




炎
その8
シグムンドが宣言をした「その時」を待ちながら、シグニイは日々を過ごしていた。
冬が長い分、春は直ぐに夏を呼び寄せる。雪や風で受けた損害を修復し、種まきや放牧に明け暮れていると、夏至の祭りがやってくる。それが終われば、年に一度の民会。立て続けに訪れる年間行事に忙殺されているうちに、男たちは着々と準備を進め、ヴァイキング行へと出かけて行く。冬の間、寒さを凌いで閉じこもり、息を凝らして太陽を待ち焦がれていた人々は、全ての情熱をこの夏という季節にぶつけ、活動した。
今年のヴァイキング行も旅立ちの日が決まり、あと数日でこの屋敷から男たちが消えようとする、そんな時のことだった。
「母上」
広間で侍女に細々とした用を言いつけていると、彼女のまだ幼い息子達二人がやってきた。夕飯にはまだ早いこの時間だが、上座ではすでにシッゲイル王が酒を呑み、他の男たちもくつろいでいる。いつもと変わらぬ日常。シグニイは穏やかな笑顔で子供達を迎え入れたが、彼らの困惑し、恐れを浮かべるその表情を見た瞬間、動きが止まった。
「どうしたのです?」
「倉庫に男の人たちがいるのを見たんです、僕達」
「腕輪を転がして遊んでいたら、倉庫の中に入ってしまって。それを追っていたら、酒樽の奥に二人ほどの影が見えました」
そこで恐ろしくなって引き返し、ともかく報告をしようと戻ってきたのだと二人は説明した。
「何者たちだ、そいつらは?」
母子の会話を聞きとがめ、シッゲイル王が立ち上がる。王の反応に、にわかに広間に緊張感が走った。
「王よ、お待ちください」
誰にも気付かれぬよう、小さく息を吐き出し、気持を落ち着かせる。
時は満ちた。これからいよいよ、復讐が始まる。
だが、まだそれを、この広間にいる全ての者達に知られてはならない。
「最近、下男として二人の男たちを雇いました。この子達は彼らを見て驚いたのでしょう」
「下男だと?」
「確かめてきますわ。ほら、お前たちも一緒に」
緊張感をいつもの笑顔に押し隠し、子供達の手を取り、歩き出す。
「嫌。母上、僕は怖い」
「僕も」
「王の息子達がそのような気弱な事を言うものではありません。さあ、ついて来るのです」
そう諭すシグニイの表情からはすでに笑みは消えており、二人は初めて見る母の表情に怯えて黙り込んだ。
「シグムンド兄様、シンフィエトリ!」
倉庫に入ると慎重に扉を閉め、声を抑えながらも呼びかける。一瞬の間合いの後、物音が奥の方から聞えた。
「シグニイ」
浮かび上がる二つの影。シグニイは無言で近付くと、それぞれの男たちと固く抱擁を交わす。
「この日を、待っていました」
ため息混じりの深い声。これに応える兄の声も、重く深い。
「俺もだ。いよいよ、これまでの日々を終わらせる時が来た」
「シンフィエトリも、良いですね」
「はい、母上」
ゆるぎない息子のまなざしに、シグニイが優しい笑みで見つめ返す。だがその瞬間、この空気を乱し、扉を開けるための金属音が乱暴に鳴り響いた。
「シンフィエトリ兄様っ? なぜ、ここに」
「出して! こから出して!」
二人の兄弟の叫び声に、三人の目が合う。シグニイは二人から一歩離れ、居ずまいを正すと、ここから出ようと焦る息子達を指し示した。
「あなた達はこの二人に目撃されました。すでに王の耳にも届いています。けれど、まだごまかしは効く。これ以上居場所が洩れる前に、この子達を殺して」
「母上!」
冷たい母の言葉に、子供たちの金切り声が響く。シグムンドはそんな母子の姿に一瞬目を見開くと、直ぐに苦しそうに首を振った。
「シグニイ、例えこれが元で俺の身が危なくなったとしても、妹の子供たちを、これ以上手に掛けることは出来ない」
「兄様、駄目です! 私の息子が原因で、あなたたちが窮地に立つなど、あってはならないことです」
「シグニイ」
「シグムンドがやらないなら、俺がやる」
落ち着いた声と共にシンフィエトリが飛び出す。シグムンドがはっとする間もなく、剣をふるう金属音が響いた。
「シンフィエトリ!」
短いシグムンドの怒鳴り声。だがその声は兄弟たちの断末魔にかき消されてゆく。あっという間に二人の子供達の首は、胴から切り離された。
「……いいのです。これで」
兄の無言の視線を受けて、ぽつりと小さく、シグニイが呟く。そんな妹を見て、シグムンドの表情も冷徹な戦士へと替わっていった。
「戦いの始まりだ。シグニイ、俺たちはこれからこの首を持って広間に向かう。派手に暴れてやるさ。だからお前は俺の剣、グラムを探してきてくれ」
「グラム、を」
「今こそあれを取り返す時だ。剣を取り返し、フラクランドへ帰る。いいな、シグニイ」
「はい、兄様。」
三人は互いに視線を交し合うと扉を開け、右と左に分かれた。シンフィエトリに案内され、シグムンドは真っ直ぐ広間へと向かってゆく。
シグムンドが大きな音をたて、扉を開け放つと、一瞬だけ広間が静まった。何が起こったのか分からないといった表情の男を一人切り捨てて、広間の真ん中に子供たちの首を転がす。
「久しぶりだな、シッゲイル王」
「貴様は……!」
そこでようやく侍女の悲鳴が聞え、男たちの怒鳴り声が起こった。シグムンドの直ぐ横から一人の男が挑みかかってくるが、素早く背後に回りこんだシンフィエトリが、それに剣を振るう。迷いの無い剣さばきは、あっという間に男を死に追いやった。
「お久しぶりです、父上」
「お前は、死んだのではなかったか」
「そう思っていただいた方が、こちらとしてもやりやすい」
親子の情が微塵も感じられない会話を聞いて、シグムンドが眉をしかめる。だが、広間にいる男たちが一斉に襲い掛かってきたため、意識は戦いに向けられることとなった。
目指すのは、上座にいるシッゲイル王。しかしさすがに彼の館内だけに、警備は厚い。声をかければ答えが返る位置にいるはずなのに、彼の姿は楯の囲いと呼ばれる親衛隊に阻まれ、見えなくなった。
「うおぉー!」
腹から声を出し、目の前に立ちはだかる相手を次々と切ってゆく。後ろで同じように男たちを剣でなぎ払う、シンフィエトリの気配を感じていた。背後はこの年若の相棒に全面的に任せ、前だけを見据える。純粋に、ただひたすら相手を倒すことに没頭し、こなしていった。広間には怒鳴り声と剣の触れ合う金属音、物を倒し蹴り飛ばす音が響き渡る。
そしてしばらく後、
「……さすがに数も、減ってきたか?」
何人目だか分からぬ男を殺し、崩れ落ちた死体の分だけぽっかりと空いた空間に向かって、問いかけた。それを聞く周りの男たちの表情は悔しそうに歪むが、さすがにこの圧倒的な戦いぶりを見せ付けられては、反撃も勢いが無くなってゆく。互いに目配せをし合うのだが、もはや一人では動き出すこともままならない。シグムンドはそんな彼らを横目に、血糊で滑る手のひらを拭い、剣を持ち直し、一呼吸した。
「さて、と」
呟くと、一歩を踏み出す。すかさず男たちが剣を振りかざすが、その動きは見切っている。難なくかわすと、また一人倒す。そしてようやく現れたシッゲイル王に、にやりと微笑んだ。
「お終いだな」
「何をっ」
首の根元を狙い、剣を振るう。怯えた表情のシッゲイルが、庇うように自身の剣を振り回す。まるで力の入っていないそれはシグムンドにとって意味の無い攻撃だったが、互いの剣が交じり合った瞬間、状況が一変した。
「剣が……!」
悲鳴のような音がシグムンドの剣からし、次には根元の部分から折れた。
一瞬の空白。直ぐに態勢を立て直そうとするが、背後から衝撃が起こり、倒される。
「そこまでだ、シグムンド!」
「王、大事は無いですか」
シグムンドは腕を掴まれると、後ろ手に捻り上げられた。
「シンフィエトリも捕まえたぞ!」
その声にとっさに振り向こうとするが、肩を抑えられているため動きが取れない。シグムンドは仕方なく、正面のシッゲイル王を睨み付けた。王の顔は引きつり、蒼ざめている。だがそれは、見ているうちに赤みが差してきた。
「シグニイは、どうした」
「知らぬ」
「シグニイ!どこだ、シグニイ!」
怒りで顔を真っ赤にしたシグムンド王が、広間に響き渡るよう、大きな声で怒鳴った。
一方のシグニイは、シグムンドとシンフィエトリの二人と分かれると、屋敷の裏手に回り、宝物庫へと向かっていた。
目指す場所に近付くとその手前で身を隠し、息を潜める。しばらくすると、屋敷の表側で怒鳴り声や物音が聞えてきた。二人が、広間で暴れている音だ。
「おい、何があった?」
「分からん。賊の侵入という話だが」
「はぁ? 何ぼやぼやしている。加勢に行くぞ!」
見張りの男たちが立ち去るのを待つと、シグニイはあたりに注意を払いながら宝物庫の扉の前に立つ。深呼吸をして、いつも腰に付けている鍵から、一番大きな鍵を取り出した。
これはこの屋敷を、ひいては国を預かる身分の者にだけ、与えられた鍵。
だが、今までこの扉の先に入ることは度々あっても、宝物庫で一人になることは決して無かった。その中へ、奪われた兄の、ヴォルスング一族の、宝を取り戻しに一人入ってゆく。
しっかりとした手つきで、錠を外す。薄暗い宝物庫の中、シグニイは必死で目を凝らした。
「あった……」
奪った武器が飾られた壁面で、見つけてくれと主張するようにうっすらと光りを放つ、一振りの剣。慎重に壁から下ろすと、思わず剣をぎゅっと抱きしめる。だが、ぼやぼやしている暇は無かった。グラムがあった場所に他の剣を飾ると、静かに彼女は廊下に出る。人の出入りがあったと気付かれないよう、鍵を閉め、その足で厨房へと向かう。かまどの横に吊り下げられていたベーコンの塊にグラムを深々と差込み、その姿を隠したところで、荒々しい足音がわめきながら近付いてくるのが聞えた。
「シグニイ!」
肩で息をし、怒鳴るのはシッゲイル王。
「よくも余を謀ったな。あの男共は何だ!」
「私の兄と、息子のことでしょうか」
返事をした瞬間、シッゲイルの手がシグニイの頬を叩き、その衝撃で彼女の体は壁まで飛んだ。
衝撃で、頭がくらくらする。あっという間に口の中、血の味が充満してくる。だが態勢を立て直す間もなく、腕を掴まれ引き起こされた。わざと顎を持って、顔を上げさせられる。その痛みに、思わずシグニイからうめき声が洩れた。
「さすがはヴォルスング一族の出の者と、褒めるべきなのか。従順な態度を取っておきながら、機会を狙っておったか、シグニイ」
「復讐は、果たされなければならない。それがこの世の、そして我らが祖、オーディンの教えです」
痛みに顔を歪ませながらも、真っ直ぐに相手を見つめ、臆することなくそう言い切る。シッゲイルはそんな彼女を引きずるように歩かせると広間まで戻り、手荒に離した。
「復讐を果たし、余を殺し、フラクランドへ戻るつもりか。だが、残念だったな」
足元の何かにつまずき、よろめいて床に手を着く。広間に幾つも転がるのは、男たちの死体。そしてその中央、幾重にも縛られる二人の男たちの姿があった。
「シグムンド兄様、シンフィエトリ!」
叫び声に振り返る二人を見て、シグニイはほっとした。これだけの数の男たちを倒したにもかかわらず、彼らが怪我を負った様子は無い。服や肌にこびりついているのは、全て他人の返り血だろう。
「生きていることに、安心をしたか?」
頭上からの問い掛けに、視線を向ける。シッゲイルの口元は奇妙に歪んでおり、それが笑いを意味していることに、シグニイはややあってから気が付いた。
「お前の兄弟たちは、狼に一人ずつ喰われて死んだ。だが、最後の一人が本当に死んだのか、確認を怠った。これは余の失敗だ。このとき生き残ったのがこいつ、シグムンドだな」
「そしてその隣にいるのは、あなたの子供、シンフィエトリ」
「黙れ! シグニイ、今度こそ失敗はせんぞ。お前の身内が死んでゆくのをじっくりと観てもらう。明日、屋敷の前に墓塚を造らせる。石と芝土で造る、頑丈なものをな」
「墓塚……?」
不安な気持で呟くと、シッゲイルは陰気な笑みをさらに深くした。
「真ん中に仕切りとして一枚岩を挟み、左右にこの二人を入れて、閉じ込める。互いの声は聞こえるようにしてやるさ。死ぬまでそこから出られないのだからな。どちらが先に死ぬのか、互いに分かった方が良いだろう。お前は毎日その墓塚を眺め、嘆くが良い」
「……戦わずに、殺そうとするのですか」
「捕まえた相手と、なぜわざわざ戦わねばならない? それに、一思いになぞ殺しはせんよ。じっくりと、死の恐怖を味あわせてやる。お前にもな、シグニイ」
そう宣言をすると、シッゲイルは高らかに笑った。
「あなたは、名誉ある戦士に値しない、卑怯者です」
シグニイの言葉に振り向き、シッゲイルは躊躇い無く、また妻の頬を叩いた。
「シッゲイル!」
「母上に何をする!」
それまでは捕まえられていても不敵な表情を崩さなかった二人が、思わず叫び声をあげる。だが、シッゲイルは周りの反応を気にすることなく、彼女を睨み付けていた。
「余を殺し、フラクランドへ帰り、それで元に戻れるとでも思っていたか、シグニイよ」
「な、にを」
「楽観的過ぎるな。お前達ヴォルスング一族があの地からいなくなって何年経つと思っている? あの場所はもはや、他人のものだ」
せせら笑う夫を見つめ返し、シグニイはきっぱりと言い返す。
「わが兄シグムンドが、そしてシンフィエトリが、直ぐにフラクランドを取り返してくれます」
「ほう、それで? それでお前はどうするというのだ?」
彼女の言葉は、シッゲイルには予期されたものだったらしい。ふんと鼻で笑うと、問いを重ねた。
「余を殺し、フラクランドへ戻ったところで、所詮お前は女の身。兄妹が共同で国を統治など出来るわけが無い。シグムンドは直ぐにお前の嫁ぎ先を決め、追い出すに決まっている。それなのに、哀れなものだ。一族の復讐のためと理由をつけ、お前は一体どれだけのものを犠牲にした? 俺との子を何人殺したのだ?」
「そんな」
「言ってみろ」
「違う」
「言ってみろ!」
シッゲイルの怒鳴り声に、シグニイは耳をふさぐ。だがその手は小刻みに震え、心の揺れを表していた。
復讐は、奇麗事では済まされない。そう覚悟していたからこそ、役目を果たす事の出来ない子供たちを切り捨てた。だがもう一方の当事者、子供達の父親になじられれば、動揺もする。そしてもう一つ、彼女の心を乱す指摘が、シッゲイルの話しの中にはあった。
「シグニイ! そんな男の戯言など、聞くな。お前は俺たちと一緒に帰るんだ!」
その声にはっとして、広間の中央を見つめる。そこにいるのは、自分の兄、シグムンド。
「国に帰ったら、あの男が何をするか、分かるか? 国を平定すれば、次に考えるのは繁栄だ。奴は后を娶り、子を成し、妹であるお前や、甥であるシンフィエトリを邪険にするだろうよ」
まるで甘言でも囁くようなシッゲイル王。その口調に震えながら、シグニイはただひたすらシグムンドを見つめていた。
複数の男たちに取り押さえられたシグムンドは拘束され、その身動きが取れぬ状況に表情を歪めている。だがそんな中でも、彼は意思のこもった瞳で真っ直ぐこちらを見つめ返していた。一方、彼女の横に立つシッゲイルは自分の言葉に蒼ざめるシグニイを眺め、満足そうに微笑んでいる。
「この二人は、今夜は柱にでも括りつけておけ。明日は夜明けと共に墓塚を築き上げろ。シグニイ、お前は部屋へこもっているんだ」
男たちに指示を出し、彼女に命令を下す。そしてまたもやシグニイの手首を掴むと、引きずり歩かせた。
「シグムンド兄様……」
兄から視線を外さずそう呟くが、今のシグニイには夫に逆らう気力は残っていない。ただ素直に部屋へと連れて行かれるだけだった。




