二人の会話

第二部  二人の距離


その五

 翌年の一月。倉沢家の、俊成君のおばあちゃんが亡くなった。
 夕方の六時過ぎに電話がなって、受けたお母さんは短く返事をすると、倉沢家へ走って行った。それが訃報だった。

 実はおばあちゃんの具合はずっと悪くって、秋のお祭りのとき以来、お正月に数日家に帰ったけれどそれ以外は入院し続けていた。だから、みんな覚悟していたんだと思う。私だってお母さんからある程度のことは聞かされていた。けれど、でも、やっぱり、病院から倉沢家に戻って、布団の中で眠るように亡くなっているおばあちゃんの姿を見るのは辛かった。


 お通夜は二日後、近所の葬儀場で行われた。
 今まで見た事の無い倉沢家の親戚達が頭を下げている中、奈緒子お姉ちゃんと私は突き進み、みようみまねでお焼香をした。今まであんなにおばあちゃんとしゃべったり笑ったりしていたのに、いざ亡くなってしまうと、自分たちの役割がただの近所に住む子供たちになってしまうのがひどく寂しい。
 祭壇の左右に振り分けられた遺族席の端っこで、倉沢家最後の孫である俊成君はただ視線を床に落とし、規則的に頭を下げる動作を繰り返していた。

「奈緒子ちゃん、あずさちゃん。今日は来てくれてありがとうね」
 お通夜の式が終わったあと、ふるまいの席で所在無く座っていると、俊成君のおばさんが話しかけてくれた。お母さんは手伝いに借り出され、お父さんはすっかり近所の人たちと盛り上がっている。お姉ちゃんと私だけが中途半端な感じで座っていたのを、おばさんが気にしてくれたようだった。
「おばさん……」
 この度はご愁傷様でした。
 定型文は浮かんでくるけれど、果たしてそんな言葉を私達が使っていいのかためらわれ、中途半端に言葉を濁す。
「おばあちゃん、二人の事を可愛がっていたから、実の孫みたいに思っていたから、今日来てくれて本当に嬉しかったわ」
 そんなおばさんの言葉にお姉ちゃんは鼻をすすり上げ、私はハンドタオルに顔をうずめる。身近な人の死って、これが初めてだからなのかな。涙が簡単に出てしまう。おばさんはそんな私を見つめると、そっと肩に手をかけた。
「とくにあずさちゃんはね、俊成と仲良くしてくれているから、おばあちゃん、最後まで気にしていて。最後にね、俊成の手を取って、あずさちゃんはいい子だよ。お前があずさちゃんを守るんだ。いいね、って……」
 おばさんは最後まで言い切らないうちにこらえきれなくなり、嗚咽を漏らした。私は顔を上げることが出来なくなり、きつく目を閉じる。
 頭の中、ぽっかりと浮かぶのは、いつか夏の日におばあちゃんの部屋から俊成君と二人で見ていたカンナの朱だ。
 あずさちゃんはいい子だよ。お前があずさちゃんを守るんだ。いいね。
 あのときの、私の頭をゆっくりと撫でてくれたおばあちゃんの、手のやさしさを覚えている。
「おばあちゃん……」
 小さくつぶやくと、また涙があふれ出た。
「あずさ」
 お姉ちゃんに心配そうに呼びかけられ、私はごしごしと涙をぬぐった。
「ごめんなさいね。おばさんがこんな話するから」
 おばさんは謝ると、近くを通りかかった和弘お兄ちゃんを手招きした。
「和弘、あずさちゃんたちもう帰るけれど、俊成もそろそろ帰らせたらどうかしら」
「大人ばかりだしね。夜伽は俺達やるし、トシは勉強あるからいいんじゃないか。ああ、奈緒子ちゃん、あずさ。今日はありがとうな」
 出席者にお酌をして回っていたらしい。ビールを片手に和弘お兄ちゃんが優しく微笑んだ。
「あずさもトシと同じく受験生だもんな。ここ、落ち着かないだろう? おじさんたちには言っておくから、トシと一緒に帰ってやってくれないかな」
 そう言うと私たちのいた席をさっと見て、良幸お兄ちゃんに呼びかける。
「ユキ、悪いけどここらへんの料理とか、適当に包んでくれるか? 二人に持って帰ってもらって」
「いいよ」
 長男の指示に次男の良幸お兄ちゃんは素直にうなずき、どこからか持ち出した保存容器に手早く料理を詰めだした。奈緒子お姉ちゃんはそんな二人の兄弟の姿を見つめ、疑問を口にする。
「俊ちゃんは、食べたの?」
「いや、あいつもあんまり」
「じゃああずさ、俊ちゃんと食べなよ。こういう日に一人は寂しいから」
 お姉ちゃんに真っ直ぐに見つめられ、私は反論も出来ずに黙っていた。
 まずい。この表情、お姉ちゃんが妹に「命令」するときの顔だ。
「あずさ、もし良かったらそうしてくれるかな?」
 負けずにカズ兄もお願いしてきた。こっちは弟思いの兄の顔だ。
「べつに一人でも大丈夫だよ」
 横から声がしたので振り返ったら、俊成君が立っていた。それぞれの兄と姉の親切に、困ったような表情をしている。
 そんな俊成君を見ていたら、私は自然に言葉が出ていた。
「ご飯、一緒に食べよう。俊成君」


 おばあちゃんを葬儀場に運び終え、通常に戻った俊成君の家は、一見すると保育園や小学校のころにお邪魔したあのときとあまり変わらないようだった。でも玄関の下駄箱に無造作に立てかけられたスノーボードとか、多分和弘お兄ちゃんの革靴だとか、なんだかそういうちょっとした小物類でやっぱり昔と違う雰囲気をかもし出している。
「お茶、淹れるよ」
 なんとなく落ち着かない気持ちのまま仕出し料理をダイニングテーブルに広げていたら、俊成君がそういってお湯を沸かした。家が料理屋さんだからなのかな、こういう何気ないところのサービスがいい。椅子に座ってお茶を淹れている俊成君を見ているうち、私はようやく一つのことに気がついた。
 別に、私だけが倉沢家にお邪魔しなくったって、奈緒子お姉ちゃんだって来ればよかったんじゃないの?
 ああでもお姉ちゃん、この家に上がったことはなかったんだっけ。
「じゃあ仕方ないか」
 つい独り言をつぶやいたら、俊成君がこちらを振り返った。
「ごめんな」
「え? あ、違うよ。そんなんじゃなくて」
 慌てて否定したらよけいに強調したみたいになって、それに気付いて中途半端に言葉を切る。
 去年の十一月の、『くら澤』に行かないと決心した辺りから、なんとなく俊成君に対して負い目のようなものを持っている自分がいる。意識して距離を置くという行為に対して、罪悪感というのか、トラウマを感じているからなんだ。でもそれを俊成君に悟られるのだけは、絶対に嫌だった。
 なんだかそんな事を一瞬にしてぐるぐると考えていたせいか、自然に頼りない顔になっていた。俊成君はあえて何も言わずに、私にお茶を出してくれる。
「熱いよ」
「ん」
 一口すすって、小さくいただきますを言ってから料理を食べ始めた。向かい合わせに座る俊成君。自分の家だからかな、先ほどまでの葬儀場にいるときに比べ、なんだかほっとしているみたいだ。
「疲れた?」
「まあな。でも、仕方ないよ。それに先に俺だけ帰らせてもらったから、兄貴たちより楽してる」
「でも受験生だし。俊成君、試験はいつ?」
「一週間後。あずは?」
「私は八日後か。ね、そこって本命?」
「いや、滑り止め。一応公立狙いだから」
 会話を続けながら心のどこかで、なんでこんなに普通の会話をしているんだろうって思っていた。おばあちゃんが亡くなって、近所の葬儀場ではまだお通夜が続いていて、それなのに私と俊成君、ご飯を食べながら受験の話を続けている。
「私も併願なんだ。公立って、どこ?」
「りょうわ」
「稜和高校? えー、私もだよ。あそこ結構遠いから、受ける人少ないって聞いていたのに」
「三組の佐々木も受けるって。」
「佐々木勝久君? バスケ部の」
「勝久のこと、知ってるんだ」
「小林君とも仲がいいからね、なんとなく」
「ああ、そっか」
 そこで納得すると、俊成君は会話をやめてご飯を食べることに専念し始めた。私はなんとなく収まりが悪い気分を抱え、次の話題を見つけようとする。
「俊成君の方はどうなの? 谷口さんとは」
 自分の彼氏の話で終わったんだから、次は俊成君の彼女の番だよね。そんな軽い気持ちで聞いたのに、俊成君はなんだか嫌な事を聞かれたように顔をしかめた。
「終わった」
「終わった? いつ? ふったの? ふられたの?」
 立て続けの質問に俊成君は答えようとせず、お茶を飲もうとしてそのお茶がもうなくなっていることに気が付いて、余計に眉を寄せる。
「お代わり、私が淹れるよ」
 慌てて立ち上がり、やかんを火にかけた。
 しばらく沈黙が続くけど、ここで急いても仕方ない。俊成君の分のついでに自分の湯飲みにもお茶を淹れ、しばらく落ち着くとあらためて話を再開させた。
「で、ふったの? ふられたの?」
「ふられた」
「えー、いつ?」
「クリスマスの日」
「クリスマスに?」
 そんな一大イベントの日にふられるなんて、一体どんな出来事があったんだろう。大きく目を見開いて俊成君の顔をまじまじと見つめたら、ようやく俊成君も話す気になったのか、少しふてくされたような表情で語りだした。
「クリスマスに映画観に行こうって言われたから、その日は空けて、前日に勝久と遊んでいたんだ。そしたらふられた。」
「へ? どういう意味?」
「だから、クリスマスに予定を空けていたんだよ。十二月二十五日。」
「十二月二十五日……?」
 繰り返してあれ?って思った。その前日に男同士、友達と遊びにって、
「あの、俊成君。もしかして本当はクリスマス・イブに会うはずだったっていうオチとか……」
「それ。思いっきり責められて、で、結局ふられた」
 少しから最大限にふてくされたような表情になって、俊成君が語り終える。
「あー」
 なんといって慰めたらいいのか分からなくて、とりあえず声だけ出してみた。
「別にいいよ。付き合ってくれって言われてうなずいたけど、別に俺自身どうこうしたいとかなかったし、こんなんで本当に面白いのかなとか思っていたし、正直言ってもう別れるって言われたときにはほっとしたし」
 めずらしく畳み掛けるように一気にそこまで話すと、俊成君は一瞬黙り込み、考えるように湯飲み茶碗を見つめた。
「……けど」
「けど?」
「こっちに勝手に夢ばっかり持ってさ、うまく行かないからって文句言うの、ずるいよな」
 くちびる尖らせて、への字にして、あからさまにむっとして。
 その表情があまりにも最近の俊成君とはかけ離れた幼い感じで、私の口元はしだいにむずむずしてきた。その雰囲気を察したのか、俊成君が上目遣いににらんでくる。
「あず、笑うなよ」
「駄目。やっぱおかしい」
 こらえきれずに笑い出してしまった。だって、クリスマスとクリスマス・イブを間違えて、ケンカしておしまいって、あまりにもお約束な別れっぷりだよ。
「なんか、ギャグみたいだよね」
「うるさい」
「受験生なのに二日連チャンで遊ぼうとするから、バチが当たったんだよ」
「うるさい」
 反論する俊成君の口調が怒ってなくて拗ね加減で、だから私は無邪気に笑い続けることが出来た。そのうち俊成君もつられたらしく、「あーあ」とつぶやきながら笑い出す。

 ひとしきり笑い終えると二人とも力尽きたように黙り込み、それでも口元に笑いを残したままぼんやりとしていた。テレビはつけていないから、黙ってしまえば家の中は静かになる。それでも俊成君との会話以外、他に音は欲しいと思わない。
 のんびりとした雰囲気の中、私は自分のご飯を食べ終えた。
「……なんかさ」
 いつの間に先にご飯を終えていた俊成君が、湯飲み茶碗を手で転がしながら家の中をゆっくりと見渡して、話し出す。
「うちはもともと店やっているから親の帰りが遅くって、俺一人だけが年はなれていたし、ばあちゃんに育てられていたんだよな。ばあちゃんが入院とかしょっちゅうするようになってから、俺、一人で家にいる事のほうが多かった。結構それにも慣れて、だから、ばあちゃん死んでもあんまり生活とか変わんないとか思っていたんだけど。
 でもさ、今はいなくてもいつか家に帰ってくるって思っているのと、もう二度と帰ってこないんだっていうのと、同じいないでも、違うんだ」
 静かな口調。でも、そこに込められた気持ちの深さに気付いて、私は何も言うことが出来ない。
「やっぱり、……寂しいよな」
 ずるずると椅子から落ちるように姿勢を崩すと、俊成君はゆっくりとうつむき、息を吐いた。正面の私からは彼の頭頂部しか見えなくて、ただ嗚咽にもならないような中途半端なため息だけが二人の間で響いている。
「寂しいね」
 それだけつぶやいて、私はハンドタオルを頬に当てる。俊成君の姿を見ているうちに、すっかりおさまっていたはずの涙があふれてきた。
 おばあちゃんが亡くなって寂しい気持ちは変わらないのに、変な意地でもって泣いている姿や取り乱した姿を見せようとしない。男の子って本当に、厄介だ。
 それでも、そんな俊成君を呆れたり馬鹿にしたりする気にはなれなくて、ただひたすら顔を見せない彼の姿を見つめていた。そしてあの夏の日の、おばあちゃんの優しい手を思い出す。

 あずさちゃんはいい子だよ。お前があずさちゃんを守るんだ。いいね。

 おばあちゃんがこの言葉にどれほどの意味を持たせていたのか、分からない。初めてこの台詞を聞いたとき思ったのは、俊成君とまた友達に戻れたんだなってことだった。そして今この言葉を聞いて思うのは、おばあちゃんが私を気遣うその優しさ。
 あのときのおばあちゃんの優しさを私は知っている。あのときの、手のぬくもりを覚えている。
 私はそっと俊成君に手を伸ばした。
 テーブル越しの手はそのままでは届かないから、自然に私は立ち上がり、彼の頭頂部をそっと撫でる。俊成君は一瞬だけ肩をびくりと震わせたけれど、そのあとはされるがままになっていた。さらさらとした髪の毛を指ですくうように撫で上げて、感触の気持ち良さに何度も繰り返す。

 あの時感じた優しさを、ほんの少しでも俊成君に伝えたい。人前で泣く姿を見せられないなら、代わりに私が泣いてあげるから。おばあちゃんの代わりに、私が撫でてあげるから。

 俊成君は、独りじゃないよ。

「……ごめんな。ありがとう」
 しばらくして落ち着いたのか、俊成君が小さく言った。
「うん」
 うなずいて手を止めるけれど、その頃になってだんだんと気恥ずかしくなってくる。
 冷静になって考えてみれば、同じ年の男の子の頭を撫でるというのも変な話だよね、とか。でも自分の気分としては、おばあちゃんの代わりにっていう意味もあったわけだし。
 なんだか心の中で色々と言葉をこねくり回して、でもそんな言い訳を口に出せるはずもなく、とりあえず私はテーブルの上を片付ける。
「使ったお皿、どうする?」
「いい。そこ置いといて」
「わかった。……じゃあ、私帰るから」
「うん」
 それまでずっとうつむいたままの俊成君が顔を上げないうち、私は素早く玄関に向かった。この場合、撫でた方も恥ずかしいけれど、撫でられた方はもっと恥ずかしいに決まっている。俊成君が今どんな表情をしているか知らないけれど、とりあえず気恥ずかしい状態でお互いの目が合うのは避けたかった。
「じゃあ、受験頑張ろうね」
 そう言いおいて、外に出る。暖房ですっかり温まっていた体に冷気が一気に押し寄せて、私は小さく身震いした。
 息が白い。
 二、三歩進んで足を止めて、俊成君ちの庭のある辺りをぼんやり見つめた。

 去年の夏、カンナの花は咲いていたんだろうか。

 深く深く、息を吐いた。