二人の会話

第二部  二人の距離


その一

 中学三年生の二学期始まって最初の木曜日。廊下で突然同じクラスの男の子に呼びかけられ、柱の影に連れて行かれた。
「宮崎さん、俺と付き合ってくれない?」
 目の前でちょっと緊張気味にそう聞いてきたのは小林圭吾君。体育会系とは思えないきれいな顔立ちと、その見た目とは裏腹な攻撃的なプレーが特徴のサッカー部の主将。でもうちのクラス的には本日の日直当番。そして今は五時間目と六時間目の間の休み時間。私達はこれから理科の実験室へ行くところ。
 瞬時に事情を察した私は気楽に返事をした。
「いいよ。どこ?」
 理科準備室。
 そう答えが返ってくると思ったのに、小林君は私の返事にふきだして笑い始める。なんだかかなりツボに入ったみたいだ。
 そのあまりの受けの良さに不安に思って見つめていたら、小林君が笑いを止めて真剣な表情になった。
「じゃあとりあえず、あさっての土曜日。氷川神社のお祭りに二人で行こうよ。詳しいこと、また後で連絡するから」
 それじゃあね。っていって去っていく小林君の後姿を見つめ、しばらく今の出来事を反芻していた。
 あさっての氷川さんのお祭り。行こうよ、って言っていた。しかも二人限定。その前に、一番最初の台詞。付き合ってくれない?
「付き合って、くれない……?」
 え、えーっ?

「あずさ、それ天然? っていうか、あんたそんなキャラだったの?」
 放課後の掃除当番、親友の真由美にさっきの出来事を話したら、開口一番にそう言われてしまった。
「いや、私もかなり間抜けだったな、とは思うんだけど……」
 真由美の突っ込みも当然と思えるほど、あのときの私はボケていた。いくらなんでも理科準備室と氷川神社のお祭りでは差がありすぎる。とはいえ、
「突然すぎて、そっちに考えが行かなかったんだよね」
 戸惑い気味につぶやいたら、真由美がうんうんとうなずいてくれた。
「相手があの小林君だもんね」
 教室の隅、数人の男の子達とじゃれあっている小林君をこっそりと見て、それから慌てて手にした箒に視線を戻した。
 ただでさえきれいな顔立ちで、なおかつサッカー部の主将。当然のことながら彼はモテる。本気で好きになる子も複数いるはずだけれど、それ以外の軽い気持ちでファンなんかも結構いるはずだ。私も春のクラス替えで小林君と一緒になったと知ったとき、真由美の他、何人かの女子とこっそりガッツポーズをしたくらいだもん。そしてそれから今まで、同じクラスだからこそ見る事の出来た彼のあけすけな表情や何気ないしぐさに、何度どきどきしたか分からない。明確にファンとか好きとか口にしたことは無かったけれど、でも中学生最後の一年間を彼と一緒のクラスで過ごせてよかったなとか思っていた。
 そんな人が「付き合って」って、まさか自分に言うなんて、そんな、ねぇ……。
「あー、あずさ。顔赤い、赤い」
「どうしよう。私、お祭り誘われちゃったんだよね」
 なんかだんだん状況が飲み込めて、それに伴ってどんどん照れくさくなってきた。
 男の子と付き合うなんて、今まで自分には関係ない話だって思っていた。なんとなく良いなって思っている人がいたけれど、だからといって具体的にどうしたいと思っていたわけではなかったし。けど、そのなんとなく良いなって思っていた人が突然私を呼び止めて、付き合わない? って誘っている。
 いいのかな。夢見ちゃってるんじゃないのかな。素直に信じていいのかな。
「まあ、とりあえずって言っているんだから、小林君的にはお祭りだけで済ますつもりはなさそうだけどね」
 真由美の一言に余計顔がほてってくる。駄目だ、今誰とも顔合わせられない。
「あ、でも」
 動揺してすっかり忘れていた事を思い出し、私は慌てて顔を上げた。
「お祭り、真由美とも一緒に行こうって約束していたよね」
 土曜日曜と開催されるのであまり気にはしていなかったけれど、それなら真由美とは日曜日に行けばいいかな?
 そう聞きたくて話を振ったのに、意外にも真由美はぶんぶんと頭を振ってそれを否定した。
「あずさ、なにのんきなこと言ってるの。こんなとこで変に私に遠慮して、女の友情なんか取っちゃ駄目よ!」
「え、そうなの?」
「せっかく小林君が誘ってるんだもん。みすみすチャンス逃す真似するのは馬鹿だよ。私だったら久美とかエンちゃんとか、バスケ部の子達にもお祭り誘われてたしさ、あずさと行かなくても大丈夫だから」
 そこまで畳み掛けるように力説してから、突然はっと気が付いたように真由美が表情をこわばらせた。
「でも、あずさに付き合う気がなかったら、別だけど。倉沢君は、いいの?」
「は? 倉沢?」
 突然俊成君の名前を出されて、思わず繰り返してしまった。
「なんでそこで倉沢が出てくるの?」
 本気で分からず首をかしげる。
「いやだから、その倉沢って他人行儀なのも変だしさ。幼馴染なんでしょ? いいの?」
 じれたような真由美の、でも全然的外れな指摘に思わず笑い出してしまう。
「真由美ちゃん、それ言ったらあなたと私の方が幼馴染度合いは高いよ。何たって小学校から中学まで九年間、ずっと同じクラスだし」
「けど、倉沢君とは私んちより家近いじゃない。仲良いんでしょ? なんでそう人前ではよそよそしいのよ」
「よそよそしいって……」
 自分達にとってはごく自然なことなんだけれど、人にとっては不思議に思えることが時々ある。私と俊成君は気が付くと、人前ではお互いの事を苗字で呼び合うようになっていた。多分、小学二年生の時の出来事、私をちゃん付けで呼んだ俊成君がみんなの前でからかわれたあの事件が基盤にあるんだとは思うけど、それ以外にも思うところはある。
「俊成君」とか「あず」とか、要するに他人に聞かれると恥ずかしいんだ。しかもその恥ずかしさは恋愛のような甘いものじゃなくて、もっとなんか、テレビの突撃レポートがいきなり晩ご飯中の我が家に入り込んだような、生活部分をのぞかれるような気恥ずかしさ。かといって倉沢「君」というのはなんだか逆に他人行儀な感じがして、気が付けばただの、倉沢。呼び捨てでおさまっていた。もちろん俊成君も私を人前で呼ぶときは、宮崎。呼び捨てだ。
 でもどうやらこれは、私と俊成君の間でしか通じない感覚らしい。真由美はバスケ部で俊成君と一緒でなおかつ私たちを良く知っているだけに、この感覚が分からないと日ごろから言っていた。
「まあいいよ、よそよそしく思われても。それよりも私と小林君の話に、なんで倉沢が出てくるの?」
「いや、だからさ、やっぱり幼馴染としてさ」
「あの」
 だから私と俊成君は、と言おうとしたら先に真由美にさえぎられてしまった。
「あー、やっぱりあんたは天然だわっ。で、どうするのよ? お祭り」
 真由美、声大きい!
 慌てて彼女の口をふさいでから小林君のほうを盗み見たら、しっかり彼と目が合ってしまった。小林君の口元がふっと上がって、それはまるで私達の会話を知っているんだよって言っているかのようだった。
 うわ、顔から火が出そう。
「あの、行きます」
 気が付けば真っ赤なまま、なぜか真由美に向かっておじぎをしている自分がいた。
 

 その日の夜、夜寝る前に落ち着かなくてタンスの引き出しを全部開けていた。小林君からはその後特に電話は無かった。いつ電話が鳴るかと思ってどきどきしていた分、正直あれ? って感じだけれど、でも明日掛けてくれるのかもしれないし。それよりも、お祭りってことは私服なんだよね。何着ていけばいいんだろう。
 何枚も服を並べて組み合わせてみるけれど、考えれば考えるほど何が良いのか分からなくなってくる。いい加減煮詰まった頃に、お風呂から上がった奈緒子お姉ちゃんが廊下を通る音がした。
「お姉ちゃん!」
「え?なによ、突然」
 いきなりドアを開け、そのままの勢いでお姉ちゃんに話しかける。
「お祭りって、どんな服着たらいいと思う?」
「えっと、浴衣?」
 すかさず返ってくる答えに、肩を落とした。
「浴衣なんて無いよ」
 本気で困っている私の言葉に、お姉ちゃんがにやりと微笑む。
「なにー? もしかしてあさっての氷川さんのお祭り? でもって俊ちゃんとデート? 受験生、余裕あるね」
 だからなんでここでも俊成君なんだろう。ちょっとばかりうんざりとして、お姉ちゃんをにらみつけた。
「お姉ちゃんも二年前に通っていたうちの中学校は、三十八人編成で一学年五クラスと、この近辺では割と生徒数の多い学校です。そこの三年四組が私のクラス。俊成君は一組。生徒数とかクラスの離れっぷりから、もうちょっと他に選択肢があるって想像してよ、お姉ちゃん」
 ここまでを一気に言うと、またしてもお姉ちゃんににやりと笑われてしまった。
「ふぅん。デートなのは否定しないんだ。で、誰と?」
 しまった。
 長女で策略家である姉にかなう訳も無く、私はそのまま今日の出来事を報告する羽目になってしまった。
 うん、まあ、着るもの相談しようとした時点で、こうなることは分かってはいたんだけれどね。

「いいんじゃないの? その小林って子。」
 どうやらお姉ちゃんの言った「俊ちゃん」は本当にただの引っ掛けだったようで、小林君の話をしたらあっさりとそっちに興味が移ってしまった。ここら辺、さすがに実際の私と俊成君を知っているお姉ちゃんの反応は真由美と違う。でも、そうなればそうなったで、私もお姉ちゃんに聞きたいことがある。
「だけどまだ、付き合ってって言われただけなんだよ。小林君と話したのってそれだけ。本当なのかな? からかわれているってことあるかな?」
 正直に自分の疑問を口にして、この目の前の姉をじっくりと見つめた。
 高校に入ってから髪の毛を明るく染めてパーマをかけて、お姉ちゃんは一気に可愛くなった。でも、そのくっきりとした目鼻立ちも長いまつげも、生まれたときから持っていたものだ。お姉ちゃんはお父さんの血筋を引いた顔つきをしている。対して私はお母さん譲り。女の子は父親似の男顔のほうが美人になるって、昔誰かが言っていた。まさにそんな感じ。お母さんには悪いけど、私は真っ直ぐで黒いこの髪も、いかにも日本人といわんばかりのこの平面的な顔立ちも、もうちょっとどうにかならないかなと日々思っていた。
 小林君も行動は典型的スポーツ少年なのに、顔立ちはきれいなんだよね。なんで私だけのっぺり地味顔なんだろう。私もお父さん似で生まれたかったな。
 考えるうちに悲しくなって思わずため息をついたら、お姉ちゃんがくすっと笑った。
「あずさ、自分に劣等感持ちすぎ。まあ、劣等感があるからこそ日々努力するんだけどさ」
 そこでんーっと伸びをすると、お姉ちゃんは綺麗に揃えた自分の指先を見つめた。
「お祭り行くんでしょ? その時じっくり聞いてみなよ。あずさのことが好きなのか、どこが良かったのか。それで答えが無かったら、その時はじめて本当なのか考えたら?」
「お、お姉ちゃん!」
「それより、あずさはどうなのよ。相手の気持ちも大事だけど、自分の気持ちが一番でしょ。良いなと思っていたのは分かったけど、それって好きだってことなの?」
 すぱんと直球で聞かれて、思わず一瞬固まってしまった。
 小林君。どちらかといえばみんなの中のアイドルって感じで、正直そこまで強く思ったことは無かったけど、でも、
「誘われて、嬉しかったよ。好きとか意識したことは無かったけど。さっきのこと思い返すと、今の方がどきどきが増している」

とりあえず、あさっての土曜日。氷川神社のお祭りに二人で行こうよ。

 ふいに真剣な表情になってそう言った、小林君の顔を思い出す。クラスメイトとして毎日彼の顔は見ていたはずなのに、あのときの表情といつもの表情は違っていた。みんなに、不特定多数に向けた表情なんかじゃない、目の前にいる人間だけに向けた顔。ずっと付き合っていれば、あの顔をいつも見せてくれるのかな。
「いいんじゃないですかー? 相思相愛ってだけが恋愛じゃないんだし。そのくらい好意持ってれば、上等でしょう。頑張りなね」
 そう言うとお姉ちゃんは立ち上がり、お休みといって私の部屋を出た。

 あ。
 服一緒に選んでもらうの、忘れちゃった。