二人の会話

第一部  二人の関係


その三

「お母さーん、お姉ちゃんはぁ?」
 小学五年生の夏休み。学校のプールから帰ってくると、私は玄関から台所に向かって声をかけた。
「もう、とっくに行っちゃったわよー。」
 台所から聞こえるお母さんの声。その返事に嬉しくなって、私は一人密かに笑う。
「ねえ、コロはー?」
 つい二週間前に我が家の一員となった犬の名前を呼ぶ。コロはお母さんの返事を待つまでもなく、自分の名前に反応して駆けてくると興奮したようにキャンキャンと鳴き、千切れそうな勢いで尻尾を振った。
「コロ、ただいまー!」
 頭をぐりぐりと撫でて、コロの期待に応えてあげた。

 話は今年の春までさかのぼる。

 元々、我が家の長女、奈緒子お姉ちゃんは小さな頃から大の動物好きで、犬を飼うのが夢だった。この動物好きというのはお父さんの血筋らしく、お父さんの田舎では犬は必ず飼うものだった。それなら我が家でも犬を飼うのは簡単と思えるけれど、そうもうまくは行かない。
 この四人家族で犬を飼うに当たっての当面の問題は、誰が散歩をするのか? だった。

 お姉ちゃんもお父さんも小型犬はあんまり好きではなくて、飼うんだったらやっぱり中型犬以上だよねー。って二人で声をそろえていた。私は小さいのも好きなんだけれど、この場合、「普通に動物好き」な人よりも「大いに好き」な人のほうの意見が強い。小型犬と違い、毎日きちんと運動をさせなくてはいけない中型犬以上にとって、散歩は重要な問題だ。
 仕事が忙しいお父さんが毎日犬の散歩をするのは大変だし、お母さんだって働いている。そういう訳で、お姉ちゃんや私が毎日散歩できるくらいに大きくなった年、つまりお姉ちゃんが中学一年生で私が小学五年生になった今年、我が家に犬がやってくることになった。

 どんな犬種を選ぶか、というのも犬を飼う前の楽しみなのかもしれないけれど、我が家の場合はあっさり決まってしまった。お父さんの田舎で四月に子犬が生まれたんだ。母犬は紀州犬ということらしいけれど、父犬は不詳。とりあえず、毛並みがふかふかして茶色の、なんだかポメラニアンと柴犬の中間みたいな子犬。四月に家族会議を開いて犬を飼うことが決定して、七月末、夏休みが始まると同時に家族で田舎に行き、引き取った。
 
 そしてそれから二週間後。
 ようやく環境にも慣れ、完全に「ウチの子」となったコロが目の前でお腹を出してひっくり返って私にいいように撫でられている。

「あらあら、凄いわね。」
 遅れて台所から出てきたお母さんが、コロと私のどちらに向かってだか良く分からない感想をつぶやいた。
 コロが我が家に馴染むのと同じように、私達家族も飼い犬という存在に馴染んでいった。名前を呼ぶと一目散に駆けて来て、こちらがかまってあげれば体全体で嬉しさを表現してくれる。普通の動物好きの私でも、もうすっかりお姉ちゃんに負けないくらいコロの魅力に夢中だ。
「奈緒子お姉ちゃん、コロのことはくれぐれもよろしくってあずさに伝えてねって言っていたわよ」
 お母さんもしゃがみこむと、私と一緒になってふかふかのコロの体を撫で始める。

 お姉ちゃんは今日と明日、友達と一緒に海に行く。親戚のおじさんの別荘があるとかで、誘われたんだ。いつもだったら羨ましく感じる話だけれど、今回ばかりはその友達に感謝した。だって今日と明日のコロの散歩は私独りで出来るんだもん。
 背中からお腹まで、コロの全身をくまなく撫で回すと、私は玄関においてあるリードを手にした。
「散歩行ってくるね!」
「まだお昼よ。早朝の散歩、お姉ちゃんがやったんでしょ?」
「いいの。行ってくる!」
 勢い込んで宣言するとお母さんは肩をすくめ、「はいはい、いってらっしゃい」と手を振った。

 玄関を出て夏の空を仰ぐと、雲ひとつなく青く晴れ渡っている。電信柱にはセミが止まっていて、ミーンミーンとよく響く声で鳴いていた。私の額はすでに汗でぬれていて、頭を太陽がじりじりと焼いてゆく。慌ててまた家に戻ると帽子を被り、今度こそ本当に散歩に出た。
「さ、行こう」
 足元を落ち着き無くうろつくコロに声をかけ、歩き出す。
 コロをつれて家の周りを歩くのは楽しかった。しきりに走り出そうとするコロをリードで押さえながら、優しくあやすように話しかける。コロはそんな私の言葉など聞いてはいないのだけれど、どうかすると後ろを振り返り、私を見上げ、なにか問いたげに首をかたむけ立ち止まる。
 今までお姉ちゃんと共有していた独占欲を、心いっぱい満たしてくれるこの散歩。
 こんな充実感、今まで味わったことがあったかな?
 有頂天になった私は背筋を伸ばし、胸を張り、意気揚々とコロと共に行進した。その時私は幸せだった。俊成君が突然現れる、その瞬間までは。

 今まで歩いていた細い路地から抜けようと、角を曲がろうとしたときだった。足元にじゃれるコロに気をとられ下を向いていた私の目に、黒い影が飛び込んできた。慌てて顔を上げるとそこに俊成君がいた。
 人が現れたことに驚いて慌てて立ち止まったのに、その相手が俊成君だったことにさらに動揺した。つい、コロと私をつないでいたリードを落としてしまう。
 でも、驚いたのは俊成君もだったのかもしれない。彼の体がびくりと震えた。
 私と俊成君のそれぞれの反応に、コロは何かを感じたらしい。急に低く姿勢を取ると、俊成君に向かってうなり声を上げる。
「あ、やだっ、コロ!」
 犬の威嚇を初めて見た私は思わず叫び声をあげ、俊成君は自分の身をかばうようにとっさに右手を振りかぶった。彼の手にあるコンビニ袋が、がさがさと大きな音をたてる。それらのすべてがコロをより興奮させる結果となり、気が付くとコロは俊成君の右手に向かって飛び込んでいた。
「俊成君!」
 まるでドラマの場面のように、スローモーションとかコマ送りをしているみたいに、コロが俊成君の右手に噛み付いてゆくのがはっきりと見えた。
 俊成君の顔が驚きと衝撃でゆがむ。コロはかなり長い間彼の手を噛んでいたような気がしたけれど、実際はすぐに離れて吠え立てていた。私はそのコロの吠える声を聞いて、自分がとんでもないことをしでかしてしまったことに気が付いた。
 私のせいで俊成君はコロに、犬に噛まれてしまったんだ。
 そう思うと、余計にどうしたらよいか分からなくなって、ただもう、怖くなってしまった。コロを叱りつけるどころか、手放したリードを拾い上げる勇気も無くて、たまらなくなって私は泣き出した。本当は泣きたいのは俊成君のほうなのに。

 どこまでも卑怯な私に比べ、健気なのは俊成君だった。彼はさっきまで自分に噛み付いていた犬のリードを右手で拾い上げ、そのまま私の目の前にぐっと突き出すと落ち着いた声で言った。
「ほら見てみな、血が出ていないだろ? ほんのちょっと噛み付かれただけだよ。だからもう泣くな、あず」
「俊、俊成君」
 泣きじゃくりながらもうなずく私にリードを渡し、俊成君は道路に散らばったコンビニの袋とアイスを拾い上げる。慌てて私も手伝おうとしたけれど、その前に片付け終わってしまった。俊成君はコンビニの袋を無意識のうちに利き手の右手に持つけれど、すぐに苦痛そうに眉を寄せ左手に持ち直す。
「大丈夫?」
 その問いに答えずに私の目を真っ直ぐ見ると、俊成君は短く促した。
「帰ろう」
「……うん」
 コロは自分のしたことが分かっていないようで、無邪気に私の足元をうろついている。歩き出すと散歩が再開されたことを喜んで、ぱたぱたと尻尾を振った。

 私の家までたどり着くと、俊成君は何も言わずにその先にある自分の家へ帰ろうとした。
「駄目だよ。待って!」
 私は慌てて彼の持っているコンビニの袋を掴むと、玄関から台所に向かって叫ぶ。
「お母さんっ!俊成君が……」
「えー、なに?」
 意味が分からずのんびりとした様子で出てきたお母さんだったけれど、娘の泣き顔と俊成君の青い顔に何かが起こったのを察したらしい。
「どうしたの?」
「俊成君の右手、コロに……」
 最後まで言えずに涙が浮かぶ。お母さんは私を突き飛ばしかねない勢いで俊成君に駆け寄ると、右手首をそっと持ち上げた。
「親指、腫れているじゃない! あずさっ! なにやったの!?」
「犬が、驚いただけなんだ。俺、突然現れたから」
「病院、行きましょう。ああもう、俊ちゃんごめんなさいね。あずさはここで留守番よ。倉沢さんにも連絡しなくちゃ。おうち、誰かいる?」
 お母さんはお財布を掴むと俊成君を連れて、あっという間に出て行ってしまった。残された私はコロを抱きしめ、あらためて泣き出してしまう。
「コロ、どうしよう」
 コロはお母さんの勢いにさすがに今までとは違う空気を感じたらしく、不安そうにクーンと鳴いた。
 気が付くと、下駄箱の上に放り出されていたコンビニ袋の中のアイスが、溶けて流れ出していた。
 
「あずさ、あんた一体自分がなにしたか分かってんのっ?」
 病院から戻ってきたお母さんにも、そしてもちろんお父さんにも怒られた私だったけれど、今回の件で一番恐ろしいのはお姉ちゃんだった。
 奈緒子お姉ちゃんは普段はあまり姉の権威を妹に押し付けない。けれどこうやって怒り出すと、私なんかでは太刀打ちできなくなってしまうんだ。特に今回は、お姉ちゃんが主体となって飼いはじめた犬と私のやらかしたことだ。ぼろぼろと大粒の涙を流しながら私のことを叩き、「これでコロが田舎に戻されたらどうするのよ?」と叫ばれて、その可能性を考えなかった私は愕然とした。

 コロをうまく育てられなかったから、コロは人を噛んでしまう悪い犬だから、だから田舎に戻されちゃうの?

 お姉ちゃんと二人、コロを抱きしめて目が腫れるくらいの勢いで大泣きした。


 実際のその後の処分はというと、コロに対してのおとがめはなかった。その代わりという訳ではないけれど、お父さんが犬のしつけ教室のチラシを持ってきて、それに通うことになった。もちろんコロだけでなく、一家全員で。
 俊成君のケガに関しては、本人の言ったとおりに大したことはなく、何日間か親指の付け根が腫れたくらいで済んだらしい。とはいえ、ケガが治るまでの俊成君の苦痛とか、ケガをさせてしまった私の責任とかが消えたわけではないけれど。

 コロが噛み付いたあの時、俊成君が落ち着いて対応したからあの程度で済んだんだと思う。コロのお母さんは紀州犬で、狩猟とかに使われる犬らしい。コロにもその血は受け継がれているので、仲間を守ろうとか、逃げる獲物を捕まえようとする意識は強いんだと、その後のしつけ教室で教わった。俊成君があの時慌てて逃げていたら、もっと大変になっていたんだろうな。でも俊成君は逃げなかったし、決して私に怒ったりしなくてそれどころかずっと私を気遣ってくれていた。

 俊成君は変わってゆく。
 小学二年生のときにも感じたけれど、それは悪い意味なんかではなく、男の子として確実に成長してるんだ。それを目のあたりにして、なんだか不思議だった。