




炎
その9
部屋の中、まんじりともしないで、シグニイは今までのことを考えていた。
夫シッゲイルは、見返りの無い彼女の働きを嘲けり、殺してきた子供たちを思い出させることで、この復讐を意味の無いことにしようとしていた。
確かに、あらためて子供達の事を責められると、一気に心の弱くなる自分がいる。だが足元が揺れる、そんな感覚に陥ったのは、別の言葉によってだ。
お前の嫁ぎ先を決め、追い出すに決まっている。
奴は后を娶り、子を成し、妹であるお前や、甥であるシンフィエトリを邪険にするだろうよ。
今まで、考えたことも無かったことだ。この復讐が済めば、自分たちはフラクランドに戻り、そこでまた昔と同じ生活が送れるのだと、漠然と思っていた。
だが、図らずもシッゲイルの言葉で思い知らされた。時間は後戻りなど出来ないのだ。無邪気にバルンストックの下で遊んだ子供たちは、もういない。ここにいるのは、あれから二十余年が過ぎ、復讐のために手を汚してきた一人の女。
静かに、息を吐く。手を握る。手を開く。繰り返し、同じ動作をすることによって、彼女の心はしだいに定まってゆく。
夜が明けるころ、彼女は澄んだ瞳で明り取り窓から空を見上げ、ゆっくりとうなずいた。
「命令よ。ここにある藁を王に気付かれないように、シンフィエトリの室に入れて」
墓塚を造る人足として駆り出された奴隷を一人呼び止めると、シグニイは足元にある藁の山を指差した。
「でも、それは……」
シッゲイル王の怒りをかうことに怯える奴隷が、ためらいを見せる。シグニイは小さくため息をつくと、自分の指から指輪を一つ抜き出した。そしてそれを、彼の手に握らせる。
「剥きだしの地面は冷たいわ。母が子を思う気持、分かるでしょう?」
真剣な表情のシグニイ。命令と言いつつも、懇願をしているのは明らかだ。その必死さに、男の心は揺れた。
「……うまく行くかは、分かりませんが」
躊躇いがちに藁を抱える。だがその重さに上体が傾き、慌てて腕の中の束を覗き込む。隙間から見え隠れするそれはベーコンの塊で、暖だけではない、息子から飢えを遠ざけようとする母の気持を、男は瞬時に察した。
「お願い」
涙で潤んだ瞳。短く囁く言葉。そんな彼女に男はこくこくと何度もうなずくと、藁を抱え外へと出てゆく。
シグニイは奴隷が去ってゆく後姿を目で追いながら、胸元の短剣を無意識のうちに握り締めていた。彼女がシグムンドとシンフィエトリに対して出来ることは、これまでだ。後は二人の力を信じるしかない。
どのくらいの時間が経過したのかが、分からない。石を積み立て造った室に芝土を覆い被せた墓塚は、覗き穴さえ塞いでしまえば、一筋の光も差さないようになっている。それでも、先ほどまでは何かしらざわついていた外の気配はいつの間にか消え、しんとした空気に、今が真夜中である事を感じさせた。捕獲された二人を見物し、嘲る人間も、さすがに夜中まではこの近辺に留まっていたくはないのだろう。
「シグムンド、寝たか?」
石壁の向こうから、そっと聞いてくる声があった。
「いや、寝ていない」
淡々とそう答えると、どこか安堵したようなため息と共に、布地をするような音が石壁沿いに聞える。
「今、何時だろうな」
先ほどよりも近くなる声。壁に背をもたれたのだろう。どこか頼りなさそうなシンフィエトリの声音に、思わずシグムンドの口元が優しく緩む。日々、戦う術を覚え、人を殺すことに何のためらいも見せぬ狂戦士となった、自分の甥っ子。だがこうして声だけを聴けば、少年らしいもろさも感じ取れる。
「いい機会だ。少し体を休めろ」
「こんな場所でか?」
伯父の意見にふてくされたように反論する。
「ここを逃げ出せば、また直ぐに戦いが始まる。休める時に体は休ませておいた方が良い」
「逃げ出せば、か。策はあるのか?」
「無い。だが、そのうち案も沸いてくるだろう」
あっさりとシグムンドが答えると、しばらく間を置いた後、シンフィエトリの呟きがぽつりと聞えた。
「策も無いのに、そう言われれば何とかなるような気がする。伯父貴は不思議な人だ」
「そうか?」
自分では分からないため聞き返したのだが、何がおかしいのか、シンフィエトリが笑い出す。シグムンドが彼の笑い声を聞くのは、久しぶりだった。
「シグムンド、フラクランドとはどんなところだ」
ようやく笑いが収まると、シンフィエトリが問いかけた。笑ったせいか、肩の力が抜けた素直な声だ。シグムンドはそれを受け、軽く目をつむると、故郷の景色を思い浮かべた。
「良い場所だぞ。海岸の地形は複雑で、潮の流れを知っている人間で無いと、入りにくい。守るに易く、攻め難い場所だ。土地は豊かで、森も放牧地も揃っている。お前も一目で気に入るさ」
「俺も、行っていいのか」
「当たり前だろう。あそこはヴォルスングの土地だ。末裔であるお前が行かなくてどうする」
思っても見なかった問い掛けに驚きつつ、シグムンドが答える。だがシンフィエトリの口調はしだいに硬さを増し、問いを重ねてきた。
「俺は、ヴォルスングの一族として、認められるのだろうか。シッゲイルの一族でもある俺が」
ためらいがちのその言葉に、シグムンドは思わず立ち上がる。だが壁に阻まれ、弱気になった甥を抱きしめることも出来ない。シグムンドは石壁をそっと撫ぜると、その向こうへ届くよう、語りかけた。
「何を不安がっている、シンフィエトリ? お前は俺が育て上げた、いわば俺の息子と同じだぞ。お前は俺と一緒にフラクランドへ戻り、俺と一緒に国を統治するんだ」
「では、母上は? 母上だって、シッゲイル王に嫁いだ身だ。俺は戦士として伯父貴の傍に仕えることが出来るかもしれない。でも国に王や戦士は必要だが、長らく仇の伴侶であった王の妹までは、必要とはされないだろう?」
「俺が必要としている」
間髪入れずに、そう答える。シグムンドは甥からの反応を一呼吸だけ待ったが、声の強さに圧倒されたのか、反論は無かった。
「お前の母がいたからこそ、俺はここまで来れた。シグニイの幸せは、俺が一番に考えている。あいつが居たいというのなら、いつまでもフラクランドに残り、俺たちと一緒に暮らせばよい」
そう言い切る言葉に、嘘や偽りは一切無い。言いたい事を言うと、シグムンドは黙り込む。やがてその耳に、シンフィエトリが息を吐き出す微かな音が聞えてきた。
「そうだな。母上を連れて、フラクランドへ行こう」
石壁の向こう、先ほどまでとは違う静かな口調で、シンフィエトリがそう呟く。
「行くんじゃない、帰るんだ。お前もな」
すかさず切り返すと、また笑う声が聞こえてきた。その声を聞きながら、シグムンドの口元にも笑みが浮かぶ。シグニイから彼を預かって以来、今が一番、お互いの心をさらけ出しているのかもしれない。捕まえられ、殺されるために閉じ込められた空間の中で。石壁に阻まれて、お互いの声だけしか聞けない状況の中で。
「せめて覗き穴程度でいいから、この壁が空いていたら良いのにな」
「寂しくなったのか?」
からかうように聞き返すと、それに対抗するようにシンフィエトリが鼻で笑った。
「俺の方には母上からの差し入れがある。藁に隠してベーコンの塊を入れてくれた。それをそちらにも渡したかっただけだ」
「残念だな。俺の方にも隠し入れてくれればよかったのに」
「結構な塊だからな。さすがに二つも運び込めば、不審に思われる」
「結構な塊……?」
何か引っかかるものを感じ、シグムンドは繰り返した。万事に気を使うシグニイが、何も考えずにそのような事をするとは思えない。
「シンフィエトリ、そのベーコンの塊は、詳しく調べてみた方が良いぞ」
「調べるとは」
戸惑うような問いにはあえて答えず、黙ってみる。シンフィエトリは意図を察したらしい。すぐに藁を掻き分ける音が聞えてきた。そしてその後に続く小さな歓声。
「剣だ! ベーコンの塊の中から、剣が出てきたぞ」
シグニイ。
妹の姿を思い出し、シグムンドは力強くうなずいた。
「壁の隙間から、剣を差し込むことが出来るか?」
「やってみる」
「その剣が俺の剣、グラムならば、石壁ごときで刃が欠ける心配は無い。剣を差し込み、横に回せ。互いに両端を持って挽いてゆこう。ここから出るぞ」
冷静に指示を出すと、シグムンドは石壁を真っ直ぐに見据える。その表情には直前までの優しさは無く、すでに戦いを挑む戦士の顔へと変わっていた。
それから数時間後。明け方の静けさの中、ふいに石壁の崩落する大音が、辺り一面に響き渡った。




