二人の会話

第一部  二人の関係

その四

 コロの噛み付き事件をきっかけに、私はようやく一つの決意をした。
 俊成君に謝ろう。コロのことだけじゃなく。

 考えてみれば、小学校に上がって俊成君と話さなくなったのも、一方的に気まずい思いを抱えていたのも、全部私のせいなんだ。本当はそんなこと、前から分かっていたことだけれど。
 とはいえ、五年間の目をそらしていた期間は重く私にのしかかる。あんな事件を起こしてしまったにもかかわらず、私はなかなか俊成君に会いに、彼の家に行くことが出来なかった。歩いて一分もかからない場所にあるのに、何でこんなに遠くに感じるんだろう。

 こんなうじうじとした状況が数日続く中、思いもかけないところからふいに転機が訪れた。

「風邪?」
 リビングのテーブルにほおづえをつき、お母さんとお姉ちゃんがお稲荷さんを作っているのをぼんやり見ていたときだった。
 コロを引き取りに田舎に行くので夏休みをとったけれど、まだ日数が余っているとかでお母さんは夏休みの第二弾をとっていた。このお稲荷さんは「休日とか時間のあるときに作る料理」ということらしい。久しぶりのお稲荷さんだと思って見ていたら、俊成君のおばあちゃんの話になったんだ。
「倉沢さんのおばあちゃんも、もうかなりのお年でしょ。最近寝込むことが多くて心配よね」
 心配そうな口調で話しているのに手は絶対休めず、あっという間にお稲荷さんが出来上がっていく。隣でご飯を詰め込みすぎ、揚げを破いて失敗しているお姉ちゃんとは対照的だ。主婦って凄いなと思って見ていたら、お母さんからにらまれてしまった。
「ちょっとあずさも手伝いなさい」
 すかさずお姉ちゃんからも声を掛けられた。
「私と代わる?」
 どうもかなり嫌になっているらしい。
 私はそんな二人を交互に見つめると、押し黙る。
 おばあちゃんが、風邪。
 ようやく決意をして、立ち上がった。
「私、俊成君のとこ行ってくるね」
 どんなに勇気を出して行こうと思っても、なかなか足がすくんで行けなかった俊成君の家。でも、おばあちゃんのお見舞いもかねてだったら、今だったら行ける気がした。
「……そう。それだったら」
 お母さんは手早くお皿にお稲荷さんを盛ってゆくと、それを私に渡した。
「謝りに行くのに、手ぶらじゃ悪いでしょ」
 受け取ったお皿にはお稲荷さんがぎっしりと詰まっていて、私はしばらく無言でそれを眺めてしまった。
 このお稲荷さんをうまく渡すことが出来たなら、俊成君と昔のように話すことが出来るのかな。
 そう考えたら、少し胸がどきどきした。


 倉沢家はこのあたりでは古くに建てられた家で、木造の二階建てになっている。造りも我が家と違って和風だ。
 引き戸の玄関の前に立つと、私は通りすがりの人に見られても気が付かれないほど小さく、深呼吸をした。保育園のときはあれほど大きな顔で毎日出入りしていたのにな。今はなんてよそよそしく感じられるんだろう。
 カラカラと音を立てる戸を半分ほど開け、そこから顔を突き出して、そっと遠慮がちに呼んでみた。
「すみません。ごめんくださーい」
「どうぞ」
 家の奥からした声は、俊成君だった。私はちょっと躊躇した。やっぱりいくら仲直りを期待しているとはいえ、そんなすぐに普通の態度で家に上がることなんて出来ない。
 このままお稲荷さんを置いて帰ってしまおうかと、足が動きかける。
 でも、俊成君にごめんなさいの一言もなく帰ってしまうのって、やっぱりとても卑怯だ。
 緊張のためか手のひらの汗で滑るお皿を持ち直して、玄関の中に入り込む。
 帰るのはこのお稲荷さんを渡して俊成君に謝って、それからにしよう。
 自分にとって、これが最後のチャンスのような気がしていた。今ここで俊成君に謝らなくては、会って話をしなくては、もう一生彼を無視した態度をとり続けなくてはいけないんじゃないかと思っていた。こんな半端な気まずさはもう嫌だ。

 口を固く結んだ私は、俊成君が現れるのをじっと待っていた。玄関を閉めずにいるせいか廊下から風が抜け、私の前髪を揺さぶっていく。
 しばらく玄関で待っていたのに、いつまで経っても俊成君の現れる気配がしない。私はもう一度声をかけてみることにした。
「すみませーん」
「いいよ、上がってきて」
 俊成君の声は台所をはさんで向こう側、おばあちゃんの部屋から聞こえていた。他にカズお兄ちゃんとかユキお兄ちゃんとか、誰もいないのかな。俊成君がおばあちゃんを看ているんだろうか。
 私はまた小さく深呼吸すると玄関の戸を閉め、家に上がった。
「おじゃまします」
 何年ぶりかに上がる、俊成君のおうち。よそよそしく感じたのは玄関までで、中に入ってしまえば懐かしさの方が一気に勝った。
 入ってすぐの柱には、私と俊成君の身長が刻み付けられている。でも本当は、あの身長はウソなんだ。私のほうが当時は背が大きくて、それにむっとした俊成君が爪先立ちになって付けた跡なんだもの。
 廊下とリビングを仕切る障子に目をやって、そこの桟の一本だけが色が違うことを確認する。
 これは、いつだっけ? 年末の大掃除で障子を好きなだけ破いて良いよって言われて、二人で暴れていたら桟まで折ってしまったんだよね。
 俊成君は覚えているかな。
 聞こえないようにくすくす笑うと、なんだか気持ちが軽くなった。
 謝ろう。今までのこと全部。
 笑った分だけこだわりがとけたようで、素直な気持ちでそう思った。
「こんにちは」
 真夏なのにクーラーをつけていない。その代わり縁側に面したガラス戸も、廊下側の障子も開け放してある。おばあちゃんは布団の中で静かに眠っており、その足元で扇風機がかすかなモーター音を立てて回っていた。俊成君は廊下側の柱に寄りかかって、ぼんやりとうちわを扇ぎながら目の前の庭を眺めていた。
 私はお稲荷さんをそっと俊成君の横に置くと、ぐるりと回って彼の向かいに座った。
「おばあちゃん、寝てる」
 おばあちゃんの顔をそっとのぞきこんで、その穏やかな寝顔にほっとした。
「昼寝だよ。ただの夏風邪だって。大丈夫だってお医者さんが言っていた」
 その言葉を聞きながら、私はゆっくり俊成君に視線を移す。
「手、もう大丈夫?」
「うん。大丈夫」
 俊成君はそう言うと、右手を振ってちょっと恥ずかしそうに笑った。私もつられて微笑んだ。扇風機の首が回って、ゆるやかな風が当たるのが気持ち良い。
「庭、なに見ていたの?」
 なんでもよいから俊成君と話がしたかった。しゃべらないと間が持たないのも事実だし、それよりもせっかく和んだこの空気を、気まずい沈黙で汚すのが嫌だった。
「カンナ。春に植えたのが咲いたんだ」
「どこ」
「ほら、あそこ」
 後ろを振り返り、指のさす方を目で追うと、そこに茎が何本かすっと立っていた。
「あれ?」
「うん」
 花なら地面に咲いている。そう思って下を見たのに、そこには青い茎ばかりで目線を少しずつずらしても、なかなか頂点には達しない。
「とっても背が高いんだ。一番高いので二メートルあるって父さん言っていたから」
 俊成君の言葉に思い切って顔を上げると、そこには炎のように咲いている花の姿があった。
「……きれい」
 思いもかけなかったその姿に、私は小さくため息を漏らす。
 真っ直ぐに伸びた茎の上、赤というより朱の色をした真ん中から徐々に橙、黄色と色が変わる花が咲いている。庭の隅、何本ものカンナが咲き誇るその姿は、夏の暑さを一瞬忘れるほど美しかった。
「父さんと、春に植えたんだ」
 俊成君はもう一度繰り返すと、それきり黙りこんでしまった。私ももう、言葉で俊成君をつかまえようとは思わなくなっていた。

 二人静かに黙り込んだ空間に、扇風機の単調なモーター音がまた響きだした。おばあちゃんの規則的な寝息が続いている。遠くでセミの音が聞こえている。通りのどこかで宅配便のチャイムを押す音がかすかに聞こえた。いつもと変わらない、ありふれた夏休みの午後だった。

「ごめんね」
 どのくらい、カンナを見ていたか分からない。ずっと見ているうちにふいにこの言葉が思い出され、いつの間にか私は言っていた。そして、俊成君の目を真っ直ぐに見つめる。
「ごめんね」
 俊成君もそう言って、私の目を見つめ返す。その思いもかけない言葉の真摯さに戸惑って、私は聞き返してしまった。
「なんで謝るの?」
「あずに嫌な思いさせたから」
「嫌な思い?」
「久しぶりに話したのに俺、あのときの最後、背を向けたから。今更だけど、ずっと謝ろうと思っていた」
 あのときって?
 極端に接点の少なかった私達にとって、「あのとき」という言葉で限定される時間は少なかった。俊成君の言いたかったあのときは、小学二年生のときのことなんだろう。みんなの見ている中、上級生に突き飛ばされてひどいことを言われた。でも突き飛ばされてひどいことを言われたのは俊成君だし、それは私が何も考えずに俊成君に話しかけたからこそ起こった出来事だ。
「嫌な思いをしたのは、俊成君のほうだよ」
「あずだよ。上級生を睨んでいたから止めたけど、でも俺うまく言えなくてあずに背を向けた。あずを一人にさせた」
 そう告白する俊成君の表情が、後悔に満ちている。その真剣さの分だけ自分が思いやられているのがよく分かって、でもそれは自分にとって思いもかけないことで、私は慌ててあのときのことを思い出そうとしていた。
 私は? あのときどうだったっけ?
 意地悪な四年生の行動にいきり立って、いつまでも相手を目で追っていた。確かにあれは、睨みつけていたのと変わらない。そしてそれを止めたのは俊成君だ。あのときの俊成君の態度は確かに私を突き放したように思えたけれど、それはみんなの見ている前でひどい目にあったからだろうって勝手に納得していた。直前まで俊成君のことを忘れ果てていた自分が原因で、みんなの目の前で転ばされ軽蔑の言葉をあびせられたんだ。冷たくされても仕方ないし、私はもう俊成君とは昔のように話しかけることは出来ないと思ってしまった。
 でも俊成君の今の言葉には自分が上級生にされたことも、ましてや私が勝手に想像していた彼の気持ちは含まれていなかった。私が上級生を睨んでいたから、だから止めた、って。それをうまく言えなくて、だから私に背を向けた、って。
 あのとき俊成君に止められないで、いつまでも睨みつけていてそれが原因でまた相手の怒りが再発していたら、私はどうなっていたんだろう。
 想像して、三年前の出来事にはじめてぞっとした。
 あのとき俊成君が冷たく突き放してくれたから、私は逆にあの場から開放されることが出来たんだ。あの意地悪な上級生から。私の知らない俊成君の友達から。

 まるで先日のコロのときみたい。

 まだ記憶に新しい噛み付かれた瞬間の場面を思い出し、目を伏せる。あのときも、俊成君だったからあれで済んだんだ。
「ご」 
 ごめんなさい。ってまた言いそうになって慌てて口をつぐむ。
 私がそう思うのと同じくらい、ううん、それよりも真剣なくらいの勢いで俊成君は私に同じ言葉を言ったんだ。だから、私が言う言葉はこれじゃない。
 ゆっくりと息を吐き顔を上げると、私は俊成君に負けないくらいの真剣さで彼の瞳を見つめた。
「一人なんかじゃなかったよ。俊成君がいた。ありがとう。あのときのことも、この間のときも」
 言い切って、途端になんだか恥ずかしくなって、私は眉に力が入った状態のままで照れ笑いをしてしまった。ああこれ、絶対変な顔だ。
「ごめん。なんか変だよね」
 慌てて言い足したら、俊成君の目が大きく見開かれて一気に笑顔に変わった。
 保育園のときと同じ表情。成長して変わっていくものもあるけれど、変わらないものだって俊成君の中に残っている。
 何年ぶりかにまともに俊成君の顔を見たような気がして、私はようやくほっとした。
「……あずさちゃん。来ていたの?」
 自分の心が落ち着くのと同時に、枕元から声がした。
「おばあちゃん」
 そのときようやく、私はもう一人の存在を思い出した。あまりに静かに眠っているので、つい忘れてしまっていた。
「おばあちゃん、大丈夫?」
 病気でふせっているせいなのか、久しぶりに会ったおばあちゃんはさらに年を重ねて小さく弱々しく見えた。私は悲しくなってしまい、おばあちゃんの顔をじっと見つめる。
「あずさちゃんも、大きくなったね。背も伸びたでしょう。俊成もどんどんと成長してゆく。おばあちゃんが年取っていくはずだ」
 おばあちゃんは私の質問には答えず、その代わり優しく私を見つめ返してそう言った。細い腕をゆっくりと持ち上げて、私の頭をそっと撫でる。
「俊成」
「ん?」
「あずさちゃんはいい子だよ。お前があずさちゃんを守るんだ。いいね」
「……うん。分かった」
 おばあちゃんがどんなつもりでそう言ったのかなんて分からない。でも俊成君は嫌な顔をせず冗談で返そうともせず、まじめな表情でうなずいた。私は黙ったまま、おばあちゃんの顔をのぞきこむだけだった。
 遠くで、セミの声がしていた。


 この後、おばあちゃんはあっという間に回復して、普段と変わらない状態に戻った。そして私と俊成君に関してはというと、こちらもあんまり前と変わらない。仲直りをしたからといって、さすがに突然保育園の頃の状態に戻るわけでもないし。

 でも学校であったとき、近所ですれ違ったとき、もう目を反らすことはしなくなった。二人は友達だから。生まれたときから一緒にいた、大切な幼馴染だから。そう二人が分かっていれば、別に今までと変わらなくても構わないんじゃないのかな。それが、ようやく分かったんだ。
 遠くから、近くから、俊成君を見かけるとふいにカンナの花を思い出すことがある。すっとした立ち姿の朱色の花。生まれたときから当たり前のように傍にいる二人だったけれど、あの夏の日にはじめて二人の関係が出来上がったんだと思う。カンナは私にとって大切な思い出を呼び起こす花となった。


 そして二人、こうして続いてゆくのだと思っていた。


-第一部 終わり-