じっくりとこの甥を育てることに心血を注いでいた。過酷な洞穴暮らしに、剣の練習。いざという時にためらいが生じないよう、人を殺す術さえ教えた。
今まで協力を惜しまず働いてくれていた従者が、病気で亡くなった。その報告をシグニイがした時のことだった。
「シグニイ、いい機会だ。もう補給は要らないぞ。欲しいもの、必要なものは二人で盗るからな。だからお前は奴と会おうとしてはいけない。子供の心は捨てさせ、自ら獣の道を歩む術を覚えなくてはいけないのだから」
思いもかけずにシグムンドより宣言をされてしまい、シグニイはただうなずくことしか出来なかった。そして屋敷に戻り、独りになったところで涙を流した。
洞穴を越えた森の向こう、物盗りの仕業か、人が襲われ殺される事件が相次いで起こったのは、それから冬を越え、春の初め頃からだ。
最初は二人組の男たちが悪行を行っているというものだった。だが、そのうち男たちの姿は消え、二頭の狼が人を襲うという事件に取って代わった。
初めての報告は、八人の旅人が惨殺されたというものだった。一頭の大きな狼が遠吠えで仲間を呼ぶと、後から来たそれよりも若い狼が全ての男たちを襲った。唯一最後まで意識を保っていた旅人はそう報告をすると、力尽きて死んでいった。
次にはこの報告を受けて、十一人の男たちが若い狼を追い詰めた。だがそれは仲間を呼ぶこともなく一頭だけで、男たちを全員かみ殺してしまった。
シグニイが兄と久しぶりに会えたのは、それからずいぶんと日が経ってからのことだ。
「あの狼は、俺たちだよ」
淡々と事実を告げるシグムンドに、シグニイは何も聞き返すことは出来なかった。
「森の奥に隠れ家を見つけたんだ。そこには呪いにかかった二人の王子が眠っていた。王子たちは狼の毛皮をまとい、狼になって森を徘徊する。毛皮を脱ぐことが出来るのは十日に一度。俺たちは十日ぶりに人間として眠りに付く二人の家を見つけたんだ」
「その毛皮を、盗ったのね」
ようやく発せられた彼女の言葉は短く、声はかすれている。シグムンドはそんな彼女の反応を受け流し、ただ報告を続けた。
「呪いは、俺たちに対しても有効に働いた。最初に八人の旅人に出会ったのは、俺の方だ。七人以上の人間が現れたら、互いに助けを呼ぶ。そう取り決めていたんだ。俺は取り決めどおりに奴を呼び、窮地を脱した。若い狼はシンフィエトリだ。次に人と出会ったとき、奴は俺を呼ぶことなく独りで倒し、後から来た俺にこう言ったんだ。俺は十一人の敵にも一人で戦うことが出来た。それなのに、お前は俺を未だに子ども扱いするつもりか、と」
そこまで語ると、ようやく表情を取り戻したようにシグムンドは眉を寄せ、息を深く吐き出す。
「獣の皮を被るものは、その獣の心まで被ってしまう。ベルセルク、熊の皮を被る者と同じだな。シンフィエトリの挑発にまんまと乗ってしまった俺は、とっさにかっときて、奴の喉笛を噛み切ってしまった」
「そんな!じゃあ、シンフィエトリは……!」
一気に蒼ざめるシグニイを目で制すると、シグムンドは口早に先を続けた。
「生きているよ。生き返りの葉を使ったからな」
「生き返りの、葉?」
「動物達の間だけで使われる、人間には知られていない薬草だ。シンフィエトリに致命傷を与えた後、狼の身でどう救えば良いか分からず、必死になって森を駆け回っていた。その時、偶然いたち同士がそれを使っているのを目撃し、すぐに奴にも試してみたんだ。……あんな経験は、もうこりごりだ」
珍しく疲れた表情で、シグムンドは遠くをぼんやりと見つめる。そして独り言のように呟いた。
「人を殺める時に見せる、非情なまでの冷徹さ。安易
に己の武力に頼ろうとするきらいがある。あれは、シッゲイル王から受け継いだものなのか」
「全てはヴォルスングを再興させるため、血気にはやるが故の結果です、お兄様」
「シグニイ」
「あの子は、シンフィエトリはヴォルスング一族の人間。お兄様と同じ血が流れているのです。どうかそれだけは忘れないで下さい」
今にも泣き出しそうな表情で、シグニイが訴える。シグムンドはそんな妹の様子をしばらく黙って見ていたが、やがて息を深く吐き出すと、力強くうなずいた。
「シンフィエトリはヴォルスングの血を引く一員だ。それは決して変わることは無い。俺の、奴への信頼も変わらないさ」
そう言いながらシグムンドは表情を厳しくすると、ふいに妹の肩を抱く。その仕草は表情と同じく堅苦しいもので、シグニイの中に緊張感が沸き起こった。
「シグニイ、俺たちはそろそろ行動に移る時期に来ている。決行は、今年の夏だ」
兄の宣言に体を震わせ、顔を上げる。
「その時が、来たのですね」
「ああ。だが、それをシッゲイル王に気取られたくは無い。もうここで待ち合わせするのはお終いにしよう。お前もこれからは、みんなに隠れて俺と逢うのは止めるんだ。次に会うのは、シッゲイル王の首を取る時。屋敷で会おう、シグニイ」
「分かりました」
真っ直ぐにシグムンドを見つめ返し、シグニイが返事をする。そんな妹の真剣な表情に、ようやくシグムンドの表情は和らぎ、微笑みが浮かんだ。
「この戦いが終わったら、俺たちの故郷、フラクランドに戻れる」
「フラクランドに」
「ああ、そうだ。一緒に帰ろう、シグニイ」
囁く兄言葉は優しく、希望に満ちている。シグニイはそんな彼の表情を見つめながら、過去の幼かった自分たちの事を思い出していた。
広間の中央に植えられたバルンストック。自分を抱き上げる父ヴォルスングの大きな手。兄の笑い声。弟たちの喧騒。幸せな時代。遠い、遠い日々。全てが懐かしく、大切な思い出となっている。
「フラクランドへ、帰りましょう」
望郷の思いに胸がつまり、ただそれだけを呟く。シグムンドはもはや何も言わず、そんな妹の頭をまるであやすかのように、ゆっくりと撫でた。





